4.グリーンスタジアム・3連戦 (メジャー)
4.グリーンスタジアム・3連戦 (メジャー)
社会復帰支援団体の代表と、サンチェスはがっちりと握手を交わし、二人の横顔に眩いフラッシュが焚かれる。サンチェスは、薬物中毒者の社会復帰を支援する団体に毎年多額の寄付を行っていた。社会貢献に大変熱心で、支援に向かう道中の航空機事故で亡くなった元メジャーリーガ―の名を冠した「ロベルト・クレメンテ賞」の候補にも選ばれているという。
「狙って獲るモノではないし、結果がどうなるかは分からないが……」
記者からの質問に、サンチェスは目と口元を緩めてこたえる。球場にいる時には決して見せない表情だった。
「もしその賞に選ばれたら、俺はサイ・ヤング賞に選ばれた時と同じくらい嬉しい気持ちになるだろうね」
所長室での取材が終わると、社会復帰プログラムを受けている支援対象者の元を回る。「ワッツ・アップ?」とか「ドント・ギブ・アップ」とか声をかけ、彼らの肩を叩き、握手を交わすサンチェスの後を、俺たちもついて歩く。
「メジャーで成功したら、稼いだ大金は社会へ還元しろ」
また別の支援対象者の元へ向かうあいだに、サンチェスは俺たちにメジャーリーガーの先輩としてアドバイスを送る。
「そうすることが大金を掴んだ俺たちメジャーリーガ―の義務であり、存在する意義でもあるんだ」
目の前に突然、本物のメジャーリーガーが現れたので、興奮と、感動のあまり元薬物中毒者の青年は目を潤ませ、声は緊張のために上ずった。
「僕は貴方と同じチカーノなんだ。サンチェス」
そう言って少年はシャツの裾をめくりあげ、メキシコ系アメリカ人の意味を持つ『CHICANO』と彫られた脇腹の皮膚を摘まんで見せる。
「いいタトウーだ」
サンチェスは微笑み、少年の脇腹に彫られた文字に指で触れる。そのタトウーは、かなり劣悪な環境で彫られたものなのか、輪郭がぼやけて黒い大きなシミのように見える。
「薬物中毒になって良かった」
少年はそう声を詰まらせ、サンチェスは苦笑した。
「ヘイ、サンチェス!」
予定していた支援対象者との面会を終え、俺たちが建物から出ようとした時だった。
「俺とも握手をしてくれよ」
突然、大柄な黒人男性が声をかけてきた。伸ばされた肘の裏側には、注射針を刺しすぎたのだろう、ミミズのように浮き上がった傷跡がいくつも残っていた。
急に大股で近づいてきたので、警戒したSP二人が男性の前に立ち塞がる。
「ヨオ!!(おい!)」
男性は警棒を持ったSPの腕を振りほどき、大きな目玉をむき出しにして叫ぶ。
「サンチェス! お前は、俺たちを馬鹿にしに来たんだろう?」
押し戻そうとしがみつくSP二人の隙間から、男性は人差し指を俺たちに向かって突き出す。
「ヘラヘラ笑いやがって! それに、俺はお前が呟いた言葉を、この耳で、確かに、聞いたんだからな!?」
男性は「この耳で」「確かに」「聞いた」という単語を区切る度に、自分の耳たぶに、人差し指の先を当て、傷つけてしまうほどの強さで突いた。
「ジャンキーって言葉をな!」
怒声を聞きつけた施設の代表もやって来て、場が騒然となる。代表は、俺たちの間に割って入り、興奮した男性に聞こえない声で「アイム・ソーリー(申し訳ございません)」と呟く。
「薬物の副作用で、幻聴が聞こえているようだ」
代表は男性の近くから離れるよう両手を広げ、俺たちは従う。ただ一人、金髪の坊主頭が、翼のように広がった腕の下をくぐりぬけ、まだドラッグの副作用による興奮が収まらない男性の方へ近づいていく。
「なんだ、テメエ!?」
興奮して叫ぶ男性の姿は、目の前に立ちはだかった彼の、横にも縦にも大きな身体に隠されて、こちらからは見えなくなる。
「白豚!!」
男性の声が、彼の体型を揶揄する言葉を叫んだ。
「テメエ、丸焼きにして食ってやろうか!?」
「君は……!」
ジャスティン・ヘンダーソンの耳はうっすら赤く染まり、後ろから見ても彼が怒りに打ち震えているのが分かった。
「サンチェスが馬鹿にしていると、君は本気で思っているのか?」
「なにを……」
「本気で思っているのか?」
興奮した相手に臆することなく、むしろにじり寄っていくヘンダーソンの気迫に、相手の男性だけでなく、SPや、周りで見ている者たちまで圧倒されて黙り込む。マイナーリーグにいた頃からそうだった。自身が報復のデッドボールを当てられそうになり、ベンチから飛び出してきた「イースト・サンフランシスコ・パイロッツ」の屈強な男たちを、彼は「ゲット・アウト! (出て行け!)」というたった一言で制圧し、乱闘を阻止して見せた。
「本気で思っているのか?」
「うるせえ野郎だ……」
薬物中毒の男性はそう吐き捨てながらも、ヘンダーソンの傍からじりじりと後ずさりしていく。そして「死んじまえ! 白豚野郎!」という捨て台詞を残して、後ろの壁に背中が当たるとドアを開け、部屋を去って行った。
「スクエア……(堅物め……)」
後ろでマッケンジーが小さな声で吐き捨てる。「スクエア(堅物)」というのは、先日、マイナーから昇格してきたばかりのヘンダーソンに、アスレチックスのチームメイトたちがつけたあだ名だった。
アスレチックスのホーム球場は、イーストサンフランシスコのメインストリートを西の方角へ進むと着くことが出来る。サンフランシスコ湾の目と鼻の先に位置する球場は、イーストサンフランシスコ北端に建つマイナー球場ほどではないにせよ、窃盗事件が頻発するなど、あまり治安が良くない。ファンからの評判も悪く、アスレチックスの幹部やオーナーは、数年後にホーム球場をラスベガスへ移転する計画を進めている。
街の中心を貫くように伸びるメインストリートとその周辺地域は、スラム街として全米でも有名なイースト・サンフランシスコの中でも、特に貧しい地区と言われている。建物の窓には窃盗防止用の頑強な柵が取り付けられ、生ごみとドラッグの混ざった独特のにおいが充満する歩道には「BLESS ME! (ご加護を!)」と張り紙した空き缶を足元に並べた物乞いや、白目を剥き、何かをぶつぶつと呟いたり、不自然な格好のまま固まってしまった薬物中毒者たちで溢れている。部外者が車を停車させると外から窓を叩かれたり、ナイフを突きつけられることもあるので、信号無視が常態化し、州法により人員が削減された警官は見向きもしない。かつて、このメインストリートでエンジントラブルを起こしたマイナーチームのドライバーは、バスから降りる際に護身用の拳銃を携帯したほどだ。
「プリーズ・ストップ」
そんな治安の悪いメインストリートで、サンチェスは、ドライバーに声をかけて送迎車を止めさせると、自ら車を降りて歩き始めた。
「この街に来るときは、こうしてメインストリートを自分の足で歩くことに決めているんだ」
サンチェスが外に出ると、前と、後ろにもついていた護衛車からSPもぞろぞろと降りてくる。四方を固めたSPは全員、防弾チョッキにヘルメットを被った完全防備で、俺たちはまるで小国の皇太子にでもなったような気分だった。彼らは張りつめた視線を周囲へ巡らせ、重ね着のせいで水膨れした身体には、戦場をすすむ歩兵が抱えているようなアサルト・ライフルまで携えている。
「ハタノの遺体は、このメインストリートの道端で発見されたらしい」
