64.傷つけたのはそっちだろ
キボネを止めることはできず、暗い気持ちで領主館を出た。
これから自分の寝室の隣に、妻の部屋があるかと想像すると嫌悪感が湧く。
どうせ使われずに埃をかぶるだけなのに……
キボネが、自分が姫様に会わないことを怒っているのだと知った。いつの間にキボネは姫様と仲良くなったのだろう。
羨ましいと思う気持ちは、嫉妬と混ざり合って胸を渦巻く。小さな男だと己を罵っても、姫様と話をしたと聞いただけで無様に動揺する。
自分だって姫様のことをもっと知りたい。毎日会いたい。一日中見つめていたい。
でも、そんなことはできない。
だから、せめて彼女の話だけでも聞きたかった。それで何とか自分を抑えていた。
タクマ―殿が領主館に来て教えてくれる姫様は、エイヘッドで新しいことをたくさん経験して、笑顔も良く見せるようだ。話を聞くたびに嬉しいと思う。あの館に閉じ込められた無慈悲な6年間で失ったものを、少しでも取り戻して欲しい。
あのカーリンという女性は姫様のことを大切にしてくれている、それは痛い程感じる。彼女のお陰で、姫様は笑顔を取り戻せているのだから。彼女に心から感謝はしているけれど。
執務室に戻る足が止まる……言いようの無い疲労感に襲われて、座り込んでしまいたくなる程だったが、耐えた。
恩赦の戦以降、人が自分のことを好き勝手に言うことにはもう慣れたと思っていたが……
それでも、今回のカーリン嬢の姫様妊娠宣言は、精神的に経験したことのない衝撃で、今だ立ち直れない。
あの女社長であるカーリンが虎だということは出会った時から知っていたが、まさか本当に襲い掛かってくるとは、お陰で自分の姫様に対する周囲の信用は地に落ちた。これからは、どんなに姫様を遠ざけても、皆からみれば陰で彼女を抱いてる男だ。
セウヤ殿下には自分が姫に指一本触れてないことは伝わっていると思うけれども……
なんだろうこの、いいようのない虚しさは。
姫に会うこともできないのに、皆からは仲良くよろしくやってると思われているなんて……
彼女がモーリヒルドに帰るまでの10日間だと思えば耐えられた。だがこれからの、期限の無い姫様との時間を、いったいどうすればいいのだろう。
いつかは終わりが訪れる。そうしてもう会えなくなる。それが分かっているのに……
もし二人きりになったら、自分は姫に何をしてしまうだろう、衝動にかられて触れてしまったら?
そしてその後自身への嫌悪にまみれて拒絶してしまったら?
気づくと、爪をたててがりがりと腕を擦っていた。
15歳の時から嫌悪感が沸き上がると、無意識にしてしまう癖、気づくと血が出るほどに自分を引っ掻いてしまう。
これからオルゴンの所へ行って、姫様が無期限でエイヘッドに留まることを知らせなければならない。
ひどく気が重い。オルゴンは顔を合わせる度に「話がある」と真面目な顔をする。それを忙しいと言って逃げていた。今日は逃げられる気がしない、きっと姫様のことで責められるのだと予想できた。
◇◇◇ ◇◇◇
オルゴンの執務室で、姫のエイヘッド滞在について告げた。
山のように書類が机に積み上げられているその机の後ろで、オルゴンが驚くほど嬉しそうな顔をした。
彼の執務室には、4人の共に旅をしてきた護衛官がいる。もはや彼らは兵士の制服も着ていない。すっかり事務補佐としてオルゴンと日々領地経営の仕事をこなしている。
エリュウ兄上が目利きした人選だけあって、事務処理に長けている4人だ。アツリュウがオルゴンの執務室に入ると、彼らは「オルゴン補佐官の人使いひどいです。忙しすぎます」といつもの不平を訴えて来た。
「お前たちちょっと休憩してきてくれ、私は代行と二人で話しがしたい」
4人の補佐たちは、いきなり休憩の希望が通って、喜々として部屋を出て行った。
「姫様はここに居てくださるのか、それは嬉しいな。セウヤ殿下が姫様とお前の仲を認めてくださったということではないか」
「セウヤ殿下が俺と姫様の仲を認めることは永遠に無い。今回姫様がエイヘッドに留まるのは、安全上の理由からだそうだ。詳しいことは知らない、スオウ隊長は知っているようだけれども」
スオウ隊長への不満をあらわに、不機嫌に告げると、オルゴンの笑顔は引っ込んだ。
「そうか……でも、なんにしても姫様がお前の傍にいてくださるのは嬉しいことだ。アツリュウそれで、私から話があるのだが……」
やっぱりきたか、オルゴンは説教したいんだろう。
「わかった聞く。でも手短にしてくれ」
オルゴンに座れと促されても立ったままでいた。
「おまえ一度、リエリー様と二人でしっかり話をしてみたらどうだ」
