77.スオウの聞きたかったこと
「姫君はエイヘッドへお一人で来られた。その道中の話をまだ詳しくお聞きしていない。どんな旅をされたのか私は知りたいのです」
スオウはそう姫様に尋ねた。「あなたの旅を手引きした者に、罰は与えないとセウヤ殿下はお決めになりました。あなたの無事を守ってくれたことを感謝していると。だから見逃すと仰せです。ですのでご心配なくお話しください」と付け加えた。
「私は乗合馬車でポートダブド港まで行き、そこからエンドバード行きの大型帆船に乗りました。植物学博士のヤマブキと菌類学博士のトイタのお二人が私を連れていってくれました」
「侍女もなく本当にお一人だったのですね、身の回りの世話をそのヤマブキとやらがしたのですか?」
オルゴンの問いに、姫様がまさかと否定した。
「身の周りの世話はもちろん自分でしましたし、私はヤマブキの助手として働きました。でも己の世間知らずなところを知って何度も情けなくなりました、できないことがたくさんあったのです」
その時のことを思いだすように姫様は小さく息を吐いた。
「私はいつ始めて、いつ終わるのかが分からないのです。着替えも、食事も、片付けも、掃除だって、教わればやり方はすぐに覚えられます。けれど……いつそれをすればいいのか、合図がないと始められないのです」
姫様の言わんとしていることが、アツリュウにはよく分からなかった。皆も不思議そうな顔をしている。
「例えばどんなことですか?」
オルゴンに聞かれて、姫様はそうですねと首を傾げた。
「朝起きて、ヤマブキに『着替えてください』と言われないと着替えができませんでした。ヤマブキも初めは、ご自分で始めてくださいと促したけれど、私がどうやっても彼女の言葉が無ければ始められないことに気づいて、旅の最後の方は1つずつ合図をしてくれました。考えてみると、私の今まで生活は全て侍女の言葉で動いておりました。「姫様お食事です」「姫様お着換えです」といったふうに、ですからそれを自分で考えてすることが身に付いていないのです、今は前よりできるようになりました。でもやはり苦手に感じています」
姫様の話を聞いて、アツリュウはこの方はやはり王家の深層に仕舞われていた王女様なのだとつくづく思った。このような王家の姫が、よく乗合馬車などに乗ったものだ。改めて姫様がどれほどの決心で、知らない世界に飛び込んだのかが分かり胸を苦しくした。
「でも、船旅の間にした、ヤマブキのお手伝いは良くできたと褒めてもらいました。主には書類の整理でした。私は似たようなことを今までしていたので、難しいことはありませんでした。ただ……トイタのお手伝いは初めてのことで、上手くできたのかどうか今でも分かりません」
「そのトイタ先生もヤマブキ先生みたいな、素敵な女性教授だったの?」
カーリンの質問に、「いいえ男性の方です」と姫様が返事をして、アツリュウの心がざわっと動いた。
男性だと?
「トイタは20代にも、40代にも見える年齢がわからない背の高い男性で、研究のこと以外は全くお話しにならず目も合いません。船ではヤマブキとトイタと私で1つのお部屋で過ごしましたが、彼が眠っている所を一度も見ませんでした。ずっと研究されていて」
アツリュウが勢いよく姫様の方を向いたので椅子がガタっと鳴った。
今同じ部屋で過ごしたと言った?
「え? リエリーその男性と同じお部屋だったの?」
カーリン嬢がアツリュウの問いたいことをズバリと聞いてくれた。
「はい、着替えの時などは外に出てくださったので、特に問題はありませんでした」
いやあるだろ。大ありだ。そいつは姫様の寝顔を見たのか、姫様そんな知らない男と同室で眠るなんて……なんてことを。
「トイタは船内の菌類を集めていて、私に助手をさせました。菌はじめじめした暗い所にあるそうで、船の底の方の倉庫などに二人で行って……」
じめじめした暗いところだとう? ふざけんなその男、姫様に何を……
「金属のへらで、菌がありそうなところを、こうやってこしこしと擦ってですね、採集したものを瓶にいれます」
姫様はその時の様子を身振りでやって見せた。
「採集は楽しかったですけど、船の底は信じられないほどひどい臭いでした。それは辛かったです」
「あの、姫様。その男になにか不埒なことはされませんでしたか、その不用意に触ってくるとか?」
アツリュウが耐えきれずに聞くと、不思議そうに首を振った。
「トイタは私の目を一度も見ませんでした。最後にお別れの挨拶をするまで、近くに立つこともありませんでしたよ」
アツリュウはほっとして息を吐いた。
「私はずっとトイタに嫌われていると思っていましたが、エンドバード港でお別れした彼が「あなたは最高の助手だ、あなたの望む限り私が面倒を見るから私と一緒に来て欲しい」とお願いされたので少し驚きました」
「それは求婚に聞こえますね」
サンバシがいらないことを言った。
姫様がどんな危険な旅をしてきたのかが良く理解できた。無事にエイヘッドにたどり着いてくれて本当に良かったとアツリュウは身震いした。そのトイタという男がエイヘッドに尋ねてきた時には、真っ先に自分の所に知らせが来るようにせねばと思案していると、黙って聞いていたスオウが「姫君」と声を出した。
「あなた様がどれほどの決意で一人旅に飛び込み、助けがあったとはいえ道中ご苦労をされたことが理解できました。その勇気に敬意を捧げます。しかしながら、ご無事であったのは薄刃を渡るがごとく、たまたま幸運であったとしか申せません。どうか、もう二度と護衛を付けずに出かけることはおやめください。あなたを失うとなればセウヤ殿下は大軍を動かします。先日の姫君の行動の結果、代行がエイドドアドを封鎖したのもご覧になったでしょう?あなたは王女なのだとご自覚ください」