俺たちは「く」や「逆U」の字に折れ曲がった状態で固まってしまった薬物中毒者たちの間を縫うように歩き、SPが背負った銃口が、彼らの目や鼻や口に当たりそうになる。
街の中心部に近づくにつれ、生ごみや薬物のにおいに、糞尿のにおいまで混じり始める。密度が多い割に動く人やモノは少ないので、街は奇妙な静けさに包まれていて、俺たちの足音と、遠くで錯乱した薬物中毒者のケダモノのような叫び声まで鮮明に聞こえてくる。
「あいつの魂が、まだこの街のどこかに漂っているかもしれない」
そう言ってサンチェスは、ひび割れた廃ビルと、緩んだ電線の隙間からのぞく空を仰ぎ見る。
「ヨオ、ジャスティン!」
後ろではマッケンジーが、隣を歩くヘンダーソンに絡んでいる。
「お前、女とヤッたことはあるか?」
そう言ってマッケンジーが、股間の前で作った拳を動かして見せると、
「僕には、高校時代から付き合っているフィアンセがいる」
ヘンダーソンはそう言って、膨らんだ頬を赤く染め、白い眉間には皺が刻まれる。
「それ以上こたえる必要はないと思う」
マッケンジーは露骨に舌を打つ。さらに彼が吐き捨てた唾は、地面に散らばった注射器の鋭利な破片に、粘着質な音を立ててへばりついた。
マイクがアスレチックスからリリースされた翌日に、入れ替わる形でヘンダーソンがマイナーから昇格した。
彼をコールアップしたのはジャックだ、とハタケヤマはこちらが聞いてもいないのに説明してきた。
「選手は貴方たちのコマですか?」
俺が嫌味を言うと、冷たいスマホ画面の向こうから甲高い声が聞こえてきた。鼻の奥の方に何かが絡んだような笑い方だった。
『名将は歩兵を駆使して戦場を支配するのだよ、カノン・キベ……』
俺はハタケヤマに「ソーリー、ベンチにスマホは持ち込めないから」と断って、通話を切る。
ロッカーにスマホを置いてクラブハウスから出ると、ベンチへと続く通路の途中にしゃがみ込んだ「背番号24」の巨体を見つける。アスレチックスでヘンダーソンといえば、メジャー最高の「盗塁王」リッキーヘンダーソンが有名だ。彼の栄光にあやかって、新人のヘンダーソンも同じ番号を選んだのだろうが、脇腹の肉がベルトにのっているようなブヨブヨとした背中に、偉大な「盗塁王」の背番号は不釣り合いに思える。
ヘンダーソンは額を壁にピタリとくっつけ、左耳にはスマホを押し当てていた。近づくにつれ、彼がその大柄に似合わない蚊の鳴くような声で「マム(お母さん)」とか「アイム・アフレイド(僕は怖いんだ)」とか呟いているのが聞こえてくる。
お母さんとの通話が終わるのを待って、俺は後ろから声をかける。
「ベンチにスマホを持ち込むのは禁じられている」
俺に注意されると、ヘンダーソンは太く白い前腕で目元に光るモノをごしごしと拭ってから、坊主頭を下げる。
「すまない、母さんと話すのに夢中になっていたものだから」
「恥ずかしくないのか?」
「Huh?(ハア?)」
俺は思わず口を滑らす。ライバルを前にして涙を見せ「お母さん」だの「怖い」だの恥ずかしげもなく言っているこの大男のことが、俺は何だか気に食わなかった。
「人の心は弱い」
俺の嫌味に気づいたヘンダーソンの表情が、険しくなる。
「追い詰められた時、生まれ故郷や母親に救いを求めることの何が可笑しいというのかい?」
多分、ずっと気に食わなかった。ズボンの脇で握りしめていた拳を、緩める。今なら俺は、彼に絡んだヘンダーソンの気持ちがわかるような気がした。
「君にも故郷があるだろう? キム」
薄ら赤らんだ、大きな顔がこちらに迫ってくる。
「故郷に帰りたいとは思わないのかい?」
「ノー」
意地になってこたえ、言ってから自分で恥ずかしくなった。だが、スクエア(堅物)の彼には効果があったらしい。
「信じられない」
ヘンダーソンは額に大きな手のひらを当て、驚愕した表情で目を瞬いている。
「君は故郷のコリアに帰りたくないというのかい?」
「ジャパンだ」
言い返す声が自分でも分かるくらい、刺々しくなる。たじろいだヘンダーソンの顎の肉がたわんで二重になる。
「俺はコリアンじゃない、ジャパニーズだ」
俺を見下ろす青い瞳が端から潤み、白い顔全体が悲しそうに歪む。
「アイム・ソーリー(申し訳ない)」
気に入らない。またいつの間に力を込めていた拳の指を、ほどく。そして、俺がベンチへと続く通路へ手招きすると、ヘンダーソンは、玄関先でご主人を待つ犬のように、素直に付き従ってくる。気に入らない。この男といると、俺は身体にヘンな力が入るのを感じた。
アスレチックスのホーム球場は、スタンドの椅子や柱がチームカラーの緑で統一され、一昨日までいたアトランタの球場に比べると、空席がかなり目立つ。観客動員数は毎年メジャーワーストで、観客が入らないので閉鎖されたアッパーデッキには、やはりチームカラーをイメージした緑色の生地に「A,s」のロゴがあしらわれたシートが被され、それでも残された席はまだ空席の方が目立つような有様だった。
「グリーン・スタジアム」
一塁線上に並び、大型スピーカーを通して球場全体に響き渡るアメリカ合衆国国家の合間に、サンチェスのつぶやき声が混じる。
「この球場の愛称だ。グラウンド上のプレーよりも、スタンドの緑(空席)を楽しむ場所という意味で、多くのファンからそう揶揄されている」
よく見ると、スタンドの中には、大きな葉のようなモノを手にしたファンの姿が見える。情けないシーズンを送るチームに対して、空席を意味する緑色の葉のレプリカを振りかざしながら「フォー・シェイム! (恥を知れ!)」と叫ぶのが、過激なファンのたしなみなのだという。
ゲストによる国家独唱が終わると、まばらに起きた拍手を押しつぶすように、アスレチックスファンたちによる怒号が飛び交う。
「いいか、お前たち……」
いつものようにミーティングに臨んだヒメネスの声も、無数に飛び交うハエの羽音のような怒号と指笛の嵐によって、あっという間にかき消されてしまう。ベンチのすぐ後ろにも席があって、興奮したファンの一人が「SELL! (身売りろ!)」と描かれたプラカードを掲げながらベンチ上の平たい屋根を乗り越えようとして、慌ててかけつけた警備員に取り押さえられる。
「よく聞け」
そう言ってヒメネスは、太い指で自分の両耳を指す。そして、黙り込む。自分の言葉ではなく「ファンたちの声を聞け」という意味だった。俺たち選手の身体を切り刻むような、ファンたちによる罵詈雑言が鮮明になる。彼らは木の葉のレプリカを振り、掲げたプラカードには球団幹部やオーナーを批判する言葉だけでなく、チームの主力選手であるヒメネスに向けられた言葉も目立った。
『RETIRE! (引退しろ!)』とか『FUCK OFF,FATTY!! (とっとと失せろ、デブ!)』と書かれたプラカードや紙を掲げたファンたちが、さらに中指を立てたり、唇をすぼめながら放送禁止用語を叫びまくる。もしこの光景をマイクが見ていたら……きっと、ベンチ上の屋根に飛び乗って、向こうにいるファンと掴み合いの喧嘩になっていただろう。
ファンから送られるブーイングに、サンチェスは耐えるようにうつむき、堅物のヘンダーソンは下唇を強く噛みしめる。マッケンジーは、左袖にプリントされたホワイトエレファントを強く握りしめながら「ぶっ殺す」とか「今に見てろ」とかブツブツ呟いている。
フォー・シェイム! (恥を知れ!)