「話すことなんて無いんだ。姫様は将来誰かと結婚する人だから、俺みたいな一介の兵士と関りを持たない方がいい」
目線を合さずに早口に告げると、「なあアツリュウ」とオルゴンが優しくあやすように言った。子供の時、駄々をこねている俺をなだめる時の口調だ。
「お前はもう大人なのだから、婚約者との関係を、私がどうこう言うつもりは無い。将来結婚しない予定なのも自分達で決めたらいい。でもな、そうだとしてもお前のリエリー様への態度はあまりに失礼だ。リエリー様が望んでいるのは、二人で話をするだけだ。たったそれだけのことがどうしてできない? まるで子供のように逃げ回って、見ていて恥ずかしいくらいだぞアツリュウ」
キボネにさっき馬鹿にしたように『どう見たって子供だろう?』と言われたばかりで、こんどは見ていて恥ずかしいほどの子供だと……
姫様を守りたい、それだけが願いなんだ、だから心から望む姫様を見ることさえ諦めてエイヘッドに来たじゃないか……それなのに、これ以上俺にどうしろというのだ。
分かっている、姫様を傷つけてしまったことくらい。でも怖いんだ二人きりになるのが。もう俺を追いつめないでくれ、お願いだから……
「お前が悩んでいることは知っている。でも、その自分の気持ちは置いて、相手の気持ちを優先してやることはできないか? リエリー様の気持ちを聞いてやって欲しい。あの方がお前に対してどんな気持ちでいるのかを、どうして命の危険まで冒して一人でお前に会いに来たのかを、アツリュウお前は知るべきだ。あの方がどれほどお前を……」
「だったら、オルゴンが聞けばいい。必要なことだけ俺に後で知らせてくれ」
オルゴンの言葉をさえぎって、苛々と言った。
「アツリュウ、お前が辛い立場にいることは理解する、だが私が言いたいのは、大人なんだから、どんな事情があったとしても話くらいはできるだろということだ。自分の気持ちくらい少し後回しにできるだろう?おまえリエリー様のことが命を捧げるくらい大切なんだろう?だったらどうして傷つける」
自分の気持ちを後回しにしろ!?
あんたに俺の気持ちをどうこう言う資格があるのか!!
『今まで俺の気持ちを全部捨てさせてきたのはあんただろうが!』
心の中に押し込めているどす黒い塊が出てきてしまいそうで、返事もせずに部屋を出ようとした。
「待てアツリュウ」
腕を掴まれた。オルゴンの顔を見ると、怒っているというより心配しているのだと分かった、振り払うことができずに「なんだよ」と呟く。ああ本当に子供みたいだと自分が嫌になる。
「このままでは、リエリー様を傷つけるだけじゃない、お前自身も傷つけることになる。将来お前たち二人が結婚しようとしまいと、こんな風に傷をつくったらきっと後悔する。だからアツリュウ逃げるな。姫様から逃げるな、おまえならきっとできるから」
「うるさいんだよ! ほっといてくれ。姫様には会わない、絶対に会わない」
怒鳴った瞬間に、両肩を強くつかまれ、顔を向き合わされた。そしてオルゴンの大声が部屋の空気をつんざいた。
「だったらどうして、恩赦の戦なんかしたんだ」
彼の野太い大声が、怒りの塊のように吐き出された。
怒りに見開かれた目を逸らすことができない、肩をがっちりと押さえられた。
「答えろアツリュウ。おまえは何のために恩赦の戦をしたんだ」
「それは……姫様のために……」
「姫様のためにと言ったなアツリュウ。お前は姫様に何かをしてやったと思っているんだろう? だが違う、お前は姫様のためになんか戦ってない」
かあっと体が熱くなる程の怒りが湧いた。命を懸けて姫にしたことを否定するものを許せるはずがなかった。
「俺は姫様のために戦った。あの人の幸せのために褒美を願った、俺の命を懸けたんだ。誰にも否定させない」
食ってかかるように返したが、オルゴンの真剣な瞳は揺るがない。
「笑えるなアツリュウ。お前の頭を使ってよく思い出せ、本当の事から目を逸らすな。お前はセウヤ殿下のために戦った。そして自分が満足するために命を懸けた。姫の為だというなら、戦う前に一度だってリエリー様の気持ちをお前は聞いたのか? 彼女が何を望んでいるかをお前は本当に知っていたのか?」
セウヤ殿下のために戦ったのだろうと言われ、グサリと胸に剣を刺されたような衝撃を受けた。本当は自分でも知っていて目を逸らしてきたものが、オルゴンによって目の前に突き付けられる。
「お前は酔っていただけだろう? 好きな女の前で「あなたのために命を懸けて戦います」とやってみせて満足したのは自分だけだ。リエリー様のためと口では言いながら、彼女の気持ちなんて聞きもしない。アツリュウお前は自己満足ために恩赦の戦をしたんだ。違うか? 違うなら違うと言ってみろ!」
