表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
the game  作者: moshiro
2/5

2.イーストサンフランシスコ球場・3連戦 (マイナー)

2.イーストサンフランシスコ球場・3連戦 (マイナー)


 俺とタカヒロは、目の前を流れる川に向かって平たい小石を同時に投げる。

 俺の石は7月の陽光を反射してキラキラと輝く川面を何度も跳ねたが、タカヒロのそれは、たったの2度跳ねただけで、すぐに黒い川面の下に引きずり込まれていった。


 へったくそだなー!

 

 俺はまだ小さい手のひらを叩いて笑った。タカヒロは、汗の黒いシミが浮かんだシャツの襟で、すぼめた唇の先を拭った。その目はじっと、黒い川面を睨みつけていた。


                        ※

                        ※

                        ※


 衝撃で、身体が一瞬宙に浮き上がる。同時に腰に軋むような痛みが走って、俺は目を覚ます。ホームタウンから次戦が行われる球場へ向かうバスは、衝撃を吸収するはずのスプリングが馬鹿になっているらしい。道路のちょっとした段差でも、踏み越える度に生地がうすい椅子を通して衝撃がモロに身体に伝わってくる。頭をもたれかけていたガラス窓にぶつけ、後ろから舌打ちの音がする。

「3カード!」

 いつものメンバーが、車内で一つだけ空いた補助席を宅にして駆けポーカーをやっている。勝負が決すると、彼らは屈強な身体を縮こませて通路に出した補助席と、背もたれがある席を交換している。もう賭ける金も食料もない彼らは、ホームタウンから10時間にも及ぶバス移動の座席を賭けているようだ。俺の横では、マイクが胸にバットとグラブを抱え、口を半開きにして寝呆けており、唇の色の変わり目から涎が零れ落ちかけている。俺とマイクは、大体2時間おきに通路側の席と、窓側の席を交替して座っていた。窓側の方が、窓ガラスに頭をもたれることが出来る分、寝やすい。

だが、マイナー球団が用意したボロいバスの中で最もグレードの高い席は、窓側の席ではない。車内でも前方の通路には補助席がなくて、空いた通路に若手ピッチャーのマッケンジーが新聞紙を敷いてうつ伏せに寝転んでいる。まるで浮浪者が倒れた廃ビルの根元のようなその場所こそが、このバスの中で最もグレードの高い席だった。

手足を伸ばせるからだ。いくら窓やシートに寄りかかれたとしても、椅子に座っている限り俺たちは手足を伸ばすことができない。数時間も同じ態勢のままでいると、腰や首や手足の関節が軋んだように痛み始める。またバスが段差を乗り越えて、自前のバリカンでやっているのかいびつに刈り上げられた茶髪がどんと跳ね上がっても、マッケンジーは一向に目を覚まさない。若手とかベテランに関係なく、その特等席は次戦の先発ピッチャーに与えられるのがチームの中で暗黙の了解となっていた。5日に1回のローテーションで登板する先発ピッチャーは、特に体調管理には気を遣わなければならない。

以前、その特等席をポーカーで賭けたチームメイトがいた。そいつは勝負に負けて特等席の権利を失うと、狂ったように泣き叫んだ。

羨ましい。俺はかすかに上下するマッケンジーの細い背中を見て、痛む手足や腰をさすりながらそう思った。チームメイトたちがトランクにのせきれなかった野球道具やバックパック、空になった菓子やヒマワリの種の袋に埋もれるようにして、まだ20そこそこの青年は心地良さそうな寝息を立てている。

おそらく今の俺も、狂っているのだろう。

「顔を引っ込めろよ、キム」

 後ろからボーンの不機嫌な声がして、座席の背を蹴られる。窓外の景色が、殺風景な砂漠から、色素の薄いビルが並んだ街の風景に変わる。

「もうすぐイースト・サンフランシスコに入る」


 アメリカの中で治安が悪いとされる街には、いくつか種類がある。ギャングやマフィアがはびこっていて、街中でいきなり刺し合いや銃撃戦が繰り広げられる街。窃盗事件が一日に何十件も起こる街。そして、失業者と薬物中毒者が溢れた街。

「イースト・サンフランシスコは3つ目だ」

 首からデカいヘッドフォンを提げたボーンは、まだ眠たそうな声で言う。窓を覆ったカーテンをめくりあげようとした俺は、イラついたボーンからまた舌打ちを食らって、カーテンの裾から指を離す。

「数年前までは、ここは窃盗事件の発生件数が全米でナンバーワンの街だったんだがな」

 あまりの事件の多さに、警察官の数が足りず州は事件に対応できなくなった。対策として、州はとんでもない法律を作ったという。

「法律が変わって、百ドル以下の窃盗事件は罪に問われなくなったんだ。盗られまくって泣き寝入りじゃ商売にならないから、この街からは会社や店が次々に出て行ったよ。

空っぽの街にはそもそも盗るものがないから、窃盗事件も起こらない」

 会社や店が消え、人々は働く場所を失った。街に失業者が溢れ、苦痛から逃れるために薬物へ走る者が増えた。ボーンが太い左腕に、右手で注射器を指す真似をして見せる。

「ちょっと前まではヘロインが主流だったが、今はほとんどがフェンタニル中毒者だ。注射器が必要ないし、安価だからな」

 フェンタニルは市販の痛み止めにも含まれているような薬で、大量摂取するとヘロインやコカインといった麻薬と同じ効果を人体にもたらすらしい。

「絶対に窓から顔を見せるんじゃないぞ」

 ボーンは白い眉間にしわを寄せ、俺の顔をじっと睨む。フェンタニルは、アメリカ社会の崩壊をもくろんだ中国が大量に密輸している、という噂があった。俺のような東アジア系人種の顔を見られたら、赤信号で停まったバスの窓を叩かれたり、火炎瓶を投げ込まれるかもしれない。

「イエッサー、ミスター・ボーン」

俺の返事を確かめてから、ボーンは球団から支給されるハンバーガーくらいの大きさがあるヘッドフォンを耳にかけて、再び眠りにつく。「ゴミ手じゃねえか! クソ……」後ろの方ではまた賭けポーカーが行われている。ボーンは、球場内のクラブハウスではいつも参加しているが、バスの移動時間は睡眠に充てると決めているようだ。

次戦が行われる球場は、この街の北端にあるらしい。

後ろでボーンが寝息を立て始めたのを確認してから、俺はカーテンの裾の下に顔を潜り込ませるようにしてゆっくりと、窓外の景色を覗く。


 アスファルトがむき出しになった路上一面を、紙吹雪のようなゴミがびっしりと覆っている。建物のすべての窓には、盗難防止用の格子が取り付けてある。ショップで買い物をする時には、パチンコの換金所のように手元に空いた小さなスペースだけで金と商品を交換しなければならない。不用意に窓から顔を出し、銃を突きつけられたらアウトだからだ。

足元に缶を置いて施しを求める物乞い。地べたに尻をついてクスリをきめ、白目を剥き、誰にでもなくしゃべり続ける中毒者。でも、それだけではなかった。腰を痛めているのか身体を九の字に傾けながらも、懸命に、何処かへ向かおうとしている人たちの姿も見える。

 バスが急ブレーキをかけ、俺は勢いで左の米神を前のシートにぶつけてしまう。バスが完全に停止すると、窓外の景色も静止画のように動きが止まってしまう。ひび割れた壁に背中をつけ、白目を剥いた中毒者も。イスラム教の礼拝のように、額を路面にこすりつけた物乞いも。路上で身体を九の字に曲げた人たちも、動かない。俺は息をのんだ。

「ドン・キッド! (ふざけんな!)」

 後ろから襟首を掴まれて、俺は窓ガラスから強引に引き離される。なんだよ、アイツら。ボーンの金色の毛が生えた指でカーテンが閉められてからも、俺の瞼の裏側には、窓外の奇妙な光景が焼き付いていた。身体を九の字に曲げた人たちは、俺が小さい頃に見ていたアニメに出てくる人型のクッキー・キャラクターに似ていた。目と口と、胴体に3個ついたボタンが砂糖菓子で出来ていて、彼らは肘や膝の関節が無いので、歩くときはカクカクとした動きになってしまう。

腕が卍のような形になったまま固まっている者。路面についたギターケースに寄りかかるようにして固まっている者。ビルのひび割れた壁に額をつけたまま固まっている者。バスが走っている時は、何処かへ向かっているように見えたのに。動いていないじゃないか、アイツら。

「フェンタニルの中毒症状だ」

 ボーンに突き放されて、襟の締め付けから解放された俺は軽くむせる。

「ここの別名はゾンビ・タウンだ」


 あと1時間後に試合が行われるイースト・サンフランシスコ球場は、この街の北端の、富裕層が住むエリアと、貧困層が住むエリアのちょうど境目に位置していた。この国では富裕層エリアと貧困層エリアが隣り合っていて、しかも、両者はくっきりと分かれていることが多い。