怒号に耐える選手たちの中心で、ヒメネスは閉じていた瞼を、ゆっくりと開く。
「ファンは、勝利に飢えている」
1回表の相手攻撃は0に抑え、1回裏。青いユニフォームを着た選手たちが、グラウンドに散らばっていく。サンチェスによれば、今日はメジャー屈指の人気球団が相手だから、スタンドの空席はまだマシな方なのだという。今日の対戦相手であるドジャースは、同じカリフォルニア州にホーム球場があって、ドジャーブルーのレプリカユニフォームを着たファンたちが球場の空席を埋めてくれるからだ。
ドジャースは現在、ナショナルリーグ西地区・1位。マジック2。この対戦カードで2勝すると、ドジャースは地区優勝を果たすことが出来る。マウンドに上がった松林が、滑らかなフォームからボールを繰り出す。ドジャースファンたちは「レッツゴー・ドジャース!」のチャントを繰り返し、かたや放送禁止用語を叫びまくるアスレチックスファンたちからは紙くずや、コインがグラウンドに投げ込まれる。
NPBで最高のピッチャーに与えられる『沢村賞』を3度も手にした松林の実力は、やはり本物だった。多彩な変化球や、ストライクゾーンの四隅をつく的確なコントロールに、アスレチックス打線は凡打の山を築いた。松林が投じるボールに、バットが空を切り、ゴロやフライでバッターが打ち取られる度に、グラウンド・レベルに設置されたカメラマン席からフラッシュが執拗に焚かれ、スタンドの一角から黄色い声が上がる。「18 MATSUBATASHI」のレプリカユニフォームを着たファンがビールカップ片手にスタンドの通路をゆっくりと歩いていき、はるばる日本からやってきたのだろう、若い男女のグループが「松林」「I♡MATSU」などと書かれた紙を掲げ、攻守交替の度に上がる声援に、松林も軽く手のひらを上げてこたえる。
アスレチックス打線は、7人で7つのアウトを献上した。ヒットも、フォアボールによる出塁も0。
松林の今シーズンの成績は8勝7敗、防御率は4.15。1イニングあたりの被出塁数を表すWHIPは1.18。メジャーデビューしたばかりの新人としては及第点だ。しかし、日本の元エースピッチャーという期待値からすると、物足りない。
8番バッターが2ストライク後に、インコースを突いてきたボールに対して肘を突き出すようにしてヒット・バイ・ピッチをもぎ取り、ようやくランナーが塁に出る。バッターはメジャーでも『当たり屋』として有名な選手で、今回も明らかにわざと肘を突き出したように見えたが、アンパイアは出塁を認め、スタンドからブーイングが飛ぶ。
「ヨオ、クソ・ボールピッチャー!!」
俺の後ろにあるベンチから、サンチェスが恫喝じみた声で威嚇する。だが、当の本人は全く意に介していない様子だった。帽子を取り、鮮やかなブルーの袖で額に軽くにじんだ汗を拭った。おそらく、英語のヤジでは意味が分からないのだろう。ピッチングコーチと共にマウンドを駆け上がった通訳の男性に対して、松林は爽やかな笑みでこたえる。
俺はバットのグリップエンドで、ネクストバッターズサークルの土を突くようにして立ち上がる。姑息な手段でしか出塁できないアスレチックス打線に対して、ドジャースファンだけでなく緑色のレプリカユニフォームを着た地元ファンまでが中指を立て、腹の底から唸るようなブーイングを浴びせる。まるで無数のハエの羽ばたきが、球場を満たす空気を震わせているようだった。俺は黄色いつばを摘み上げ、青が目立つスタンドの光景をゆっくりと見回す。へそ出しのシャツを着たアジア人風の女性ファン3人が、スマホのレンズ側に回り込み、マウンドに立った松林との2ショット撮影を試みている。もう片方の手には、松林のニキビ面が大きくプリントされたマスクや、キングサイズのジュースカップや、サンフランシスコ湾でとれる魚介とソーセージを挟んだ名物のホットドッグが握られている。良い旅になるといいな。俺はホーム初打席に向かってスパイクの足を踏み出しながら、心の中で毒づく。このグリーンスタジアムは、サンフランシスコの観光名所の一つに挙げられているそうだが、このグラウンド上で繰り広げられているのは、権利の奪い合い、であり、殺し合いだ。スキンヘッドのボーンは嫌な奴だったが、俺にとっては大切なコトを教えてくれた気がする。
打席に入る前、俺はアウトロー一杯のコースに投じられた松林のストレートをイメージしたスウィングを2、3度繰り返す。
レフトスタンド後方、アッパーデッキの上に設置された大ビジョンに俺の紹介動画が映し出される。肩にバットを担ぎ、グラウンドに向かってどや顔を決める自分の姿が大ビジョンに映し出されると、俺は恥ずかしくて、思わずヘルメットのつばを摘まんで顔を隠した。打席内の土は前の選手たちが履き捨てたガムや泡立った唾やヒマワリの種でまみれ、ホームベースの四隅についた土を、アンパイアが手にした小さな刷毛のようなものを使ってどけている。マウンド上の輪がようやく解け、俺が右足のスパイクで白線を超えようとした時、球場に設置されたスピーカーから、鈴を爪の先でちょんと小突いたような、可憐な音が聞こえてくる。その音は、段差の小さな階段を一つ、二つ、三つと踏み越えるように続いていき、それが左右の指で鍵盤を叩く音だと分かった時、アッパーデッキ上に表示されていた俺の顔写真が消えた。代わりに現れたのは、鍵盤の上を滑らかに動き回る10本の細い指と、グランドピアノの旋律。メジャーリーガーの登場曲というより、泣きじゃくる卒業生に送る方が似合いそうな穏やかで、柔らかな旋律。
『LET IT BE(あるがままに生きなさい)』
大ビジョンに日本語付きの歌詞が表示されると、俺は担いでいたバットを下げ、全身から力が抜けていくのを感じた。これは、俺が選んだ登場曲じゃない。『ナンバー・シックスティ・エイト……』スタンド後方に設置されたスピーカーから、女性のぎこちない発音が響いてくる。僕のサプライズには満足してもらえたかな? 革張りの椅子にふんぞり返ったハタケヤマが、上唇にはビールの泡をつけ、俺に向かって得意げにそう語り掛けているような気がした。『キベ・カノン!』女性の声は日本語の部分だけ、はっきりとした発音になる。俺は仰向けによろめいた身体を、後ろに一、二歩足を踏み出すことで何とか堪える。その人は、試合が始まる前、俺にラインで『仕事が外せなくて、見に行けないのよ~』とこぼしていた。
『マイ・サン! (私の息子!)』
そう小さく叫んだ後で、恥ずかしくなったのか、スピーカーから母親の『フフッ……』という息のような笑い声が混じる。その時、スタンドの椅子からファンたちが、青も緑も関係なく立ち上がり、先ほどは中指を立てていた手で拍手を送り、口にくわえて指笛を吹く。歓声が砂をさらう波のようにスタンド全体に広がっていったが、俺が構わず打席に入ろうとすると、後ろからキャッチャーが立ち上がり、先ほどアンパイアが小さな刷毛で掃いて綺麗にしたホームベースに、スパイクの裏を使ってわざと土をかける。それを見たアンパイアが、頭上で両腕を大きく広げ「タイム!」を宣告し、鳴り止まない歓声の中、俺はまだ打席に入ることを許されない。
「キム!」
投げつけられた怒声の主を振り返る。こちらに向かってサンチェスが「A、s」の帽子を頭から外して見せる。ヘルメットを取ってファンの歓声に応えろ、という意味だろう。今日は控えに回っていたヘンダーソンも、ベンチからその水膨れしたような巨体を起こして俺に拍手を送り、ヒメネスは一番奥のベンチに座ったまま笑みを浮かべている。俺がヘルメットを外すと、マウンドに上がった松林も、ロサンゼルスの「L」と「A」が重なり合ったロゴの帽子を取り、俺に向かって短髪の頭を下げる。
