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the game  作者: moshiro
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3.アトランタ球場・3連戦 (メジャー)

3.アトランタ球場・3連戦 (メジャー)

 次の敵地・アトランタにはチャーター機で向かうという。空港に到着すると、アスレチックスが用意したSPが俺たち三人を出迎えた。

 SPは俺と、マイクと、マッケンジーにそれぞれ二人ずつ就いた。俺の警護に就いたうちの一人がリーダーらしく、スーツの襟につけた小型マイクで、別の場所にいるSPと交信している。もう一人は、頭の両サイドを刈り上げたモヒカンスタイルの黒人だった。

「荷物をお持ちします。ミスター・カノン・キベ」

そう言って差し出された大きな手のひらを、俺はバットケースに触られる寸前でかわして断る。

「カノン・キベ!」

 呆れたハタケヤマの声が耳をつんざく。

「君はメジャーリーガーなんだぞ? もっと堂々とするんだ」

 そう言ってハタケヤマは両肘を回すようにして小さな胸を張って見せる。俺は頷く。以前、遠征でメキシコ国境付近の街に入ったとき「ここらは治安が悪くて危険だから」と言って近づいてきたSPを装った窃盗集団に、俺は野球道具や全財産が入ったバッグを盗まれたことがあった。

「マイク! 君もだ」

ハタケヤマが指さす。やはり「荷物をお持ちします」と申し出たSPに、マイクは消え入りそうな声で「チップがないんだ。ソーリー」と言って断っていた。


「メジャーリーガーであり続けるために最も重要なこと。それは何か、君たち二人には分かるかい?」

 俺とマイクと、俺たちの荷物を抱えた四人のSPの前を、ハタケヤマは小さな胸を張って堂々と歩いた。球団が用意したというチャーター機が待つ「ナンバー24」搭乗口に着くまでには、いくつもの受付カウンターや保安検査場があったが、それらをハタケヤマはすべて無視した。時々、不審に思った警備員が近づいてくると、彼は首から下げたIDカードのようなモノを示す。すると、その警備員は米神を狙撃でもされたように突然、直立不動の姿勢をとり、後ろからSPのリーダーが「申し訳ありません。ミスター・ハタケヤマ」と言って、警備員へ通行許可の連絡が行き渡っていなかった不手際を詫びる。

「メジャーリーガーでい続けるために大切なコトは、自分がスペシャルな存在であると信じ続けることだ」

 その時、俺たちの2,30メートル前を歩いていたマッケンジーが振り返って「見ろよ! キム! マイク!」と叫んで、足元までガラス張りになった窓の方を指さした。誘導員が頭上に掲げた赤い札のようなものを振り、ジャンボ機が地面に大きな白い文字で「19」と描かれたポジションに停止しようとしているところだった。

「ヘイ、マイク! あのジェット機の先端は、君のちんこよりもデカいんじゃないか?」

 その時、やはりSPをつけて通りかかった老婦人が、何か信じられないモノでも見てしまったような表情で振り返る。「いや、やっぱりお前のちんこの方がでかいよ!」マッケンジーは叫びながら、巨大なジェット機に向かって女の尻を抱え、腰を突き出す仕草をして見せる。

「あれくらいぶっ飛んでなきゃメジャーリーガ―にはなれないんですか?」

 俺が言うと、ハタケヤマは浅黒い肌に映える白い歯を見せて「ああ、そうかもな」と笑う。

「デカい方が奥まで当たる」

マイクは窓外の景色を不安そうな表情で見つめている。こちらに向かってきた老婦人が、俺のことをちんこがデカい「マイク」だと思ったのだろうか、忌々しそうな表情で見つめてくる。俺は恥ずかしくて「アイム・ノット・マイク! (俺はマイクじゃない!)」と叫びたくなった。


 通路の曲がり角に位置している「ナンバー23」搭乗口の前を通過した時、大きな窓ガラスの向こうに、アスレチックスのマスコットキャラクターである「ホワイト・エレファント(白い象)」が描かれたチャーター機がその姿を現す。

「イースト・アメリカン航空は、我がアスレチックスのオーナー企業だ」

 チャーター機は地面に「24」と描かれたポジションに停止するため、ゆっくりと旋回を始める。機体の反対側の側面には、バットを担ぎ、黄色い帽子のつばに手をやるヒメネスの満面の笑みがプリントされていた。

「MLB機構からの補助金を選手補強に回さず、懐に入れるようなクソオーナーだがな」

 ハタケヤマは「ファッキン・オーナー」と言ってから、唇の前に人差し指を当てる。生まれて初めて見るチャーター機は先端がとがっていて、旅客機というよりは細長い戦闘機のようだった。大きさは、さっき見たジャンボジェットより二回りくらい小さいので、前を歩いていたマッケンジーが急に不服そうな表情になる。

「ヘイ、マイク! あれはさすがに君のより小さいな! そうだよな?」

 マッケンジーのしつこいジョークにも、マイクは不安そうな表情のまま黙っている。長いまつ毛をしきりに瞬き、米神には汗まで浮いている。俺が心配すると、マッケンジーが「そう心配するなよ! キム」と言って笑う。

「マイクは飛行機が苦手なんだよ」

「そうなのか?」

 俺の問いにも、マイクは黙っている。飛行機というより大企業の応接間にでも置いてありそうな革張りのシートにマイクは深くもたれ、指で眉間の皮膚を揉みながら窓の方を見ようともしない。そう言えば、マイクの憧れの選手であるヒメネスも飛行機が苦手だった。島国の民であるキューバ人には、飛行機が苦手な人が多い。マイクはアメリカ・フロリダ州生まれだが、彼のお父さんはキューバ人だった。キューバはフロリダ海峡沖に浮かぶ島国だが、アメリカとは国交を断絶しているので、両国間を飛行機で自由に行き来することはできない。マイクのお父さんは、メジャーリーガーになる夢を叶えるために、母国からボート一つで海を渡ってきたらしい。

 俺たちが乗ってからほどなくして、チャーター機が「ナンバー24」搭乗口からゆっくりと動き出す。シートベルト着用のアナウンスは無かった。

「フォー!!」

頭のネジがぶっ飛んだマッケンジーが、波のリズムに合わせるサーファーのように、通路の真ん中で両足を踏ん張り腰を左右に振りながら叫ぶ。

「ちんこが動き出したぞ! マイク! キム!」

 俺はマッケンジーを無視して、皮張りのシートにつけられたベルトの位置を探す。その時、搭乗口から滑走路へ向かう外の様子を写していた前面のモニターが切り替わる。画面に、満面の笑みを浮かべた黒人の大きな顔が浮かび上がる。

『ヘイ、ワッツアップ? キム! マイク! コディ!』

 そう言って裏側がペールオレンジの手のひらを振ると、太い首からぶら下げた金色の鎖状のネックレスがぶらぶらと揺れる。隣のシートに座ったマイクが、憂鬱そうに閉ざしていた上瞼を開く。

 そして、子供のように叫んだ。

「ヒメネス!」

『ウェルカム・トウー・ザ・メジャーリーグ!』

 それはアスレチックスが俺たち三人のために用意したビデオメッセージだった。急遽だったので病院で撮影しているのか、濃い顎髭をさすりながら笑うヒメネスの後ろには、点滴の袋のようなものが見える。

『君たちはついに、メジャーリーガーになるという夢を叶えたわけだが……』

ヒメネスのビデオメッセージを、マイクはもう飛行機の恐怖も忘れて食い入るように見入っている。

『ここは君たちにとってゴールではない。スタートなんだ』

 滑走路に向かってチャーター機が左へ旋回し、車輪の振動がシートを通して尻にまで伝わってくる。

『これから始まる君たちの夢が、少しでも長く続くことを祈っているよ』

 通路に立ったままマッケンジーが両手を筒のように丸めて「レッツゴー! エーズ! レッツゴー! ヒメネス!」と叫ぶ。

『さあ、行こう! 夢の舞台へ』

 シートから伝わってくる振動が止んだ。機体が、滑走路のスタート地点に到着したのだろう。両翼についたエンジンの音が早くなる。

『3,2、1……スタート!!』

 全身がシートに押し付けられ、同時に、マイクの咆哮が耳をつんざいた。



「僕のサプライズには満足してもらえたかな?」

 ハタケヤマは向かいの皮張りシートに座ると、やってきたアテンダントに人差し指を立ててビールを一つ注文する。俺はコークを頼み、通路を挟んで反対側のシートを二つ使ってうつ伏せになっているマイクは、何も言わなかった。ハタケヤマの言う「サプライズ」とは、先ほど離陸前に流れたヒメネスからのビデオメッセージのことだろう。

「彼はグッド・ガイだ。チームメイトのことを、本当の家族のように想っている」

「イエッサー、ミスター・ハタケヤマ」

「自分の妻とは離婚したがな」

 アテンダントがハタケヤマのビールと、俺のコークを持って再び席に現れる。ハタケヤマは、自分で自分のジョークに満足したようで、受け取ったビールをうまそうに煽る。

「カノン・キベ! 僕も、君を本当の家族のように想っているよ」

 そう言ってハタケヤマは、上唇にビールの泡をつけたまま笑う。アメリカ人仕様の大きさで作られた革張りシートにもたれ、ビールを煽るハタケヤマの姿は、メジャー球団の幹部というよりは、いかがわしいビジネスで成功を収めた成金社長のようだった。

「アイム・アナア(光栄です)」

「実はね、アスレチックスのGMに君の獲得を進言したのは僕なんだよ」

「アイム・グレイトフル(感謝しています)」

 ハタケヤマに俺はコークを飲むよう勧められ、冷たいコップの縁に口をつける。コップはついさっきまで冷蔵庫か、冷凍庫の中で冷やされていたのだろう。酸味が少なく、甘さの主張が強いコークの味が口の裏側にへばりつく。

「カノン・キベ! 君は、この国の白人がなぜ、黒人や、僕たちのようなアジア系人種を差別するのかわかるかい?」

 もうビールの酔いが回ってきたのだろうか。脈絡なく切り出してくるハタケヤマに、俺は首を横に振って見せる。

「なにも白人の性格がみんなサイアクだからってわけじゃないんだ。要は、数の問題なんだよ。カノン・キベ」

 こちらに同意を求めるとき「カノン・キベ」と口にするハタケヤマの癖が、会って間もないのに、俺は何だかもう嫌になってきた。

「新しくスクールにやってきた転校生が、古参のクラスメイトたちに反抗したらイジメに遭うだろう? 要はあれと同じ構図なのさ。もしも逆だったら、どうなる? 白人が転校生で、もといたクラスメイトがマイクのような黒人や、僕たちのようなアジア系人種だったら。

白人の転校生は、僕たち古参のクラスメイトが出す命令には絶対に逆らえないし、僕たちに右の頬を殴られたら、喜んで左の頬を差し出すだろう」

 俺は不意に、マイクの方を見る。尻の上から被さった薄手の毛布はピクリとも動かない。さっき離陸直後にトイレに駆け込んで嘔吐し、戻ってきてから彼は一度も起き上がっていなかった。

「だから、この国から差別は決して無くならないし、無くならなくて良いとさえ僕は思っているんだ」

「アイ・シー(そうですか)」

「差別とは、権力の象徴のようなものだからね。カノン・キベ。だから僕は、スクールで僕をイジメた連中のことを決して恨んだりはしていないんだ。僕のことを『チビ!』とか『ジャップ!』とか『くろんぼ!』とか嘲笑って、こう僕の顔や身体を何度も蹴ったり殴ったりしてきた連中のことを……僕は決して恨んだりしていないんだよ。分かるかい? カノン・キベ!」

 何度も「カノン・キベ!」と同意を求めてくるこの日系アメリカ人の小男に、俺は初めて、かすかな恐怖を覚えた。俺が「アイ・アンダースタンド(わかりました)」とこたえると、ハタケヤマはまた満足そうな笑みを浮かべたが、分厚い一重瞼が降り、細くなった目の奥は笑っていない気がした。

「僕の夢はね、いつかメジャーリーグの中にアジア系選手だけのチームを作ることなんだよ!」

 やはりハタケヤマはもう酔っているのだろう。肌が日焼けしたように黒いので、分かりづらいが。

「そのためにはまず、僕はメジャーリーグ球団のGMになる必要がある。メジャーリーグのGMは選手をトレードで獲得したり、クビにしたりする権力を持っているからな」

 不意にハタケヤマが口にした「ファイアー(クビ)」という言葉に、一瞬、俺は息が詰まったような感じになる。

「アスレチックスのGMとして成功をおさめたら、次はメジャーリーグ球団のオーナーになるんだ! 中国や日本の大企業をスポンサーに取り込んで、アジアから有力な選手をかき集めてくる」