「試合開始まで時間がないから、各自で身体をほぐしておけよ」

 バスから降りるとき監督がそう俺たちに忠告する。俺たちが乗るバスは、イースト・サンフランシスコの中でも最貧困と言われるエリアのど真ん中でエンジントラブルを起こし、予定時間よりも到着が遅れていた。俺たちが降りていく時、人差し指を立てて「グッド・ラック!」と人懐こい笑顔を見せたドライバーは、さっき、ゾンビ・タウンのメインストリートでエンジントラブルが起きたためバスを停車させた時、泣きそうな表情でボンネットの中身をいじくりまわしていた。

バスから降りると、俺たちは頭上までアーチ状の有刺鉄線で覆われた通路を歩いて球場へ向かう。遠くに見える球場も、外壁がところどころ剥がれたり、水垂れのような黒い跡が残っているせいで、俺たちは野球選手というより刑務所へ連行される囚人のようだった。球場脇には大きな川が流れていて、向こう岸が貧困層エリアにあたり、壁がひび割れたボロ球場は、ギリギリ富裕層エリアに位置していた。有刺鉄線で覆われた通路の外側には、ハンバーガーの包み紙や、割れた注射器の容器や、クスリをキメるときに使う紙きれが一面に広がっていて、幻覚症状を伴うドラッグ特有の甘い香りが辺りに満ちていた。空の鮮やかな青をうつす川の向こうでは、炊き出しに並んだ浮浪者の列が視界の端の、さらにその先まで続いている。

「俺たちの末路かもしれんな」

 斜め前を歩いているボーンはスキンヘッドの上で太い腕を組んで伸ばし、長旅で凝った身体をほぐす。時間が無いので車内で発表された先発メンバーの中に、ボーンは「8番・キャッチャー」として名を連ねていた。

「よく見ておけ。この国じゃ強者は上にあがるが、弱者はどこまでも落ちていくし、ブレーキが効かない」

 ボーンはその言葉を、俺だけでなく周りでうつむきながら歩いているチームメイトたちにも言い聞かせているようだった。球場間を移動する時、メジャーではチャーター機の中で酒や食事を楽しみながら移動し、球場へ入る時も、荷物は球団職員が代わりに運んでくれる。しかし、俺たちマイナーリーガーはどこへ行くにもバス移動で、支給される食事はハンバーガーとかピザとかホットドッグばかりで、どれもケチャップの味しかしないので、ほとんど毎日同じモノを食べているような感覚になる。球場に入る時は、野球道具や生活用品を詰め込んだデカいバックに押しつぶされそうになりながら歩く。

頭上を覆う有刺鉄線に向かって、ボーンが「フン」と一つ息を吐く。ひび割れた球場へ向かって歩く誰もが、向こう岸の光景を見ようとはしなかった。



 球場に入ると俺はすぐユニフォームに着替え、ところどころ草が剥げてでこぼこした外野の芝生に寝そべる。手足を伸ばし、長旅で凝り固まった筋肉をほぐしていく。外野スタンドに並んだ照明が、花弁が開くようなスピードでゆっくりと、灯っていく。試合開始まで、あと20分。俺は「3番・ライト」で先発出場する予定だが、もうキャッチボールや素振りをしている時間はない。どんなに時間がない時でも、俺は試合前のストレッチだけは欠かさず行うようにしている。野球選手は身体自体が資本で、怪我をすれば出場機会を失ってしまう。

毎日ケチャップの味しかしないパン生地を噛みしめ、潰したマメの上からまたマメが出来るような努力を重ねてもまだメジャーリーグには遠く及ばないのに、ココから滑り落ちるのはとても簡単で、一瞬だ。


 アンパイアがマウンドを指さして、試合が始まる。

「変化球ばっか投げやがってチキショー、あのチキンヤロウ……」

 3球連続チェンジアップで空振り三振を喫したマイクは、ピッチャーの球筋を聞こうとした俺を無視してベンチへ引き揚げてしまう。こういう時のマイクは、ダメだ。アリゾナのマイナーチームから移籍してきて、ここ数試合を一緒に戦ってみて分かったことがある。マイクは、調子の波が大きすぎる。ラテン系選手の特徴である激しい感情の起伏が、プレーにそのまま影響してしまう。マイクは3打席連続ホームランを放って絶好調に入ったかと思えば、次の試合では5打席連続空振り三振を喫してしまうこともあった。

 5回裏、0アウトで、ランナーは2塁。相手打線は、1巡目はマッケンジーの平均球速が100マイルに迫る剛速球に完全に押し込まれていたが、2巡目に入ると、徐々にとらえ始める。ストレートだけを狙われているのは明らかだったが、頬っぺたが赤い童顔に似合わず強気なマッケンジーは、ボーンが股の間から出す変化球のサインにも、頑なに首を横に振る。相手選手だけでなく、相手チームの監督やスカウトにも実力を誇示するようなプレーを見せなければ、メジャーへの道のりはまだ遠い。まして、今日の対戦チームは、今のメジャーリーグで最弱と言われるアスレチックスの下部組織だ。

アスレチックスは、数年後に予定されているラスベガスへの本拠地移転に向けて、近年はベテラン選手を放出し、代わりに有望な若手選手をトレードで大量に獲得していた。今もこのボロ球場のどこかで、メジャーチームのスカウトやGMが目を光らせているかもしれない。ベテランのボーンはそういうことが分かっているので、マッケンジーが首を振ると、一度出した変化球のサインを引っ込め、ストレート主体の配球に切り替える。

 1球目。案の定、相手バッターはストレート一本狙いでフルスウィングしてきた。しかし、背後のスクリーンに「100mph」と表示された剛速球に若干、差し込まれる。フライアウトを確信したマッケンジーが頭上を勢いよく指さし、ボーンはマスクを外してボールの行方を見守る。勢いがなく打ち上げられたボールは、俺が守るライトと、マイクが守るセンターの中間地点を目標に落下を始める。右バッターがバットの先っぽで弾き返し、ドライブがかかったボールは少しライト方向へ球筋が切れてくる。俺は夜空の白い点になったボールと、2塁ベースでタッチアップの態勢に入ったランナーの姿を一度ずつ、確認する。

「ファッ・キュー!」

ライトスタンドから飛んでくる甲高い声のヤジがうるさい。

「ファッ・キュー! チャイニーズ!」

 声の主は子供だろうか。この街では、中国がフェンタニルを密輸して街を崩壊させたという噂を信じている人たちによるアジアン・ヘイトが何度も起こっているという。

「ファッッ・キュ~!」

 俺は首を振り、意識を再び打球の行方に集中させようとする。落下地点を予想し、助走をつけてボールをキャッチし、勢いで三塁ベースへ転送し、タッチアップした2塁ランナーをアウトにする光景を、頭の中でイメージする。助走をつけるために、落下地点の芝生から二、三歩後退した時、こちらを振り返る2塁ランナーと視線が合う。陸上中距離選手のスタンディング・スタートのような態勢から、左足に力を籠め、アキレス腱に適度な負荷を感じる。一歩目のスタートを切りながら、自分がボールをキャッチする意図をセカンドと、センターの選手にも向かって大声で伝える。

「「アイ・ガーリー!!」」

 右方向から同時に声がして、俺は慌てて左足を突っ張りブレーキをかけ、方向転換する。突然「背番号18」の巨体が眼前に現れ、俺は右側へ身体を傾けグランドに倒れ込むことで、巨体との衝突をギリギリで回避する。センターの定位置から走り込んできたマイクは、勢いでライト方向へ身体を傾けながらフライボールをキャッチすると、そのまま三塁ベースめがけて放り投げる。同時に、2塁ベースからランナーがスタートを切る。

「シット!!」

 倒れた勢いでライトの芝生上を一回転しながらマイクが叫ぶ。三塁ベースめがけて投じられたマイクの送球は、大きく態勢が崩れていたにもかかわらず勢いがあった。それでも、球筋は少し上ずった。レフト側に逸れた送球をサードの選手が身体で止めにいく間に、ランナーがベースに滑り込んで、三塁線の後方に立ったアンパイアの両腕が真横に広がる。

「オウ、ノーウェイ……(マジかよ……)」

 頭を抱えた男性ファンの悲鳴と、ため息が、グランドにいる俺たち選手にモロに伝わってくる。セーフになり悔しがったマッケンジーがマウンドの土を思い切り蹴り上げ、ホームベース上で立ち尽くしたボーンの顔は、皮を剥いた白い豆のようで、外野の位置からその表情を確かめることはできなかった。しかし、彼のはらわたが煮えくり返っていることは明らかだった。


「マイク!」

 3アウトチェンジになり、ベンチに戻ってくるとボーンの怒号が耳をつんざく。無視してベンチの奥に引っ込もうとするマイクの胸倉を掴んで、赤く染まった自分の顔に強引に引き寄せる。