厳しく淡々とスオウが語る、姫様の顔はみるみる強張り小さく縮こまってうなづいた。
「スオウそこまでだ。それはお前が言うことではない。必要があれば代行であり婚約者である私が姫様にお伝えする。お前が姫様に意見することは許さない!」
スオウに真っ向から喧嘩を売った。アツリュは彼に出会ってから一度たりともしたことのない冷めた視線で睨みつけた。
「承知しました代行。ご無礼をお詫びします」
代行の権威で上からものを言えば、スオウが従うことは分かっていた。けれど心の中でなんて滑稽なんだろうと笑えるほどだった。代行の任も婚約者であることも、セウヤ殿下の気まぐれで、明日にも失うかもしれない軽さだ。
どっちが上か? そんなの一個小隊を完全に任されているスオウの方が力を持っているに決まっている。
アツリュウは知っていた。セウヤ殿下に歯向かえば、スオウが自分を捕らえる役目であるのだと。
それでも、スオウに噛みつきたくなる程にひどく腹が立ったのだ。
「まあまあ、スオウ殿のお気持ちも分からないではないですよ」
ヨンキント様ののんびりとした声が、アツリュウとスオウの間でピンと張られた緊張を少し緩めた。
「私は少し気になることがございます。スオウ殿に質問してもよろしいですか」
ブルーグレーの瞳が細められ、ヨンキント様の方に向けられた。スオウは浅く頷いた。
「どうしてスオウ殿はリエリー様を姫君とお呼びになるのですか?」
「何か問題があるだろうか」
「問題はございませんが、姫君は幼子への呼称に感じます。リエリー様の御年齢なら我が国では姫様の方が一般的ですから」
スオウは答える気があるのか無いのか、無表情のまま黙っている。
ヨンキント様は返事が無いことを気にすることなく言葉を続けた。
「スオウ殿はリエリー様が姫君と呼ばれるにふさわしい幼子だった時を御存知なのでしょう? 違いますか?」
スオウはすぐに頷いた。表情は無いのに「だからなんだ」と不機嫌そうに見えた。
「リエリー様、剣士とは本当にやっかいな生き物ですね。大事なことを素直に言うと死ぬとでも思っているのでしょう」
ヨンキントが急にそんな不可解なことを言ったので、姫様は小さくなっていた体を解いて顔を上げた。
「スオウ殿にとって、リエリー様は今だ姫君と呼ぶほどに小さな少女なのですよ、だから「旅は辛くなかったか」「一人で来るなど心配だった」とあなたのことが本当に気がかりだったのです。だから、もう二度とこんな心配はさせてくれるなと、説教してしまった。分かってやってください、彼は怒っていませんよ」
ヨンキント様に好きなように言われてしまったスオウは、細めていた目を開いて、震えあがるような恐ろしい雰囲気を醸し出した。今にもヨンキント様を切り殺しそうに見える。
だが彼は、ヨンキント様が言ったことを否定しなかった。
「はい、今度はこちら。リエリー様、アツリュウ様がどうして急にこんなに怒ってスオウ隊長を咎めたか分かりますか?」
姫様は首を横に振って、アツリュウを不安げに見た。
「それはスオウ隊長がリエリー様の笑顔を取り上げたからですよ。あなたが頑張って開いたお茶会が、とても楽しい雰囲気だったのに、スオウ隊長のせいで、リエリー様は追われて巣穴で震えるウサギのようになってしまいましたから。彼はそれが許せなかったのですよ。だから、アツリュウ様のためにもう一度笑ってくれませんか?」
なんとむず痒いことをヨンキント様はみんなの前で言うのだ。スオウ隊長があなたを切り殺したくなった気持ちが分かる。恥ずかしいからこれ以上なにも言ってくれるなとアツリュウは彼に心のなかで頼んだ。
「あの、あのねスオウ……心配をかけました、ごめんなさい」
姫様の言葉に、心が波立つのが分かった。なんだか彼女の言葉遣いがいつもより幼く感じる。それがスオウに向けられていることに強い不快感があった。
「あの時も、とても怒られたのに……ごめんなさい。もうスオウはきっと忘れているのだと思っていたのです。でも、覚えていてくれましたか?」
スオウがゆっくり頷くと、姫様は微笑んだ。
「あの時はありがとう。それから、私のことを心配してくれたのだと、ヨンキントのお話しで分かりました。だから、いつも心配してくれていてありがとう」
『あの時』と姫様は言った。それは明らかに二人にしか分からない特別な出来事を示していた。
「あのアツリュウ、怒っていますか?」
姫様に不安げに問いかけられ、眉間に皺を寄せてスオウを睨んでいることに気づいた。慌てて「いえ」と答えた。
「アツリュウも心配してくれてありがとう。それから今日アツリュウがお茶会にきてくれてとても嬉しいです」
柔らかく微笑む彼女を見て、つられて自分もほっとして顔が緩んだのが分かった。
「それでは、アツリュウ殿。まだあなたには聞いていなかった。姫様にしてもらいたい事を教えてください」
突然ヨンキント様に振られて、何も考えていないことに焦る。
姫様に望むこと、それはあなたの瞳を見ること。けれどけして口にはできない。
「私が姫様に望むこと……」
すみれ色の瞳が見詰めてくる。甘く心を溺れさせる、その求めるような視線を逸らすことなどできなかった。
「私は……姫様に……もっと笑って欲しい……かな」
思わず言葉がこぼれ出た。
彼女の瞳が揺れて、切なげになって、そして銀色の睫毛が降りて目を伏せた。
なんでこんなことを言ってしまったか。
口元を片手で覆って、アツリュウは同じように目を伏せた。