つかまれた肩を渾身の力で解いて、オレゴンの胸倉につかみかかった。
「俺は死ぬ気で戦った、本気で死ぬとあの時思った。姫様のために戦った。そうでないなら俺のしたことはなんだったんだ。姫様のためだ、姫様のためだ、俺は……」
姫様のためだと叫びながら、もはや自覚するしかなかった。
オルゴンの言う通りだ、あの時誰のために戦ったのか。
それは自分の暗い喜びのためだ。
姫様をずっとセウヤ殿下の側に置くためだ。
そうやって餌をおかれて食い付いた、おれはセウヤ殿下の犬だ。それでも、そうだったとしても、恩赦の戦で得た褒章は姫様の幸せにつながっているはずだ。
俺は命を懸けて戦って、姫様の幸せのために褒美を勝ち取ったではないか、それをどうして否定するんだ。
「お前は姫様のために何もしていない。恩赦の戦でお前がしたことは、周りの人間を傷つけたことだけだ。お前は深くリエリー様を傷つけた。お前の自己満足のために命を捨てようとした。それがどれほど私たちを苦しませたか分かっているのか? ギナーリュウ様も、奥様も、ミタツルギの皆も、そして私のことも傷つけた」
最後にオルゴンの「私のことも」と聞こえた瞬間に、アツリュウは子供のように「うわー」と叫び声をあげて彼を揺さぶった。
「お前が傷ついたなんて、よくも、よくも、俺に……」
オルゴンの胸倉をきつく握り締めながら、次の言葉を怒りとともに吐き出そうとした。
『俺を傷つけたのはおまえらだろう!』
言葉を発することはできなかった。
知っていた。それを言ったら己の世界が崩壊することを……
怒りを正に爆発させようとしたその瞬間に、がくりと力が抜けて、オルゴンの胸元から手を離した。
「言いたいことがあるなら、全部言ったらどうなんだアツリュウ」
オルゴンの声に、気持ちの高ぶりを必死で抑え込もうと拳を握りしめた。
「リエリー様の恩赦の戦はまだ終わっていないんだ、アツリュウ」
意外な言葉に、ゆっくりと手の力が抜けた。言葉の意味をしばし考えたがよく分からなかった。顔を上げると悲し気なオルゴンの顔があった。
「リエリー様はお前が死ぬ夢を繰り返し見るそうだ。頭から血を流して倒れるお前が彼女の中から消えていない。リエリー様は自分のためにお前がいつか死んでしまうという恐怖に縛られている。だから、こんな無茶をして、たった一人でエイヘッドに来た。お前が死んでしまうと怯えるあまり、命の危険さえ冒してしまう。誰が彼女をここまで追い込んだんだ」
紛れもなく、それは自分だ。姫様を苦しめているのか? それほどまでに?
「アツリュウ、もう一つ大事な質問がある。どうしてお前は恩赦の戦の褒美にリエリー様を望まなかった」
「それは……俺が姫様に相応しくないから」
オルゴンは目を閉じた。
「本当にお前はひどい男だな。命を懸けて結婚を止めておきながら、自分とは結婚できない、誰かと結婚しろなどと……そんなことをされる女がどれほどの悲しみを抱えて生きねばならぬのか、本当にお前は分からないというのか? せめて、婚約者でいる間だけでも優しくしてやれないか?」
首を横に振るしかなかった。
彼女を幸せにできないんだ。自分では絶対にできないんだ。だから会いたくない。彼女に何も望んでほしくない……
「だったたら、ロドリゲス殿と結婚させたらどうだ」
耳を疑った、ロドリゲスと言ったか?オルゴン何を言っている?
「ロドリゲス殿の方が男としてずっと上等だろう? リエリー様を女として見ているんだから。着飾らせて見せびらかして、自慢の妻にするだろうさ」
「馬鹿なことをほざくのはやめろ、姫様をあんな奴と結婚させられない」
「あんなやつ? そうだな男としては頼りないがな、だがお前なんかよりずっとましだろう? 結婚どころか会ってもくれない、あげくに自分のためにと勝手に命を懸けて戦って死にかける、そんな男といるより、ロドリゲス殿の方がずっと良い男だろう? あの男なら、すぐに子供だって……」
「それ以上何も言うな!」
オルゴンを勢いよく突き放すと睨みつけた。悔しさで爆発しそうなのに、投げつける言葉が見つからない。
ロドリゲスの野郎の方が俺よりも姫様に相応しいなんてありえない。あいつが姫様に触れるなんて絶対に許さない。
そう憤るのに、オルゴンに反論できない、もう頭の中がごちゃごちゃで何も考えられない。
誰にも姫様を渡したくない……でも、俺には無理なんだ。
耐えきれなくなって部屋を飛びだした。