「あの打球、なぜキムに処理を任せなかった?」

「なに言ってるんだよ? ボーン」

 マイクは、ボーンの金色の毛が生えた指を振り払う。

「守備位置を考えれば、あそこはライトのキムにプレーを譲るべきだった。マイク! お前にも分かっていたはずだ」

「分からないね!」

 マイクは大げさに両手を広げて見せる。

「僕はチャレンジした。けど、結果は失敗に終わった。それだけのことだ! 何の問題があるって言うんだ!?」

 ボーンは唖然とした表情で目を瞬き、ベンチの端でマッケンジーは頭からタオルを被り、グラウンドの一点をじっと睨みつけている。あのプレーの後、1アウト・ランナー三塁のシチュエーションから犠牲フライを打たれたマッケンジーには「自責点1」が記録された。

俺とコーチが、ボーンとマイクの間に割って入って、二人は互いの顔を睨み合いながらも、その場は何とか事なきを得る。


 第二打席も、第三打席も同じチェンジアップに空振り三振を喫したマイクは打席から引き返してくる時、ベンチの柵に叩きつけようと振り上げたバットを、力なく下ろす。

「あのクソピッチャーめ、チキショー……」

 ベンチにドスンと腰かけると、大仏の頭に似たチリチリ髪を抱えて唸る。

「チェンジアップとか変化球ばっか投げやげてきやがってあんチクショー……でも、僕ならできる、僕ならできる……」

 マイクは呪文のようにぶつぶつと繰り返すことで、湧き上がる怒りを必死に押し殺そうとしていた。今日の相手ピッチャーは、ストレートは最速でも90マイルそこそこの鈍足だったが、左足のつま先をマウンドに落とす直前に一度ホップさせたり、身体を後ろへ捻るモーションを入れることで、バッターのタイミングをずらしてくる変則ピッチャーだった。

「サンチェスは、アスレチックスのエースピッチャーだぜ?」

 サンチェスという名の相手ピッチャーはメジャー契約を結んでいる選手で、上ではここ数試合打ち込まれたので、調整のためマイナーリーグに降格していた。前の試合までは好調だった俺も、今日は技巧派のサンチェス相手に三打席連続で凡退していた。

相手はメジャーリーガーだ。そう簡単に打てるはずが無い……。そういうことを言おうとしたが、指の間からマイクのぎょろっとした目玉に睨みつけられて、俺は言葉を失う。マイクは、完全に頭に血がのぼっていた。今の彼は、日本の縁日なんかで売っている水がパンパンに入った水風船のようだ。うすく伸び切った皮に爪先がちょっとでも引っ掛かろうものなら、中の水を盛大にまき散らしながら破裂するだろう。

 マイクの殺気を察知してか、俺以外のチームメイトは誰も彼に声を掛けないし、近づこうともしない。

「ヘイ、マイク!」

ボーンだけが、彼をからかうようにわざと明るい声をかけてくる。

「おいマイク、変化球って知ってるか?」

 マイクが振り返ると、ボーンは立てた人差し指と中指をくいくいと捻って見せながら「これがスライダーだ」と言って笑う。

 マイクがすくっと立ち上がる。右手にはバット。俺は止めようとしたが、膝が震えて言うことを聞かない。

「そう怒るなよ? マイク」

 目の前に立ちはだかったマイクに、ボーンはまだ口元にはヘラヘラとした笑みを浮かべて余裕を見せる。

「お前がまだ変化球を知らないようだったから、俺は親切心で教えてやろうとしただけだぜ?」

「イエア……(ああ……)」

 マイクは胸の前でおもむろにバットを構える。俺も、傍で見ているチームメイトもぎょっとした。

「教えてくれよ、キャプテン」

「は?」

「どうやってスウィングしたら、変化球を打てるかな?」

「知るかよ!」

 バットを手に見下ろしてくるマイクに、ボーンはいつものように両肘をベンチの背にかけてふんぞり返る。

「テメエで考えろよ」

「イエア……(ああ……)」

 ベンチ内に立ち込めた空気が重く、張りつめていく。

「どうやったら、うまく打てるかな?」

「しつけえな」

「こうやったらいいかな?」

 マイクはバットを振り上げる。テイクバックではなく、頭上に。あっと思ったが、間に合わなかった。ボーンのすぐ横のベンチに叩きつけられたバットは、ヘッドから縦に裂けて砕ける。半分くらいがたけぐしのように細長く砕けて床に散らばり、一瞬でベンチの空気が凍りつく。俺は恐怖で、一歩も動くことが出来なかった。砕けてほぼグリップだけになった木製バットの、尖った先端がボーンの見開かれた灰色の瞳に突きつけられている。

「気が済んだか?」

 そう言ってボーンは余裕を見せようとしたが、さすがに表情は引きつり、声は少し震えていた。こちらからマイクの表情は見えない。裂けてナイフのように尖ったバットの先端が、マイクのチリチリ髪の上にゆっくりと、上がる。

「ストップ……!」

 俺は叫んだ。声は情けなく裏返った。振り上げたほぼグリップだけのバットを、マイクはボーンのスキンヘッドに振り下ろす代わりに、黒いシミだらけの床に思い切り叩きつけた。コロコロと足元に転がってきたバットのグリップを、チームメイトの一人が怯えたようにのけぞって避ける。ボーンの元から離れ、大股でベンチ内を歩いていくマイクに、殴られると思ったのかチームメイトやコーチの誰もが目を見開き、ベンチの背や壁にはりついて避けたが、マイクは、誰に触れることも、話しかけることもしなかった。そのままベンチ裏のスペースに「背番号18」の背中が消える。

「ヘイ、コディ。次の回はどうする? まだフォーシーム(=ストレート)主体でいくか?」

 ボーンは何事もなかったようにマッケンジーのファーストネームを呼び、次の回の作戦を立てている。しかし、スキンヘッドには小さな汗の粒がびっしりと張り付いていた。その雫が赤に変わる光景を、俺は想像する。マイクが振り上げたグリップの先端が、ベンチではなくボーンの額か目玉にヒットして、血が噴き出し、チームメイトの悲鳴が木霊し、血の赤が、ベンチの床を浸す光景を想像する……。

 そうなればよかったのに。俺は自分の、本当の想いに気が付く。もしそうなっていれば、俺にとっては邪魔な二人がいっぺんに姿を消していただろう。いつも俺をいびってくる嫌なベテランと、俺とメジャーを争っているライバルを、同時に消すことが出来たのに。この手を少しも汚すことなく。

 フチなしの四角い眼鏡をかけた監督が、マイクの代わりに若手選手を指名して、試合に出場するよう告げている。さっき、俺はなぜ「ストップ! (やめろ!)」と叫んでしまったのだろう? 先ほどの光景を思い出すと心臓がドキドキとして、前髪の生え際からは生ぬるい汗がじわっと噴き出てくる。頭を殴られたボーンは病院送りになり、マイクは傷害罪でこのチームを追われていただろう。そうなれば俺は、また生き残れたかもしれないのに……。

 白いモノが頬をかすめ、ベンチの壁にぶち当たって小さな凹みを作る。

「キム!」

 身体を傾けてファールボールを避けたボーンが、俺の顔を睨みながら怒鳴ってくる。

「テメエ、ぼーっとしてるんじゃねえぞ」


 マッケンジーは7回裏のマウンドにも上がり、相変わらず『100mph』を記録するハイスピード・ストレートがボーンの構えるミットに突き刺さる。マッケンジーの剛速球はもちろん凄いのだが、腕をぴんと伸ばして捕球したボーンの姿勢も素晴らしく美しい。ボーンはマジで嫌なやつだが、そのキャッチング技術には目を見張るモノがある。ストライクゾーンぎりぎりのボールをキャッチする時、下手なキャッチャーは何とかストライクにしようと大げさにミットを動かしてしまう。しかし、ボーンは、ミットを引き絞るようにしてキャッチする。ボーンの『フレーミング』は、ミットをストライクゾーンに動かしているのではなく、まるで最初からストライクゾーンに収まっていたかのように見える。たった数試合、一緒に戦っただけだが、ボーンがキャッチャーとして出場している時、俺は際どいコースをストライク判定され、鬼の形相でアンパイアに抗議しているバッターの姿を何度も目撃した。

マッケンジーの後に出てきた変化球主体のピッチャーの、とんでもないワンバウンドボールも軽快にさばいて、決して後ろに逸らさない。

 ボーンはその堅実な守備を武器に、かつては控えキャッチャーとしてメジャー契約を勝ち取ったことがあるという。2割そこそこの打率さえキープできていれば、彼はメジャーに定着できていたかもしれない。


 8回表、スコアは0対1でビハインド。俺は第4打席に向かう前に、バックネット裏の方向を振り返る。もしスカウトがこの球場に来ているなら、選手のプレーを正面から見れるバックネット裏の席を陣取っているはずだった。

バックネット裏の席にも観客はポツポツといて、デカい器に入ったポップコーンを食べたり、スマホを弄ったり、ガールフレンドやボーイフレンドといちゃつくのに夢中になっている観客が多い中、一人だけ、短パンから伸びた浅黒い足を組んで、グラウンドの様子をじっと見守っている男の姿があった。