「それじゃあ、ミスター・ハタケヤマ」

 興奮した様子で喋り続けるこの小男のことを、俺は、少しからかってやりたい気分になった。

「この俺は、貴方の出世を助けるための道具ということですね?」

「まあそういうことだな」

 まさか肯定されるとは思わなかったので言葉に詰まる。俺の嫌味に気づいたハタケヤマはにやりと笑う。

「この国で野球はビジネスなんだよ、ミスター・カノン・キベ!」

 ハタケヤマはここぞとばかりに畳みかけてくる。俺やマイクが、マイナーリーグの厳しい生存競争を勝ち抜けてきたように、このハタケヤマもまた、別の世界での争いに勝ち続けてきた男なのだ。

「僕は君を利用してGMの地位にまでのし上がり、君も僕を利用してメジャーリーガーの地位を得るんだ。

 これはビジネスだよ! カノン・キベ! 君は僕から『ヘイ、ユー! 給料は0円だが、僕のチームに来てくれるかい?』と言われたら、それでもこうして僕についてきたかい?」

 俺は力なく首を振る。俺は、この男の細い目の奥に潜む弱った相手をどこまでも追い詰めるような、ねちっこい性分を垣間見たような気がしてぞっとした。「でもさっき、貴方は俺のことを『本当の家族のように想っている』って言いましたよね?」なんて反論したら、今度はどんな仕返しをくらうか分からない。

 この国ではときに、表情の変化や言葉のニュアンスが理解できる同人種よりも、アバウトな会話やボディランゲージで繋がっている異人種と一緒にいるほうが楽に感じることがある。

「世界の真理は金だよ! 金は権力の象徴であり、生きる原動力にもなるんだよ、ミスター・カノン・キベ……」

 その時、窓外に見えていた機体の右翼がぶ厚い雲に飲み込まれ、股間がヒュッとなる。目的地が近づいて機体が急降下を始め、身体の違和感に気づいたマイクがようやく重い身体を起こす。せっかくのフライトだったのに勿体なかったな。そうマイクに声を掛けようとした時だった。ハタケヤマが素早く近づいてきて、俺の耳元に囁く。ビールの苦い息が、俺の頬と鼻先をかすめる。

「実はね、マイクをスカウトしたのはジャックなんだよ」



 東部時間18時9分。ジョージア州・アトランタ球場。

 殴られたら一発で吹っ飛んでしまいそうな太い手足を持った球場SPに守られて俺たちは裏口から球場の中に入る。入口では、メジャーの名門球団・ブレーブスのスター選手であるハンク・アーロンの銅像が俺たちを迎える。そして、入口からクラブハウスへと繋がる長い廊下の壁は、ワールドシリーズ優勝4回を誇る名門・ブレーブスの栄光のシーンや、名選手たちの写真で埋め尽くされていた。

 右打席に立つとかがみこむようなフォームでバットを構えた『ホームランキング』ハンク・アーロン。まるで鏡映しのように左右の打席から強烈なヒットを放つ『史上最高のスイッチヒッター』チッパージョーンズ。最後のバッターを打ち取って吠える『精密機械』グレッグ・マダックス。クラブハウスの入口の左右には、頭に羽のようなものをつけたインディアンを模したキャラクターが目を見開き、頭上には『トマホーク(赤い斧)』を振りかざして、クラブハウスに入ろうとする俺たち敵チームの選手を威圧している。

「キム!」

 突然、上下ジャージ姿の小柄な男が「ヘイ!キィム!」と俺の名前を叫びながら近づいてくる。こちらがうろたえているのにも構わず、相手は俺の手を取ってがっちりと握手を交わし、タトウーを彫った浅黒い腕の筋肉がぼっこりと盛り上がる。

「お前は絶対ここに来る男だって、俺は分かっていたよ!」

 しかし、まだ戸惑っている俺を見て、相手の人懐こい笑みが崩れる。

「まさか、俺を忘れたって言うんじゃないよな?」

 そう言ってサンチェスは、俺の目の前で、中指と薬指の間を大きく開いてチェンジアップの握りをして見せる。

「ノー! サンチェス」

 俺が言うと、口ひげを生やしたサンチェスの顔に人懐こい笑みが戻る。「コングラッチュレーション! キム!」サンチェスはそう言って、俺たちはハグを交わす。

「マイク! マッケンジー!」

 俺から離れるとサンチェスは、後ろにいるマイクとマッケンジーの顔をそれぞれ指さす。

「マイク! お前のパワーはエキサイティングだが、打席の中ではもう少しクレバーになった方がいい。それから、マッケンジー! お前のストレートはマジでやばい! その細身で、どうやってあんな早いストレートを投げられるんだ? あとで俺に教えてくれよな」

 サンチェスは二人とも固い握手とハグを交わしたが、最後に「ハウアーユー?」と言って近づいてきたハタケヤマのことは無視した。

「ポップスから俺は、お前たち三人を案内するよう頼まれたんだ」

「ポップス?」

 俺が言うと、サンチェスは「俺たちのチームリーダー・ヒメネスの愛称さ」という。

「ヒメネスは俺たち選手のことを、本当の家族のように大切に想ってくれている。だから、俺たちも彼のことを親しみを込めてポップス(おやっさん)って呼んでいるんだ」

「ヒメネス!」

 後ろからマイクが声を上げる。

「いや、ポップスは、今日ここに来ているのかい?」

 マイクの言葉に、サンチェスの長い眉の端が垂れ下がり、辛そうに肩をすくめる。

「彼は傷がまだ治っていないので、チームからは離れているんだ。だから今日は、ここにはいない」

 それからサンチェスは「レッツゴー!(さあ行こう!)」と言って、クラブハウスへとつながるドアに手をかけた時、初めて視線をハタケヤマの方に向ける。

「ここからは俺が三人を連れて行くから心配しないでくれ。ミスター・ハタケヤマ」

「そうか、サンチェス。だが」

 そう言いながらハタケヤマが一歩前に踏み出すと、サンチェスは笑みを浮かべたままドアの前に立ち塞がる。

「彼らにとっては初めての経験で、色々と戸惑うこともあるだろうから」

「俺はこの世界で10年以上もプレーしてきたから、こういうことには慣れている。それに」

 サンチェスは、ひげが生えた口元には笑みを絶やさずに続ける。

「俺はポップスに頼まれたんだ。『三人をよろしく頼む』ってね」

「だがな、サンチェス」

「だから心配するなって言っているだろう? ミスター・ハタケヤマ」

 サンチェスに肩を掴まれ動きを止められたハタケヤマの表情がさすがに引きつる。

「こういうことに俺は慣れている」

「サンチェス」

「おいお前、ハッキリ言ってやらないと分からないのか?」

 ハタケヤマの顔から表情が消える。しかし、サンチェスの口元にはまだ笑みが浮かんでいた。マッケンジーは苛立たしそうに金髪を掻きむしり、マイクはぎょろっとした目玉の動きだけで、サンチェスの横顔をじろっと見つめる。

 ハタケヤマの顔に近づくとサンチェスは、笑みを浮かべたまま小さな声で、だが、一つ一つの単語を、ハッキリとした発音で呟いた。

「ファック・オフ!(とっとと失せろ!)」


 ドアの奥にもまだ通路が続いていて、ここではアスレチックスのチームカラーである緑色と黄色を基調としたパーカーやポロシャツを着た職員がひっきりなしに行き交う。俺たちを先導するサンチェスは、彼らとすれ違うたびに「ハウアーユー?」とか「ハブ・ア・ナイス・デイ!」とか声をかけ、ハイタッチや握手を交わす。

「あの男には気をつけろよ。キム」

 サンチェスは通路の途中に置いてあったケータリングサービスのサンドイッチの包みを掴んで、俺に渡してくる。

「Wow!」

 他にもステーキや揚げ物やサラダまで用意された豪華なケータリングサービスに興奮したマイクが「これ、全部食べてもタダなのかい?」と目を輝かせて問う。サンチェスは苦笑し、俺は「彼は飛行機酔いのせいで、今朝から何も食べていないんだ」と弁解する。

「あの男はな、俺たち選手のことを自分の出世の道具としか考えていないんだよ」

 サンチェスは苦笑を浮かべたままケータリングサービスのジュースを口に含む。あの男とは、ミスター・ハタケヤマのことを言っているのだろう。俺も、サンドイッチの角をかじって口に含む。ライ麦パンに新鮮なレタスとトマトと、少し固めのスクランブルエッグを挟み込んだサンドイッチ。なぜだろう、めちゃくちゃ美味いのに、どこか物足りなくも感じる。長いマイナーリーグ生活を経て、俺の身体は毒々しいケチャップやマスタードの味しか受け付けなくなってしまったのかもしれない。

「あの男は、次期GM候補の一人と言われている」

 ジュースを口に含みながらサンチェスは、目の前の壁をじっと睨む。壁には、大きな蚊のような何かが押しつぶされ、さらに横に擦れてできたようなシミがある。

「オーナーやGMは、あの男の実力を見極めようとしているみたいだが、俺たち選手からは不評なんだ。自分と同じアジア系の選手ばかり獲得してくるし、そのくせ飽きたら子供のオモチャみたくあっさり切り捨てる。この前はパクっていう若手の選手を連れてきたのに、たった3日でクビにしやがった。たった3日だぞ!?」

 サンチェスは目の前に三本の指を立てて見せ、その奥で表情が歪む。

「だから、あの男は選手たちからマジで嫌われてる。ポップスから俺は『ハタケヤマの野郎は絶対にクラブハウスに入れるな!』って命じられていたんだ」

 サンチェスは俺から視線をマイクに移す。「ヘイ、マイク!」マイクが抱えた皿には、ステーキやらサラダやらハムエッグやらがうず高く積み上がっており、後ろからはマッケンジーが呆れたように見つめている。

「おい、マイク。試合前にあんまり食いすぎるなよ」

「オーケー! サンチェス」

 マイクは咥えたエビフライの奥で喋る。「監督からはまだ発表されていないから、あんまり言いたくはないんだが……」

サンチェスはそう呟き、左右に分けた短い前髪を指で摘まんで、しきりに横へ流す。

「お前、あと2時間後に始まる試合で先発出場するんだぞ?」



 メジャーリーグ球場のクラブハウスは広々としていて、床には、ブレーブスの応援グッズであるトマホークが無数に描かれたカーペットが敷かれている。中心には革張りのソファと、選手同士が会話をしたりトランプを楽しむための大きなテーブルが置かれている。ロッカーは、身長190センチを超える大男たちの背丈よりも高くて、幅も広い。すでに俺やマイクたちのユニフォームや帽子もセットされていた。新しくチームメイトになる選手たちとの挨拶を終えた俺がロッカーの前に立つと、にやにやとした笑みを浮かべながら球団職員が近づいてきて、俺たちは握手を交わす。

「君たちのロッカーはね、僕がセットしたんだよ!」

「サンキュー」

「キム! メジャーのクラブハウスに入るのは初めてなんだってな?」

「イエア……」

 にやにやとした球団職員は、掴んだ俺の手のひらを強く握ったり振ったりして一向に離そうとしない。俺はようやく「チップだな」と直感し、財布から一ドル札を取り出して渡す。

 にやにやとした表情が一瞬、ヒビでも入ったように引きつる。俺が慌ててもう二枚、一ドル札を手渡すと、今度は真顔になる。そして、俺の角が擦れてボロくなった財布を見ると、相手はもうそれ以上チップを引き出すことはできないと悟ったらしい。またにやにやとした笑顔に戻り「グッド・ラック!」と親指を立てながら俺の元から去って行った。

「気にするなよ、キム」

 こちらの様子を見ていたサンチェスが近づいてきて、俺の背中をポンと叩く。

「お前はつい先日までマイナーリーガーで、給料も低かったから、チップをあまり払えないのは仕方ないよ。メジャーリーグ(ここ)で成功して、大金を稼いだときにたくさん払えばいいんだ」

 そしてサンチェスは、ロッカーに用意された俺のユニフォームと帽子に視線を移す。

「エキサイティングだろ?」

 俺は頷く。緑色のシャツに、黄色のインナーとソックス。袖には球団のマスコット『ホワイト・エレファント』がボールに乗り、鼻でバットを掴んだ絵が描かれている。裏返すと背中にプリントされた『KIBE 68』の文字に、俺は縋りついて、泣き叫びたい衝動に駆られた。ここは君たちにとってゴールではない、スタートなんだ。チャーター機内で、ヒメネスが画面越しに語り掛けてきた言葉を思い出す。自分を落ち着かせようとして、鳥肌が立った右腕を、汗ばんだ左手のひらで掴んで何度もさすったが、それでも、俺を襲ってくる感動と興奮はやまない。やっぱり俺は、ダメかもしれない。帽子にプリントされた『A‘s』の文字が滲み、霞んでいく視界の中で俺は思った。生き残れ! キム! イースト・サンフランシスコでの夜、煤けたガラス越しにボーンから掛けられた言葉も思い出す。でも、ダメかもしれない。俺がこの世界で長く生き続けることはできないかもしれない。

