67.兄からの手紙
リエリーは部屋で一人刺繍を刺していた。
カーリンは社長の仕事があり館を留守にしている、一人どうしていいのかも分からず、ムネゴトウの方々にお礼のハンカチを渡そうと思い立ち、朝から刺繍をしていた。
昨日タクマ―が連れて来た女性医師の診察を受けた。妊娠の可能性はそもそもないことを告げると、簡単な問診の後体を診られた。「もう少し体重を増やさないと抵抗力が落ちてしまいます」と厳しく言われた。
不安が強くてよく眠れず、食欲もないことを告げると、ハイシャン国由来の薬草茶を処方してくれた。離宮でも時々飲んでいた煎じ薬だった。
食べなければ、眠らなければと思うのに不安が募ってしまう。アツリュウはちゃんと、身を守ってもらえているだろうか……
午後になり、「リエリー様に領主城よりお客様が見えています」とムネゴトウ家の執事が知らせてきた。応接室に通されると、スオウがいた。
スオウはシュロム宮廷護衛団で護衛官を務めていた期間が長いので、館に居た頃に自分の護衛だったこともある、見知ってからは何年にもなるが、彼が自分の護衛を外れてからは会話をするのは初めてだった。
いつもは後ろに控えていた人と、向かい合って座ると不思議な感覚がした。どの護衛官も近寄りがたい鋭い眼差しで周囲に注意を向けていて、自分に特別な興味を向ける者はいない。
スオウもいつもそうだった。けれど、昔お祖父様と出かけた時に護衛官として1度助けてもらった時から、この人が怖い人ではないことを知っていた。
「セウヤ殿下より、リエリー王女殿下に書簡を預かっております。わたくしが姫君に読み上げ、その後この書簡を破棄するようにとのご指示です」
感情のこもらない事務的な口調で淡々と告げると、スオウは読み上げてよろしいか?と聞いた。
お兄様と聞いただけで、身が縮こまる。恐ろしいが聞かないという選択肢は自分に無い、手を握りしめて頷いた。
『私が戻ってくる日を決めるまで、エイヘッドに滞在してよい。だが、おまえが私に約束したことを忘れるな。それができないのなら責めはアツリュウに負わせる』
低い声が手紙を読み上げ終わると、彼は封書に戻し「ではこちらはわたくしが破棄いたします」と静かに告げた。何も返事ができず、彼の手元の白い封書を見詰め続けた。
「リエリー様には引き続き、こちらのムネゴトウ家に居ていただきます」
その言葉に彼を見た。ブルーグレーの瞳は感情を映さない、今読み上げたことに、彼は興味を向けていないように見えた。自分が分かりましたと頷けば、彼はすぐに帰るだろうと思った。
『責めはアツリュウに負わせる』
刃が胸を貫いて、そこから体が凍っていくよう。兄様から遠く離れている気持ちがしていたけれど、すぐ近くでいつも自分を見張っているのだと我に返る。
この目の前にいるスオウも、兄様の命令があればアツリュウを殺すのかしら?
彼が帯刀している剣に目をやった。兄様がやれと言えば、この剣で彼を刺すの?