 その男は、一重瞼と頬骨の大きな顔を持ち、肌が浅黒いので最初は中南米系のスカウトかと思った。しかし、よく見ると、彼はアジア系人種であることに気が付く。半そでと半ズボンから伸びた手足は、西洋系や中南米系の人たちに比べると細くて短く、立ち上がったら身長は183センチの俺よりも小さいかもしれない。右手の指は、ボタンを2つ開けたシャツの胸元にかけたサングラスの柄に触れながらも、その細い目はじっと、グラウンドの様子を伺っている。もしかすると彼はメジャーではなく、アジアのどこかの国か、アメリカの中でも日系人が多いコミュニティに存在する独立リーグのスカウトかもしれない。

マイナーリーグの球場には、メジャーのスカウトだけでなく、日本や韓国などのアジア、それにドミニカやメキシコやプエルトリコなどの中南米の国々のプロスカウトも足を運んでいる。マイナーリーグには、例えばマイクのように、高い能力を持ちながらもメンタル面でちょっとした欠陥を抱えており、あと一歩のところでメジャーに上がれない選手が溢れている。メジャーとマイナー(3A)の間でくすぶっている、いわゆる「4A級」と言われる選手たちに大金を積んで自国のチームに助っ人として引っ張ってくるのが、彼ら外国人スカウトマンの仕事だ。メジャーリーグだけでなく、そのような外国リーグへの移籍もまた、俺たちマイナーリーガーが抱く夢の一つだった。

 

 いつものように打席の土をゆっくりと、ならす。8回表のマウンドには、まだアスレチックスのエース・サンチェスの姿があった。彼は小柄で、身長はおそらく俺よりも低いだろう。身長190センチ超え、体重100キロ超えの巨漢戦士が溢れるメジャーリーグの世界で、変則フォームに多彩な変化球など、ひときわ小柄な彼は自分が生き残り、勝ち続けるためにどんなに苦しく、血の滲むような努力を積み重ねてきたのだろう。ロジンバックの袋を利き腕の肘までつけているマウンド上のサンチェスに向かって、俺は敬意を表してヘルメットのつばを指で摘まんで見せる。


 一球目と二球目のストレートをそれぞれファールにして、俺は打席を外す時、わざとキャッチャーに聞こえるよう「シット! (クソッ! )」と叫ぶ。正確に言うと、サンチェスのストレートは、巡回転のフォーシームではなく、手元で微妙に動く『シンカー・ボール』だった。第一打席から第三打席目まで、俺はそのシンカー・ボールを強引に打ちにいって内野ゴロ・アウトに打ち取られていた。

 アンパイアに促されて打席に戻る時、俺はもう一度、念を入れて小さく舌を打って見せる。そうすることで、相手バッテリーに『俺がシンカー・ボールを狙っている』と錯覚させるのが狙いだった。

 すぐにサインが決まり、投じられた三球目もシンカー・ボール。外角のコースに、わずかに外れる。相手もまた念には念を入れて、俺の反応を伺ったのだろう。四球目のサインも、すぐに決まる。俺は確信した。次はチェンジアップがくる。

 サンチェスのチェンジアップは、ボールを中指と薬指を大きく開いて握るから、まるでフォークかスプリットのように鋭く落ちる。打席の中で俺は左足を上げない『ノー・ステップ打法』に切り替え、予想通りストレートの軌道から低めに落ち始めたチェンジアップに狙いを定める。手元まで十分に引き付けてからボールを捉え、右打席に立つ俺から見て反対の、ライト方向めがけて引っぱたくようにバットをスウィングする。

 心地良い打感。ややスライス回転がかかった打球は、ファーストベースを守る選手の頭上を切り裂き、一塁線のわずかに内側の芝生を跳ねてライトフェンスまで到達する。さらに、クッションボールの処理を誤ったライトの選手が慌てふためいている間に、俺は二塁ベースを蹴って加速し、足から滑り込んでサードベースを陥れる。

「ビューティフォー!」

 サードベースのカバーに回っていたサンチェスが、マウンドに戻っていく時、グラブで俺の尻をポンと叩いた。

「お前、名前は何て言うんだ?」

「キベ、いや……」

 急にメジャーリーガーから話しかけられて、俺は何だか恥ずかしくて帽子のつばで顔を隠す。

「キムで良いよ」

「キム、キム、キム……」

 サンチェスは俺のあだ名を三度、ぶつぶつと呟いてから、にっと笑みを浮かべる。

「覚えておくよ! 今度はメジャーの舞台で会うかもしれないからな」



「ヘイ、キム! 」

 試合が終わりクラブハウスに引き上げると、マイクの巨体が猛スピードで迫ってきて俺はぎょっとする。マイクは、満面の笑みを浮かべながら胸に抱いた大量のハンバーガーの包みを嬉しそうに見せてくる。

「サンチェスが、ウチのチームにも差し入れてくれたんだよ!」

 メジャーの選手が調整のためマイナーリーグの試合に出場する時、貴重な出場機会を譲ってくれたお返しに、マイナーリーガーたちに食事を差し入れる習慣があった。マイクは「今日は5個も食べれる!」とウキウキ顔をしている。しかし、はっきり言って俺は、もう食い飽きているハンバーガーを差し入れてくるサンチェスのセンスを疑った。

「あのチェンジアップ、マジで凄かったよな!」

 さっきまでサンチェスのことを「チキンヤロウ!」とか「クソピッチャー!」とか散々ののしっていたのに。差し入れられたハンバーガーのケチャップを唇の端につけながらマイクはもう機嫌を取り直している。ラテン系特有の激しい感情の起伏は、ときに相手を嬉しい気持ちにさせ、ときにひどく傷つける。

俺とマイクは二人でクラブハウス内に設置された小型テレビの前に並んで座り、ケチャップ味のハンバーガーを食べながら今日メジャーリーグで行われた試合のニュースを見つめる。

 今季からドジャースに入団した「松林」という名の若手ピッチャーがデイゲームで好投して、メジャー8勝目をあげたらしい。松林は俺の一つ年下の25歳だが、高校を卒業して入った日本のプロ野球で、球界最高のピッチャーに与えられる称号『沢村賞』を3度も獲得し、鳴り物入りでメジャーリーグの世界に飛び込んできた。即メジャー契約で、年俸は推定で総額3億ドル。

『ステーキも良いですが、やっぱり日本食が恋しいですね』

 キャスターの『8勝目のお祝いに、今夜は何を食べたいですか?』という質問に、松林はニキビの跡が残った頬を緩めてこたえる。俺は、バンズに染みたケチャップの味を噛みしめながらじっと、画面を見つめる。

 ニュースが、地元アスレチックスの試合速報に切り替わる。

「今日はスコアいくつで負けたんだ?」

 ボーンがふざけ、周りで見ていた連中が笑い声をあげる。スコアは「0対11」で惨敗。アスレチックスの先発ピッチャーが3回でノックアウトされた後、リリーフピッチャーも滅多打ちにあったらしい。

「ファックァー! (チキショー!)」

 なぜかマッケンジーが悔しそうに叫ぶ。彼がピザ箱の上に叩きつけた数枚の一ドル札を回収しながら、賭けに参加したチームメイトの一人がおかしそうに笑う。

「こいつ、アスレチックスの勝ちに賭けたんだよ」

 すると他の連中も「マジかよ!?」「クレイジーだな! お前」「マゾヒストだったのか?」「いや、むしろ賞賛に値するよ!」と口々にからかう。マッケンジーは、金色の前髪をくしゃくしゃにしながら、青い目の端には悔し涙まで浮かべている。

「オ・マイガ……」

 マイクの声がして、俺は振り返る。マイクの視線は、棚の上に設置されたテレビにくぎ付けになっている。衝撃のあまり、手に持ったハンバーガーを落としそうになっていた。角が滲んだ画面には、担架で運ばれていくアスレチックスの主砲・ヒメネスの歪んだ表情と、緑と黄色が基調のヘルメットが転がったグラウンドの映像が交互に映し出される。

 軽口と笑い声で溢れていたクラブハウスの空気が静まり返る。

「イッツ・リブェンジ! (報復だ!)」

 マイクが画面を指さしながら叫ぶ。彼のリストバンドには、ヒメネスの背番号でもある「18」の数字が、緑色と黄色の毛糸で縫いこまれている。

「あのピッチャー、ヒメネスにわざと当てやがったんだ!」

 興奮したマイクは、片頬を歪めてまくしたてる。俺は興奮した子供を落ち着かせる母親のように、何度か、ゆっくりと頷いて見せる。テレビ画面には、左打席に入ったヒメネスの大木のような右膝に、赤い糸で縫い込んだボールがめり込む瞬間の映像が何度も、スローモーションで映し出される。