「誤植か? キム」

 横からサンチェスが『KIBE』とプリントされた部分を指で摘まみながら言う。

「ノー、サンチェス」

 俺の本名はカノン・キベなんだ。「キベ」というラストネームは発音がしづらいから、アジア系選手に多い「キム」っていう愛称で呼ばれている。そういうことを俺が説明すると、サンチェスの浅黒い眉間にかすかに、皺が寄った。

「ならなぜ、最初からそう言わなかった?」

「ソーリー……」

「お前もアメリカでの生活が長いから、分かっているだろうし、こんなこと今さら言いたくはないんだが……」

 サンチェスはインナーの薄い袖をめくり、腕に彫られたタトウーの文字を俺に示す。治安の悪い街の落書きによくあるような、背景が影になり浮き出したフォントの文字で『MEXICO』と彫られている。

「俺はアメリカ・ロサンゼルス南部の生まれだが、両親はメキシコからの移民だ。妻もそうだ。国籍はアメリカだが、俺は100パーセント・メキシカン(メキシコ人)なんだよ」

 サンチェスの言葉に、俺は頷く。

「『サンチェス』というラストネームは、スペイン語圏の国に多いからたまに間違われるけど、俺は『ドミニカン(ドミニカ人)』でも『ベネズエラン(ベネズエラ人)』でも『プエルトリカン(プエルトリコ人)』でもないんだ」

 サンチェスの言う通りだ。俺は分かっていた。この国の大原則は、俺が海を渡りこの国に来てから何度も聞かされ、身に染みて理解している筈のことだった。

「違うことは『違う!』と、嫌なことは『嫌だ!』と、ハッキリ言わなければダメだ。

キム! 俺はこの世界で長いから知っているが『キム』というのは韓国系のラストネームだ。でも、お前はジャパニーズ(日本人)だろう? それでも、お前が否定しないなら、俺はお前のことをキムと呼び続けるが、お前はそれで良いのか?」

俺は頷く。

「みんながつけてくれた愛称だから。『キム』で良いんだ、俺は」

 そう言うと、サンチェスは後ろ向きに被っていた『A‘s』の帽子を、つばを前にして被りなおす。そして、口ひげを生やした上唇を尖らせて一つ、ふうっと息を吐く。

「俺はマイナー時代も合わせたら20年以上もこの世界でやってきたから分かるんだが、ジャパニーズとコリアン(韓国人)は見た目がよく似ているが、中身は全然違う。俺の印象ではあるんだが、コリアンの方がまだ接しやすい」

俺は頷く。

「俺はマイナー時代に『ハタノ』という日系人とチームメイトになったことがあるんだ」

 サンチェスは親指と人差し指を擦り合わせ、割れ防止のマニキュアで光る爪先をじっと見つめる。

「ハタノはハイ・スピードのストレートを投げるピッチャーで、いい選手だったがコントロールが無かった。ストライクゾーンに決まればアウトがとれるが、フォアボールやヒット・バイ・ピッチ(=デッドボール)で自滅するパターンが多かった。

 そのことで悩んでいた筈なのに、ハタノは試合で打ち込まれても俺たちチームメイトの前では落ち込んだ表情を見せなかったし、泣き言や愚痴の一つもこぼすことが無かった」

「ハタノ」について喋りながらサンチェスは、ピッチャーにとって命の次に大事な爪の先をじっと見つめ続け、つばの影になった目はしきりに瞬かれる。

「コントロールが改善されなくて、ハタノは結局チームを去ることになったんだ。だが、アイツは監督から『クビ』を宣告された後も、やっぱり俺たちの前では涙の一つも見せなかった。球場の外で別れる時も、俺たちの前であいつは気丈に振る舞っていたから、俺は『あいつは、大丈夫だ』って思ったんだよ。

でも、あいつは、あいつは……」

 サンチェスは一瞬、喉がつっかえたような感じになる。俺は「ハタノは、どうなったんだい?」と続きを促す。

「死んだよ」

 サンチェスは、黄色いつばの下で目を伏せる。「ロイヤルフラッシュだぜ!」「ファック!!「フォー!!」後ろのテーブルでは、ポーカーの卓を囲ったメジャーリーガーたちが騒いでいる。

「チームからリリースされた数日後に、イースト・サンフランシスコっていうスラム街で遺体で見つかったんだ」

 イースト・サンフランシスコ。俺はボーンが「ゾンビ・タウン」と形容した街の光景を思い出す。ドラッグをキメすぎて、関節がないクッキーのように固まった「ゾンビ」たちの姿を思い出す。

「死因はドラッグ中毒だった。クビになった時、チームから渡された帰りの飛行機代と、残された財産を全てドラッグの購入に使ったらしい。今はフェンタニルが多いが、あの頃はまだヘロインが主流だったからな。道端にドブネズミの死骸みたく転がっていたハタノの腕は、注射器の刺しすぎで真っ青になり膨れ上がっていたそうだ」

 そう言ってサンチェスは、メジャーリーガーにしては狭い肩をすくめて見せる。そして、少し潤んだ瞳で、俺の顔を見上げる。

「なあ、キム。お前がキムで良いって言うなら、俺は別に構わないんだ。でも、少しでも嫌なことやキツイことがあったら声を上げてくれ。キム。俺たちは家族なんだからな?」

 サンチェスの言葉に、俺は頷いた。


 開始時間が近づくと、スタンド後方に設置された照明が灯り、モーターが稼働して上空を覆っていた可動式屋根がゆっくりと動き始める。あの屋根を1回開閉するだけで、約1万ドルもの費用がかかるという。屋根の向こうに潰れかけた夕陽と、グラウンド整備担当のスタッフがホースで撒く水を浴びた天然芝がキラキラと輝きを放つ。スタンドには、ブレーブスの応援グッズであるトマホークのレプリカや、ビールやポップコーンのカップを抱えたファンたちがぞろぞろと集まってきて、MLB全球団の応援チャントである「レッツゴー!」の後に「ブレーブス!」のように贔屓チームの名前をつける掛け声が、スタンドのあちこちから聞こえてくる。

 バックスクリーンに設置された大ビジョンには、ブレーブスが勝利をおさめ、マウンド上で駆け寄ったキャッチャーとピッチャーが抱き合う感動のシーンがスローモーションで流され続けている。整備担当のスタッフが、日本で言う「とんぼ」を使って最後にマウンドの土を押し固め、ホームベース横にはアメリカ合衆国国歌を歌うゲスト用のスタンドマイクが設置され、開会式の準備が完了する。

 ベンチとグラウンドを隔てる柵にもたれながら、そんな光景を俺は呆然と見つめていた。胸にトマホークがプリントされたユニフォームを着た選手たちが、ベンチから一段上がったグラウンドへ、ゆっくりと上がってくる。柵の裏側に押しつけた胸の鼓動が早くなる。米軍のコーラス隊に所属しているという黒人の米兵がスタンドマイクの前に立ち、一塁線上に並んだブレーブスの選手たちは、頭から帽子をとって胸に押し当てる。俺は柵にかけた右腕を、左手のひらでぎゅっと握る。9月特有のカラッとして肌寒い空気のせいか、表面は少しひんやりとしていて、鳥肌は立っていない。夢の中では、鳥肌が立つことは無い。俺は今、夢を見ているのだろうか?

 三塁線上からサンチェスが小走りに近づいてきて、指で眼前の空気を引っ掻くように強く振る。風圧で、俺は思わず目をつむる。

「なにボオッとしてんだよ! キム」

 マウンドには星条旗の大旗やライフルを掲げた5人一組の米兵部隊が到着し、外野の芝生上にも国歌斉唱が始まったらゆっくりと開かれていく大きな星条旗の布を抱えたスタッフたちが現れ、その瞬間をじっと待ち構えている。サンチェスに腕を掴まれて俺はベンチから光り輝くマウンドに引きずり出され、よろめきながらアスレチックスの選手たちの列に加わる。


「オォウ、セイ・キャン・ユー・スィー……(おお、見えるだろうか……)」

 分厚い身体と、左胸につけたド派手な勲章に似つかわしくない細く、でも伸びやかな歌声が球場全体に柔らかい風のように広がっていく。バックスクリーン上の大ビジョンや、スタンド全体に帯状に張り巡らされたビジョンの映像がすべて、風にたなびく星条旗の映像に代わる。

「バイ・ザ・ドウンズ・アーリー・ライィト……(夜明けの薄明かりの中……)」

 黒人米兵の歌声は「バイ」のとき急に大きくなり、「ライト」のときには再び細く、何かを憂えるように小さくなる。俺の視界は、音もなくたなびく星条旗の赤と青と白で満たされ、端の方からじわっと滲んでいく。

「ホワット・ソウ・プラウドリィ・ウィー・ヘィルド……(我らが誇らしく称えたあの旗を……)」

 大ビジョンから星条旗の映像がフェードアウトしていき、胸に帽子を押し当てながらガムを噛んだり、じっと虚空を見つめている大男たちの中継映像が映し出される。

「……スルー・ザ・ぺリロウス・ファイト(……危険に満ちた戦いの間も)」

 少し顎を上げ、涙を流しているアジア系の顔が現れ、それが自分だと気づいて、俺は慌ててユニフォームの袖で目元を拭う。

「オア・ザ・ランパーツ・ウィ・ウォッチドウ

ワー・ソウ・ギャラントリー・ストリーミング……(要塞の上で勇ましくなびいていた……)」

 三塁線上に並んだ俺たち選手の前を、カメラを担いだ半そで・短パン姿のスタッフがゆっくりと横切っていく。俺の次に、胸元からのぞく小さなロザリオを握りしめたサンチェスの表情が映り、そして、その隣には……誰もいない。スタンドがざわつく。大ビジョンの映像が急降下して、じっと見つめていた俺は、視界がグラつくような感じになり軽い吐き気を覚える。背中に「M.ALVAREZ 8」とプリントされた大男が、グラウンドに上半身を突っ伏している。

マイク・アルバレス。「18」は、アスレチックスでは大ベテラン・ヒメネスの背番号だった。マイクは、ずっと憧れていた彼に敬意を表して、自らの背番号に「8」を選んだ。

1番・センター、背番号は8。まるでコウシエンみたいだな。開会式が始まる前、俺がそう声をかけると、緊張で強張っていたマイクの表情が少しだけ緩んだ。


コウシエンって、何だい? キム。

日本野球の、スペシャルな舞台のことだよ、マイク。

スペシャルって、どれくらいスペシャルなの? ワールドシリーズくらい?

う~ん、そうかもな。俺は出たことないしね。

Wow!


大舞台を前に暗く沈んでいたマイクの瞳に、その瞬間、明るい光が宿った。


それじゃあ、僕もいつかコウシエンの舞台に立ってみたいな! 