今度は男性DJの声が「ヒー・イズ・メジャーリーグ・デビュー!」と紹介すると、総立ちになったファンの歓声がさらに大きくなる。アンパイアが腰を曲げ、もう綺麗になったはずのホームベースを、刷毛を使っていつまでも擦っている。
「お前の母親はピアニストなのか?」
マスクを外したキャッチャーが、奥歯でガムを噛みしめながら俺に問うてくる。
「ノー」
俺は首を振る。
「母親は、俺にメジャーリーガーよりもピアニストになって欲しかったんだ」
唇の端からはピンク色のガムをのぞかせながら、相手は分かったような、分からないような表情をした。
歓声の余韻が残る中、ビジョンに俺の打率『.000』が表示されると、それまでぼんやりとしていた意識は、頭から冷や水をぶっかけられたようにハッキリとする。サインが決まり、松林は手の中で弄んでいたロジンバックをマウンドに落とす。俺は左脇を締めバッティングフォームを固めながら、目線の動きだけで野手のポジションを確認する。
かつてボーンが言った通り、この場所で繰り広げられるのは殺し合いだ。実際、コンクリートのように硬いボールを、大柄なピッチャーが常時93マイル(時速150キロ)を超えるハイ・スピードで投げ込んでくるのだ。当たりどころが悪ければ、命を落とすことだってあり得る。マイクは頭にデッドボールを受けた恐怖に取りつかれ、ボールに腰が引け、極度の不振に陥った。
内野安打を警戒したファーストとサードの選手が、猿のようにだらんと下げたグラブをゆらゆらと動かしながら、ベース寄りのポジションをとる。松林は両腕を頭上高く上げ、ワインドアップモーションに入る。2ストライクに追い込まれてから、彼が投じるスライダーやカーブ、チェンジアップなどの多彩な変化球に対応するのは困難だ。松林の身体は、今度はサードベース方向を向き、ズボンに包まれた左太ももの筋肉が隆起する。欧米人に比べてしなやかなフォームは美しく、左膝を上げた瞬間、彼のフォームは美術展に飾られた絵画のように静止して見えた。
ここまでの松林の成績は、サイ・ヤング賞級の活躍を期待していたファンたちを納得させるものではなかった。しかし、1年目から常勝ドジャースのローテーションを守り抜いた実力は伊達じゃない。勝つためには、賭けなければならない。コインの表と裏どころではない、裏返して5枚も6枚も示された手札の中から、たった1枚のカードを引き当てるような賭けに俺は挑まなければならない。
右手の指が伸び切り、爪先で掻くようにして放たれたボールは強烈なバックスピンを始める。松林の年俸は総額で3億ドル。俺の年俸は、メジャー最低保証の70万ドルを日割り計算し、メジャー登録された日数分だけが支払われる。スタンドに「松林!!」のボードを掲げたファンはいても「木部」や「キム」と書かれたボードを掲げるファンはいない。グラウンド・レベルにある記者席に詰めかけた日本人カメラマンたちは、松林にばかり執拗にフラッシュを浴びせる。
考えてはいけない。感情の揺れは、バットスウィングの軌道にも影響する。左脇を締め、身体の内側から外側へバットを放り出していくような意識で。アウトコースいっぱいのボールを懐まで引き付け、へその前でボールを捉えるような意識で。
読み通りアウトコースのストレートを捉えたが、球威に少し差し込まれた。俺はセンター方向へ強引に引っぱたくようなイメージでそのまま振り切った。バットから離れたボールは真っすぐ飛んでいき、ピッチングを終え正対した松林は目を剥いた。自分の身体の右側を抜けようとする打球に対して、とっさに左手にはめたグラブを差し出そうとする。だが、すぐに間に合わないと気づいたのだろう、右手にスイッチして捕球を試みる。とんでもない反射神経だ。「判断」というより「本能」に近い感覚で差し出した右手に、俺が放った強烈な打球が直撃する。松林は、右半身を弾丸で打ち抜かれたように180度回転してグラウンドに崩れ落ちる。スタンドがどよめき、驚いた4人の内野手も固まってしまい一瞬、次のプレーへの動き出しが遅れる。だが、俺も足が止まって走り出しが遅れた。
松林の右半身を打ち砕いたボールは、マウンドと三塁線のちょうど真ん中辺りの芝生に転がっている。サードとショートの選手がチャージをかける。ほぼ同時にスタートを切る格好になった俺は、今さら自分が一塁ベースに近い左バッターではないことを後悔した。前のめりに倒れそうになった身体を、交互に突き出したスパイクの裏で地面を踏みしめて支え、両足が絡みもつれそうになると、腕を大きく振ってバランスを取り、身体を前へと動かし続ける。打球の行方を振り返る余裕さえない。ボールが転送されたのだろう、ファーストの選手がミットをはめた腕をめいっぱい伸ばし、両足を大きく開いて捕球態勢に入る。
俺は一塁ベースにダイビングヘッドを試みる。着陸間際の戦闘機のように態勢を低くし、左手を伸ばす。指先がベースの角に触れた瞬間、ブレーキがかかって上半身が減速し、飛び込んだ勢いそのままに下半身が跳ね上がり、視界の景色が上下逆さまになり、一瞬、俺はどちらが上か下か分からなくなる。回転し歪む視界の隅で、一塁コーチが両腕を広げアンパイアに「セーフ」をアピールしている。一塁ベースから2,3メートル先の芝生の上でようやく止まった俺は、顔についた泥を指で払い、アンパイアのコールを待った。
一連のプレーが終わると、まだマウンド上でうずくまったまま動けない松林を心配したドジャースの選手やコーチたちが集まってくる。俺の横を、ベンチから飛び出してきたサンチェスが猛スピードで駆け抜けていく。敵味方に関係なく、サンチェスは松林の容態を心配してマウンドに駆け寄ったのだと俺は思った。
しかし、違った、他の選手と一緒に容態を見守るファーストの選手のグラブから、サンチェスはそれをもぎ取るようにして奪う。そして、俺の元にゆっくりと、歩み寄ってくる。
鷲掴みにしたボールを、俺の眼前に突き出して見せた。
「おめでとう、キム」
俺は鼻の下に溜まった汗を指で拭う。汗と土のにおいがした。
ボールの白い皮面には、芝生の緑とグラウンドの土がこびりついている。皮を編んだ赤い糸は、激しい衝撃のために所々が千切れて、ほつれかかっていた。
「これはお前のモノだ」
サンチェスは俺にそのボールを握らせ、俺は黙って頷いた。
結局、試合は1対4で敗れた。
ゲームセットになりベンチから引き揚げようとした時、グラウンドに現れた日本のメディアが慌てて俺を引き留める。
「メジャー初ヒットのボールを見せてもらえますか?」
フチなし眼鏡をかけた、歳は50代くらいに見えるインタビュアーに促される。俺は、近づいてきたカメラのレンズに、メジャー初ヒットの刻印が押されたボールを向ける。
「第一打席には、どのような意識で入ったのですか?」
「松林選手はコントロールが良いので、センター返しのつもりで……」
その時、カメラマンの後ろで控えていたディレクターが忍者のように素早い動きで近づいてきて、俺の襟元につけたピンマイクの位置をつけなおす。人差し指を立てたインタビュアーから「もう一度」と促され、こういう対応に慣れていない俺は恥ずかしくなりうつむく。
「ホーム初打席の登場曲に『レット・イット・ビー』が流れていましたが」
「母が音楽教師で、僕が小さい頃によく聞かせてくれた曲です」
