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75.このままずっと歩いていたい

 アツリュウは執務室の机の上にうつ伏せに倒れていた。右手がだらんと垂れて、そのまま右半身にほんの少し力を入れれば床に落ちる。体をその不安定な感じに置きながら、やるせない感情に飲み込まれていた。


 今頃姫様を囲んで、皆は楽しくお茶会をしている。

 

 扉を叩く音がした。さっきキボネが言っていた昼食を侍従が持ってきたのだろう。気の抜けた声で返事をすると、キボネが入って来た。


 机に倒れたまま顔だけ向けると、キボネに近くまで顔を寄せられたのでびっくりした。

「お前来ないって言ってただろう?」


 質問には答えずに、キボネは不機嫌な顔をして「まったく情けない」とつぶやくと、ぐいと体を引っ張ってアツリュウを落した。すぐに受け身を取って、立ち上がり、何するんだと抗議の目を向けた。


「せっかくの礼服に(しわ)がよります。さあちゃんと立って」


 キボネはアツリュウの服装を整え、髪も撫でつける。もう要人とやらには会わないのに……

 キボネの怖い雰囲気に押されて、されるがままに机の前に立たされた。


「それでは、どうぞお入りください」

 少し開いていた扉から、そっとのぞく顔があった。


 姫様! どうしてここに?

 これは……なんて!


 

 薄桃色のドレスに身を包んだ姫様が、恥ずかしそうに入って来て目の前に立った。上目がちに見上げてくる額には真珠が飾られている。化粧をしているのだろうか、いつもより赤みを帯びた唇がとても可愛い。


「アツリュウ」

 彼女が名を呼んでくれた。頭の芯から心地いい。


 あなたは花の妖精だ、そうだと俺は会った時から知っていた。

 すみれ色の瞳に吸い込まれる。ああずっとこうしたかった、あなたの瞳を見たかった。


「……様、もうアツリュウ様!」

 キボネの声にはっとして我に返った。彼が何回呼ばせるんですかとブツブツ言う。

「はい、何かリエリー様に言うことはございませんか? どうですかお似合いですか?」


 姫様を改めて見ると、彼女はうつむいて目を逸らした。耳まで真っ赤になっている。


「綺麗だ、本当に綺麗だ。何もかもがとても、綺麗だ」


 恥ずかしがることなんか何にもないことを伝えたくて、必死で綺麗だと伝えたが、直後になんてことを言ってしまったかと、手で口を(おお)いうつむくしかなかった。顔がすごく熱い。


「あり……が………と……ます」

 ほんの小さな囁き声が耳に届くと、愛おしさが胸に溢れて、もっと何度も綺麗だと言いたいのを必死でこらえた。


「あの……アツリュウ。私のお茶会にきて欲しいのです」

「え?……何ですか」


「迎えにきました」

 

 その言葉の嬉しさに、どれだけ自分がお茶会に行きたかったのかを自覚する。それなのに、どうしても喉がつかえるように行くと返事ができない。己が馬鹿者だと分かっているのに、また同じことを繰り返すしかなかった。


「私は……ここに……います。すみません」

 傷ついた目を見るのが怖かった、それなのに何故か彼女はふわっと笑った。


「わかりました。それではキボネお願いします」


 言われたキボネは一度廊下に出ると、大きな盆を持って入って来た。湯気の立つ茶器と、菓子が乗っている。それらを手早く中央の机に並べ始めた。

 戸惑っているとキボネが、それでは「ごゆっくり」と姫を置いて出て行こうとする。


「ちょっと待ってくれ、キボネどういうこと?」

「何って、これからここで、アツリュウ様とリエリー様がお茶を召し上がるんです。まあ、二人でお茶会ですね」


「だって、姫様はこれから皆とお茶会をするんだろう?姫様がここにいたら、あっちのお茶会はどうなるんだ」


「そりゃあ、あちらの会場の皆さまはがっかりされるでしょうね。でも仕方がないでしょう? 婚約者のアツリュウ様が出席しないのに、リエリー様のお茶会を皆だけでするなんてできる訳がないでしょう?」