 セプテンバー・コールアップで拡大されるメジャー出場枠は2つ。メジャー契約の選手にけが人が出れば、その枠はさらに拡大される。

「今朝、ヒメネスの故障者リスト入りがアスレチックスから発表された」

ミーティングの冒頭で、監督がおもむろに切り出す。もともと古傷を抱えていた右ひざにデッドボールを受けた影響で、ヒメネスは10日間の故障者リストに入った。彼の右足にボールを当てたピッチャーと、『報復死球』を指示したキャッチャーと監督にも、次戦からの出場停止処分が課された。

「暴力は決して許されるものではない。だが……」

 監督は手にしたファイルに視線を落とす。そこには、これから行われる試合のラインナップが記されていた。

「このような言い方は、或いは、聞く人によっては、とても不謹慎に聞こえるかもしれないが……」

四角いフチなし眼鏡をかけた監督は、いつになく勿体ぶった言い方をする。彼もまた、数年前まではメジャー昇格をかけて戦っていた選手の一人だった。そして、数多くのマイナーリーガーたちと同じように、彼の夢も叶えられることは無かった。ボーンはもうフル装備で監督から発せられるメンバー発表の瞬間を待ち、マイクは右手にはバットを提げ、左手には外野手用のウェブが大きなグラブをはめ、立ったまま祈りを捧げる人のように首を垂れている。

 グラウンドの照明がゆっくりと、灯る。

「だが、ここは敢えてハッキリさせておきたいと思う」

監督の薄く開かれた瞳にも光が宿る。

「おそらく君たちにとって、これは大きなチャンスになるだろう」

 

 球場の古びた照明が全開になり、待ちわびたように向かいのベンチから緑を基調としたユニフォーム姿の大男たちが次々に姿を現す。彼らのチーム名は「イーストサンフランシスコ・パイロッツ」で、アスレチックスの傘下3A(2軍)にあたる。ちなみに、俺たちのチーム名は「スクラントン・フィッシュアンドチップス」だ。ユニフォームの胸元には、深海魚の額のツノが伸びて「CHIPS」というアルファベットが筆記体で描かれている。

「君は可笑しいと思うかい?」

 後ろからマッケンジーが声をかけてくる。今日も「3番・ライト」で先発出場することになった俺は、ベンチとグラウンドを繋ぐ段差にスパイクの右足をかけて、自分の出番を待っていた。グラウンド上では、アンパイアが頭上高く掲げた右手首を指で叩いて見せ、この球場にいる全員に試合開始時刻が迫っていることを告げる。

「キム。僕が昨日、アスレチックスに賭けたこと、君はどう思う?」

「どうって……」

 俺は正直、相手先発ピッチャーの調子を確かめるので一杯いっぱいになっていた。まだ練習の段階ではあるが、斧でも振り回すようなモーションで投じられたストレートは常時100マイルを超え、ボールはかなり走っているように見えた。守備練習が終わり、最後にサードの選手がファーストめがけて投げたボールが、力んだせいでファーストミットの先をかすめ、内野席を覆う防球ネットに音もなくめり込む。

「僕はね、アスレチックスが僕を獲る可能性に賭けたんだよ」

「え?」

 同時に、頬にカサカサとした感触がして振り返る。マッケンジーが目の前に、使い古してしわくちゃになった1ドル札を差し出している。

「君も賭けろよ」

一ドル札の真ん中にプリントされたジョージ・ワシントンの顔には、コーヒーの飛沫のようなシミがいくつもこびりつき、しわのせいで憎しみのこもった表情のように見える。さらに強くなった照明のせいか、俺を見下ろすマッケンジーの顔は、帽子の陰で半分くらい黒く塗りつぶされ、二つ浮かんだ目玉だけがギラギラと輝いて見えた。


 1回表。2アウト、ランナーなし。第一打席に向かう前に、俺はバックネット裏の方向を振り返る。昨日もいた東アジア系のスカウトマンらしき男が、隣に座っている白人青年に大げさな手振りを交えながら話しかけている。スカウトマン同士で、いい選手の情報を交換しているのかもしれない。青年は西洋人特有の透き通るような青い瞳を瞬きながら、時々、膝上においたアイパットに視線を落とす。アスレチックスは選手だけでなく球団幹部やスカウトマンなどの職員にも若手を積極的に採用しているらしい。青い瞳の青年は、イギリスの人気ボーイズバンドで『ジャスティン』というファーストネームのボーカルと似ていた。短い前髪をワックスで立て、頬にはそばかすが浮き、ポロシャツから伸びた腕は細くて白い。もしかすると彼が、アスレチックスのスカウトマンかもしれない。

 

 前の打席、相手ピッチャーはマイクをダブルプレーに打ち取って安心してしまったのだろう。俺に対する初球に、相手はほぼど真ん中のストレートを投げてきた。赤い縫い目のすき間が細くなり、太くなりながら迫ってくる。バックネット裏の席に座っている『ジャスティン』に似た青年は、その青い瞳でじっと、俺の打席を見守っているだろうか。後方にそびえるスクリーンにはまだ球速は表示されていないが、おそらく100マイル近いスピードが出ている筈なのに、また縫い目のすき間が太くなり、細くなりながら、ボールはゆっくりと、俺のふところめがけて飛び込んでくる。

俺はスウィングに反動をつけるため、バットを両耳ガードがついたヘルメットの後ろへ引く。バットを握る指に、力が入る。

 俺がスウィングをかけた瞬間、相手ピッチャーが頭上を突くように指さす。視界の隅にキャッチャーが放り投げた黒いマスクが転がっていく。見上げると、強烈なバックスピンがかかったボールは勢いをなくし、ややバックネットの方向へ流れながら落ちてくるところだった。

 ファック……! 俺はほとんど息だけの声で呟く。スウィングの瞬間、力んだせいでバットの軌道が変わり、俺はボールの下っ面を叩いてしまった。相手野手が平凡なフライをキャッチするまで見届けている時間ほど、バッターにとって屈辱的な瞬間はない。この国には『ファールフライほどつまらない野球のプレーは無い』というコトワザもある。キャッチャーがフライをキャッチした後で、俺はバットをグラウンドに思い切り叩きつけたい気分に駆られた。

 アウトになり自軍ベンチへと引き返しながら俺は、憎しみを込め、あらゆるヒトを傷つける、あらゆる禁止ワードを叫びながら、バットをグラウンドに叩きつけたい気分だった。3アウトチェンジになり、入れ違うようにベンチから飛び出してくるチームメイトに向かって怒鳴り散らし、殴って、めちゃくちゃにしてやりたい気分だった。

 近づいてきたバットボーイの怯えた目と視線が合って、俺はハッと我に返る。浅黒く細長い手足を持った少年の瞳に、自分の醜く歪んだ表情がうつっているような気がした。怯える少年の腕にバットと、汗で湿ったバッティンググローブを預けながら俺は、舌先で前歯の裏側を弾くようにして「サンキュー」と呟く。


 今日の試合は予想通り、荒れた。

 0アウト、ランナー一塁の場面で、ショートに打球が転がると、一塁ランナーは、二塁ベースに入ったショートの足を蹴り上げるようにしてスライディングした。ダブルプレー崩しの範疇を超えた殺人的なスライディングに、相手ショートの身体は跳ね上げられ、空中で態勢を大きく崩しながらグラウンドに叩きつけられる。そのプレーとほぼ同時に、両軍ベンチから屈強な戦士たちが勢いよく飛び出してくる。互いに詰め寄った男たちの足元で、スライディングをくらった選手は蹴られた右足と、さらに蹴られないよう頭を抱えながらうずくまっている。

彼らは、肝心のけが人はそっちのけで互いの胸倉を掴み、怒りに歪んだ顔を寄せ合い、それまで白けていたスタンドの観客たちは立ち上がって拍手を送ったり、指笛を吹いてグラウンド上の選手たちを煽る。球場は今日一番の盛り上がりを見せる。

 乱闘に加わらなければ俺はチームメイトたちから後で「裏切者!」と罵られるが、ここで怪我をしては元も子もない。真っ先に相手ランナーへ殴りかかったチームメイトの背中を追い、俺はライトの守備位置から乱闘に加わる『フリ』をした。やがてほとんどの選手がグラウンドに集まってきて揉みあいが始まると、俺は輪の一番外側へ回って接触を避けながら、乱闘の様子を見守った。

 背番号18の巨体が、俺のすぐ横を猛スピードで駆け抜けていく。

「ストップ! マイク!」

「ファッキュー! クソヤロウども!」

 伸ばした指先は、あと少しのところでマイクのユニフォームの袖を掴み損ねた。揉み合いになった男たちの肉塊に、マイクはボールを保持したまま突破を試みるアメフト選手の要領でタックルをお見舞いし、屈強な選手たちの身体はまるでボーリングのピンのように四方へはじけ飛ぶ。俺はさっき、ユニフォームの袖を掴み損ねてよかったのかもしれない。マイクの太い指に捕まれた相手選手のユニフォームは、まるでチリ紙のようにたちまち穴が空き、ビリビリに引き裂かれてしまった。マイクは怒ると手が付けられないので、チームメイトたちから『ブラックワイルドホース(黒い暴れ馬)』というあだ名をつけられていた。彼の攻撃に巻き込まれたら、俺の身体は一撃で吹っ飛んで野球どころではなくなってしまうだろう。