俺は笑った。


「ゲイブ・プルーフ・スルー・ザ・ナイト

ザット・アワー・フラッグ・ワズ・スティル・ゼアー……(夜を通してその旗がまだそこにあることを示していた……)」

「大丈夫か? マイク」

 俺はマイクの元に駆け寄って、その背中に手をやる。グラウンドに突っ伏した彼は、試合直前にケータリングサービスのステーキを食いすぎて腹を壊したのかと俺は思った。

でも、違った。マイナーのチームメイトから「ブラック・ワイルド・ホース」と揶揄された大きな身体全体を震わせ、グラウンドに額を押し付けながら彼は泣いていた。

「スター・スパングルド・バナー・イェット・ウェイブ……(その星条旗は、今もなお翻っているか……)」

 担架を手に現れたスタッフを、サンチェスが『MEXICO』と彫られた片手を突き出すようにして制する。アメリカ(この国)の苦難の歴史を象徴する、星条旗を称える歌が終わりに近づき、満員のスタンドから拍手と、歓声が起こり始める。

「ザ・ランド・オブ・ザ・フリー!(自由の地に!)」

 スタンドの観客やスタッフが、風が止み生気を取り戻した稲穂のように首を上げる。拍手の音が、砂浜を洗う細波のように球場全体へと広がっていく。

「ザ・ホーム・オブ・ザ・ブレイブ!(勇者たちの故郷に!)」

 アメリカ合衆国国家の独唱が終わり、満員のスタンドや選手やスタッフたちから贈られる拍手に、スタンドマイクから一歩退いた黒人米兵は大きな手のひらを上げてこたえる。俺たちの姿を捉えていたカメラマンは、長いコードを素早く腕に巻きつけながら今度はマウンドに上がった小さなピッチャーの姿にフォーカスを合わせる。

始球式には地元・アトランタの少年野球チームに所属する少年が招待されたようだ。まだ細くて青白い腕から放たれたボールは緩やかな弧を描き、ホームベースにワンバウンドする直前で、ブレーブスのキャッチャーがミットで華麗にすくい上げ、駆け寄った二人はマウンドとホームベースの間でがっちりと握手を交わす。見事なファースト・ピッチングに、スタンドからはまたひときわ大きな拍手と歓声が沸き起こり、帯状のビジョンには「GREATFULL!!」というアルファベットが現れ、点滅しながら右から左へと流れていく。

 相手チームのブレーブスは、ナショナルリーグ東地区・3位。アスレチックスはアメリカンリーグ西地区・5位。この試合は、両チームのポストシーズン進出がかかった試合というわけではない。

 今日という日は、アメリカ軍人を称える「アームド・フォーシズ・デイ」でもなければ、アメリカ初の黒人メジャーリーガーを称え、全選手が「背番号42」を身に着けてプレーする「ジャッキー・ロビンソン・デイ」でもない。ありふれた金曜日のナイトゲームだった。球場に詰めかけたファンを煽るように「GET ROUD!!(叫べ!)」というアルファベットがビジョンに浮かび上がり、奇声を上げ「レッツゴー! ブレーブス!」のチャントを繰り返す観客たちの間を、狭苦しそうに歩いていく綿あめの売り子が、バックスクリーンのビジョンに映し出された自分の姿に気づくと、笑顔で手を振ってこたえる。

「レッツゴー!ブレーブス!」「レッツゴー!バルガス!」という声援を一身に受けながら、マウンドに上がったドミニカ共和国出身のピッチャーの太い腕から放たれた剛球は、矢が的を射抜くような速さでキャッチャーが突き出すように構えたミットに収まる。バックスクリーンのビジョンに映し出された相手ピッチャーの「ERA(防御率)」は5.76。

「……してんだ? キム! マイク!」

 ベンチ前に集まった選手たちの輪から、サンチェスが呆れた表情でこちらに近づいてくる。ホームベース後方に立ったアンパイアが、頭上に掲げた指の本数で、マウンド上のピッチャーに、ピッチング練習の球数を「あと3球!」と告げる。

「……しろよ!」

サンチェスは、髭が生えた口元を歪めて俺たちに怒鳴ったが、満員のファンを煽る電子ピアノの演奏と、歓声でかき消されてしまいよく聞こえない。

「ライ……イト!ライ……」

 一塁ベース横に立ったコーチの指示も、スタンドから降りてきてグラウンド上に渦のように滞留する歓声と、拍手と、指笛の音にかき消されてしまう。ライトの守備に就いた選手が片耳に手を当て、口を大きく開け何かを叫んだが、聞こえない。

俺はかつて、アリゾナのマイナーチームに所属していた時、敵地へ向かう道中でサンドストームに遭遇したことがあった。突風で大量の砂が巻き上げられ、その時はまだ昼だったというのに、窓外の景色は暗く閉ざされてしまった。砂粒が無数の銃弾のようになってボディを鋭く打ちつけ、突風に煽られた車体が激しく揺れはじめると、チームメイトはみな頭を抱え、態勢を低くして衝撃に耐えた。敬虔なクリスチャンだったチームメイトの一人が、爪先のような小さいロザリオを唇の端で噛みながら叫んだ。

「オ・マイガ……」

マイクが思わず漏らした声は、彼が俺のすぐ横に座っていたから何とか聞き取ることが出来た。満員のスタンドから降り注ぎ、グラウンド上に熱を孕んだサンドストームのように滞留する「レッツゴー! ブレーブス!」の叫び声に、他の音はすべてかき消されてしまう。声が届かないので一塁コーチャーが両腕を大きく右から左へ、何度も振って見せ、ライトの選手がようやく守備位置をセンター寄りのポジションにとり直す。圧倒的な光景に、俺とマイクはベンチに座ったまま動けなくなっていた。

「カモン! マイク! キム!」

 サンチェスは右腕を大きく、自分の方へ手繰り寄せるように力強く、振って見せる。

「レッツ・プレイ!(さあ、やろうぜ!)」

 俺は「オウ・イエア」とこたえ、マイクは冷たい汗にまみれた顔をようやく上げる。

「ザ・ゲイム(試合だ)」


 アスレチックスの選手たちは、サンチェスを中心にベンチ前のスペースで集まる。日本風に言うと「円陣」というコトになるが、ポストシーズンでもないのに、選手たちだけで集まってミーティングを行うのは、アメリカの野球では珍しい。

「アゥム、ウェル……(えっと、そうだな……)」

 慣れていないのかサンチェスが口籠ると、仲の良いチームメイトから冷やかしの指笛が飛ぶ。普段はチームキャプテンのヒメネスが、輪の中心に立ってチームメイトたちに気合を入れる言葉をかけるという。

「ポップスがいない間も、俺たちエーズは全力で……」

「おいおい、大丈夫か!? キャプテン!」

 後ろからまた古参のチームメイトに冷やかされると、サンチェスも褐色の肌を歪めて「シャラップ!」と怒鳴り返す。

「マジで大丈夫か? サンチェス!」

 ベンチ奥のスペースから声がする。サンチェスを中心に円陣を組んだ選手たちと、ベンチ脇のスペースに立っている白髪坊主頭の監督の視線が一斉に、声の主の方を振り返る。

「やっぱりお前には任せておけないな、サンチェス!」

 固いものが床をコツコツと叩く音が聞こえ、黒いシルエットが大きくなりその輪郭を結ぶ。

「ヒメネス!」

 隣からマイクが叫ぶ。ヒメネスは、頬まで濃いひげ覆う口元には笑みを浮かべながらベンチに現れる。右脇には松葉づえをついてボールを食らった右足を浮かせ、左脇を支えているスタッフは、体重100キロを超える巨漢の重圧に顔を歪めている。

「ポップス! 怪我はもう大丈夫なのか?」

 サンチェスが一歩前に出て、心配そうに問う。

「アイム・イモウタル(俺は不死身だ)」

 ヒメネスはそう言って笑い、ベンチの端で腕組みをしている監督にも向かってもう一度「俺は不死身だ」と強調する。

「アンタの上司にも、そう言っておいてくれ!」

 ヒメネスの言葉に、監督は灰色の瞳を一度だけ瞬いて頷く。彼は上司にあたるGMや、ハタケヤマら球団幹部たちの言いなりになっていたから、その寡黙な性格も相まって、選手たちからは陰で「パペット(操り人形)」と揶揄されているらしい。

「俺は不死身だ! そして、まだ引退などしない」

 

 ヒメネスはスタッフに支えられながらグラウンドに「あぐら」の格好で腰を下ろし、みんな彼の言葉を聞き逃すまいとして輪が小さくなる。

「今日は『ホワイト・エレファント』の話をしよう」

 そう言って彼は笑みを浮かべ、首から下げた金色の鎖状のネックレスが音もなく揺れる。本物のヒメネスは、俺が想像していたよりも小さかった。横幅はあったが、背は俺より低いかもしれない。

「みんなもう聞き飽きたかもしれないが、今日は新入りがいるからな」

ヒップホップミュージシャンのようにヒメネスは『A’s』のロゴがついた帽子のつばを斜めにして被っている。帽子の下からギョロっと見回してくる視線に、誰もが息をのむ。彼が今日までにメジャーで記録したホームラン数は522本。生涯打率は.302。彼が残した功績の数々が、集まった選手たちを緊張させ、俺の中で、彼の姿を実物よりも遥かに大きくさせていたのかもしれない。

「『ホワイト・エレファント』というのは、ある敵チームの監督がエーズにつけた愛称だ」

 ヒメネスの言う「エーズ」とは、フルネームにすると長くて言いづらい「アスレチックス」の略称であり、愛称だ。そして、ホワイトエレファント(白い象)は空想上の動物で、この世には存在しない。東南アジアなどの一部地域では、ホワイト・エレファントを神秘的な存在として崇める国も存在する。

だが、アメリカ(この国)では、現実に存在しないモノは何ら意味を持たない。実在せず、何の意味も持たないから、この国でホワイト・エレファントは『無用の産物』という意味を持つ。

「『ホワイト・エレファント』は、弱いエーズを揶揄する蔑称だ」

 黄色いつばの下からのぞく眉間にしわが寄り、選手たちを見つめる瞳に力がこもる。黒く太い指が、半そでにプリントされた「白い象」の絵を上からぎゅっと握りしめる。

「だが、エーズは、敢えてこの『ホワイト・エレファント』をチームのシンボルとした。どうしてか分かるか? マイク!」

 ヒメネスに名前を呼ばれて、マイクは怯えた様に首を左右に振る。あこがれ続けた選手が急に目の前に現れたことで、マイクの表情は、緊張のためにまた強張り始めていた。

ヒメネスの、頬まで濃い髭で覆われた口元が緩む。

「俺たちが存在することを、揶揄した連中に示すためだ」

 ヒメネスは半そでを指で引っ張り、ボールに乗った「白い象」をみんなに突き出して見せる。

「『無用の産物』と揶揄された象は、ここに存在している。敵チームが揶揄したエーズは、このメジャーの世界に確かに、存在している。俺たちが『無用の産物』だと? ふざけるな!」

 ヒメネスがつばを飛ばして叫ぶと、サンチェスも「イエア! (そうだ!)」とこたえ、顎の下で拳を握りしめる。エースのサンチェスと、主砲のヒメネスは、トレードが頻繁に行われるメジャーの世界では珍しい「フランチャイズプレイヤー(=一つのチームに在籍し続ける選手)」だった。

「俺たちは勝って、勝ち続けて、エーズがこの世界に確かに存在していることを証明しなければならない」

 そして、ヒメネスはみんなに強く訴えかけようとして、敢えて声のトーンを落とす。

「だが、今のエーズはどうなんだ?」

 頭上から響いてくる歓声や、電子ピアノの爆音に、彼の声がかき消されそうになった。ミーティングの輪がまた小さくなり、俺たちは、タックルの瞬間に備えるアメフト選手のような姿勢になる。

「52勝93敗、アメリカンリーグ西地区・最下位。首位・エンゼルスとのゲーム差は29。ワイルドカード圏外。

今の成績で、お前たちは『エーズは存在している!』と、胸を張って言えるのか?」

 ヒメネスの言葉に、後ろの方からマッケンジーが身を乗り出して「ノー!」と声を張り上げ、チームのエースであるサンチェスの表情が苦々しく歪む。

「勝って、証明してみせろ!」

 ヒメネスの鼓舞に、サンチェスと、顔を赤くしたマッケンジーが同時に「イエア!」とこたえる。

「答えてみろ。エーズは、お前たちは『無用の産物』なのか?」

 ヒメネスの言葉に、隣からマイクが「ノー!」と声を裏返して叫び、右耳が奥でキンと鳴る。

「この試合に勝って、エーズと、お前たちの存在を証明してみせろ!」

 ヒメネスは「お前たち」と言う時、自分の左胸を拳で叩いて見せる。

「いいか!? 俺たちは『無用の産物』なんかじゃない」

 ヒメネスの声と、呼応する選手たちの「イエア!」という声が大きくなる。

「勝って証明しろ!」

 長すぎるミーティングにしびれを切らしたアンパイアが、マスクを外しながらこちらに近づいてくる。

「俺たちはやれる!」

「「イエア!!」」

「勝ち続け、証明してみせろ!」

「「「イエア!!」」」

「レッツゴー!」

 ヒメネスが檄を飛ばし拳を突き上げ、体重100キロ超えの巨体がバランスを崩して倒れる寸前で、後ろからスタッフが二人がかりで何とか支える。ヒメネスの演説に感極まり、拍手やハイタッチを繰り返しながらベンチへと引き返していくアスレチックスの選手たちを、ブレーブスの選手たちは蔑むような薄笑いで見つめている。キャプテンさえ存在しないことが多いアメリカの野球では、やはり珍しい光景なのだ。

「マイク!」

 メジャー初打席へと歩みを進める「背番号8」の大きな背中に、俺は声をかけた。

「マイク! 落ち着いていけよ……」

 しかし、俺の言葉を、マイクは無視した。いや、耳に届いていないのかもしれない。大ビジョンに、球場の放送ブースに招待された少年の姿が映る。高く間延びした声で「プレイ・ボール」を告げ、アンパイアがマウンドを指さし、多くのファンがかざしたスマートフォンのライトが、気持ち悪い魚の柄のようにスタンド全体を覆いつくす。

