90.ピチパと呼ぶ男
「頭領この子だ」
仮面の男が指さしながらリエリーの前に立ち、ピプドゥ語でそう言うと仮面を取った。小麦色の肌と黒い瞳、それはシオと同じ色の肌、彼は間違いなくピプドゥ人だ。
背の高い、頭領と呼ばれた男がゆっくりと近づいてくる。
リエリーの目の前に立つと、口元を覆っていた布を下げた。小麦色の若い男の顔が現れた。
ピプドゥ人独特の彫の深い顔立ち、漆黒の瞳がリエリーの視線を捕らえた。
輝く黒曜石の瞳が面白しろいもので見るように、リエリーを観察している。
「放せ」
ピプドゥ語の彼の一言で、リエリーの拘束は解かれ、黒い岩のようだった腕から解放された。
リエリーは足に力が入らず、へたりこみそうになったが、よろよろ下がると壁にぶつかり、そのまま壁に背を支えられてなんとか立った。
手足を縛られておらず、自由にうごける身ではあったが、部屋中にいる黒装束の男たちの目が、自分ただ一人に向けられている。ピクリとも動くことができなかった。
リエリーは震える体で部屋を見る、黒装束の男たちは15人はいると思われた。いったい何が起こっているのだろう。外にいるはずの警護兵はどうなったのか、外から物音はなにも聞こえてこなかった。
背の高い男はそのまま背を向けると、小さく指示してココサワ爺を移動させると長椅子に座った。
仮面の男が、労わりながらココサワ爺を抱くように動かすのを見て、リエリーは初めて息を短く吐いた。ずっと息を止めていた気がした。
頭領と呼ばれた男は、ゆったりと寛いだ様子で座っている。腕を組んでずっとリエリーから視線を外さない。口元は微笑んでいるようにも見えた。
「おいで」
ピプドゥ語で発せられた低く、滑らかな声は、まるで帝国の弦楽器を奏でるように優雅に響いた。
「ピプドゥ語が分かるんだろう?私のところへおいで」
間違いなく彼は微笑みを浮かべた。
夕闇に一つだけ光るランプは中央の卓に置かれ、リエリーを呼ぶ男の顔を不気味に照らす。
リエリーが壁に背を押し付けて、何も反応せずにいると、彼は足を組んだ。
「そうか……君が来てくれないのなら、誰にしようかな……ではこの右側の男の……耳を削ぐ」
びくっと肩が揺れてしまった。
優雅にゆっくり話す彼の口調は、なんの恐怖も感じさせない、目線さえ動かさなかった。それなのにリエリーは反応してしまった。
「本当だ、分かるんだね私の言葉が……こちらにおいで、さあ」
彼から視線を逸らして、リエリーは分からないふりをした。
「しかたがないね、それではこの神官の背中を刺してみよう、何回も刺していくからね、君は何回目で来てくれるかなあ……」
体を動かさないように、歯を食いしばって目を逸らす。けれどぞっとする冷たい声が響いた。
「やれ!」
「やめて!」叫けんで男を見た。満足そうに微笑んでいる。
「ピプドゥ語でやめてと言ったら、やめてあげるよ」
「やめてください」
リエリーは観念してピプドゥ語で告げた。
「ああ、とても綺麗な発音だ。ここにおいでピチパ」
小鳥と自分を呼ぶ、その男に向かって一歩を出す。足が震えてうまく歩けない。両手を胸の前で組んで、力を込める。
アツリュウ助けて。
リエリーは時間をかけて動いたが、とうとう彼の前に立ってしまった。
彼は組んでいた足を解き、両手を膝に置いて、前かがみになると、リエリーの顔を下から覗き込んできた。
「とても美しい。宝石の瞳をしているねピチパ。あなたの名前を教えておくれ」
漆黒の瞳が問うてくる。目を伏せてひたすら両手に力を込めて黙っていた。
彼が動いて目の前に立った、見上げる長身が帝国式の礼をした。品のある所作は彼がそれをやり慣れていることを示していた。
「ならば私から名乗ろう。我が名はアル。美しい人よどうかあなたの名を教えて欲しい」
フッと耳元で彼の笑い声が聞こえたと思ったと同時に体が浮いた。抱きかかえられたのだと分かった瞬間、体が恐怖で縛られた。
嫌だ嫌だ、触らないで!
