56.リエリーの告白
適当に時間をつぶして待っていてという、王女の彼女にとって初めてのお願いをされたリエリーは、とりあえず控えの間で待つことにした。
しばらくすると侍従が入ってきた。卓に茶菓子を並べ、お茶を注ぐ、湯気が立つと知っている香りがした。ハイシャンの茶葉で気持ちが落ち着く効能があるものだ。優しい心遣いを感じて、彼の顔を見てありがとうと声を掛けた。
「やんごとなき王女殿下にお声をかけるなど、本来ならば不敬にあたると充分存じておりますが、この茶菓子の説明をすることをお許しいただけますか?」
リエリーは目を大きく開いてしまった。もちろんです、どうぞと返した。薄い茶色の瞳は小さめでくりくりしている。何かに似ている。ああ、こんな感じの小さくて可愛い犬を見たことがあるとつい思ってしまい緊張が緩むのが分かった。彼はまだ少年で自分と同い年くらいに見えた。
「ありがとうございますお姫様。こちらは帝国伝来の製法で作ったジャムパイクッキーです。パイ生地の中にイチゴのジャムを入れて焼きます。このお菓子はアツリュウ様の好物なのです」
その言葉に胸がふわあっと喜びに包まれた。
アツリュウの好きな物を知ることができた。嬉しい!
どうぞと皿に載せられた小さなパイを口に入れた。美味しい!すぐに言いたいのに口が一杯で喋れない、少年の顔を見ると、彼は嬉しそうにしている。
「どうですか?」
「とっても、美味しいです。アツリュウが好きな……」
そこまで言ってはっとした。嬉しい気持ちが急にしぼんだ。
「私……アツリュウの好きな物を食べてもいいのかしら……」
ええーっと少年は侍従にあるまじき驚きの声をあげた。
「いいに決まってます。というか婚約者様がアツリュウ様の好物を食べることの何が悪いんですか?」
リエリーは返答に困った。
「うまく気持ちを説明できないのですが、なんだか私が彼の好きな物を知ったり、もらったりするのはいけないことのように感じたのです」
彼は何も返事を返さず、お茶を勧めてくれた。私はこのお茶をよく飲みますと伝えると嬉しそうに頷いた。
「アツリュウ様とミタツルギ家の奥様は甘いものが大好きで、二人で隠れてこっそり食べるんです。旦那様に見つかると食べ過ぎだとお小言をもらうから。確かにあの方々は食べ過ぎだと私も主様のお気持に同感です」
リエリーは食べ過ぎとはどれくらいの量かしらと想像した。
「アツリュウ坊ちゃんが8つの頃、ある日、奥様はご夫婦の寝室にお菓子を隠していたのを忘れていて、館の中に蟻の行列ができて、部屋に蟻がものすごいわいて大変なことになりました。使用人が慌てて片付けようとしたら、坊ちゃんが「だめだめ、ぜったいこのままにして!」って片付けさせないんです」
リエリーは続きがきになって、どうしてですか?と思わず聞いた。
「こんなすごい物は見たことがないから、エリュウ兄さんに見せたい、兄さんが帰ってくるまでこのままにしてと、どうしても譲らないんですよ、結局勤務を早上がりしてもらったエリュウ様が帰ってきて、やっと床が真っ黒になるくらいの蟻の大群を片付けることができました」
ふふっとリエリーが笑うと、彼もクスクス笑った。
「美味しいパイクッキーも、坊ちゃんの馬鹿話も、私は姫様にたくさん食べてほしいですよ」
私は婚約者ではないのですと言いそうになったが、侍従の彼に伝えるべきことではないだろう。ため息が知らずに出てしまった。
「あなたはミタツルギ家の?」
「はい、ミタツルギ家の使用人の息子でアツリュウ様が6歳の頃から一緒に育ったのです。私はもっぱら、あのやんちゃ坊やを止める役目でしたね。あの人思い付くとすぐ何でもやるから、まあアツリュウ様の兄役みたいなもんです」
兄役と聞いて驚く、この人はアツリュウの年上なの?目をぱちぱちしていると、何も言っていないのに、若く見えるとよく言われますと返された。なんと21歳だという。
この人はアツリュウの家族のような存在なのだと知った。侍従がこんな風に王女に話しかけるなど、離宮ではありえないことだ。そんなことは彼だって承知だろう。けれど、アツリュウに会えなくて悲しい気持ちの私を、この人は気遣ってくれているのだと思った。
あなたの名を教えてくれますかと聞くとびっくりした顔をして、そしてキボネですと教えてくれた。