「レッツゴー、ブレーブス! レッツゴー、バルガス!」

 表裏で応援を交代する日本の野球ファンと違って、メジャーリーグのファンは、相手チームの攻撃中でさえ贔屓チームの名前を叫び続ける。今日最大の声援が満員のスタンドから送られると、まるでグラウンド全体が小刻みに揺れているような感覚に捉われる。ブレーブスのキャッチャーが立ち上がり、右打席に入ったマイクに何か声をかけている。おそらくメジャーデビューを祝福する言葉をかけられているのだろうが、マイクは、マウンドの方をじっと睨んだまま振り返りもしない。表裏が色違いの、分厚い唇が小さく動いて何かをぶつぶつと呟いている。俺はぞっとした。こういう時のマイクは、怖い。

 相手ピッチャーが投じた初球を、マイクは迷うことなく振り抜いた。彼の太い腕が振り抜いたバットの先端が当たったらしく、キャッチャーは立ち上がって一塁ベースへカバーに向かう途中で、バットをぶつけられた左肩の辺りを抑えながらグラウンドにうずくまる。

 ボールはマイクのバットから離れ、俺が瞼を閉じ、開いた瞬間にはもう、レフトの選手が下に向けたグラブの中に収まっていた。超高速のレフト前ヒットに、ショートとサードの選手は定位置から、互いの顔を見合わせるしかなかった。バックスクリーン上のビジョンに「117.2mph(時速188.6キロ)」とマイクの打球速度が表示され、それまで騒がしかったブレーブスファンの歓声が一瞬、静かになる。

「ボールをよこせ!!」

 一塁ベース上からマイクと、ベンチからもアスレチックスの選手たちが身を乗り出してレフトに向かって叫ぶ。メジャー初ヒットのボールは、スタッフの手で初ヒットを証明する刻印が押され、打った本人の手に渡ることになっている。

「さっさとよこせ!!」

 レフトの選手が、聞こえないフリをしてボールをスタンドに投げ込む仕草を見せると、

「ふざけんなクソヤロウ!」

「殺す!!」

「スタンドに投げ込んだら、お前の家とファミリーに火をつけてやるからな!!」

 ヒメネスの演説で興奮した選手たちの鬼気迫る表情と、聞くに堪えない暴言に、レフトの選手はさすがに恐怖を覚えたらしい。「冗談だよ」という風に肩をすくめて見せてから、マイクのメジャー初ヒットのボールを、近づいてきたボールボーイに渡してやる。


 ヒメネスの鼓舞が効いたのか、今日まで4連敗を喫していたアスレチックスの選手たちは躍動した。

一回表の攻撃で打者一巡の猛攻により4点を奪った後、二回表にもさらに2点を加えて、バルガスという先発ピッチャーをマウンドから早々に引きずり下ろした。

「おいおい、明日の試合にとっておけよ」

 いつも貧打に悩まされているアスレチックス打線の爆発に、ベンチ内の定位置に座ったヒメネスが微笑む。彼の定位置は、ホームベースに一番近いポジションに立っている監督とは反対の、外野スタンド寄りのベンチ。監督よりもキャプテンに対する信頼が厚いチームメイトたちは、得点したりホームランを打ってベンチに帰ってくると、ほとんどの選手が監督の方には行かず、真っ先にヒメネスの元に駆け寄ってハイタッチやハグの祝福を受けた。

 かたや、ピッチャーの方は散々で、こちらも3回までに打ち込まれた先発ピッチャーが降板。2番手で出てきたピッチャーも点を取られ、6回裏の時点で、スコアは「13対10」にまで膨れ上がった。


 6回裏、2アウト満塁。ブレーブスの一発逆転を信じたファンたちによるムーブがスタンドから起こる。バックスクリーン上のビジョンに浮かび上がった『BRING DOWN! (振り下ろせ!)』というアルファベットと共に、クラブハウスの入口で俺たちを威嚇していた、インディアンを模したキャラクターが大きな歯をむき出した挑発的な笑みを浮かべて現れる。太鼓を使ったインディアン音楽のリズムに合わせて、ブレーブスファンたちが手にしたトマホークのレプリカや、ライトをつけたスマートフォンで斧を振り下ろす動作を繰り返す、メジャー屈指の応援チャント『トマホークチョップ』。「Ohhhh!!」という地鳴りのような低い歓声と、無数のトマホークやライトが蠢くスタンドの光景は、まるで赤いうろこを持った怪物が、グラウンド上で守備に就いたアスレチックスの選手たちを今まさに飲み込まんとしているかのようだった。

 三者連続フォアボールを出したアスレチックスのピッチャーは、上半身をかがめてキャッチャーのサインを確認しながら、額の汗を腕やユニフォームの生地で何度も拭っている。いつまでもサインが決まらないバッテリーの様子にしびれを切らした監督が、堪らずアンパイアに「タイム」をかけ、ピッチャー交代のためマウンドへ向かう。

「来年には見られなくなるぜ」

「え?」

「この光景のことさ」

 そう言って顎をしゃくったサンチェスの表情は、どこか寂しげだった。

「仕方ねえだろう」

後ろからヒメネスが、太い腕を組んだまま声を上げる。

「レイシズムにあたるって言うんだからさ」

 レイシズム。人種差別。赤い肌をもったキャラクターが赤い斧を何度も振り下ろすムーブは、先住民族であるインディアンを侮辱しているとして批判を浴びた。MLB機構は、来年から『トマホークチョップ』による応援を全面禁止とする通達を出した。

 交代を告げられうな垂れたピッチャーがマウンドから降りていくと、ブレーブスファンたちによる地鳴りのような歓声がさらに大きくなる。赤いうろこのようにうごめくスタンドの光景を、陰で選手たちから「パペット」と揶揄されている監督は、受け取ったボールを手でこねながら、感情の薄い目でじっと見つめている。

「レイシズムなんだろうか、これは」

「レイシズムなんだよ」

 サンチェスの言葉に、被せるようにヒメネスがこたえる。俺は振り返る。彼は、なぜか口元には薄笑いを浮かべていた。

「レイシズムっていうんだから、きっとそうなんだろうよ」

 ヒメネスの言葉に、俺は頷いた。


 7番手でマウンドに上がったピッチャーは、いきなりコントロールミスを犯した。スライダーが抜けて半速球になった初球を、ブレーブスのバッターが見事に捉えた。快音の後、スタンドにぽっかりと空白ができたように一瞬、静かになる。隣でサンチェスが、緑色のジャージを口にくわえ、くぐもった声で「シット!」と叫んだ。

夜空の白い点になったボールは勢いを失い、マイクが守るセンターの後方、インディアンを模したキャラクターが浮かべた挑発的な笑みを真っ二つに引き裂くようにして落ちていく。

 ホームランを確信したファンたちの声が、再び大きくなる。何とかキャッチしようとしてマイクがフェンスの頂点に手をかけ、跳び上がる。フェンスの向こうへめいっぱい伸ばしたグラブの先に、ボールが消えていくように見えた。フェンスの向こうに傾いたマイクの左半身が一瞬消え、スタンドから響いていた「Ohhhh!!」という低い地鳴りのような声援が、甲高い歓声に代わる。

 二塁ベース後方にいるアンパイアの手は、しかし、いつまでも上がらない。フェンス手前に倒れ込んだマイクの元に、心配したアスレチックスの選手たちが駆け寄っていく。スタンドのファンはもうホームランを確信して互いにハグや、プラスチック製のカップが歪むほどの強いチアーズ(乾杯)を繰り返していたが、ランナーはまだ半信半疑の様子で、ダイヤモンドをゆっくりと駆けていく。俺もサンチェスも、ベンチの柵から身を乗り出してマイクの様子を、かたずをのんで見守る。アスレチックスの選手たちが心配してのぞき込んでくる中、マイクは顔を芝生に押し付けたまま、左手にはめたグラブを、高々と上げて見せた。

ウェブの先に引っかかったボールを確認したアンパイアが、拳を突き上げて「アウト」を宣告する。大ビジョンからインディアンを模したキャラクターの映像が消え、先にホームベースに帰っていたブレーブスの選手たちは頭を抱え、スタンドから聞こえていた歓声が、引き裂くような悲鳴に代わる。

「ヒー・ディドゥ・イット! (やりやがったな!)」

 ヒメネスが呟いた。芝生から起き上がったマイクは、チームメイトが差し伸べてくる手を断り、満面の笑みを浮かべて無事をアピールする。

「スィリアス!? (マジかよ!?)」

サンチェスが、嘘のように目を瞬きながら呟いた。

 

 逆転のチャンスが一瞬で失われ、ブレーブスの選手やコーチはがっくりと肩を落としてベンチへと引き揚げていく。ただ一人、ホームランを奪われた主砲だけが、二塁ベースまで到達した時、ヘルメットを外してマイクの方へ突き出して見せる。敵であれファインプレーを称えるメジャーリーガーのサインに、マイクも「A,s」の帽子を掲げてこたえる。


 7回表、アスレチックス打線の猛攻は続き、さらに5点を追加した。


7回裏の攻撃に入る前に、メジャーの全球場共通で行われる『セブンス・イニング・ストレッチ』が始まった。

 電子ピアノによる「テイク・ミー・アウト・トゥ・ザ・ボール・ゲイム」の伴奏が、球場のスピーカーから流れてくる。大ビジョンには、敵味方関係なく肩や腕を組み、陽気に歌い始めるファンたちの様子が映し出される。

酔いで鼻を赤くしたサラリーマン。ヘルメット形のポップコーンの器を手に微笑む少年。互いの身体にもたれ合うカップル。上裸に一文字ずつ、黒いインキで『BRAVES』というアルファベットをペイントした6人組の熱狂的なファン。いきなりマイクが「チァ~ズ!!」と叫びながら、俺の肩に、毒々しい色をしたスポーツドリンクが入ったカップをぶつけてくる。

「おい、マイク!」

 俺は触るとべとべとするスポーツドリンクで濡れたユニフォームの生地を、マイクに摘まんで見せる。しかし、マイクははしゃいだ笑みで「乾杯しようぜ!」と言って、俺に紫色のドリンクが入ったカップを押し付けてくる。

「ワインか?」

「イエス! キム!」

「ほどほどにしておけよ」

 しかし、メジャー初ヒットにホームランキャッチまでやってのけ、すっかり上機嫌になったマイクの耳に俺の忠告は届かなかった。柔らかいカップ同士がぶつかり、歪んだ端から紫色の液体がこぼれ、また俺のユニフォームの裾を濡らす。

「マイク!」

 俺は叫んだが、マイクはもう後ろを振り返って、祝福に訪れたサンチェスと激しいタッチを交わす。マイクが腕を振り下ろす力が強すぎて、利き腕の肩を持って行かれそうになったサンチェスの表情が歪む。

「気をつけろって」

「ヘイ、キム!」

 マイクがコップを勢いよく振り上げた拍子に、紫色の飛沫が、今度は傍にいた監督のユニフォームの肩にかかる。彼は少し肩をすくめるようにして避けたが、目線だけちらとこちらを見つめただけで、その表情はほとんど変わらなかった。

「マイク!」

「キィム!」

 俺が注意しているのにも気づかず、マイクはこちらの首に太い腕を回して強いハグを交わしてくる。ハグというより軽いタックルを食らった感じになり、みぞおちに小さなひびが入ったような痛みが走る。

「キム!」

「何だよ、マイク」

「メジャーなんだね」

「は?」

 首筋に、マイクの生暖かい息がかかる。グラウンドからは『……アウトゥ・ザ・ボール・ゲェム……(野球へ連れてって……)』という陽気なファンたちの大合唱が聞こえ、マイクの広い肩越しに、無数のライトとトマホークが揺らめくスタンドの光景が飛び込んでくる。

「ここがメジャーなんだね」

 俺の肩に顔を埋めながら、マイクは小刻みに震えていた。緊張したり、興奮したり、感極まったり。まったく忙しい奴だな。彼の尻ポケットには、おそらく球場スタッフがメジャー初ヒットの刻印を押してくれたであろうボールが、大切にしまわれている。

「……ドント・ウィン・イッツ・ア・シェイム! (……勝てないなんて、許せない!)」

 ビジョンに映った中年男性が首についた贅肉を震わせ、少年がヘルメット形の器からポップコーンをこぼしながら叫ぶ。

「ワン、トゥー、スリーストライクで、アウト!」

 ハンク・アーロンや、マダックスやジョーンズのユニフォームを着たファンが、「A,s」の帽子を被ったファンが声を裏返し、高く掲げた指先で「1,2,3!」の数字を作りながら叫ぶ。