「歌詞の『レット・イット・ビー(あるがままにいなさい)』というのは、歌手のポールマッカートニーが、母親から授けられた言葉だと言われていますね」
「そうですか」
俺は、打席でそこまで考えている余裕はなかった、という意味で言ったつもりだった。しかし、相手は細い眉の端を下げ、肩透かしをくらったような表情をする。
「次の打席から流れていた曲は、何という曲でしょうか? かなり激しい曲調だったようですが」
気を取り直したインタビュアーの質問に、俺は少し迷ってから襟元のピンマイクに口元を寄せ「ユア・フィニッシュドウ」とこたえる。相手は、いきなり自分が「お前は終わりだ」という言葉を投げつけられたと勘違いしたらしい。今度は、唇と眉の端をひん曲げると、後ろにいたディレクーが小声で「曲の名前ですよ。この国の若者の間で流行っているんです」と付け加える。自分の知識不足に焦ったのか、インタビュアーは脂ぎった額をハンカチで拭いながら質問を続ける。
「初ヒットのボールは、どうされるんですか?」
「はい、日本にいる両親に送ろうと……」
その時、インタビュアーの男性は左耳につけたイヤホンを指の腹で抑え、本部から送られてくる指示に目を細める。その眉間に、細い皺が寄っていく。
「今日、3回で降板した松林選手の容態ですが……」
インタビュアーの男性は、神妙な面持ちのまま続ける。
「右手首骨折です。今シーズンの復帰は絶望的になりました」
何が言いたいんですか? 腹の底からふつふつとこみあげてくる怒りを、俺は唾を飲むことで何とか抑える。その時、俺と、インタビュアーの男性との間に突然、無数の白い矢のような光が割り込んできた。俺は反射的にそちらの方を振り返る。アジア人風の女性三人組が、横に倒したスマホをこちらに向け固まっている。友人同士の旅行で訪れたのだろうか、歳はまだ20代前半くらいに見える。彼女たちはドジャーブルーのレプリカユニフォームを羽織り、腕から提げたカバンやバックパックの隙間からは、松林の顔がプリントされたマスクやうちわが覗いている。
「とても残念に思います」
俺はカメラの方を向き直って、インタビュー対応を続ける。
「真剣勝負の中で起きたこととはいえ、僕の打球が原因でそうなってしまったんですから。責任は感じます……」
俺が喋っている間、インタビュア―の後ろでずっとスマホに向かって何かを喋り続けているディレクターの声や仕草が鬱陶しくて、気が散った。彼は電話の相手に何かをまくし立てながら、左腕にはめたスポーツタイプの時計に何度も視線を落とす。
「それでは、最後の質問になりますが……」
ディレクターが振り返ると「巻きで!」という風に、インタビュアーとカメラマンの2に向かって人差し指をくるくると回して見せる。インタビュアーの男性は、困惑する俺に気を遣って、優しく微笑む。
「日本のファンの皆さんに、メッセージをお願いします」
その質問に、俺は暫く考えこむ。「ドジャースの広報担当には、こっちが終わったらすぐにアタックするよ……」電話の相手にまくしたてるディレクターが、時間が経つにつれ苛立ってきているのが分かった。まだ答えに窮している俺に、マイクを向けたインタビュアーの口元から笑みが泡のように消えていく。
俺はユニフォームの左袖を指で摘まむと、カメラレンズの前で広げて見せる。
「これはアスレチックスのマスコットで『ホワイト・エレファント』と言います」
振り返ったディレクターと、カメラマンとインタビュアーも呆然と口を開ける。
しかし、俺は構わずに続ける。
「白い象という意味ですが、そのような動物はこの世には存在しません。だから、この国で『ホワイト・エレファント』は無用の産物という意味も持っています」
目を瞬き放心する三人に向かって、俺はそれまで腹の底に溜まっていたものを一気に、吐き出すように喋った。
「でも、この俺は確かに、ここに存在している。俺が皆さんに言いたいのは、そういうことです」
俺のプレーや試合後のコメントは、日本のエースが思うように活躍できず退屈した日本のメディアやファンにとって、格好のネタになったらしい。
・A新聞スポーツ欄
『鋭い打球を身体に受け、松林は右手首を骨折。ポストシーズンでの復帰は絶望的』
・S社スポーツ紙
『日本の至宝・松林は、同じ日本人に潰された!!』
・スポーツジャーナリストM氏
『天性のバットコントロールを誇る木部による強烈で、凶悪なピッチャー返し』
・某ネットニューストピックス
『謎の新人・木部、わざとぶつけた?』
・L社週刊誌面
『元NPBドラフト候補・木部奏音、かつて暴力事件を起こした問題児ぶりを発揮か!?』
・某ネット掲示板
『「ファンにメッセージをお願いします」と言われているのに、謎の白い象の話を持ち出してきて草』
ある出版社は、試合後のメディア対応中にスマホのフラッシュを浴びせてきた日本人女性ファンのインタビューをネット記事で紹介していた。
写真をとっただけで、睨まれたんです!
フラッシュは焚いてません!
やっぱり、ワザと当てたんだじゃないですかね……
「有名になったな、キム」
チームメイトと外出先の飲食店に入ってからも、食事に手も付けずスマホを睨みつけていた俺の肩に、ヒメネスの大きな手のひらがそっと触れる。
「俺なんか、まだ裁判が始まってもいないのに犯罪者扱いだぜ」
ヒメネスは、別れた奥さんから民事と刑事の両方で裁判を起こされるのではないかという噂が立っていた。
「家族なら俺たちがいるだろう? ポップス」
サンチェスが鼻を赤くし、琥珀色の液体で満たされたコップを掲げながら叫ぶ。
「夫を訴えるようなビッチのことなんか忘れちまえ!」
サンチェスの言葉に加勢するチームメイトたちを、ヒメネスは手をひらひらと振って制する。
「じきにワイフも気が付くさ」
そう言ってヒメネスは、フォークに刺したソーセージの先にマスタードをたっぷりつけ、振り子のように宙で振って見せる。
「俺以上にクレイジーなブツを持っている男が、この世には存在しないことをな」
ヒメネスはソーセージの先に小気味良い音を立てて齧りつく。深夜のバーに、男たちの下品な笑い声が響き渡った。
第2戦目の試合前。午後1時には球場に入り、まだ誰もいない芝生の上で入念にストレッチを行っていると、遠くから、青いジャージを着た二人組が小走りでこちらに近づいてくるのが見えた。
相手の正体が分かって、ぎょっとした。松林は、三角巾で首から吊った右手の代わりに、左手のひらを俺の鼻先に差し出してくる。
「挨拶が遅れて申し訳ありませんでした」
松林は、確か歳は俺より一つ下だった。俺はあくまで平然を装い、松林と、横に立った通訳の男性とも握手を交わす。
「こちらこそ、昨日は悪かったよ。その……」
「プレーの中で起きたことですから仕方ありませんよ。それに」
松林は、ニキビの跡が残った頬を緩めて笑う。
「僕は感謝しているんです」
「は?」
俺が聞き返すと、お互い喋っているのは日本語なのに、横から中年太りした男性通訳が「昨日、右手首に打球を当てられたことです」と訳してくる。
「マゾなのか? お前」
俺はおどけて言ったが、松林はまだあどけなさが残る笑みを崩さない。俺の中で、疑念はかえって深まった。
「もう試合に出なくていいから」
松林が笑みを崩さずそう言った時、通訳の男性が、内野グラウンドの方へ顎をしゃくる。振り返ると、遠くからシャッター音が聞こえてきた。松林を追っている日本のメディアが、コーンとロープで結ばれた規制線の向こうからシャッターチャンスをじっと伺っていた。
「こんなことを言ったら、僕は日本のメディアやファンから怒られてしまうかもしれませんが」
