57.それは悪いことなの?
もふもふ。
リエリーは手を伸ばして、その茶が少し混ざった白いもふもふを触りたい気持ちと、やっぱり怖いの気持ちで揺れていた。
木枠で組まれた柵の隙間から、もふもふの一頭が顔をぽすっと差し込んできた。顔だけ毛が短い。睫毛が驚くほどに長く、そして瞳の中に三日月の光彩。それをじっと見つめると少し不気味。
でもウサギみたいな鼻をひくひく動かす様子や、自分の身長と変わらないくらいの大きなぬいぐるみみたいな感じがたまらない。
リョマリョマ可愛い! 触りたい、もふもふしたい!
この動物はもちろん図鑑で見て知っている。ハイシャン国やピプドゥ国にいるヒツジによく似た動物で、ここエイヘッドにしかいないリョマリョマ。ヒツジの体に長い脚と少し長い首を持つ。もふもふの塊だ。
カーリンが社長として運営しているリョマリョマ牧場に、領主城の帰りに連れてきてくれた。初めての体験に心が弾む、見る物全てが興味深い、あれは何と質問が止まらない。
えいっ!
勇気を出して触れた。見た目より毛は少し硬かった。それでも頭やら体やらを、柵の隙間から手を伸ばして撫でていると……もふもふ感が……これは、もふもふもふもふ……ずっと撫でていられる。
「これから毛刈りが始まるの、この子たちみんな丸刈りにされちゃうの。リエリーもふもふ間に合ってよかったね」
この子たち毛を刈られるのね。その姿も見てみたいなあと思いつつ、撫でていると、隣の子が僕も撫でてリエリーの手の下に、頭を滑り込ませてきた。
「この毛を不織布にするのですか?」
図鑑の知識でカーリンに尋ねると、そうよと答える。
「リョマリョマの製品はほとんどが軍用だから、一般の人には馴染みがないよね、リエリーは使ったことがあるの?」
首を振ると、そうだよねえと言って、彼女はちょっとむふふといたずらっ子のように微笑んだ。
「その手を嗅いでみて」
「え? 手をですか」
リョマリョマからも臭っていたが、手を鼻に近づけるとびっくりする程臭かった。
じわじわと鼻に残る独特な香りだった。リョマリョマを触っていた手は脂が付いたようにテカテカベトベトしていた。
「リョマリョマの不織布は、油をふんだんに含んでいることから、防水性に優れ、軍用の天幕として利用されております。雨、雪を弾いて、防寒効果も素晴らしく羊毛など足元にも及ばないほどの高性能を発揮します。極寒のエイヘッドでも、リョマリョマの天幕と絨毯があれば暖かく冬を越すことができるのです」
カーリンは宣伝文句のように語った。さすが社長さんである。
「でもねー、問題はその臭いなのよ」
彼女はリョマリョマの頭をポンポンしながら急に勢いをなくして、ぼやくように続けた。
「皆、わざわざこんな臭い思いをしたくないのよ。戦争中なら極寒の戦地で、臭いより性能が優先になる。でも今は平和ですからね、軍からの発注は右肩下がりなの。こんな臭いものを使うよりは、性能が劣っても羊毛製の方がいいのよね」
手を洗いに行こうと、カーリンはリョマリョマ牧場にある管理小屋に連れて行ってくれた。
この石鹼をつかうと臭いがとれるからともらったものをよく泡立てると、とてもいい匂いがした。
「すっかり臭いがとれました。この石鹸でリョマリョマの毛を洗ったらどうですか?」
初めてリョマリョマを触ったにしては、着眼点がすばらしい、とカーリンが褒めてくれた。
「毛刈りした獣毛が不織布になるまでには、いくつもの工程があって、もちろん何回も洗浄するの。油を落すために洗剤も使う。でもリョマリョマの防水性が高いのは油があるから、それを取り過ぎてもいけない。臭いを取り過ぎたら、性能が落ちてしまうの」
