95.何から逃げて来たのか
「陸路で来ただと?」
アツリュウはバッシャールの信じられない返答に、驚きの表情をそのまま見せてしまった。
バッシャールは、アツリュウが何をそんなに驚いているのか不可解な様子で、ピプドゥ人がヒルディルド国に陸路で侵入するという、その信じられない価値に全く気付いていない様子だった。
ヒルディルド国は大陸の東の果て、赤ん坊が右向きになった形をしている。
赤ん坊の頭から、背中、足までの大陸側は、山脈と大森林、その先は岩砂漠があり天然の要塞になっていて、唯一の隣国ハイシャン国からでも、海路でしかヒルディルドに入国できない。
10数年前まであった、唯一のハイシャンとの陸路はオポロングルドの戦で失っている。
アツリュウが領主代行をしているエイヘッドは、赤ん坊の頭の位置にある。
最も高い大山脈に、頭は覆われており、さらに地元民でも迷う大森林が広がっている。
大森林の向こうには岩砂漠があると言い伝えにはあるが、地図はなく大陸とつながっているのかさえ確かではない、未開の地。
その未開の地のさらに果てから、バッシャールはやって来たという。
本当に? そんなことが実現可能なのか?
何百年ものヒルディルド国の歴史で、エイヘッドの西から他国人が来るなど一度も無いのに。
「森の人の助けを得て、大森林を渡ってきた」
バッシャールの言葉に、ピプドゥ人は昔から森の人との付き合いが深いのかと問うた。
バッシャールの話によると、彼は森の人など聞いたことも無かったそうだ。
大陸の文化は西側に集まっている。
大陸の北西にピプドゥ国の王都
南西にハイシャン国の王都
それに向かい合うように小大陸があり、北ルールド帝国、南ルールド帝国がある。
世界でもっとも力をもつ上位4つの国は、西の果てでにらみ合っている。
東の果てのまた果ての、さらに山の向こうの100年も文化が遅れたような小国。そんなヒルディルド国など、大国の意識にも上らない。まして、ヒルディルド国のもっとも田舎であるエイヘッド領に、仮に陸路で行くことができるとして、そこになんの価値があるだろう。
広大な草原を越え、さらに乾いた過酷な岩砂漠を命がけで越え、不思議な原住民族の助けを借りて、大森林を進んだ先に、ようやくたどり着いても、凍てつく冬と貧しい村があるだけだ。
そこに価値を見出した、たった一人の男バッシャール。
彼は国の大罪人。
ピプドゥ国で命を狙われ、港は監視され海路で国外に出るのは絶望的。
彼は大陸を逃げて来た、東に向かってひたすらに……
「ピプドゥ人は遊牧民で定住しない。だが、ピプドゥの王族は都を造り、王宮で暮らしている。だからピプドゥ人の大半を占める部族の者達は、王族を『しっぽを帝国人に切られた、飼われた狼』として馬鹿にしている」
話が進んでくると、バッシャールは警戒心をゆるめたようだった。
アツリュウとヨンキントの手の縄を解いて、食事を振る舞ってくれた。
彼は寛いで、ゆったりと酒らしきものを飲んでいる。
しかし、アツリュウの足首と、膝の位置はご丁寧にきっちり縛られている。「坊やは怖いから、縛っておかないと噛みつくだろう」と彼は冷えた目で笑う。
「ピプドゥの王は、遊牧民を束ねる13の部族の頭領だ。はるか昔はこの13部族の中の最も力のある、部族長がピプドゥの王に選ばれた、だが、ピプドゥ王家はその地位を今や独占している。なぜなら帝国の圧倒的な武力を手に入れたからだ。弓矢で戦う部族を、ピプドゥ王家は銃で躾ける」
ゆったりと話す低い美声、アツリュウは慣れない帝国語を理解するのに必死で、物など口にできない。けれど隣で、ヨンキントが出された物を上品に食べていた。彼はどこでも落ち着ている。
「部族人である狼たちはなかなか言うことを聞かない。隙あらば刃向かってくる。狼たちを躾けるのが、第二王子の私の仕事だった。あと、ハイシャン国との小競り合いで、小さな戦はしょっちゅう起こる。私は王都にいるよりも、戦地にいることの方が長い。政は第一王子の兄の仕事、戦は弟と、まあ私たちは上手く役割分担できていた、あの夜までは」
あの夜とは彼が政変を起こした日のことだろう、バッシャールは他人ごとのように語った。
「父と兄は気づいたら焼けていて、14歳の従弟が王になっていた。まあそれで、ここまで逃げて来た」
これから彼が謀反を起こした詳しい話を始めるかと思ったが、バッシャールはさらりと一言いって、どうでもいい話とでもいうように、酒を飲んで、それきり黙った。
「焼けていたのではなく、あなたが王と王太子を焼き殺したのでしょう?」
ヨンキントが問う。アツリュウは内心びくっとした、そんな彼を逆なですることをわざわざ言うか?