松林はボソボソとした声で続ける。まだ意味が分からなくて聞き返そうとする俺に、通訳の男性が目配せをして、最後まで聞くよう促す。
「試合に出るのが怖いんです」
松林は伏せた視線の先で開いた指を、閉じる。俺は、返す言葉に詰まった。
「チームの中でも高い給料をもらっている選手は、メディアやファンから批判の標的にされやすいんです」
松林は自分の握力を確かめるように、左手の指を開いては閉じる動きを繰り返している。彼の年俸は総額3億ドル。1ドル100円で計算しても300億円……。
「政治家や公務員のように、僕たちは税金をもらっているわけじゃないのに……ちょっとでも失敗したら『使えない』だの『給料ドロボーだ』だのって批判されて……でも、言葉だけならまだマシな方なんです。
ウチの選手の中には、奥さんや子供がストーカー被害に遭ったり、家に火をつけられたチームメイトもいるんです」
遠くからシャッターを切る音が、球場を吹き抜ける緩やかな風に乗って届く。松林は、ニキビの跡がのこった顔を上げる。
「僕はあなたのことが羨ましいです」
「嫌味か?」
今度はすんなり言葉が口をついて出てきた。年俸3億ドルの男が、70万ドル日割りの俺のことが羨ましいだなんて。松林はあどけない笑みを浮かべたまま首を振る。
「切れてきたかも」
「は?」
松林が見下ろした指の先を、俺も見つめる。わずかだが、彼の指は小刻みに震えて始めているようだった。
「マリファナが……」
横からとっさに、通訳の手が松林の左腕を掴む。そして、血の気が失せた横顔に「それ以上は言うな」という風に、首を横に振って見せる。
「昨日の、あなたのインタビュー記事を見ました」
松林は自分の腕から、通訳の指を外してから俺に向き直る。
「白い象の話、とても気に入りました」
俺は何だか照れくさくて「実は、ヒメネスから教わったんだ」と言って頭の後ろを掻く。
「あの登場曲も良かった。レット・イット・ビー。あなたらしくいなさい。とてもいい響きの言葉です」
俺を見つめる松林の、瞳の奥の光が何だか弱くなったような気がする。先ほど彼が呟きかけ、通訳の男性に止められた言葉が、まだ胸の奥に襤褸のように引っかかっている。
「僕も、僕らしくいられたなら……」
ベンチから、青や緑のユニフォームやジャージを着た選手たちが次々にグランドに現れる。通訳の男性が、左腕にはめた時計に視線を落とす。そして、俺と松林の横顔を、交互に見やる。
「木部さん。ずっとあなたらしくいてください」
松林は肩からドジャーブルーのジャンパーを羽織る。
「この世界で、あなたなら生き残れるかもしれない」
また嫌味を言おうとしたが、やめた。松林が肩から羽織ったジャンパーの背中には、ロサンゼルスの略称である「L」と「A」が重なり合ったロゴがプリントされている。敵チームのファンは、メジャー屈指の強豪・ドジャースへの敵意と尊敬の意味を込めて「ビート・エル・エー! (ロサンゼルスを倒せ!)」と叫ぶチャントを繰り返す。自軍ベンチへと小走りで引き返していく時、ふらつきそうになる松林の身体を、通訳の男性が後ろからそっと支える。俺は二人の姿を、黙って見送る。
「絶対に優勝させるな!」
ヒメネスは地面に細かい唾を飛ばしながら選手にまくしたてる。昨日の試合に勝利したドジャースのマジックは残り「1」となり、今日の試合にも勝つと、ナショナルリーグ西地区優勝を果たす。アスレチックスが所属する「アメリカンリーグ」とはリーグが違うとは言え、目の前で、しかも本拠地球場で相手チームに優勝の瞬間を見せつけられることは、プロとしてこの上ない屈辱であり、何としても避けたかった。
大ナタで鶏の首を切り落とすように、ヒメネスは握りこぶしを力いっぱい振り下ろした。
「レッツ・ゴー・エーズ!」
今日の先発ピッチャーはマッケンジー。メジャー初登板だった。
気合が入り過ぎて空回りしているのか、マッケンジーの常時100マイルを超えるストレートはすっぽ抜け、変化球はホームベース手前でバウンドして打席の土を派手に巻き上げた。
四死球連発の後、ヒットで2点を失い、なおもノーアウト満塁の場面。マッケンジーがスパイクのつま先でマウンドの土を蹴り上げると、ベンチから監督が手を上げタイムを要求する。マッケンジーを中心に内野手が輪を作り、俺もサードベースからマウンドに向かった。
「こっちに来るな」
マッケンジーは口元をグラブで隠し、ベンチから出てくる監督を横目で睨みつけながら呟いた。
「こっちに来るな、こっちに来るな、こっちに来るな……」
しかし、彼の想いに反して、監督は尻ポケットから取り出したメモを眺めながら、マウンドに向かってゆっくりと、歩みを進める。コーチではなく監督が自らマウンドに上がるのは、ピッチャーに直接交代を告げるためだ。俺は外野手用に比べて小さく、つけ慣れていない内野手用グラブの端を曲げたり、伸ばしたりして手のひらに馴染ませながら監督の到着を待つ。
昨日の試合後、アスレチックスからサードのレギュラー選手がリリースされた。代わりに俺がサードのポジションに入り、昨日まで俺が守っていたライトのポジションには、ヘンダーソンが入った。
俺の本職は外野で、サードを守った経験はマイナーでも数えるほどしかなかった。しかし、ベンチ入りできる選手数が限られているメジャーでは、複数のポジションを守れる、いわゆるユーティリティープレイヤーが重宝され、その分の出場機会が与えられる。今日の試合前に突然、監督から「サードでいけるか?」と問われた時、俺に断る選択肢はなかった。これもハタケヤマの指示なのだろうか。
監督の踏み出すシューズが一塁線を越え、いよいよマウンドに向かっていることが分かると、マッケンジーは地面にロジンバックを叩きつけて悔しがる。
「ムカついたって、仕方が無いだろう?」
外野手でただ一人、ライトのポジションから駆けつけたヘンダーソンが、マッケンジーの肩を掴んで諭す。だが、1アウトも取れずに降板を告げられて、悔しくないピッチャーなどいない。試合が始まるまで、マッケンジーのメジャーデビューを祝う声援を送り、メッセージボードを掲げていたファンたちが、今は顔を真っ赤に染め、中指を立て、親指を下に向けながらブーイングを浴びせてくる。ようやくマウンドに到着した監督が、リリーフピッチャーの名前が書かれたメモ紙から顔を上げる。マッケンジーの顔は、今にも破裂しそうなほどに赤らんでいる。悔しさを押し殺すように、食いしばった歯と歯の間から引き絞るように声を出す。
「誰の差し金だい?」
マッケンジーの言葉に、監督は黙っている。
「ハタケヤマか? それともジャックか?」
そう言ってマッケンジーが差し出したボールを、監督は黙って受け取る。慣例では、監督は受け取ったボールを次のピッチャーに渡して、交代が完了する。
「何のことだ?」
監督は、手の中で転がしていたボールから視線を上げる。
「ああ、ボール交換か」
そう言って後ろを振り返ると、マッケンジーから受け取ったボールを放ってしまい、俺は思わず「あっ」と声を上げた。ホームベースからこちらに近づいてきたアンパイアが、いきなり飛んできたボールに意表を突かれ、ドタバタとした動きで何とかキャッチする。
「私はピッチャー交代を告げに来たのではない」
マッケンジーだけでなく野手全員がびっくりして顔を上げたが、監督は、いつもベンチの隅で腕組みしている時の無表情を崩さない。
「確かに、ミスター・ハタケヤマから私は『ピッチャーを交代してはどうか?』と進言された」