なるほど、難しい問題だとリエリーは頷いた。
「発注が激減しているこの産業をどうにかして立ち直らせたい、私は活路を見出すには、軍用以外の製品を作り出すことだと考えているの。非常に優れた獣毛であることは間違いないのだから、防寒着なんかになれば最高に暖かい服がつくれると思う、でもそこでどうしても問題になるのが……」
「この臭いなのですね」
リエリーの言葉に、彼女はそうなのよと勢いよく頷いた。
「事業状態は悪いのよ、私はすでに融資を受けて借金しているの。業務規模は昨年より縮小させるしかなかった、でも職人を解雇するのは相当の痛手だわ、技術者というものは一度手放したら、次に見つけるのは簡単なことではないから」
カーリンの話はけして明るい内容ではなかったが、とても生き生きしている。
獣毛商の社長と聞いたときは心底驚いた。2歳しか違わない女性が、事業を任されているという意味が、自分の経験からは想像することもできなかった。
「そこでね、新しい領主代行様に、私は補助金を申請してるの。あなたが熱を出していた横で、代行様にその話を売り込んだけど、すぐには無理だと断られた。婚約者を救った特別待遇を期待したのですけど……あなたの婚約者様は公平な方でした」
彼女はむふふと笑った。
「でもねー、私はあきらめませんよー。カーリン様はしつこいことで有名なのよ。一度ねらったら私は必ず手に入れる。ははーん、見てなさいよあの色男、絶対に金を引き出してやる」
うわーリエリーの目がまん丸になった、と彼女が顔を覗き込んできた。
「カーリンってすごいのですね。戦う女性です」
「そうよ、戦ってあの色男に勝つ。リエリーにここでそれを見せてやれないのが残念だけど、モーリヒルドに手紙を書くよ」
「色男って、もしかしてアツリュウのことですか?」
「そうだよ、あんな冷たい雪だるまを美男子って呼ぶのは腹がたつから色男にしといた、あいつは顔だけはすごくいいからね、ああいうのは、私はすぐには信用しないことにしている。リエリーも気を付けた方がいいよ。顔の良い男はたいがいは遊んでて、女を下に見てるっていうかさー、中には顔良し、中身良しの優良物件もあるけど、そんな男にはなかなか会えない。私が言いたいのは、男の本質を見抜くのは難しいってこと」
いっきに様々な情報が流れ込んできて、リエリーは理解が追い付かなかったが、顔がいいと言う言葉が頭に残った。
彼を形作る全てが好きであるし、いつも素敵に見える。けれど、彼女から見ても彼は素敵なのかと知ると、嬉しい中にも不思議なもやもやが生まれた。
「ねえ、さっきの話だけど……本当にリエリーは代行様と結婚しても別々に暮らすの? もう決まっていて変えられないの?」
静かに問われて、リエリーは頷いた。
「あんな冷たい男だけどさ、モーリヒルドにいる時は恋人同士だったんでしょ、優しかった?」
「え?いえ、私たちは恋人同士ではないです。見ているだけ……です」
「ん? ちょっとごめん、言ってる意味がわかんない」
彼女が困った顔をした。
「だってリエリーが何度も代行は優しいって言ったよね」
「はい、いつも優しい目で見ていてくれるのです。それで困っていると助けに来てくれる……の」
カーリンは増々不思議そうな顔をする、今まで命を救ってもらったことや、馬を引いてもらったことなどを、一つずつ話した。上手く言えたか分からないが、彼女は黙って聞いてくれた。
「じゃあ二人は、まともに話したこともなければ、一緒に何かしたことも無いってこと?」