バッシャールは面倒くさそうな顔を変えなかった。
「そう思ってもらってよい。だが、死んだ彼らの話をしても意味がない。問題は、現在王座にはバッシャールがいて。すまないな、紛らわしいが我が国では、王位に着くと祖父の名で呼ばれるのだ。だから従弟と私は同じ名を名乗っている。従弟の名はヌーフ・マウルード・バッシャール、分かりやすいようにヌーフと呼ぼう、ヌーフが王だと13部族は認めていない」
「13部族はあなたを王にしたいのですか?」
ヨンキントの問いにバッシャールは「まあな」と即答した。
「あいつらが、私をバッシャールと呼ぶ。面倒なことだ」
「面倒と仰るが、あなたは王位を取り戻す気はないのですか?」
ヨンキントに問われ、彼は今度は即答しなかった。眉根を少し寄せて、また酒を飲んだ。
「私は、弓矢で大砲と銃に立ち向かいたくない、私の軍隊はいまやヌーフのものだ。あいつらの優秀さは私が一番知っている」
「あなたはその優秀な軍隊を引き連れて、王を殺してから、すぐに王座に座ったら良かったのに、軍隊も丸ごと取られるとは、ずいぶん下手くそな謀反を起こしたのですね」
ヨンキントが彼を怒らせるとしか思えない言い方で、挑発したが、バッシャールは「まったくだ」とまた他人ごとのように答えた。
「私は勝てない戦はしない主義だ、だから王都を離れた。仲のよいある部族に身を寄せた。そうしたら族長が、部族同士の小競り合いがあるから手伝えという。まあ、かくまってもらっている手前、手伝って勝たせてやった」
勝たせてやる……彼はこともなげに言った。
「まあ、そうしてだ……うるさいことに、あっちの小競り合い、こっちの戦と、部族の中で駆り出されているうちに、部族長が俺に指輪をはめやがる。面倒だから東へ逃げる、そうすると若い奴らが付いて来る。そうして若い奴らが勝手に部族と衝突する。また戦って指輪が増える。ほんとうに迷惑な話だ」
聞いているうちにアツリュウはあれ? と話が思っていたのと違う方向に進んでいることに気づいた。
バッシャールは、父も兄も焼き殺し、さらに妊娠中の兄の正妃まで殺した恐ろしい反逆者で、王位の簒奪をねらっているのではないのか? しかし、いくら聞いても、彼から王位への熱意が全く感じられない……
なんだこの男は? この男の目的は何なのだ。
「ピプドゥには13部族が束ねる、さらに小さな部族が無数にいる。広大な草原で、奴らが集まってきて俺をバッシャールと呼び、我らは皆あなたに従いますと騒いで、王都に戻って戦えと焚きつける。だから俺は面倒で、東へ東へと逃げて来た。現王ヌーフから逃げて来たわけじゃない。部族から逃げてきた、そうして東の果てにやってくると、面白い話を聞いた。森の人だ」
バッシャールの話が、ようやくエイヘッドに繋がった。