「Woooooow!」

 マイクが獣のような雄たけびを上げながら、チームメイトに殺人スライディングをお見舞いした選手の身体を抱え上げる。身の危険を感じた緑色のユニフォームを着た選手たちが後ずさりし、スタンドに詰めかけ子供たちが興奮して、その金切り声が大きくなる。さすがにマズイと思った『フィッシュアンドチップス』のチームメイトたちが「ストップだ! マイク!」「さすがにそれはヤバイ!」と口々に叫びながら、ガラ空きになったマイクの太い胴体にしがみつく。さらに止めようと加勢したアンパイアは、反動でマイクの手から滑り落ちた『パイロッツ』の選手の下敷きになる。

 俺はふと視線を、相手ベンチの方へ向ける。混沌としたグラウンド上の光景を、人気がなくなったベンチからじっと見つめている大男がいた。彼は金色の坊主頭をタオルで拭いながら、グラウンド上で揉み合う男たちの姿を蔑むように見つめている。ベンチの柵にかけた腕は丸太のように太い。彼は、相手チームの「4番・ライト」として先発出場している選手で、名前は確か『ジャスティン・ヘンダーソン』といった。バックネット裏から試合を見守っているスカウトマン風の白人青年とは違って、こちらの「ジャスティン」は、イギリスの人気ボーイズバンドのボーカルとはあまり似ていない。彼は白熊のようにずんぐりとしたユニフォームの身体を起こすと、ベンチに引き上げてくる『パイロッツ』のチームメイトたちに向かって「どうしてそんなことをするんだ?」という風に、太い両腕を広げて見せる。


 乱闘が終わった後も混沌としたグラウンド上で、彼の存在はやはり異質に映った。

 試合再開直後の打席に立ったジャスティン・ヘンダーソンという名の大男に、マウンドに上がった『フィッシュアンドチップス』のピッチャーはデッドボールを当てようとした。ラフプレーを行ったチームへの報復は、大抵、そのチームの主力選手に対して行われる。社員が不祥事を起こすと、その会社の社長が責任をとらされる構図に似ているかもしれない。

右腕から放たれたストレートは、左打席に立つジャスティン・ヘンダーソンという大男の背中の後ろを通過してバックネットにめり込んだ。

 乱闘後の初球で、報復を確信した相手選手たちがベンチの柵を乗り越えてグラウンドになだれ込もうとする。

「ストップ!!」

 再び荒れそうになったグラウンドの空気に、地鳴りのような太い声が木霊する。

「ゲット・アウト! (出て行け!)」

 ジャスティン・ヘンダーソンという名の大男は、チームメイトに向かってそう命じる。彼が伸ばしたてのひらから波動でも出ているのだろうか、グラウンドに踏み出しかけた「パイロッツ」の選手たちのスパイクの足が止まり、その表情が凍り付く。

「ゲット・アウト!!」

 大男はもう一度、膨らんだ腹の底から力を込めてチームメイトたちに命じる。その厳かな叱責は、相手選手だけでなく『フィッシュアンドチップス』の選手や、再び乱闘を煽ろうとするスタンドの観客たちの耳にもはっきりと届いた。昨日の試合からずっと、ライトスタンドから俺の背中に向かって「ファッキュウ・チャイニーズ!」と叫び続けていた男の子の甲高い罵声も止む。

 2球目。キャッチャーのボーンはアウトコース寄りにミットを構えた。ずっと俺やマイクをいびり続けてきた、意地の悪いボーンらしくない配球だと俺は思った。

 バットはアウトコースを一閃。光の速さで打ち上げられた白球は、あっという間に俺の視界から消えた。打球の行方は、確かめる必要も無かった。ボーンがマスクを手に呆然とした表情で立ち上がる。俺の背後で、ボールがスタンドの椅子にぶつかる鈍い音が響いた。ジャスティン・ヘンダーソンはスウィングの後、バットを静かにグラウンドへ置き、バックネット裏で見守っていたアジア系スカウトマン風の男が立ち上がって拍手を送る。ホームランボールをゲットしたのだろう、さっきまで俺のことを「ファッキュウ・チャイニーズ!」と罵っていた男の子の声が低くなり、高くなりながら叫ぶ。

「ジャスティ~ン!!」

 まるで人気アイドルを生で目撃した女性ファンのような、この世の終わりのような狂った喚き声。

「ジャスティ~ン!! ジャスティ~ン!!」

 白人の男の子はキャッチしたホームランボールを頭上高く掲げながら、グラウンド上のダイヤモンドを回る大男の背中を追うように、扇形のスタンドをライトからレフトの方向へ駆けていく。

「ジャスティ~ン!!」

 ダイヤモンドを回る大男はホームランを打った直後、ガッツポーズをしたり、派手なバットフリップを見せることは無かった。おそらく体重は120キロはあるだろう巨体を揺らしながら、ジャスティン・ヘンダーソンという名の大男は二塁ベースを回る時、スタンドで狂ったように喚き散らすファンの男の子に向かって、控えめに、太い親指を立てて見せた。


 クラブハウスに戻ると、そこにはマイクの姿が無かった。

「キム!」

 腹が突き出た球団職員の男に、俺は後ろから呼び止められる。

「ヘイ、キム! 監督がお呼びだ」

 心臓が一度、大きく脈打った。


 クラブハウスから球場のミーティングルームへと続く廊下は、果てしなく長い。しかも、ところどころ電球が切れているので薄暗かった。細いパイプが何本も血管のように張り巡らされた天井に、俺が交互に踏み出すスパイクの音が響く。普段は試合が終わった後、けが防止のために俺は滑りやすいスパイクからスニーカーにすぐ履き替えるのだが、今日は着替える前に呼び出されたのでその暇も無かった。「早くいけ!」そう俺に命じた職員の強張った表情を思い出し、胸の鼓動がまた一段と大きくなる。

 5打数ノーヒット。今日の試合の、俺の打撃成績。思い出したくもない記憶が、俺の脳裏に否応なくねじ込まれる。でも、打率はまだ3割7分以上もあるから「リリース(クビ)」はないだろう。俺は高鳴り続ける自分の胸に、必死に言い聞かせようとする。

 18歳で海を渡ってから、8年あまり過ごしたこの国での経験はあまりに暗く、苦しいものだった。これから死ぬわけでもあるまいに。俺の脳裏には、これまでの苦しい日々の記憶が走馬灯のように、生々しい映像を伴って蘇る。


 ブラスバンドの演奏や仲間たちの声援を浴びながらプレーしていた頃の俺は「フルスウィング」が持ち味の選手だった。実際、俺は高校通算で50本もホームランを放っていた。最後の夏、甲子園予選決勝で俺のプレーを見たスカウトの評価は「ミドルヒッター(中距離打者)としてならMLBで通用する」というモノだったが、海を渡ったばかりの頃は「フルスウィング」という自分の持ち味を俺は捨てようとしなかった。

だが、すぐに思い知ることになる。まだ10代で傷つくことを知らなかった俺のプライドは、この国で出会った怪物ピッチャーたちの剛速球によって差し込まれ、へし折られた木製バットと一緒に粉々に砕け散った。

 この世界で生き残るために、俺は「ホームランバッター」から「ミドルヒッター」にモデルチェンジした。ボールに対してスウィングをかける時、打席の中で左足を上げる高さを低くし、バットを頭の後ろへ引くテイクバックを小さくし「ホームラン狙い」から「ミート中心」に切り替えた。それからだった。俺の中で、楽しかった野球が、まったく別の形にその姿を変えてしまったのは。

 ライバルたちの刺すような視線を浴びながら打席に立ち、相手ピッチャーの剛速球に差し込まれ、空振りを繰り返し、打率が下がる度に、俺の心臓は身体を打つムチのように激しく脈打ち、身体中の毛穴という毛穴から冷たい汗が噴き出してきた。いつしかグラウンドに立つのが怖くなった。寝ても覚めてもバッティングや守備のことばかり考え、夢の中でも俺はミスを繰り返すようになった。夢を見るのが怖くて、俺はほとんど眠れなくなった。

 睡眠不足でだるい身体のまま試合に出場してはミスを繰り返す悪循環に陥った。いま思えば、あの頃の俺は何かしらの精神的な病気を抱えていたのだろう。グラウンドに立つと突然、地面が大きく傾くような眩暈に襲われることもあった。1A(4軍)のチームに在籍していた頃に、俺は監督から初めてクビを宣告された。

 まず俺はクラブハウスから離れた小部屋に呼び出された。他のチームメイトに、宣告の内容を聞かれないための配慮だった。俺が小部屋に入ってくると、監督はまず「ワッツアップ? (調子はどうだい?)」と聞く。俺が「まあまあです」とこたえると、監督は「そうか」とだけ呟いて、立っている俺に、傍の椅子に座るよう勧める。その後の宣告で、俺がショックで倒れても怪我をしないようにするための配慮だった。

「君と一緒にプレーできたことは誇りだったよ。キム」

その後、監督は俺を褒め称える言葉を次々に並べたてる。

「キム、君はマジでいい奴だったよ」

監督は身振り手振りを交えながら、俺が如何に最高のチームメイトだったかを延々と、語り続ける。

「うちのチームで、君を悪く思っている奴は誰もいないよ」

監督は俺より二回りも年上なのに、長いシーズンを若い選手たちと一緒に過ごしているせいか、まるで同じ年代の友人とコミュニケーションをとるようなフランクな姿勢で俺たち選手に接してくる。

「君は野球選手としても最高だったよ」

 今日まで20打席ノーヒットだったのに? 