カーリンにそう問われて、言葉の意味をよく考えた。確かにそうかもしれないと頷いた。
「王女様は、私達とは違う世界に住んでいて、本人の気持ちで結婚できないことは想像できる。どんなにリエリーが抗ったって、どうにもできないのかもしれない。だから代行と一緒に暮らすことは無理なのかもしれない」
でもね……その声にリエリーは顔を上げた。真剣な瞳がそこにあった。
「自分の気持ちを相手に伝えることはできるよ」
意味がよく分からない。
「リエリーの気持ちを、彼に伝えることはできるよ。私はこうして欲しい、って自分のして欲しいことを言葉にして伝えるの」
言われたことを頭のなかで繰り返した。言われたことの意味は分かる、しかし……
「私の気持ちってなんですか?」
彼女が目を見張った。大きくなった瞳のまま「え?」と驚きの声がこぼれた。
「リエリーの気持ちだよ、今彼に何をして欲しいの? 頭にパッと浮かんだことを言ってみて」
私は……言葉が続かない。けれどカーリンは答えるまであきらめてくれそうにない。
「会い……たい……です」
違うねと彼女はすぐに返した。
「会うならもうこの前会ったし、彼も見た、でもあなたは満足していない、それはして欲しいことをしてもらってないからだよね。この前の彼はリエリーが会いたかった彼じゃなかったってことだよ」
私が会いたかったアツリュウは……
「どんな彼に会いたかったの? リエリーがたった一人で旅する間、ずっと頭の中にいた彼を言ってみてよ」
どうしてそんなことを言わなくてはいけないのだろう、怒った顔で冷たく帰れと言ったアツリュウの顔が浮かぶ。
「リエリー、とても大事なことだよ、言葉に出してしたいことを言う。いつだってそれが始まりなの」
何の始まりだと言うのだろう。どうしてカーリンは何かを知っているみたいに自信があるのだろう。でも、始まりという言葉に魅かれるものがあった。
「私が会いたかったのは……いつもみたいに、優しい目で見てくれるアツリュウ」
言葉に出すと、思った以上に辛かった。失ってしまったものだったから。
「じゃあ彼にこう伝えるの。いつもみたいに私を優しい目で見て欲しい」
わっと感情が込み上げた、言わずにはおれなかった。
「そんなの無理です。絶対に無理です。アツリュウはそんなこときっとしてくれない」
「無理かどうかは、彼が決めることだよ。リエリーには分からない」
「でも……」
「私は始まりだって言ったよね、欲しい物を欲しいと口に出して相手に言う。それで相手がそれをくれるかどうかは相手次第、あなたには分からないんだよ。だけど一つはっきりしていることがある。口に出して欲しいと言わなければ、絶対に手に入らないってこと」
口に出す。言葉にする。相手に伝える。それらが耳に届くたびに、なんだか胃のあたりがもやもやする、すごく居心地が悪くなっていく。もう聞きたくない、逃げ出したい。
「リエリーは昨日から、代行様は優しいって何度も言う。なら聞くけどなんでそんな優しい彼が、リエリーのお願いする、優しい目で見ることすらしてくれないの?」
あーごめん。と彼女は息を吐いた。こうやって相手を追いつめるから私友達いないんだよね、とつぶやいた。
「ごめん私ちょっときつい言い方だった。でもさ、私も迷ってるところがあるんだよね。リエリーが熱で寝てる時、確かに代行様は優しいというか切ない顔であなたを見てたよ。だから、あの日はリエリーにいつもみたいに優しくできない理由があったのかもしれないね」
優しくできない理由?