スオウの瞳を覗き込んだ。真っすぐに食い入るように見つめて、心の中で語りかけた。あなたはアツリュウの敵ですか? それとも彼を守るものですか? 教えてくださいと、強く問うた。
彼は視線を逸らし、しばらく目を伏せた。次に視線を合わせた時、そこには何かを伝えてくる感情が見えた。
「水鳥の上様のご逝去、お悔やみ申し上げます」
意外な言葉に、頷いて答えた。お祖父様を悼んでくれたのは、この方が初めてだと思った。
「神殿の裏門が壊されたと聞きました。さぞ、お辛かっただろうと。わたくしもあの門が完成されなかったことは残念です。ですが、姫君がお志を持ち続ければ、いつか再建することも叶いましょう」
驚きに見つめることしかできなかった。どうしてこの人はこんなことを突然言ったのだろう。けれど、回りの人たちが気づかなかった私にとって大切なことを、彼は大切だと知っていたのだ。
「ありがとうスオウ」
彼は僅かに首を動かして頷いた。ブルーグレーの瞳が優しくなったような気がした。
「あの、お話しをしてもいいですか?」
「姫君、わたくしにそのように丁寧な口調で仰られずともよろしいのですよ」
「そうなのだと心得ておりますが、私は経験が乏しく人と話慣れていないのです。王女として相応しくないと分かっているのですが、このまま聞いてください」
スオウは何も答えなかったが、席を立つ様子もない。話を聞いてくれるのだと安心した。
「あの、私の妊娠についてなのですけれど、アツリュウは私のことを大切に扱ってくださっていて、妊娠に繋がるようなことは一切起きておりません。そのことを皆さんに分かって頂きたいのです。彼の名誉を傷つてしまいました。とても申し訳ないと思っています」
「名誉が傷ついたというならば、あなたも同じです。虚偽を公に叫んで、王女殿下の名誉を棄損したとしてカーリン嬢に罰を与えるべきではないですか?」
「いいえ、カーリンに罰を与えることは望んでいません」
「彼女に対して怒っていないのですか?」
スオウの問いに何と答えればいいのか迷った。気持ちのままに話してみようと少しずつ言葉にした。
「エイヘッドに来てから、カーリンのお陰で、いろんな経験をさせてもらいました。彼女は私の話をよく聞いてくれます。それで頻繁に「どうして怒らないの」とよく聞かれるのです。それで気が付いたのですが、私はもう何年も怒ったことがないのです。『怒る』という感情が私の中から抜け落ちてしまったようなのです。あなたが言う通り、カーリンに罰を与えるべきなのかもしれません。それだけのことをしたのだと頭では分るのです。でも今の気持ちを正直に言うと、ここに1日でも長く居られるようにしてくれた彼女に感謝する気持ちの方が強いのです」
彼は少し考える風にしてから「では何も罰しないということですね、分かりました」と短く言った。
「それから、教えてもらいたいことがあるのですが、あの、アツリュウは今どこで寝ていますか?あの……お部屋のことです」
黒ずくめの集団の話を伝えて以来、彼がちゃんと守られているか知りたかった。
「代行は領主館の領主の居室で休んでいます」
驚きに「そんな!」と大きな声を上げてしまった。
「だって、黒ずくめの集団に寝ているところを刺されたのですよ、同じ場所で眠っては駄目です。とても危険です。お願いです別のお部屋で眠るようにしてください」
「姫君の情報はわたくし達も十分に検討し、対策をしております。代行が領主の寝室を使うのにはお考えがあるようです。寝室まわりには護衛も付けて休んでいますのでご心配ありません」
アツリュウは自分の体を大切にしてくれない……そうさせているのは私なのだろうか?