リエリーを横抱きにしたまま、男は長椅子に座る。彼の腕がリエリーの頭を支え、両足の下に彼の腕がある。
体にきつく力を入れる、震えが止まらない。
嫌だと思うのに、怖くて動けない。
「ねえ、美しい人。あなたはいったい誰なんだ。こんな北の田舎にピプドゥ語を話す人間がいるなんありえない。そして、これだけ大勢の兵士に守られている。あなたは都から来た人だ。そうだろう?」
彼はリエリーを抱きかかえながら、今度は帝国語で問いかけた。
とても流暢な帝国語は、まるで母国語を操っているかのようだった。
「この兵士達はあの領主のものだ、あなたはあの坊やに守られている。あなたは領主に守られるべき存在、高貴な身であることは間違いない、そうだろう?」
怖い、どうしたらいいのか分からない。触れられている嫌悪感で叫び出しそうになる。
「何も教えてくれないのだね美しい人。でもいいよ、私の根城に連れていく、そこでゆっくり教えてもらおう」
連れて行くという言葉が聞こえて、リエリーは恐怖に暴れて彼から逃げようとした。
彼の腕が強くつかんできて、胸に押し付けられ逃げられない。はははと笑い声が頭の上でした。
「ピチパは帝国語もよく分かる。あなたはには高度な教育が施されている。とても良いピチパを手に入れた。あなたはきっと私を助けてくれるだろう」
「彼女を放しなさい」
ヨンキントの聞いたことの無い低い声がした。彼は帝国語で怒鳴った。
「どうした神官、おまえも帝国語を話すのか。だがお前には何もできない、私はこの美しいピチパをもらっていく。早く帰らないと、あの坊やがやって来るからな。あの子は怖い」
「彼女を連れて行ってどうするつもりです」
ヨンキントは帝国語で問うた。男は笑った。
「美しい女を連れて行くのに理由などいるのかな?」
「欲しい物はなんです」
ヨンキントの声に、男の返事は無かった。
「ここの警備兵は彼女に付いているのではない。私を守っているのだ。私はこの国の三大王家の1つヨウクウヒ王の息子、第三王子のヨウクウヒ・ソーゴ・ヤーナバル。私がお前の話を聞いてやる、彼女から手を放せ」
ヨンキントがそう言い放った。
「へえ、面白いことを言う。だが神官、お前の言葉を私は信用できない」
「信用するのは簡単だアルよ、お前はピプドゥ国王の第二王子、政変で追われ、今は国の大罪人だ。違うか?」
「私の名を聞いただけで、ピプドゥの王子とわかるのか」
男の声は少し苛だちを含んだ。
「そうだアーディル・フェサード・バッシャール。お前の名を聞いただけで、それだけのことが私には理解できる。他国の王族の名前も情勢もこの頭の中に入っている。私はそういう立場の人間だ。お前が殺した者たちの名前も一人ずつ言ってやろう。」
ヨンキントが大きく怒鳴った。
「だから彼女を放せバッシャール。お前の欲しい物は私が与える」
ふふっと男が不敵に笑う。
「お前の話を信じてやってもいい。だったらピチパとお前の両方を連れていこう」
「彼女は駄目だ。もし連れて行くと言うのなら、私はお前のために動かない」
「ずいぶん強気なんだな、ヨウクウヒの王子よ、自分が縛られているのを忘れたか、お前の命は私が握っている」
「バッシャールよ、お前の命を握っているのは私だ。お前は大罪人、ここで逃げ隠れているのだろう。私はおまえを救い出すことができる頼みの綱だ。慎重に考えろ、ここで王族に繋がる私を切れば、お前を穴から出す綱は切れてしまうぞ」
腕をつかまれていた強い力が緩んだ、リエリーは男の膝から降ろされ、前に立たされた。すぐに離れようとしたのに、彼に腕を掴まれ、逃げられない。
「美しい人、また会おう。私はあなたが気に入った」
ピプドゥ語で低く耳元でささやくと、男は手を放した。
リエリーは弾かれるように身を引いて、カーリンの元に行って彼女の体にしがみついた。男に触れられていた嫌悪感が全身に残っている。唇を強く噛んで耐えた。
男は立ち上がるとヨンキントの前に立った。
「神官よ、お前を王子と信じるには足りぬが、私の根城はあまりにむさ苦しい。ピチパが弱ってしまうといけないからな。お前で我慢しておこう」
男が指示すると、ヨンキントは縛られたまま黒装束の男に担がれた。彼は蹴られた場所が痛むのか、動かされると、苦し気に声を上げた。
「ヨンキント様」とカーリンと同時に叫んだ。
「大丈夫です、彼は私を殺しません。彼は私を人質にこれから交渉してくると代行に伝えてください」
ヨンキントが担がれたまま、叫ぶように言った。
「ピチパ」
頭の上で声がして、リエリーは震えながら見上げた。
「あの翁の山小屋に来いと坊やに伝えてくれ」
ピプドゥ語で告げる低い声。黒曜石の瞳は親しげに見つめ、微笑んでくる。
「どうしてもあなたの名を知りたい美しい人」
口を結んで、カーリンにしがみつく。
「彼を傷つけないで」ピプドゥ語で言って睨みつけた。
「ああ、可愛らしい声だ。あなたが名を教えてくれるなら、彼を傷つけないと約束するよ」
「ドードヤーナに誓ってください。彼を傷つけないと」
黒曜石の瞳が驚きに揺れて、嬉しそうに微笑んで顔を近づけてくる。
リエリーは思い切り睨みつけた。
「神の名も知っているのピチパ、増々気に入った。ではドードヤーナ様の御名の前で誓おう、あの神官をけして傷つけない」
「私の名はピプドゥ語で『リラの木』ヒルディルドではなんと呼ぶかは、自分でお調べなさい」
「意地悪なんだね、でも名を教えてくれたから約束は守るよリラ」
ささやくように言って、リエリーから離れた。
黒装束の集団は、ヨンキントを連れて去って行く。音もたてずに流れるように戸口に影が吸い込まれていき、部屋から動く全ての影が消えた。卓の上のランプの中で炎が揺らめき、恐怖だけが残った。