「君は足が速いし、それに……器用だ」

「監督」

 歯の浮くような台詞に耐えられなくなった俺は、監督の言葉を遮る。

「早く言ってくださいよ」

 俺が言うと、監督の表情から笑みが消えた。真横にのびた唇が開き、俺に告げる。

「クビだ」

 その瞬間、弱い電流が走ったように全身が震え、目から涙が次々に溢れ出てきた。チームメイトからは何となく聞かされていたから、俺は分かっていた筈なのに。

その瞬間、それまで味わった苦しみが、血の滲むような努力が、すべて、全くの無駄だったことに気づかされる。

その瞬間、足元の地面が、比喩ではなく本当にガタガタと揺れ始め、俺の人生を貫いていた芯のようなモノに決定的なヒビが入り、呆気なく崩れ去る。

その瞬間、奈落の底へ叩き落されたように、俺の視界は真っ黒に塗りつぶされる。

悔しくて、悲しくて、抑えた指の間から流れる涙はいつまでも止まらなかった。



 視界の中心を、黒くて小さい何かがさっと横切る。この古びたマイナー球場に巣くうゴキブリか、ドブネズミだろう。その黒い何かは、俺の足先を通過する時、小さく円を描くように一度だけ回転してから、脇にのびる溝に姿を消した。ネズミかもしれない。このイースト・サンフランシスコでは、クスリのおこぼれを吸って狂ったネズミが街中を走り回っているという。

遠くにミーティングルームの明かりを見つけた時、足元がふらついて、俺は思わず傍の壁に手をついた。ドロドロとして熱いモノがみぞおちの辺りからせり上がってきて、俺は手をついたまま吐きそうになった。

「キム!」

 俺の気配に気づいた監督が、ミーティングルームから顔を突き出している。

「早く来てくれ。君を待っている人がいるんだ」


「ハタケヤマだ」

 ミーティングルームで待っていた、アジア系の顔立ちをした男は英語で俺に自己紹介した。バックネット裏の席から試合を見つめていたあのスカウトマン風の男だった。2つ開けたシャツの胸元にはサングラスの柄を引っかけ、向かい合って立つと、ハタケヤマの浅黒く日焼けした顔を俺が見下ろす格好になった。

「トレードだ。キム」

 俺たちが握手を交わした時、横から監督が告げる。ハタケヤマという男は、頬骨の浮き出た顔を緩めて笑う。やはり、この男はスカウトマンだったのだ。

「僕はあるチームのGM補佐をやっていてね」

 俺は頷きながら、目線の動きだけで辺りを見回す。長机が四つしかない狭いミーティングルームには俺と、ハタケヤマと監督の三人しかいない。

「僕のチームはあまりに弱いもので、まだシーズンの途中にもかかわらずポストシーズンに進めないことがもう確定してしまっているんだよ」

 青い瞳を持った、人気ボーイズグループのボーカル『ジャスティン』に似た青年の姿はない。

「チームはもう来シーズンに向けて動き出しているんだ。有望な選手をトレードで獲得しているんだが……みんな活躍できなくてね。

スカウトマンの目が信じられなくなって、こうして僕が自ら選手のスカウトに乗り出すことにしたんだ」

 ハタケヤマが短い腕を振って語る言葉の一つ一つに、横で監督が小さく頷いている。ハタケヤマの背は、俺や監督よりも明らかに小さく、もしかすると身長は160センチとちょっとくらいしかないかもしれない。この国では、かなり小柄な部類に入るだろう。

「初めて君のプレーを見たとき僕は感動したんだよ!」

 ハタケヤマは俺と同じ東アジア系人種の顔立ちをしてはいるが、さっきから英語で喋り続けているから、おそらくこの国のマイナーリーグか、独立リーグのチームで幹部をやっているのだろう。

「近頃のアメリカン・ベースボールにはパワー至上主義がはびこっているが、僕にとってベースボールの魅力は、決してパワーだけじゃないんだ。

盗塁、エンドラン、バント……カノン・キベ! 君のプレーは、僕が理想とするスモール・ベースボールにピッタリなんだ」

 俺は久々に「カノン・キベ」という自分の名前を、はっきりと耳にしたような気がする。

「カノン・キベ!」

 ハタケヤマは、初めて言葉を口にした幼児のように、俺の名前を繰り返す。

「君は、僕のチームに来てくれるかい?」

「オーケー」

 俺がこたえると、ハタケヤマは浅黒い顔中を皺だらけにして笑い、俺にまた握手を求めてくる。サルみたいだ、と俺は思った。アメリカ人が日本人を指す蔑称として「イエロー・モンキー」という言葉があることを俺は思い出した。ハタケヤマのカサカサに乾いた手のひらを握り返しながら、俺の中には「落胆」と「安堵」という、相反する感情が渦巻いていた。


またメジャーの夢は叶わなかったという「落胆」と、また生き残ることができたという「安堵」の感情。


「ところでミスター・ハタケヤマ」

 今度のチームでは、年俸はいくらもらえるだろうか。いつまでも握ってくるハタケヤマの握手を振り払いたい気持ちを抑えながら、俺はあらまたって問う。

「あなたのチームは、何という名前なのですか?」

「あすれ……」

「え?」

 ハタケヤマの小さな唇が動いたが、早すぎて聞き取れなかった。俺が「え?」と聞き返したのが不満だったのか、ハタケヤマの眉間に小さな皺が寄る。

「アスレチックス!」

 ハタケヤマは背伸びをするように、俺の顔に少し近づいてから言った。

「え?」

 しかし、俺はまた聞き返してしまった。ハタケヤマの眉間に寄った皺が深くなり、唇の片方だけつり上がって不満そうな表情に変わる。

カノン・キベ! 君は嬉しくないのか? という風に。

「コングラチュレーション! キム」

 横から伸びてきた監督の大きな手のひらが、泥のついたユニフォームの上から、俺の肩を優しく包み込む。

「彼はアスレチックスのGM補佐・ミスターハタケヤマだ」

 監督は、まだ眠っている俺の意識を揺り起こすように、大きく肩を揺さぶった。

「キム! 君の夢は叶ったんだよ」

 歪んだ視界の隅で、日焼けしたハタケヤマの表情にようやく笑みが戻った。頭で理解するよりも先に、熱い涙が頬を伝った。

この瞬間を待ち構えていたのだろう、狭いミーティングルームに飛び込んできた用具係や分析係の球団職員たちに祝福され、もみくちゃにされていなければ、俺はこのミーティングルームの床に泣き崩れていただろう。

「夢は叶ったんだよ! キム」

 腹の突き出た球団職員の男が、発狂に近い声で俺に叫ぶ。クラブハウスにやってきた時の、あのこわばった表情は演技だったのだろう。

「フォー!!」「アメイジング!」「ファッキン・グッド! キム」興奮した職員たちの生暖かい息を浴びながら俺は突き飛ばされたり、もみくちゃにされながら、それまで重かった身体がスッと、ラクになっていくのを感じた。

「おい、君たち!」

滲んだ視界は、生ぬるい薄らとした膜で覆われ、遠くでハタケヤマが本気のトーンで『フィッシュアンドチップス』の職員たちに向かって叫んでいる。

「頼むから、僕の大切な選手を壊さないでくれよ!」

涙が頬を伝い続けている。この瞬間が、いつまでも続いてほしいと思った。熱い涙が、これまでに味わったあらゆる苦痛を、綺麗に、洗い流してくれるような気がした。

 

 

俺はミーティングルームの隣にある監督室に通され、気持ちが落ち着くまでここで待機するよう指示された。ミーティングルームよりもさらに狭く、椅子と机が一つずつ置かれただけの簡素な部屋には、俺の前にメジャーリーグ昇格を告げられたマイクと、マッケンジーもいた。

「マミー! 本当なんだよ」

 マッケンジーは画面に『MOM』と表示されたスマホに向かって叫んでいる。

「僕はビックリーガーになったんだ!」

 反対側の壁にはマイクが「背番号18」の背中をつけ、床にへたり込んだまま呆然としている。部屋に入ってきた俺と目が合うと、分厚い下唇がめくれ、ほとんど息だけの声で「アンビリーバブル(信じられない)」と呟いた。