感情の見えづらい灰色の瞳で、マッケンジーと、集まった俺たち野手全員の表情を見回す。
「だが、それがどうした?」
そして監督はユニフォームの上から、自分の左胸を拳で強く叩いて見せる。
「誰を起用し、誰をベンチに下げるのか決めるのはこの私だ。ハタケヤマでも、ジャックでもない」
初めて上司の名前を呼び捨てにした監督に、チームメイトの一人が小さく「Wow!」と叫ぶ。
「ここでは私がボス(監督)なんだ。私はパペットなどではない」
やってきたアンパイアに、監督は上に向けた指をひらひらと動かしてボールの交換を要求する。傷一つ、泥一つない真っ新なボールを受け取ると、まだ口を半開きにして何も言えないマッケンジーの胸に押し当てる。
「このあとお前が打ち込まれたら、私の首が飛ぶかもしれない」
驚愕したヘンダーソンの弛んだ顎が二重になる。
「私はお前に、この言葉を伝えにここへ来たんだ」
胸に押し当てられたボールを掴み、相手を見つめる青い瞳に再び光が宿る。
「自分のボールを信じろ、ど真ん中に100マイルのストレートだ」
その後のマッケンジーの投球は、圧巻だった。
100マイル越えのストレートを連発しての三者凡退。突如として息を吹き返し、ストライクゾーンに次々と放り込まれる剛球に、ドジャースの選手たちは面食らったようだ。時々、インコースにすっぽ抜けてくるボールに腰が引け、アウトコースに決まったボールに力ないスウィングを繰り返した。
「ファッキン……!」
ピンチを脱して興奮し、Fワードを連発するマッケンジーに、ドジャースナインが気色ばんでベンチの柵から身を乗り出す。
「ストップ!」
俺はサードの位置から、慌ててマウンドに駆け寄る。
「アイ・アム・ザ・ベスト……(俺は最高だ……)」
マッケンジーは顔の前にかざしたグラブの奥で呟き続ける。アイム・ベスト(俺は最高だ)、ファッキン・グッド(ヤバイ)……。ベンチに戻ると監督から差し出された手のひらも無視して、興奮したマッケンジーはブツブツと呟き続ける。俺たちの全身を覆っていたファンたちの唸るようなブーイングが、今は拍手と、歓声に代わっている。
「ヘイ、マッケンジー!」
祝福しようとサンチェスが近づいてきた時、マッケンジーは突然、両腕を頭上高く広げて叫んだ。
「Oh,God! (神よ!)」
サンチェスはハイタッチの手を引き、怯えたようにマッケンジーの横顔を見つめた。俺も苦笑する。さっき引き留めていなければ、彼は興奮のあまり相手ベンチへ突っ込んでいたかもしれない。
結局、マッケンジーは8回までドジャースの攻撃を2点に抑えた。
9回表はリリーフピッチャーが踏ん張り、0点。9回裏、アスレチックスはようやく1点を返す。スコアは「1対2」で、ノーアウト2,3三塁の場面。ドジャースが送り出した左腕の変化球に、ヘンダーソンのバットは空を切る。
下手くそ……。俺は心の中で呟きながら、片膝をついていたネクストバッターズサークルの地面から立ち上がる。左打席の中で、ヘンダーソンが大きくバランスを崩し3度目の空振りを喫すると、俺はいったんベンチへ戻り、その様子を見つめていた監督に、ある進言をする。
「あのスライダーの軌道は厄介だ」
三振してベンチに引き返してくる時、ヘンダーソンはそろえた5本の指で宙をすくうようなを動きを見せる。
「右バッターの君には、ひざ元に食い込んでくるように見えるだろう」
ライバルであるはずの俺に、相手ピッチャーが投じる変化球の軌道を教えてくる。そんな奇特な男に、俺はヘルメットのつばを摘まみ「オーケー」とだけ呟いた。
俺が右打席に立つと、ドジャーブルーをまとった内野手が前に出てグラブを構え、バックホーム態勢をとる。2ストライク後、決め球のスライダーが3球連続でコースから外れて、3ボール・2ストライク。ベンチにいる監督から送られたブロックサインに、アスレチックスのランナー2人は目を剥いた。
セイフティ・スクイズ。俺がバントしたのを確認してから、2塁ランナーと3塁ランナーはスタートを切る作戦。しかし、2ストライクからのスクイズバントは,ファールによる三振のリスクがある。そのため、メジャーではもちろん、バントやエンドランなどの小技が多いとされる日本でも、滅多にお目にかかることが無い作戦だった。
俺はアンパイアにタイムを要求し、打席を外す時、相手にバントを悟られないよう大きなスウィングを2、3度繰り返して見せる。今日は「9番・サード」で先発出場した俺のここまでの成績は3打数0安打。今日の調子では、相手クローザーの鋭い変化球に対応できる可能性は低い。それに、俺がメジャーに昇格した時、ハタケヤマは「スモール・ベースボールが理想だ」と語っていた。
6球目。アウトコースから鋭く切り込んでくるスライダーに、俺は初めてバットを寝かせる。意表を突いたバントの構えに、内野手のスタートが遅れる。慌てて駆け出したファーストと、セカンドの選手の間を抜くようなイメージで、ボールを押し出すようにバントする。ピッチャーは左腕を振り抜いた後、サード方向に大きく身体が流れるクセがあるので打球を追えない。呆然と顔を見合わせたファーストと、セカンドの選手の間の芝生上を、ボールが力なく転がっていく。自画自賛したくなるような、鮮やかなプッシュバントが決まり、三塁ランナーだけでなく二塁ランナーまでホームに生還する。
2ランスクイズによる逆転サヨナラ勝ちの結末に、両軍ファンの歓声とため息がグラウンドに入り混じる。
「おいっ、やめろ……」
ベンチを真っ先に飛び出してきたサンチェスとマッケンジーが、スポーツドリンク入りの樽を抱えて追いかけてくる。一塁ベースを踏んだあと俺は逃れようとして、二塁ベース付近で足がもつれて派手にコケる。
「「キィム!!」」
二人に追いつかれると、俺は後頭部から冷たいスポーツドリンクのシャワーを浴びた。
試合後のロッカールームには『ユア・フィニッシュドウ』の爆音が流れ、ゴーグルをつけたマッケンジーの「ビーテッド・エル・エェー! (ドジャースを倒したぞォ!)」という叫び声を皮切りに、劇的な勝利に興奮した選手たちが踊り狂い、スポーツドリンクや、持参したワインやウィスキーを互いの顔や身体にぶっかけ合う。騒ぎを聞きつけた球団スタッフが、びしょぬれになったロッカールームを目撃して発狂し、潰れたカップが散乱した床にへたり込む。
「明日も試合があるんだ。程々に……」
そう忠告しかけた監督の顔面にも、マッケンジーは奇声を上げながら琥珀色の液体をぶっかける。
俺は濡れたゴーグルのレンズを引っ張り上げ、隙間から目に入った辛い液体と、耳に入った甘ったるい液体を指で掻きだす。まるで自分たちが地区優勝を果たしたかのようなどんちゃん騒ぎを繰り広げるチームメイトたちの大柄な体躯を、俺は態勢を低くしてかわしながら、何とかロッカールームを脱出する。
右の鼻と左の鼻を交互に抑えて、鼻腔にへばりついた甘辛い液体を何とか排出しようと試みる。新鮮な空気を吸いたくて、俺はもう誰もいなくなったはずのベンチへ向かった。
あれほど輝いて見えたスタジアムの明かりは消え、暗く閉ざされたグラウンドは墓場のように静まり返っている。ふと振り返り、視界の隅に、火の玉のような小さい明りが灯っていることに気づいて、俺はぎょっとする。
「スクエア……」
俺はため息とともに呟く。こちらの気配に気づいたヘンダーソンが、ぼんやり灯ったアイパットから顔を上げる。
「キム?」
「お化けかと思ったぜ」