彼のあの怒った顔を見て、ただ悲しくてそんなふうに考えもしなかった。
「それか……あの冷たい態度が、彼の本性だった。来られたのが心底迷惑だったということもありえる」
受け入れるのには辛いことをはっきりと彼女は告げた。
「だからね、言わないと始まらない訳。これが欲しいと伝える。あいてが駄目だと答える。そしたら次だよ「どうして? 理由はなんですか」と聞く、そうやって一歩ずつ前進していくの、そして欲しいって言い続けるんだよ、相手が折れるまで何度も言う。欲しい、欲しい、絶対欲しいって言い続ける。これは戦いなんだよ、どっちが先に諦めるかのね、私はそうやって勝ち取ってき……リエリー?」
頭がぐらぐらする。お話しをするときは、ちゃんと相手を見て、よく聞かなくては、途中で黙ったりしては駄目。とてもお行儀が悪い事。聞かれたことにもちゃんと返事をするの、それが礼儀だと家庭教師から習った……
どうしてだろう、頭の中がごちゃごちゃする。
欲しいものって何? そんなもの私には無いです。
だってそうでしょ、ドレスだって、お友達とのお茶会だって……ううん、そんなすごい物いらないの、シオと市場に行ってみたいとか、ちがうちがう、お散歩する、ううん、ちがうちがう、欲しい物? 眠りたいの、もう覚えるのはやめて眠りたいの……少しでいいから休みたいの……
『どうしてできないリエリー』
ああ見える、父様がここにいる。
『どうして覚えられないリエリー』
ああお祖父さまががっかりしてまた暴れてる。
なんだか息が苦しい、上手く呼吸できない。
リエリーと何度も呼ばれて、はっとすると何故か座りこんでいた。カーリンに肩を抱かれて、大丈夫と覗き込まれている。
「ごめんね、具合が悪くなったの?」
ふるふると首を振った。
「無いです。欲しい物は無いです。なんにもいらないの。アツリュウに会わなくても、もういいの……モーリヒルドに帰ります」
「そんな……リエリーどうしたの急に……ねえ、私を見て」
ぐらぐらする頭で、気持ちを一生懸命集めて、彼女を見た。
「ねえ、それでいいの? リエリー本当はモーリヒルドに帰りたくないんでしょう?」
「駄目です、帰ります」
「そうかもしれないけど、帰らなきゃいけないかもしれないけど、私が言っているのは、帰りたくないって口に出して言ってもいいと言ってるの! リエリーの気持ちを言ってもいいんだよ」
ぼんやりと彼女を見た。見えるのに亜麻色の髪も、緑がかった茶の瞳も、目の前のカーリンが見えるのに、私の体はあの館にいる。お祖父様と父が私をどなっている。
「帰りたくないなどど、いってはいけないのです。私は王女だから言いつけを守らねばなりません」
私は王女だから、欲しい物など口に出してはいけない。
だってちがうもの、アツリュウのような愛に溢れた家族の中で育ったわけでもない、カーリンのように自分の力で社長になって、欲しいものを手にいれられるわけでもない、私は王女で、あの館で言いつけを守って、どこにも行ってはいけない。
誰にも会ってはいけない。
「でもさ、せめて言ってみたら?私は帰りたくないって」
「それは悪い事です。言いつけを守らないことは悪いことです」
カーリンはリエリーをふわっと抱きしめた。
「ねえ、それは悪いことなの?リエリーの気持ちを言うことは悪いことなの?」
「そうです。言われたことは守らないといけません」
「それなら、遠くから一人で会いに来たのに、優しい目で見てくれないのは悪くないの?」
え?どういう意味?
「それなら、遠くから一人で会いに来たのに、たったの10日で帰れというのは悪くないの?」
そんなの、仕方がないことで……
「それなら、結婚しても一緒に暮らせないって勝手に決めるのは悪くないの?」
カーリンは体を離して、両肩をがしっと掴んだ。じっと顔を見る。そしてにやりと笑った。急に彼女が笑ったのでびっくりした。
「私はね、女だからって理由で、男が決めたことに従うのは絶対に嫌なの。世の中には思い通りにできないことがあるってことは嫌って程分かってる。でもね、女だからできない、女だから男の言う通りにしろ、これには断固として戦うって決めてる」
彼女は立ち上がって、腰に手を当てた。いいリエリー? と力強く話してくる。何を言っているのか全く理解できず、ぽかんと見上げた。
おんな? 女であることが何かという話をしていただろうか? さっきぼんやりしていたから何か聞き逃していたのかもしれない。女であることと、モーリヒルドに帰ることに何の関係があるのか全く分からない。
「悪くない!」
吹き飛ばされそうなくらいのすごい大きな声だった。
「リエリーは悪くない!」
もう一度カーリンは牧場中に届くかと言うどでかい声で叫んだ。