「キボネありがとう」
「こちらのミニパイもどうぞ、エイヘッドのブラックベリージャムで作ってみました」
「作った?あなたがですか」
「はいそうですよ、私は菓子職人になるつもりで修行もしたのですが、はは、うっかり侍従としてアツリュウ様に付いてきてきまったのですよ。菓子は空いた時間に作ります」
アツリュウ様には感謝してもらわないと、こんなおいしい菓子をつくれる侍従など国中さがしてもおりませんよ、とにんまり笑った。
オルゴンに会った時も、キボネを前にしても、強く胸を打つものがある。アツリュウは彼らにとても愛されていて、幸福なミタツルギ家での時間が溢れるほどにある人なのだ。それを知ることができた喜びと、自分とは住む世界が違う普通の人なのだと意識される。母が死んでから自分が得ることが少なかった、温かい家族という世界の中にいる人。
「キボネ、お願いがあります。オルゴンと話がしたいのです」
かしこまりましたと彼は部屋を出て行った。
◇◇◇ ◇◇◇
オルゴンは驚くほどすぐに来てくれた、辞そうとするキボネに「あなたにも聞いて欲しい」と部屋に引き留めた。
きっと多忙な補佐官であろうに、強面の熊のような彼は、本当に優しい顔をして「どうなさいましたか姫様」と前に座る。ゆっくりお話しくださいと、忙しいそぶりを一切見せなかった。
「お二人にお願いがあるのです」
私はなんとしてもアツリュウを守りたい、上手く話せるか分からないけれど、できるかぎりの思いを伝えてみよう。
「まずはお二人にお詫び申します。恩赦の戦で私はアツリュウに大怪我を負わせました。ミタツルギ家の皆さんにどれほどの心痛を与えたか、お詫びしても取り返しが付かぬことですが、どうか謝らせてください」
リエリーは深く頭を下げた。
オルゴンが王女殿下どうかそのようなことはと、慌てて逆に何度も謝ってくれた。
「実は、アツリュウが私のために命を懸けたことはこれだけではないのです。私の兄を救うために堀に飛び込んだのも、私を止めるためでした」
「あなたを?」
オルゴンが驚いたように問う。彼女は深く頷いた。
「あの時私は、兄を助けたいことで頭がいっぱいで、橋の欄干に登って、堀に飛び込もうとしていました。そのとき隣に来て、私が行くからあなたは飛び込んではいけないと、彼が止めてくれたのです」
二人の驚きの顔を前にさらに続けた。
「それだけではないのです。一度、父とセウヤ兄の間で大きな諍いがあり、アツリュウはそのときも命をかけて兄の命を守ったそうです。兄が言うにはその時も、私のためにアツリュウは命をかけたと聞きました。私が兄を失わないために……」
私にそんな価値などないのに……と言いかけて、言葉に詰まる、でも大きく息を吸って話を続けた。
「アツリュウは私のためにと、セウヤ兄様の命ずることをするのです。わたしが思い上がっているだけで、本当は違う理由なのかもしれません。でも兄がそう私に教えるのです。アツリュウはお前のためなら喜んで死ぬと……」
言葉にすると、あまりに苦しくてもう話せそうにない。胸の痛みにしばらく目を閉じて耐えた。
「私の兄は、アツリュウを操っているのです」
そこまで言って、とうとう涙があふれてしまった。言葉にすればするほど、自分と兄がアツリュウにしてきたことがどれほど酷いのか罪悪感に取り込まれる。
だから……言わなくては、泣いてなどいられないのに……
リエリーは涙を止めようと、爪を手の甲にぎゅうっと押し当てた。その手が急にハンカチで隠れた、
キボネが心配そうに見上げながら、膝を付いてハンカチを差し出している。震える手で受け取り、口元にあてて、息を深く吸う。落ち着くまで二人は何も言わず待っていてくてた。
「私はアツリュウに、エイヘッドに行かないようにお願いをしました。婚約者をやめるからと言ったけど、駄目でした。彼にとって私の婚約者であることは価値あることではないのかもしれません……私は彼を止めることができずに、アツリュウは兄様の命令どおりにこんな場所に。寝ているところを襲われるかもしれないのに」
どうすればいいのかわからないのです……と言葉を続けようとしたが涙があふれてくる。拳を握って、歯を噛みしめて耐えるのに、涙を止められない。話さなけれは、アツリュウを愛するこの人たちに伝えなければ