「何と言ったら、良いのだろう……」

 その時、後ろの扉が開いて、あの青い瞳を持った青年が入ってきた。

「あなたがミスター・カノンキベですか?」

俺が頷くと、人気ボーイズバンドの『ジャスティン』に似た青年は、俺と握手を交わしながら「ジャックだ。よろしく」と自分の名前を告げた。背はひょろっと高いが、顔にはまだ子供のようなあどけなさが残っている。ジャックは、アスレチックスのテクニカル・アドバイザーという役職についているらしい。

「ジャックが球場に足を運ぶのは珍しいんだよ」

 隣の部屋からハタケヤマが小さな顔をぬっと突き出してくる。

「彼は球場で観戦するよりも、画面上の数字を見つめている方が好きらしい」

 ハタケヤマは一重瞼の下にある小さな黒目だけを動かして、ジャックの横顔を見る。

「だが、野球はデータや数字がすべてじゃない」

 ハタケヤマの言葉を、ジャックは黙って聞いている。ハタケヤマの年齢は分からないが、日焼けした肌に顔のしわが多いせいか随分と老けて見えた。背の低い日焼けした老人と、ひょろっと背の高い白人の青年。奇妙なコンビだなと俺は思った。まるで一昔前の支配層と、被支配層の関係を現しているようだった。

「球場に足を運んで、生で選手たちのプレーを見なければ分からないこともあるんだ。ジャック! 君がアスレチックスのGMになりたいなら、まずはそういうことを学ばなければならない」

 被支配層だったハタケヤマが、元支配層のジャックの白い顔を見上げて言う。ハタケヤマの発する言葉の一つ一つに、ジャックは「イエッサー」とこたえていたが、その表情から感情の変化を読み取ることはできなかった。



 監督に促されて俺たち三人は狭いクラブハウスの中に入る。ハンバーガーを食べたり、身体をマッサージしていた元チームメイトたちは、監督の横に並んだ俺たちの姿をじろっと見上げる。

「みんなに報告がある」

 静まり返ったクラブハウスに、四角いフチなし眼鏡をかけた監督の声が響く。棚上に取り付けられた旧式テレビから、今日のメジャーリーグ速報の音声がかすかに漏れてくる。

「ここに並んでいる三人はトレードされ、チップスから離れることになった」

一番奥にあるロッカーを片付けていたボーンが、手を止めてこちらを振り返る。足元には、送付用のタグが取り付けられた段ボールが2つ。彼もトレードされたのだろうか。

「彼らがトレードされたチームは3Aのチームでも、独立リーグのチームでもない」

 ボーンの左手にはバットが握りしめられていた。彼の鋭い視線と目が合った監督は一瞬、言葉を詰まらせる。

「アスレチックスだ」

 それでも監督は、選手たちを煽るように両手を広げ、プロレスラーの登場シーンのように拳を握って見せる。

「君たちの仲間は今日、メジャーリーガーになったんだ!」

 監督の言葉は、まだ黙りこくっている選手たちの耳に空虚に響いた。いつもの賭けポーカーグループの一人が、山札から一枚とって絵札を確かめる。右手でふくらはぎをマッサージしていた奴は、左手の小指で耳の奥を掻く。またある選手は、自分の歯形がついたハンバーガーにじっと視線を落とし、赤い包みを握りしめた時、乾いた音がクラブハウス全体に大きく響き渡った。間が持たなくて監督は、フチなし眼鏡のブリッジを指で何度も押し上げる。転校初日の小学生のように、俺たちは三人ともうつむいたまま何も言えずにいる。ハズカシメを受けているのだろうか俺たちは? 隣でマイクが、小さく唇を動かして「ファック……」と呟いた。

「ファッキュー! クソヤロウども……」

 左手にバットを掴んだボーンが一歩、前に踏み出してくる。俺の身体はビクンと、情けなく反応する。

 ボーンは脇にバットを抱えると、空いた両手のひらを、汗が滲んだシャツの前で一度、パチンと叩いた。もう一度、叩いた。ゆっくりと、さらにもう一度。ボーンの表情に笑顔はなく、深い灰色の瞳は俺たちを睨み続けていたが、それは確かに、拍手だった。まだ黙りこくっているチームメイトたちに、ボーンは拍手を強制するように「パチン 」と一度、ひときわ大きな音を立てて手のひらを叩く。キャプテンに命じられたら仕方がない、という風に、白人グループの一人が手を叩き始めると、すぐ傍でふくらはぎをマッサージしていた中南米系のチームメイトも手を叩き始める。やがて、おざなりな拍手が、古びたクラブハウス全体に響き渡る。

「バアイ! クソヤロウども」

 マイクが呟く。俺は振り返った。唇の端を歪めてマイクは笑っていた。いつになったら拍手は終わるんだ? という風に、元チームメイトたちは互いに顔を見合わせている。

 マイクは、足元の床に飛ばした細かい唾と一緒に吐き捨てた。

「バアイ! 二度と会うもんか」



 慌ただしくロッカーを片付けて外に出ると、球場前のストリートでタクシーを待つボーンと遭遇した。足元に2つあった段ボールは宅配便で送ったのだろうが、グラブとバットをしまった袋だけは、胸の前でたすき掛けにして大事に抱えていた。

 先頭を歩いていたマッケンジーは、ボーンと握手とハグを交わしたが、マイクは無視してストリートを東の方角へ向かって大股で歩き始める。

「マイク!」

 俺は、ハタケヤマとジャックが待っているのとは反対の方向へ歩き始めたマイクに「あっちだ!」と叫んで、西の方角を指して見せる。

巨体を翻して再びボーンの前を通り過ぎる時も、マイクはやはり視線を合わせようとしなかった。あまりに子供じみた態度に、ボーンは呆れたように肩をすくめて見せる。

 最後は、俺だった。二人の行く先を見つめるボーンの背後には黒い川が流れ、向こう岸では炊き出しの明かりがぼんやり灯っている。ボーンは、両手を短パンのポケットに突っ込み、お前はどうするんだ?という風にこちらを見つめている。

「トレードですか? ミスターボーン」

 俺が差し出した手のひらを、ボーンはいつもの蔑むような笑みを浮かべて握った。

「いや、クビだったよ。キム」

俺が視線を逸らせると、ボーンは握手の手を離して、俺の二の腕の辺りをはたいてくる。

「いちいち感傷に浸るんじゃねえよ。お前はもうメジャーリーガーなんだぞ?」

 そしてお決まりの説教が、うつむいた俺の頭上から垂れ流される。

「この世界じゃ感傷なんてモノは全くクソの役にも立たない。腐った生ごみと一緒に棄てちまった方がマシだ」

 一緒にプレーしていた時は、胃液がふつふつと湧きあがってくるほどにムカついたボーンの説教も、これで最後だと思うと、何だか惜しい気がした。だが、俺が「寂しくなるよ」なんて言えば、ボーンは「勝者の余裕か?」と言って、やはり俺を蔑むように笑うだろう。

「この世界でお前を救ってくれる奴なんて一人もいない」

 その時、東の方角に立ち込めた暗闇に、一つの明かりがポッと灯る。迎えのタクシーがつけたヘッドライトだろうか。

「この世界で信じられるのは自分しかいない。結果だけがモノ言う世界だ。キム! 感傷に浸っている余裕なんてないんだ。だから……」

 俺の迎えか、それとも、ボーンの迎えのタクシーか。分からないが、いずれにせよ、これで俺たちは本当に最後になるだろう。右側から迫ってくる光が大きくなり、俺と、ボーンの表情を照らし出す。

「迷ったら『教会』へ行け」

 ストリートに滑り込んできた黄色い車体が、惰性で車体を少し前のめりに沈ませながら俺たちの前で停止する。

「感傷なんてモノは、この世界じゃクソの役にも立たない。そんなモノを抱えている限り、お前はいずれこの世界で敗れることになるだろう」

後部座席のドアが開いたが、乗り込もうとしない俺たちを、ドライバーが窓枠から身を乗り出して睨みつけてくる。

しかし、ボーンは続ける。

「『球場』ではお前の苦しみなんて誰も知らないし、知りたいとも思わない。感傷なんてクソの役にも立たないんだ。でも……」

短くクラクションを鳴らされる。ボーンは振り返って右手を上げ、ドライバーに自分が乗車する意志を示す。

「苦しむことは間違いじゃない。お前がどんなに嘲笑われても、神だけは、お前が正しいということを知っている」

 俺は「ボーン!」と彼の名を口にしたが、無視して彼はもう後部座席に乗り込んでドアを閉めてしまった。

 ボーンのくぐもった声が、黄色いドアと煤けた窓ガラスを通して聞こえてくる。

「苦しめ。そして、生き残れ! キム」

 ドライバーがアクセルを強く踏み、ボーンを乗せたタクシーは西の方角へ走り去っていく。タクシーが歩道を歩くマイクのすぐ横を通り過ぎる時、後部座席に座ったスキンヘッドに気が付いたのだろう、マイクは赤いテールランプをつけた車体に向かって中指をピンと突き立てて見せた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