 姫様を見るとキボネの言葉に全く驚いていない、二人は始めから自分がお茶会に行くのを断ると知っていて、それでこんな準備をしてきたのか? アツリュウがどう返事をすればいいのか迷っているうちにキボネが出て行こうとする。


「待てキボネ、ちょっとその、俺はこれから仕事が……」

 振り返るキボネはにやーっと嫌な笑い方をした。


「どうぞお仕事なさってください。でも今は休憩時間ですよねお茶ぐらい飲めます。あと姫様を置いてどこかに行かないでくださいね、護衛を付けておりませんから。姫様の護衛は今からアツリュウ様がしてください。いいですか、絶対に姫様を一人にしてはなりません。ここは安全じゃないと常々言っているのはアツリュウ様ですからね」


 ぐいぐいと念押しされる。これはまずい、姫様と二人きりになるのを避けられそうにない。


 アツリュウの「待て」と言った声は、閉じる扉の音と重なった。トクトクと鼓動が早まる、そっと姫に目をやると、不安そうなすみれ色の瞳にすぐに捕まり、そのまま見つめ合った。


「あの、キボネがジャムパイクッキーをたくさん作ってくれたのです。アツリュウが好きなイチゴジャムのもありますよ。それから、いろんな種類があって、これがブラックベリージャムで、これがリンゴジャム、それでなんとこれがコケモモジャムです。アツリュウはコケモモという実を知っていますか?寒い所でしか採れない貴重な実で……」


 彼女は早口で菓子の説明をしている。さっきからずっと顔が真っ赤で、すごく焦った様子で、次々にクッキーを指さす。

 きっとすごく勇気を出して……自分に拒絶されることを承知で来てくれた。


 そのクッキーをつまむ白い指に触れてみたい……

 会いたかったあなたが目の前にいて、抗うことがもうできない。


 このまま二人きりでいられたらどんなに幸せだろう、けれどもう限界だ……信用ならない暴走しそうな俺が出てきてしまいそうだ。


「姫様……あの……よろしければ私をお茶会に連れて行ってくださいますか?」


 ぱっと弾かれたように彼女が見上げ「すごい本当になった」とささやいてから大きく頷いた。


「もちろんです! 行きましょう、きっと皆さん待っています」


 嬉しそうに笑顔いっぱいになったのを見て、キボネと姫様、そしてカーリン嬢に、自分がお茶会に行くように仕組まれたのだなと思った。だが、この状況から逃れるにはお茶会に行くしか答えが見つからない。


 アツリュウが姫様に続いて執務室を出ると、キボネが笑いをこらえた顔で立っていた。

 腹が立って何か言ってやろうとすると、彼が眉間に(しわ)を寄せて、自分の右ひじをしきりと指さして「これ、これ」と何かを指摘してくる。


「なんだよ」とアツリュが口の形だけで問うと、彼は心底呆れたと言った顔をした。

「エスコート、習ったでしょ? 帝国式のドレスを御婦人が着ているときの殿方のマナーとやらを……それをやるんですよ」


 ひそひそ声で言われて、頭の中の奥の方に仕舞(しま)って、何年も思い出したことのない帝国式マナーとやらの記憶を探った。ええと、ご婦人と歩くときにするのは……」


 思い出したとたんに、気恥ずかしさで姫様の顔を見られなかった。しかしここはしなければ失礼だ、「どうぞ」と腕を取りやすいように向けると、姫様は真っ赤な顔のまま、そっと腕に手を添えた。


 キボネが嬉しそうな顔で拍手するので増々恥ずかしい。

「アツリュウ様、それではリエリー様をお連れください、会場は迎賓の二の間です」


 全神経が姫様が触れている腕に集中する。お互い顔も見られず、話しもできず、ゆっくり歩く。心の中が焼けるように苦しい感じがするのに、どうしても嬉しい気持ちが溢れて、このままずっと歩いていたいと思った。


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