「どうか、助けてほしいのです。どうすればアツリュウを兄から離すことができるのかお二人のお力を借りたいのです。このままでは、いつかアツリュウは私の兄に殺されてしまう、いえもう殺されているんです。たまたま助かっただけなのです、あの時も、血がたくさん出て……アツリュウの頭から血がたくさんたくさん……どうして私はあの時、陛下にすぐ頷かなかったのか……、あの人の妃になれば止めてくれると言ったのに、わたしはぐずぐずしてできなかった。私は愚か者なのです……許してください。あの時ほんとうは止められたのです。アツリュウを守れたのに……私は……ごめんなさい、ごめんなさい」
しゃくりあげる音が聞こえて、見るとキボネが泣いていた。彼がハンカチを探すそぶりをしていて、自分が持っていることに気づいた。口を彼のハンカチで押さえながら、自分のハンカチを彼に差し出した。しばらく二人で泣いていた。どうしても涙をとめることができなかった。
オルゴンは頭に手をやったまま目を閉じている。
長い沈黙があり、彼は目を開いた。とても苦しそうな顔で、姫様どれだけお辛いかと呟くように言った。
「姫様のお気持ち、どれほど深くアツリュウの身を案じてくださっているか伝わりましたよ。しかし、あなた様に謝っていただくことは何もない。すべてはアツリュウが選んでしてきたことだ」
「そんな……あなたは知らないのです。私の兄がどれほど恐ろしいのかを、アツリュウはきっと逃げられないのです」
「それでもです、あなたはご自分をそれほどまでに責めてはいけない。アツリュウもそれを望んでいないはずです」
己の無力を感じた。彼が選んでしていることだから、私には止めることができないのだろうか。
「私は怖いのです。彼が死んでしまうのが怖くてたまりません。何度も夢を見ます。恩赦の戦で頭から血を流して死んでしまう彼を。エイヘッドで寝ている所を刺されてしまう彼を。私はどうしたらいいのでしょう。彼は旅立つ前に、いつか私に誰かと結婚してほしいと願ったのです。わたしは誰とも結婚したくないけれど……もし、私が結婚することで、アツリュウが兄様から離れられるなら……私は……」
「待ってください姫様。それはなりません。あなたはアツリュウ様の婚約者です、早まってはなりません」
キボネが赤い目のまま大きな声を出した。
「婚約者と言っても私は名ばかりの……」
キボネは首をぶんぶん振る。
「いいえあなた様はアツリュウ様の奥様になるかたです。絶対にです。モーリヒルドにお帰りになっても、必ずアツリュウが迎えにいきますから!いいや行かせますぜったいに!」
キボネはオルゴンを見上げると「あの馬鹿者をギリギリに縛り上げてここに連れてきましょう」と勢いよく言った。オルゴンは大きなため息をついて「一発入れたが駄目だった」と不穏なことを言った。
「アツリュウを殴ってはなりませんオルゴン。お願いです」
彼は承知しましたと小さく頭を下げると、まいったなと頭を掻いた。そして真っすぐに目を合わせると「姫様」と穏やかな声で呼び、とても優しい顔をした。
こんな風に、労わるように眼差しを向けられることが前にもあった。リュウヤ兄様の顔が急に思い出された。
「私もキボネと同意見です。どうかモーリヒルドにお戻りになっても、焦ってお気持ちをお決めにならないでください。もちろんあなた様が望んで伴侶をお選びになることは喜ばしいことです。ですが、アツリュウを守るために結婚するのであれば、それはどうかお待ちいただけませんか?あの子は、姫様を大切に思っていることは間違いないのです。ただあなた様を大切にするには、どうすればいいか分からないのでしょう」
「姫様、お気持ちをお話ししてくださり心から感謝します。この老いぼれ、命に代えましても姫様の願いを……」
そこまで言って、オルゴンは急に口を閉じた。そしてふっと笑った。
「あなたはもう、うんざりですよね、命に代えてもなどと言われるのは。ですからそれは言いません。ですが、私のできうる全てでアツリュウを守るとお約束します。そしてきっとアツリュウがあなたを迎えに行くと信じています、だからあの子を待ってあげてほしいのです」
オルゴンはアツリュウをあの子と言った。そこに深い愛情を感じた。
リエリーは彼を見詰め、心の中で彼を守ってと強く願い、そして深く頷いた。