「そうだよ、マイク」

 端から視界が歪んでいく。泣いたり、興奮したり。俺も忙しい奴になったなと思う。

「ここがメジャーなんだよ」


 8回表、アスレチックスの攻撃。マウンドに上がったブレーブスの選手は、上半身と下半身の連動がぎこちないモーションから、山なりのボールをキャッチャーめがけて投じる。8点差がつき、ブレーブスは本職ではない野手をマウンドに送り出してきた。ほぼ負けが確定した状況では、ピッチャーを温存するために野手を登板させることがある。相手チームは今日の試合の「負け」を認めたことになるが、これはこれで、スタンドは盛り上がる。8点ビハインドのマウンドに上がったプエルトリコ出身の控え選手は、ラテン系特有の陽気な性格で、ブレーブスのムードメーカーらしい。投げるとき肩を大きく揺らしたりおどけた動作を交えながら投じられたボールが、バックスクリーン上のビジョンに「56mph SLIDER」という見たことがないデータを表示させ、ベンチの選手とスタンドのファンから歓声が上がる。

「おい、マイク……」

 サンチェスが声を掛けようとするも届かず、マイクは大股で打席へ向かう。ズボンの尻ポケットは、メジャー初ヒットのボールで膨れ上がっている。

 マウンドに上がった選手はやはり本職ではないので、コントロールが定まらず、なかなかストライクが入らない。2球連続ボールの後、3球目の際どいコースも「ボール」と判定され、厳しいジャッジを下したアンパイアに、ブレーブスのファンと選手たちからブーイングが飛ぶ。

 心配したサンチェスが、柵からさらに上半身を乗り出すようにして叫ぶ。

「ヘイィッ! マイク!」

 しかし、彼の声は、やはり届かなかった。


 4球目。ようやくストライクゾーンに向かってきた遅球を、マイクはフルスウィングした。一目見て、それと分かる一発。振り切ったバットを、マイクはすぐに離して地面に放り投げる。そして、レフトスタンドに吸い込まれていく打球を、味わうように打席から見つめた。ブレーブスの選手がホームランを打った時には、ビジョンにあのインディアンを模したキャラクターが挑発的な笑みを浮かべながら現れ、スタンドは「トマホークチョップ」の律動で満たされる。だが、敵チームの選手がホームランを打った時は地味だ。スコアボードの「7」と「H」の枠内の表示が「1」に代わっただけで、しかも、ここはアスレチックスが本拠地とする「西海岸」とは真反対の「東海岸」の地区なので、スタンドにいる「A,s」のファンは少なく、歓声も小さい。打たれたプエルトリコ出身の選手がマウンドにロジンバックを叩きつけ、敵ベンチから鋭い視線を浴びながらダイヤモンドを一周するマイクの雄たけびは、静まり返った球場によく響いた。


「大丈夫さ」

 報復を心配した俺に、ヒメネスがぽつり呟く。

「Whoooo!」

ホームランを放ちベンチに戻ってきたマイクは、チームメイトたちから祝福のウオーターシャワーならぬ「スポーツドリンク・シャワー」を浴びて絶叫する。「背番号8」の巨体が迫ってくると、激しいハイタッチを警戒したサンチェスが、ベンチの隅の方へ逃げていく。

「報復のデッドボールは、チームの主砲が受けることになっている」

 俺は振り返る。ヒメネスは固定器具を取り付けた右足を放り出すようにしてベンチに座っている。

「YEAH!!」

俺はマイクのハイタッチを、互いの手のひらがぶつかる瞬間、後ろに流すようにして衝撃を逃がす。憧れのヒメネスとは、ハイタッチの代わりに強いハグを交わしてメジャー初ホームランを祝福してもらう。

「ウェル・ダン! マイク!(よくやったぞ! マイク!)」

「サンキュー!」

飛びついてくるマイクの巨体を、ヒメネスはベンチに座ったまま右ひざをかばうようにして抱え込む格好になる。ヒメネスは、チームメイトが試合で行った「侮辱行為」の報復として、右膝にデッドボールを食らったのだった。


 アスレチックス打線はさらにヒットを重ね、4点を追加した。

 マイクに再び打席が回ってくる。誰も口にしなくても、緊張感がアスレチックスのベンチ内にうすい膜のように張っていくのが分かった。9番の選手がライトフェンス直撃の2ベースヒットを放つ。その向こうにあるブルペンで待機していたマッケンジーが、興奮して何かを叫びながらフェンスを駆け上がろうとし、チームメイトやコーチに抱えられてフェンスから引きずり降ろされる。

 7回裏・2アウトの場面で、再びマイクが打席に向かおうとした時、アンパイアが腕時計を指さして「タイムアウト」を宣告する。相手チームの監督がマウンドに上がって、野手ながら登板してくれたプエルトリコ出身の選手の背中を叩き、ねぎらいの言葉をかけながらボールを受け取る。彼はボールを渡してマウンドから降りていく時、乱視矯正用メガネの奥からマイクをじっと、睨んだように見えた。

 7回裏からの攻撃で、アスレチックスの選手たちは8本ものヒットを浴びせた。しかし、ホームランを打ったのはマイクだけだった。大差がついた状況でのバントや、ホームラン狙いのフルスウィングは、すでに負けを認めた相手に追い打ちをかける「侮辱行為」として、メジャーでは報復の対象となる。

次にマウンドを託されたのは「防御率3.76」を記録する本職のピッチャーで、12点もの差が開いた状況での登板は、あまりに不自然なタイミングだった。

「上手く避けろよ……」

 サンチェスが擦り合わせた指を唇に当て、祈るようにグラウンドを見つめる。

「大丈夫だ」

 後ろからヒメネスが呟く。

「当てるならケツだ。頭とか指とか、当てたら怪我をするような部位にぶつけることはしないだろう」

 さっきと言っていることが違うじゃないですか。そう言おうと、後ろを振り返った時だった。右足を怪我したヒメネス以外の選手やコーチが全員、ベンチの最前列までぞろぞろと出てくる。ある者はマウンドに立つピッチャーをじっと睨みつけ、ある者はグラウンドへと続く段差に片足をかけ、何かあったらすぐに飛び出すことが出来るよう身構えている。

 アンパイアがマウンドを指さしてプレーが再開する。ミットを突き出すように構えたキャッチャーが、インコースにゆっくりと、にじり寄っていく。右打席でバットを構えたマイクは、左足の踵を上げたり、下げたり小刻みに動かすことでリズムをとり続けている。こんなことに意味があるのだろうか。左足のリズムの取り方で、俺にはマイクのバッティングの調子が大体わかるようになっていた。相手ピッチャーの伸び切った人差し指と、中指の間からボールが離れる瞬間、スタンドの照明と重なって俺は思わず目をつむる。瞼の裏側に白いひし形のような残像がいくつも浮かび上がり、固いもの同士がぶつかる音と、スタンドの悲鳴と、歓声が木霊して、みぞおちの辺りから吐き気がこみあげてくる。こんなことに意味があるのだろうか?

 瞼を開く。マイクの巨体がグラウンドに崩れ落ち、彼の頭上に高く打ちあがったボールが勢いを無くし、ゆっくりと落下していく。

「行ってこい! お前たち!」

 ヒメネスの怒声に背中を押されたアスレチックスの選手たちが「ファッ・キュー!」とか「シット!」とか「キル・ユー」とか「アス・ファック!」とか、あらゆる憎悪を込めた言葉を叫びながらグラウンドへ飛び出していく。ライトフェンス側にあるブルペンからも、緑色のユニフォームを着た選手たちが次々に飛び出してくる。顔を真っ赤にしたマッケンジーが、チームメイトの身体を押しのけるようにして真っ先にマウンドへ駆け寄る。

「なにボオっとしてやがる!」

 ヒメネスが振り回した松葉づえの先端が、俺の頭上を掠める。

「ケツを蹴られたいのか!? キム!」

俺は慌ててベンチの柵を飛び越えた勢いで、大きく前のめりになる。その勢いで、顔をヒマワリの種まみれになった地面に打ちつけそうになった。スタンドからは怒声と、無数の白い紙くずのようなモノが投げ込まれ、グラウンド上ではすでに屈強な男たちの揉み合いが始まっている。

「マイク!」

俺が叫びながら駆け寄ると、先に駆けつけていたサンチェスがすぼめた唇の前に人差し指を立てる。うつぶせに倒れたマイクは、チリチリの毛で覆われた頭を抱え、スパイクを履いた両足をパタパタとさせて痛みに耐えている。

「ノー・プロブレムだ、マイク」

 サンチェスは、汗で黒光りしたマイクの耳元に向かって囁く。俺は乱闘の渦からマイクを守るように、横たわった大木のように太くて固い上半身を抱え込む。

「ボールは頭に当たったが、大きく弾んだ。直撃はしていない」

 サンチェスはマイクを痛みや恐怖で混乱させないよう、敢えてトーンを落とした声で語りかける。

「ノー・プロブレムだ」

 

 アンパイアがブレーブスの監督とピッチャー、それに乱闘に加わった両チームの選手数名にも退場を命じ、マイクが担架で運ばれていく間も、サンチェスはずっとそばに付き添い、彼の耳元に語りかけ続けた。

「マイク。お前は確か、フロリダの出身だったな」

 サンチェスの語りかけにも、マイクは顔を両手のひらで覆ったままで全く反応しない。本当に、ノープロブレムなのだろうか?俺はマイクの足元の方に付き添いながら、二人の様子をじっと見守っている。

「俺はサーフィンの趣味もあってな。フロリダはいい波がくるビーチがあると聞いたよ。今度、紹介してくれよ。なあ、マイク」

 あまりに近くに寄るので「搬送の邪魔だ!」と振り返ったスタッフを、サンチェスは無視して語り続ける。左手のひらはマイクの頭を触り、右手は首から下げたロザリオをぎゅっと握りしめている。

「なあ、マイク」

 口ひげを生やした唇には、かすかな笑みさえ湛えている。彼の声を聞いていると、こんな時だというのに、俺は軽い眠気さえ感じ始めていた。

「キム!」

 マイクをのせた担架と共に、俺はベンチ裏にある医務室へ向かおうとした時、横から黒人の太い指にユニフォームの袖を掴まれ、引き戻される。

「どこへ行くつもりだ? キム」

 ヒメネスが右脇には松葉杖を抱え、呆れたように首を傾げながら俺を見つめている。

「どこって、医務室まで付き添って……」

「出番だ」

 ヒメネスが告げる。監督が振り返り、色素の薄い灰色の瞳で俺を見つめている。

「デビューだよ、キム」

 ヒメネスが左手で掴んだグラブを、俺の胸に押し付けてくる。左半身に照り付けてくるスタンドの光が眩しく、俺の全身から血の気が引いていくのが分かった。ヒメネスの濃いひげで覆われた口元に、白い歯がゆっくりと浮かび上がる。


 乱闘の余韻が残るグラウンドを駆けていく時、俺は外野全体に視線を巡らせ、芝生のどこかに穴が空いていないか、注意深く確かめる。マイナー球場の芝生は状態が悪く、穴につまずいて転び、その怪我が原因で引退を余儀なくされたチームメイトもいたほどだ。

だが、ここはメジャーだ。グラウンドを覆う芝生は一定の長さで刈り揃えられ、見渡す限り美しい緑色が広がっている。ホームチームが大差で負けている状況ではあったが、メジャーであれそうお目にかかれない乱闘を目撃した興奮と、球場に流れるラテン系音楽のリズムにスタンドのファンたちのテンションは最高潮にまで達している。

「ヘイ! ベイビー・ボウイ!?」

 プレーが始まるまで、ライトの守備に就いた俺は相手バッターのデータが書かれたメモを何度も読み返したが、スタンドからのヤジがうるさすぎて上手く頭に入ってこない。

「聞こえてんだろう? ベイビー!」

 アメリカ人から見ると、アジア系人種の顔立ちは幼く見えるという。俺は諦めて、データが書かれたメモを折り畳みユニフォームの尻ポケットにしまう。

「ヘイィッ!! 粗チン野郎!!」

 その時、バッターが放ったボールがぐんぐん伸びてきて、俺はヤジの方向を振り返る恰好になった。下品なヤジを浴びせてくるのは、ビールで顔を真っ赤にした白人の中年男性だった。フェンスに到達したボールをグラブですくい上げた時、そいつが振りかざしたカップの中身が、俺のユニフォームの肩にかかる。