アツリュウはこれからも自分には会ってくれないだろう、直接お願いすることもできない。
「スオウ、あなたはとても剣の腕前が良いと兄様から聞いたことがあります。シュロム宮廷護衛団で2番目に強いのはスオウだと言っておりました」
ブルーグレーの瞳は少し不思議そうにこちらを見た。
「あの、あの、私考えたのですが、あなたのお部屋でアツリュウも一緒に眠ることはできませんか?そうしたら、あなたはお強いから、アツリュウを守ることができます。アツリュウが強いことは知っています。でも眠っている時に襲われたら彼だって負けてしまうかもしれません。だから、あの、一緒のお部屋であなたに守って欲しいのです」
途中つっかえてしまいながらも、一生懸命伝えた。どうしてもアツリュウが心配なのだ。バンダイが切られた部屋で一人でアツリュウが眠るなんて耐えられない。
彼が急に眉根をよせて目を逸らすと、とても怖い表情になり片手で口元を覆った。
「あの、私何かおかしなことを言ってしまいましたか?」
彼が視線を戻して何か言いたげな表情をした。いつも感情を表さない彼であるのに、少し困ったような顔を見せた。
「わたくしの部屋で眠てくださいと言った瞬間に『嫌です!』と叫んで逃げていくのが目に浮かびました。びっくりした猫のように」
その言い方に、アツリュウとスオウの関係をのぞき見したような気がした。
スオウはきっと、アツリュウのことを好ましく思っているのだろう。
この人は毎日アツリュウに会えて、いろんなアツリュウの顔を知っていて、そして笑い合ったりするのだろう。
知らない感情がむくむく大きくなってきて戸惑った。目の前のスオウがたまらなく羨ましい。この人になりたいなと思った、そうしたらアツリュウの傍で彼を守ることができるのに。
彼は真面目な顔に戻って話しだした。
「確かにわたくしは代行を夜間守れるかもしれません。しかしわたくしと同室で就寝するようになれば、彼は緊張して眠れず、3日ほどで体調に深刻な影響をきたすと思われます。ですのでこの案は上策とは言えません。夜間の代行の安全については代行自身が強いという意識が我々にあり、護衛が手薄になっているやも知れません、再検討して警護を厚くいたします」
「どうか、アツリュウを守ってください。スオウお願いします」
王女の作法として相応しくないと知りつつも、彼に心を込めて頭を下げた。
彼は立ち上がると両膝をついて跪き両手を組んで、頭上に捧げ上げた
「代行の守りスオウ承りました」
剣を捧げ持っていなかったが、それはヒルディルド国で剣士の忠誠を誓う時の姿そのものだった。
リエリーは戸惑った。スオウがここまで真摯に約束してくれるとは思わなかった。
信じようと思った。
兄様の命令があっても、スオウの剣はけしてアツリュウを傷つけることは無いと。
「代行をご心配なのは分かります。でしたら、先日のような護衛を付けずに出かけるなどと、思慮の浅い行動はお慎みください。代行に心配を掛けないことも、彼にあなた様がしてあげられることです。よろしいですか姫君」
低い声で釘を刺された。いつもの鋭い瞳がじっと見てきて「こんどやったら許しませんよ」と念をおしているようだった。「もうけしていたしません」と約束した。
「失礼いたします」彼は扉の前で礼をして去って行った。
◇◇◇ ◇◇◇
部屋に戻っても、刺繍をする手は止まってしまい、何もできなかった。
兄様は私をエイヘッドに留め置くことで、またアツリュを操る道具にするのだろうか。
『責めはアツリュウに負わせる』
それは自分を縛り付け、もうアツリュウに近づかず、何も彼に望んではいけないと己に言い聞かせるのに十分すぎるほどの呪いの言葉だった。
それでも、もし叶うなら遠くからでいいから彼を見たい。もう私を見てくれなくていいから、姿だけでも彼を見たい。それを願うことも彼の身を危うくすることだろうか……
寂しいなと思う。
モーリヒルドの離宮で、優しく見つめてくれるアツリュウが心の中にいてくれた。あの夢の中にいた方が幸せだったろうか……
ここで、彼はずっと近くにいるのに……冷たい瞳も、拒絶の言葉も苦しくてたまらない。それなのに、明日帰ると告げた時、ほんの少しの間だけ、彼が優しく見つめてくれた。
私はどうしてもあの瞳に縋ってしまう。
彼に触れたい。
1度でいいから彼に抱きしめられてみたい。
そんなこと望んではいけないことなのに。
モーリヒルドに帰れば良かった。ここに居るとアツリュウに会えるかもしれないと、どうしても期待してしまう。寂しくて、寂しくて、あなたに会いたくてたまらなくなる。
怒りの気持ちが私から消えたように、この寂しさもいつかは私から消えるかしら?
アツリュウを動かすための道具みたいに使われて、彼を危険にさらすくらいなら、私なんて存在はいなくなればいいのだ。私の気持ちなんて、寂しさも、恋しい気持ちも、全部消えてしまえばいい。そうしたら人形みたいになって兄様の横に良い子で座っていられる。