俺が言うと、ヘンダーソンは「今は墓場みたいに静かだからな」と言って、二つにくっきりと割れた顎をグラウンドの方へしゃくる。彼が太ももの上に置いたアイパットには、今日の試合の映像が一時停止の状態で映し出されている。
俺の視線に気づいたヘンダーソンは「今日の自分の打席を、振り返っていたんだ」と言って、恥ずかしそうに米神の辺りを太い指で掻く。
「下手くそは、寝る間も惜しんで練習しなきゃな」
今日のヘンダーソンの成績は「4打数0安打」だった。俺は「そうだな」と言って、頭からゴーグルを外して強く振り、レンズやゴムバンドに付着したウィスキーやスポーツドリンクの露を払う。
「野球は本当に楽しい」
ヘンダーソンはそう言って脇に立てかけていたバットを、愛猫の頭や顎を撫でるかのように、ヘッドからグリップにかけて愛おしそうに指で触れる。
「野球はまるで人生の縮図のようだ」
俺は黙っている。ヘンダーソンはバットから離した自分の指を、じっと見つめる。
「どんなに努力しても失敗に終わることもあれば、『もう駄目だ』とあきらめた瞬間に、チャンスが巡ってくることもある」
彼とは握手を交わしたから知っている。ヘンダーソンの手の皮膚は、まるで象のそれのように分厚くて、固い。一体どれほどのスウィングを繰り返したら、あんな皮膚になるのだろうか。今日の試合で彼が打席に入った時、その白い肌と、大柄な体格を見たドジャースの選手から「ヨオ、ホワイト・エレファント!」とヤジを飛ばされる場面があった。
「450フィート先まで飛ばしたホームランも、9フィート先に転がしたセイフティバントも、1ヒットという意味では同じ価値にしかならない」
そしてヘンダーソンは、象のような厚い皮に包まれた指先で、アイパットの表面に触れ、人形菓子のように固まっていた選手たちが動き出す。俺が最後の打席で2ランスクイズを決め、喜びを爆発させたアスレチックスの選手たちがドリンクを両手にベンチから飛び出してくる。
「あの場面で君がスクイズを決めた時、僕は鳥肌が止まらなかったよ」
ヘンダーソンは寒そうに前腕をさすりながら、口元には笑みを浮かべる。
「あの場面でスクイズという発想は、僕の頭には全くなかった。日本のプロリーグでは、ああいうプレーが当然のように行われているのかい?」
「日本でも滅多にないよ。いや……」
屈託なく笑うヘンダーソンに、俺は軽く両手を広げ、肩をすくめて見せる。
「正確には分からない。俺は、日本のプロ野球を経験していないから」
「いずれ日本に帰ってプレーするのかい?」
俺は首を振る。ヘンダーソンの表情から、笑みが消える。
「君は以前、故郷に帰りたくないと言っていたが……それは本心なのか?」
俺は少し迷ってから、こたえる。
「年に一回くらい実家には帰るけど、それ以外で日本に行くことは無いよ。高校時代のチームメイトとも、暫く会っていない」
数年前までは、高校野球部のチームメイトから同窓会の案内メッセージが届くことがあった。しかし、俺が断り続けるので、もう誘いがかかることは無くなっていた。
「仲違いしたのかい?」
「……どうかな」
俺は首を傾げる。ヘンダーソンは下唇を噛み、赤いニキビができた頬の皮膚が引っ張られる。
「仲直りした方がいい」
「は?」
「大切な仲間なら、絶対にそうした方が、いい」
俺は奥歯をぐっと噛みしめる。聞くだけで鳥肌が立つような綺麗事は、白い肌と、聡明な瞳を持つ彼らの特権のようなモノなのかもしれない。素直に受け取ることが出来ない、俺の心は、欧米人から「黄色い」と形容されるこの肌の色と同じように、くすんでいるのだろうか。
「ゴ・チャ(わかったよ)」
俺はこみあげる口惜しさと、苛立ちを押し殺すように、低い声でそうこたえた。
カード最終戦。アスレチックスは4対13で惨敗し、グリーンスタジアムのマウンドに、青い歓喜の輪が出来上がった。
胸に『ADVANCE TO POSTSEASON』とプリントされたシャツを着たドジャースナインには賞賛が、シーズン97敗目を喫したアスレチックスナインにはブーイングがファンから送られた。スタンドから細長い紙きれのようなモノがグラウンドに投げ込まれ、俺が手を伸ばしかけた時、後ろからサンチェスが「拾うな!」と怒鳴る。
「金をやる!」
アスレチックスファンによる怒号は重なり合い、ある言葉の大合唱になる。
「「補強しろ!」」
「「「こいつらを、クビにしろ!」」」
スタンドから次々に投げ込まれた紙きれは、1ドル札のオモチャだった。
「「金をやる!」」
「「「補強しろ!」」」
「「「「こいつらを、クビにしろ!」」」」
最前列の席から、黒人の少年がベンチ上の屋根に飛び乗って叫ぶ。
「ヘイ、ヒメネス!」
ヒメネスは、ベンチの段差を降りかけた足を止める。
「怪我の調子はどうだい?」
少年はジャージの肩に垂らしたドレッドヘアーを振り乱しながら叫んだ。遠くから、黒い制服を着た警備員2人が近づいてくる。
「ずっと休んでていいぜ!」
少年は中指を立てながら笑う。後ろからその肩を抑えた警備員も、口元には白い歯が浮かんでいる。彼らには、少年を本気で止める気はないように見えた。
「打率は2割にも満たない、ホームラン二けたさえ打てない老害のデブに、一体、何が出来るっていうんだい?」
怒ったヘンダーソンが詰め寄りかけて、俺は手のひらで肉が詰まった胸板を抑える。
「引退しろ!」
警備員の手でうつぶせに取り押さえられた少年は、ベンチの屋根から顎を上げ、ファンたちを煽るように両腕を大きく振った。
「「引退しろ!」」
すると呼応するように、他のファンたちもベンチ前のスペースに集まってくる。松葉杖をつき立ち尽くしたヒメネスに向かって、同じ言葉を浴びせる。
「「「引退しろ!」」」
彼らは弱いチームへの怒りと、ビールで赤らめた顔を歪めながら叫ぶ。
「「「「引退しろ!」」」」
また一歩、詰め寄りかけたヘンダーソンの肉のついた身体を、俺は足を踏ん張って何とかグラウンドの方へ押し戻す。顔を赤らめ怒号を浴びせてくるファンと、グラウンドにいる俺たちの距離は、たった3,4メートルほどしか離れていない。その気になればグラウンドの土を蹴り、平たい屋根に飛び乗ることだって出来るだろう。
「「「「引退しろ!」」」」
勢いづいたファンが次々と屋根によじ登り、警備員2人の力だけではどうにも事態を収拾できなくなる。
「「「「引退しろ!」」」」
まるで歴史の教科書で見た「ベルリンの壁、崩壊」の瞬間みたいだった。最初に「引退しろ!」と叫んだドレッドヘア―の少年が、警備員の抑制から解放されると、加勢したファンたちから感動の拍手が沸き起こる。
怒号の中心にいるヒメネスは、スタッフに促されても、そこから動こうとはしない。まるでファンの怒りを一身に受け入れるように、俺たちの先頭に立ち、そこにじっと佇んでいた。
「クビにしろ!」
少年が立ち上がりスタンドに向かって再び煽った瞬間、俺とヘンダーソンの横を、緑色の塊が猛スピードで追い越していった。地面を蹴り、ベンチ上の屋根に飛び乗ると、振り返った少年の頬に、褐色の拳がめり込んだ。歪んだピンク色の唇から、安いハンバーガーのケチャップみたいな飛沫が飛ぶ。屋根によじ登ったファンたちの列が崩れ、怒号が、引き裂くような悲鳴に代わる。
「止めてくれ!」
その時、ヒメネスが初めて叫んだ。
「マイ・ベスティ……! (俺の親友を……!)」
この国では小さい身体でとびかかったサンチェスは、すぐに少年の身体から引きがはされる。ファンの一人に胸倉を掴まれ、押し返された拍子に緑色のユニフォームの生地が破ける。俺はただ、呆然と見上げていることしか出来なかった。