「キム!」

 プレーが終わり、ライトフェンスの方へにじり寄ろうとした俺の肩を、センターを守っていたチームメイトがとっさに掴んで引き留めた。

「気にするな、キム」

「……オーケー」

 チームメイトの言葉に、俺は唇をすぼめ、ゆっくりと、長い息を吐いてからこたえる。


 2番バッターの打球が、夜空に高く舞う。

「ドロップ・イット! (落とせ!)」

 さっき俺にビールを浴びせた中年男性が怒鳴り、取り巻きから高笑いが起こる。俺は打球から一度目を離し、態勢を低くしてスタートの構えを見せた2塁ランナーの姿を視界に捉える。

「「ドロップ・イット! (落とせ!)」」

 打球が勢いを失い、視界の中で白い円が、大きくなっていく。落下予想地点から俺は二、三歩後ずさりし、三塁ベースへの送球に備える。

「「「ドロップ・イット! (落とせ!)」」」

 ヤジがスタンド全体に広がっていく。声の大きさは、閑散としたマイナー球場の比ではない。プレーに意識を集中させるのが難しいとさえ感じる。

「「「「ドロップ・イット! (落とせ!)」」」」

 マイナー球場のヤジが背中を打ち抜く「弾丸」だとしたら、メジャー(ここ)のそれは「エア・シャワー」のようだ。強い風圧に全身が圧迫され、声を出すことはおろか、息をすることさえ苦しく感じられる。

 俺の視界の中で、ボールがさらに大きくなる。

「「「「「ドロップ・イット! (落とせ!)」」」」」

 怒ってはダメだ。俺はすぼめた唇の間から長い息を吐きだしてから、スタートを切る。ふくらはぎとアキレス腱に、程よい負荷がかかる。

「「「「「「ドロップ・イット! (落とせ!)」」」」」」

 俺がフライを難なくキャッチしてからもヤジは続く。

「「「「「「「叩きつけろ!!!」」」」」」」


 ボールを叩きつけろ、という意味だろう。俺がキャッチした瞬間、二塁ランナーがスタートを切る。

 俺は高校時代、監督の方針でトレーニングに座禅を取り入れたことがあった。選手全員が輪になって座禅を組み、雑念がよぎって少しでも身体が揺れたり、居眠りでもしようものなら、僧侶が手にした太い割りばしのような棒で、肩や背中をぶっ叩かれるのだ。


 叩きつけろ!!!!


 僧侶に棒でぶっ叩かれないためには、雑念を捨て、心を「無」にする必要があった。


 叩きつけろ!!!!

 

座禅のトレーニングで、真っ先にぶっ叩かれたのはタカヒロだった。


 叩きつけろ!!!!


 監督だけでなく僧侶にまで怒られた幼馴染の表情を思い出す。ランナーはもう、二塁ベースと三塁ベースのちょうど中間地点くらいにまで到達している。ボールが立てた二本の指に引っ付くように感じられた。坊主頭を掻きながらタカヒロは、上唇を尖らせる。俺は右腕を振り切り、指先からボールが離れていく。思わず笑みが零れた。


 三塁コーチが両腕を大きく掻くような動作を見せ、ランナーに早く滑り込むよう合図を送る。ボールは、駆けていくランナーの僅かに横の土を跳ねて追い越す。ボールをキャッチし、ベース手前にかざされたグラブに、ランナーの右足が吸い込まれていくように見えた。

 アンパイアが右拳を突き上げると一瞬、スタンドのヤジが止んだ。そして、ため息とともに再び沸き起こったヤジは「鈍足!」とか「死ね! 豚野郎!!」とか、アウトになったブレーブスのランナーに向けられる。

「やるな! ベイビー・ボウイ!」

 さっきの中年男性の声だった。俺は感謝を込めて帽子のつばに指を当て、低いライトフェンスの方を振り返った。

「ファッ・キュー!!」

 今度は顔の真横で中指を立て、俺に向かって長い舌を出して見せてくる。取り巻きの連中がまた腹を抱えて笑い、俺は帽子のつばにやった手を離し、舌を打つ。

「無視しろって!」

 センターを守っていたチームメイトが俺の肩に腕を回し、みぞおちの辺りを拳で軽く小突いてくる。

「ファッキン・グッド! キム!」



 試合が終わり、医務室から出てきたマイクは何ともない様子だった。

「あのライトからの送球はヤバかったよ! キム! 君の肩には、バズーカが搭載されているのかい?」

 マイクはベンチ裏のスペースに置かれているテレビから、俺のプレーを見ていたらしい。俺たちは右手のひらでがっちりと握手を交わし、左手のひらで肩甲骨の辺りを叩き合って互いの健闘を称える。

「俺は高校までピッチャーをやっていたから、肩は強い方なんだ」

「リアリィ!? (マジかよ!?)」

「大丈夫なのか?」

 俺が自分の側頭部を指さして見せると、マイクは傍のテーブルに置かれたままになっている5枚のトランプを掴んで俺に示す。

「これはフラッシュだ」

 彼が示した手札は、絵柄はないが「ダイヤ」のカードで占められている。さらに、向かいに置かれた5枚のトランプも開いて見せる。

「2ペアだ」

 5枚の手札のうち「クイーン」と「8」のカードがそれぞれ2枚ずつある。

「この通りさ。思考も視界もハッキリしているし、何ともないよ」

「念のため、これから病院へ行って精密検査を受ける予定だ」

 サンチェスと、監督が医務室から出てくる。

「マイク。さっさと準備しろ」

「ノー!」

 サンチェスが伸ばした手を、マイクは身体を大げさによじらせて避ける。

「球団付きの医師はさっき『多分、問題無いだろう』って言っていたじゃないか!」

「病院へ行くんだ、マイク。これは命令だ」

 監督がそう告げると、マイクは呆れたように肩を大きくすくめて見せる。

「貴方ではなく、貴方の上司がそう言っているんだろう?」

「マイク!」

「監督! アンタの口はスピーカーだ!」

 マイクは駄々をこね、テーブルの周りをぐるぐると歩き始める。その後を、サンチェスが追いながら説得しようと試みる。

「だから念のためだよ、マイク」

「ノー!」

 駄々をこねるマイクと、その後を小姑のようについて回るサンチェスの姿を、周りでチームメイトたちはユニフォームから私服に着替えながら、呆れた苦笑いで見つめている。

「検査だから、注射は無いって」

 サンチェスがそう言っておどけると、マイクは急に立ち止まって、後ろを振り返る。

「サンチェス!」

 じっと見下ろすマイクの形相に、一瞬、俺の中で心拍数が跳ね上がる。ボーンのすぐ横のベンチに叩きつけられたマイクバットが、粉々に砕け散ったマイナー球場の光景が脳裏に蘇ってくる。そういう情報は、このアスレチックスにも共有されているのかもしれない。周りで見ていたチームメイトたちも着替える手を止め、クラブハウス内に緊張が走る。

「リアリィ?」

「は?」

 サンチェスがぽかんとした表情で、目を瞬く。

「注射がないって、本当?」

 定位置の、一番奥のロッカーから見ていたヒメネスが小さく噴き出す。しかし、サンチェスを見つめるマイクの目はマジだった。

「注射は無い……んじゃないか? 多分」

「じゃあ、ノーだ!!」

 マイクは顔をしかめ、再びテーブルの周りを大股で歩き始める。俺の隣で着替えていたチームメイトが「ベイビーかよ」と呟く。俺はさっきから、マイクのチリチリ毛の間に挟まっている紙吹雪のようなモノが気になっていた。グラウンドから担架で運び出される時、スタンドから投げ込まれたモノがくっついたのだろうか。

「君が病院へ行かないというのなら」

 二人の様子を見つめていた監督が、落ち着いた声で切り出す。

「明日の試合に、君を出場させることはできない」

 その言葉に、マイクはテーブルを周回する足を止める。

「それも、貴方の上司からの指示か?」

 また悪態をつき強がって見せるも、今度は、監督を睨みつける瞳の光は弱い。

「貴方に指示しているのは誰なんだ? あのハタケヤマとかいうチビか? それともジャックか? それとも……」

 しかし、監督の表情は変わらない。感情のわかりづらい灰色の瞳でじっと、マイクを見つめ続ける。彼はいつも物静かで、選手たちからは陰で「パペット」と呼ばれて蔑まれていた。だが、彼が発した言葉は、190センチ・100キロを超えるマイクの巨体を、一瞬でフリーズさせるほどの威力を持っていた。

 マイクはうな垂れ、観念したように腰の横で両手のひらを広げて見せる。だが、それまでにぎやかだったロッカールームには、相変わらず気まずい空気が覆っている。監督が告げた「君を試合に出場させることはできない」という言葉は、報復のデッドボールや、乱闘さえ恐れない屈強な男たちをも沈黙させるほどの重みを持っていた。

 うな垂れているマイクの元に、俺は近づく。彼の肩に触れようとして、チリチリ髪の間に挟まった紙くずのことを思い出した。「病院へ行くぞ。準備しろ、マイク」サンチェスがそう言うと、今度は幼い子供のように素直に頷く。彼の頭についた紙くずを取ってやろうと、俺が右手の指を伸ばした時だった。

「Wow!」

 俺の指が視界の隅を横切った瞬間、マイクは猛毒を持った蜂にでも襲われたかのように、身体を大きくビクンと震わせ、とっさに頭を抱える。

 え……?死角から俺の指が現れたとはいえ、あまりに大げさなリアクションに、みんな驚き、振り返ったチームメイトたちに変な空気が流れる。頭を抱えながら振り返ったマイクの瞳と、俺は視線が合う。うっすら濡れた瞳を、ゆっくりと瞬く。この中で一番驚いているのは、マイク自身のようだった。



 結局、病院での検査結果も異常はなく、マイクは翌日の試合でも「一番・センター」としてラインナップに名を連ねた。

 第一打席の初球。ややインコース寄りにすっぽ抜けてきたスライダーを、マイクは大げさに腰を引いて避けた。避けた勢いでマイクは尻餅をついたが、アンパイアの拳が上がり「ストライク」が宣告される。

 2球目も、ど真ん中のスライダーを見逃し。2ストライクから、今度はアウトコース寄りに投じられたスライダーを、マイクは腰を引いたまま力のないスウィングで空振りした。


「そんなに凄い変化だったのか?」

 ネクストバッターズサークルで控えていた2番バッターがそう聞いたが、マイクは「分からない」という風に首を振って見せる。ベンチに戻ってくるとマイクは、俺が差し出した手のひらも無視して、ベンチ奥のスペースに下がっていった。

 嫌な予感が、俺の身体を膜のように覆った。


 まるで一つのフィルムが巻き戻され、再生され、また巻き戻されるように、打席に立ったマイクは同じような三振を繰り返した。

インコース寄りのボールは腰を引きながら見逃し、アウトコース寄りのボールには踏み込めず、あっさり空振り。昨日の試合でマイクは、早くも相手チームに「速球に強く、変化球に弱い」という特徴を見抜かれたのかもしれない。

だが、それにしても今の姿は、俺の目に異常に映った。本当は脳に何かしらの障害が残っていて、球団付きの医師も、病院の医師もそれを見逃していたのではないか?打席内で腰を引き、力ないスウィングを繰り返すマイクの姿を見ていると、そんな風にさえ思えた。

「打席の中で足を踏ん張るんだ! マイク」

 ベンチに戻ってくるとうな垂れるマイクの傍に、サンチェスが座って檄を飛ばす。

「そんなへっぴり腰じゃ、バットにボールは当たらないぞ」

 しかし、頭を抱えたマイクの耳には届かなかった。

 

 結局、マイクはその日に回ってきた5打席すべてで三振を喫した。

 試合が終わり、ベンチに戻ってきてもマイクは誰とも口をきかず、ロッカールームでは自分だけさっさと着替えて球場を後にしてしまった。その姿を見た時、俺の脳裏に、ある予感がよぎった。

マイナーリーグの厳しい生存競争を勝ち残り、シャツについたコーヒーのシミのように、その感覚は、俺の身体の中心を貫く骨の髄にまですっかり染み込んでいた。遠くで鳴るサイレンのように、俺の脳裏にひしひしと訴えかけていた。


だが、俺の予感は外れた。

監督は、マイクを次の日の試合でも「一番・センター」で起用した。


 ロッカールームに集まり監督の発表を聞きながら、俺は歯がゆかった。上司に操られているんですか?俺はそう、彼の顔のすぐ横まで近づていって囁いてやりたかった。彼は試合の途中でもよく、ベンチ裏に広がるスペースに姿を消すことがあった。GMや、ハタケヤマら幹部連中の指示がベンチ裏に設置された電話を介して伝えられているのかもしれない。GMら背広組の連中と、選手の間に挟まれた監督は「ミドル・マネージャー(中間管理職)」という言葉で表現されることもある。

そう言えば、マイクのメジャー昇格を進言したのは、あのジャックとかいう青い瞳を持った青年だったらしい。歳はジャックの方がはるかに年下だが、監督から見ればジャックも上司にあたる。監督は、あのジャックがアイパットから飛ばした電磁波か信号のようなモノを受け取って、頭を操られているのかもしれない。

 試合が始まると、監督は米粒みたいに小さなガムをいくつか細長いケースからまとめて取り出して、ひっきりなしに口へ運ぶ。口の周りの筋肉だけを動かしてガムを噛み続けながら、彼はベンチ裏の電話が鳴り上司からの指示がなければ、攻撃のサインを出すことも、不振に陥ったピッチャーの交代を告げることもしない。昨日も今日も、ずっとベンチに腰かけたまま俺は、真新しいズボンの上で拳を握りしめた。

監督。貴方には、自分の意志というものが無いのですか?


「ファック……!!」

 第一打席でまたも力ないスウィングの三振を喫して帰ってくると、マイクはバットをベンチの壁に思い切り、何度も叩きつけて粉々に破壊し、怪我を恐れたチームメイトたちは彼の傍を離れていく。昨夜は隣に座ってアドバイスを送っていたサンチェスも、今日はそっぽを向いている。頭を抱えて座るマイクの周りには、まるで見えないバリアでも張り巡らされているかのように、もう誰も近づく者はいなくなっていた。


 9回表、アスレチックスの攻撃が始まる前、監督がベンチ裏のスペースに姿を消す。次はマイクの打順だった。

スコアは4対5で、1点ビハインドの状況。スタンドの照明が突然、消える。黒く塗りつぶされたグラウンドに、厳かな鐘の音が響く。そして、レフトフェンスの一点を、一筋の明かりが浮かび上がらせる。左脇にグラブを抱えたブレーブスのクローザーが、ゆっくりと、マウンドに向かって歩みを進める。照明はスポットライトのようになって彼の姿を追いかけ、次第に早まっていく彼の歩調に合わせるかのように、ブレーブスファンたちの歓声が、雨が上がりに地の底から這い出てきた小さな虫のように、スタンドから湧き上がってくる。

「キム」

 後ろから声がして、俺は振り返る。再びベンチに現れた監督の顔が、真っ赤に染まっている。スタンドの照明が、今度はグラウンドを赤く照らし出し、パンク音楽の激しいBGMを背にブレーブスのクローザーがマウンドに上がる。

「出番だ。キム」

 マウンドではブレーブスで長年クローザーを務めているピッチャーが淡々と、ピッチング練習を繰り返している。ラッパーの低い声が『お前は終わりだ』とか『地獄に叩き落す』とかいう歌詞を口ずさみ、ファンたちの引き裂くような歓声が、赤と白の点滅を繰り返すスタンドに木霊している。その激しいリズムが特徴のBGMは『ユア・フィニッシュドゥ(お前は終わりだ)』という題名のパンク音楽で、この国の若者の間で人気の曲だった。マイナーリーグ球場のロッカールームでもよく流れていた。

 サイドスローに近い角度から放たれ、伸びあがるようにキャッチャーミットに収まるボールの軌道を、俺は点滅を繰り返すネクストバッターズサークルからじっと、見つめる。今度はホームベース手前で急激に曲がり落ちるスライダー。ベンチで今も頭を抱えているであろうマイクの姿は、振り返らなかった。


 俺が打席に向かうと、球場全体をカラフルに染めていた照明が元の白に戻る。あらゆる場所に設置されたスクリーンに「GET ROUD(叫べ!)」のアルファベットが踊り、満員のスタンドからは今日一番の歓声が起こる。俺は本物の球場というよりも、野球盤のグラウンドに落っこちてしまったような気分だった。相手ピッチャーは、敵を威嚇する肉食獣のように、態勢を極端に低く保ち、キャッチャーから送られるサインをじっとのぞき込む。サインを確認したセカンドとショートの選手が、ややファーストベース寄りに守備位置をシフトし、ファーストとサードの選手は、内野安打を警戒してベースのほぼ真横のポジションでグラブを構える。そういう光景を、俺は泡立ったつばやヒマワリの種でまみれた打席に立ちながらぼんやりと見つめている。

後ろに立ったアンパイアから「プレイ!」の声がかかる。ピッチャーが投球モーションに入り、大きくしなやかな太ももの筋肉の躍動が、ズボンの生地の上からでもよく見てとれる。そういう光景を、俺はまだぼんやりとした意識のまま見つめている。ほぼサイドスローの角度から放たれたボールは、ヤスリがあらゆるカドを削り取るような鋭い音を立てながら俺の視界の中で白く、大きくなっていく。スタンドに無数のライトが揺らめき、歓声が一瞬、遠ざかる。あこがれ続けた舞台はあまりに眩しくて、現実味が無かった。

 投じられた初球はスクリーンに「95mph」と表示され、球速だけ見れば、決して早いとは言えない部類のストレートだった。しかし、キャッチャーが突き出したミットにボールが収まった時、俺はまだ後頭部付近にテイクバックしたバットを、始動しはじめたところだった。

アンパイアが「1ストライク」を宣告し、アスレチックスベンチからゲキが飛ぶ。

「バットを振れ! キム!」

 最前列から身を乗り出したサンチェスが口に手を当て、顔全体を歪めるようにして叫んでいる。

「振らなきゃ当たらないぞ!」

 まるで少年野球だな。テイクバックしたバットを振り始めながら、俺は思わず笑みが零れてしまう。初速と終速の差が極端に少なく、伸びあがるような軌道から「ライジング・ストレート」とも形容されるボールに、俺が振り下ろしたバットは呆気なく空を切る。まるで野球盤だな。相手ピッチャーのボールは、伸びあがる「ライジング・ストレート」というよりも、突然開いた地面にボールが落ちてなくなる「消える魔球」のようだった。見たことがない軌道のボールに、俺は自分の振ったバットがボールの上を通過したのか、それとも下を通過したのかさえ理解できていない。打席の中で大きく態勢を崩した俺の姿を見て、バッテリーの間ですぐに3球目のサインが決まった。

3球目は、外角のコースへ大きく逸れていくスライダー。俺のバットは、力なく空を切った。


 

「面白いドラマは一瞬なのさ」

 ホテルのラウンジで、待合の椅子に腰かけたチームメイトたちは最近話題のドラマについて話し合っている。ヒメネスは肘付き椅子から右足を投げ出すように座り、ドラマの最終回を惜しむチームメイトたちに向かって語り掛ける。

「ぼうっとしていたら、一瞬で終わっちまうのさ」

 階上から俺たちの荷物を背負ったスタッフが降りてくると、ラウンジに集まったコーチや選手たちの列が動き出す。これから西海岸にあるアスレチックスの本拠地に戻り、また新たな戦いが始まる。

「マイクが」

 列の最後尾から、俺は思わず叫んだ。

「まだマイクが来ていない」

 俺が言うと、一斉に振り返ったチームメイトたちの中からサンチェスが褐色の顔をぬっと突き出す。

「キム」

「まだ部屋にいるのかもしれない」

「そうかもな」

 サンチェスはもう関心がなさそうに、視線を逸らせて呟く。

「迎えに行ってくる」

「ストップ! キム」

 サンチェスの怒声が、俺の身体を貫く。アスレチックスの選手やコーチやスタッフも、全員が帰路へ向かう足を止めた。

「やめておけ、キム」

サンチェスの声が低く、諭すように俺に告げる。しかし、俺は無視して、階上の部屋へと続く段差を駆け上がった。



 ドアをノックし、返事も聞かず中へ入った時、マイクは、床に下ろしたバックパックに最後の荷物をしまうところだった。

「遅いぞ、マイク」

 俺が言うと、見上げたマイクは丸くした目を瞬いた。

「もう出発しちまうよ」

「ああ、キム。でも」

 分厚い唇がめくれて、裏側のピンク色が露になる。

「僕たちはもう、行き先が違うから」

「は?」

「リリースされたんだ」

 マイクは「リリース(クビ)」という言葉を、多分わざと、軽い感じで言った。何も言えない俺に気を遣って、マイクは笑みさえ浮かべて見せる。

 後ろのドアがノックされる。サンチェスが、険しい表情でそこに立っている。

「もう時間なのか?」

 俺が言うと、サンチェスは一瞬、俺の背後に視線を向けてからこたえる。

「ノー」

「え?」

「空港へ向かうバスが、エンジントラブルを起こしたみたいなんだ」

 エンジントラブル?そう聞き返そうとした俺の眼前に、サンチェスは五本の指を立てて見せる。

「5分だ」

 指の間から、俺の目をじっと見つめてくる。

「修理にかかる時間は、それ以上はかからない」

 そう告げてサンチェスは、チームメイトたちが待つ階下のラウンジへ戻っていった。



 俺は、マイクが最後にしまおうとしていたルービックキューブのような形をした荷物を取り上げる。

「なにするんだ!」

 マイクは反射的に声を上げ、座っていたベッドから立ち上がる。人生で最も大切なモノを取り上げられたのだから、例え相手が友人でも、怒るのは当然かもしれない。俺はルービックキューブのような形をしたガラスケースの中にしまわれた、メジャー初ヒットのボールを照明に照らして、じっと眺める。

「羨ましいな」

 マイクはずっと握っていたのか、ガラスケースは表面が生暖かくなっていた。

「俺はまだ持っていないから」

「君もすぐ手に入れるさ。キム」

 俺は振り返る。

「そして、いずれクーパーズタウンに送られることになるよ」

 クーパーズタウン。アメリカ野球殿堂博物館。そこには3000本安打や300勝のように圧倒的な成績を残した名選手のレリーフや、記念ボールなどが展示されている。俺はマイクのシャツの胸に、メジャー初ヒットのボールが大事にしまわれたケースを返す。

「君のもだろ、マイク」

「僕はいいんだ」

 マイクは再び手にしたケースをじっと、見つめる。その表情は、まるで一番好きなおもちゃを手にした子供のようだった。

「僕はもう、これで満足しているんだ」

「マイク」

「満足してしまったんだ」

 そう言って彼が浮かべた笑みからは、これまでにこびりついたあらゆる垢のようなモノが剥がれ落ちたかのように、スッキリとしていた。

「やっと解放される」

 同じ場所を潜り抜けてきたから、分かる。引き留めることなど出来なかった。

「これからどうするんだ? マイク」

「とりあえずフロリダの実家に帰るよ」

 そう言うとマイクは、両足を肩幅の広さに開き、腰を低く落として見せる。

「僕はフロリダ生まれなのに、実はサーフィンをしたことがないんだ。帰ったら挑戦してみようかな?」

「今の季節は、クラゲが出るからヤバいだろ」

「ああ、そうか!」

 そう言ってマイクは笑い、俺もようやく、強張っていた顔の筋肉が少しずつ緩んでいくのを感じた。

「やっとだね」

「え?」

「君が打席に立つ度に、僕は『失敗しろ!』って心の内で願っていたんだよ」

 俺を見つめるマイクの笑みが、緩む。

「君のところに打球が飛ぶたびに『落とせ!』って願ってた。キャッチしたらボールを『叩きつけろ!』って願ってた。君が失敗したら、その分だけ、僕にチャンスが巡ってくるからね」

 俺も同じだよ、マイク!

俺は腹の底から、喉がもう引きちぎれん勢いで叫びたかった。


俺もずっと、お前の失敗を願っていた。


お前がホームランを打ったら、俺の胸は締め付けられたように痛んだ。その分だけ、俺が夢の舞台から遠ざかることになったから。


お前が三振を喫したら、俺は心の内で密かにガッツポーズしていた。その分だけ、俺は出場の機会が与えられ、また夢の舞台に一歩近づくことが出来たから。


そんな自分が嫌だった。

ずっと、苦しかったんだ。


……しかし、肝心の言葉が、喉の奥から出てこない。


「やっとだね」

 マイクがそう呟いた時、俺は思わず視線を足元に落としてしまった。彼の目から零れ落ちたモノを、俺はまともに見ることが出来なかった。

「やっと、本当の友達になれる」

 その時、後ろのドアが再びノックされる。もう5分が経ったのだろうか。しかし、じっと立ったまま動こうとしない俺を促すように、サンチェスの咳払いが聞こえてくる。

「時間だよ、キム」

 俺はようやく顔を上げる。視界が大きく歪んでしまい、マイクの顔が、黒い大きなマメのようにしか見えない。

「さあ、行くんだ。キム」

 ぼやけた視界から、マイクの声が聞こえてくる。そして、俺の半そでから伸びた腕に、マイクの指がそっと触れる。表と裏の色が違う手のひらは、しっとりしている。

「レッツゴー!」

 ぼやけた視界の中で、マイクが叫んだ。

「レッツゴー! キム!」


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