4.鳥かごの中で
「アツリュウ」
リエリーは兄が教えてくれたその名を、心の中で言ってみた。
この頃は、彼のことばかり考えている。
兄を救ってくれた、琥珀色の瞳の青年。
兄はアツリュウに会いに行き、「気に入った」と告げたあの日から、驚くほどの回復を見せた。
彼は堀に飛び込んで、兄の体を守ってくれた。
そして、どんな魔法を使ったのだろう。今度は兄の心も助けてくれたのだ。
兄は気力とともに、元来の冷静な兄自身を取り戻した。
体力が落ちた身を、積極的に動かして、10日ほどで館を出て行った。
あれから数カ月、兄は学院には戻らず、宮廷の公務を引き受けて、父の補佐をして仕事に忙しくしている。
「姫様、シオはもうちょっと待ちきれませんわ」
シュロム別邸の居室で、夜着のリエリーは鏡台の前に座っている。
侍女のシオが、リエリーの髪を櫛とぎながら、鏡越しに、興味津々の顔で微笑んでいる。31歳の彼女は、16歳のリエリーにとっては母のような唯一の話相手。今夜の彼女は早く私の話を聞きたいのだ。
リエリーの専属侍女であるシオは、肌の色が日に焼けたように濃く、漆黒の大きな瞳を持ち、異国の民の血をその身に受け継ぐ。
リエリーの曽祖父、シュロム・コウギョク・ミコヴァナ王の弟にあたるテード王子の妃として迎えられた、『ピプドゥ国』王女。
シオは、ピプドゥ王女と供にやってきた、使用人の一族の子である。
祖国ピプドゥでは高貴な家柄の出であったというシオの祖母は、遠い異国の小国に嫁ぐ姫を支えるために、海を渡ってやってきたのだという。
リエリーの腰に届くほどに、滑らかに流れる銀の髪。真っすぐに銀色に輝くそれを、肩からゆったり垂らすように、シオは慣れた手つきで梳いていく。リエリーが話す前からくすくす笑った。今までにしたアツリュウの話を思い出しているのだろう、
寝台に入る前の準備をシオがいつものように整えてくれる。リエリーが彼女に体を向けると、香油を手の甲に優しくつけてくれる。強い香りが苦手なリエリーに、シオが選んでくれた花の香が、ほんのりと包むように彼女を安心させる。
「さあ、早くアツリュウ様のことを教えてくださいませ」
寝支度が済んだのに、シオは「さあこれから」という勢い。
リエリーも、大きく頷いて、すみれ色の瞳がキラキラ輝く。
シュロム王女の部屋としては、こじんまりとして落ち着いた印象を与える部屋。しかし、このリエリーの居室を一歩でれば、芸術品が高波のように押し寄せる、海外から取り寄せられた様々な置物と、壁に並ぶ大型の絵画、館のあちこちに、大理石の天使や求道者の彫像が、訪れた者に目を合わせてくる。
圧倒するほどの芸術作品の数。
異様な雰囲気の豪華な屋敷。
逃げ場がどこにもない平原で、やっと見つけた小さな木陰のように、この簡素な雰囲気の居室はリエリーにとって、唯一、少し力を抜くことができる場所だった。
「今回も、セウヤ殿下は饒舌になっておいででしたね、姫様」
兄は、あれから月に数度、リエリーの住まうこのシュロム別邸を訪れる。
屋敷から私用で出ることのないリエリーを気遣ってくれるのだろう。時々様子を見に来てくれる。
今日は蔵書室で、リエリーが作った星図を見せてお喋りをした。
兄は来る度、突飛なアツリュウの話題を、リエリーへの土産のように話して聞かせてくれるようになった。
「シオ、心の準備はいいかしら? 今日のお話も、私、何度も心臓が止まりそうになりました」
「アツリュウ様は今回何を?」
「3階から飛び降りたそうです」
「ええ! まさか」
シオはピプドゥ語で小さく叫んだ。
リエリーは本当のことなのです、と深く頷くと顛末をシオに語り始めた。
兄が「気に入った」と宣言した、兄の命の恩人アツリュウ。
あの日から、アツリュウはシュロム宮廷護衛団の所属になり、兄の専属護衛官に任命された。
兄の車椅子を押す重役を任され、彼の体の一部のように、兄が出向くところについて行く。兄はアツリュウの体が許すかぎり、その役を他に与えず、アツリュウは離宮にほぼ住み込みで兄のみに使えているそうだ。
シュロム宮廷護衛団とは、『王の守り』と称される、シュロム近衛兵のピラミッドの頂点に位置する孤高の集団。
家柄、素養、実力の全てを兼ね備えた者たちの中から、さらに選び抜かれた精鋭中の精鋭。
近衛兵になったばかりの18歳で、馬の管理を取り仕切る厩房の配属だったアツリュウ。
シュロム領の領主である月の名の5家の1つである、大名家『ミタツルギ』の子息とはいえ、彼は5男、そしてさらに馬の管理をしていた若輩者が、突然セウヤ殿下のお気に入りとして現れたのだ。
近衛兵の内情などに全く疎いリエリーは、それがどれほど強引な人事だったのか理解できないが、兄が話すには「ありえないこと」であり、「他の護衛官にとって受け入れがたいこと」であることは兄も承知なのだそうだ。
今回の事件の発端は、アツリュウの不平から始まる。
あまりにセウヤ兄の専属が続いて、アツリュウは休憩時間が取れないことを改善するように要求してきたそうだ。
「まさか、直接殿下に談判なかったのですか?」
「それはさすがにしていません。アツリュウの上官に昼休憩が欲しいと申し立てたそうなのです。セウヤ兄様は、護衛官たちが、どうやってあの気に入らない新人をつまみ出そうかと、内心怒り狂ってる中で、よくまあ呑気に昼が食べたいなどと……呆れたけれど許可なさったそうです」
「まあ、相変わらず剛毅な方」
シオは、すでに鼓動が早くなってまいりましたと胸に手をあてた。
「兄様は、業務に少しでも支障があれば許さないと申し渡していました。そして、摩訶不思議なことが起きたそうです。午後の公務の、王宮に行く予定が早まった日。兄がアツリュウを呼ぶように指示すると、彼はすぐに目の前に現れたのだそうです。アツリュウがいた兵舎の建物から兄の元に来るまで、どう考えてもあり得ない早さ、まるで鷹が空から飛んできたようだったと」
シオは目をぱちぱちとさせた。リエリーは聞いたとおりに説明した。
兄がどうやったかとアツリュウに問い詰めると、初めは渋っていたが、彼は口を割った。なんと兵舎から中庭を横切って近道をしたと。されど、それは建物の窓から飛び降り、さらに中庭の高い塀を越えねばならない、常識的に考えて不可能に思われた。そこで兄は後日、やって見せよとアツリュウに命じた。そこから飛び降りるのを見たいと。
「えっそんな! 姫様どうしましょう、それが3階からだったと?」
シオはリエリーの手を握ってきて、アツリュウ様はご無事なのですかと動揺した。
覚悟はいい?話します、とリエリーも鼓動が速まるのを感じながらシオの手を握り返した。
「嫌です。と申したそうです」
「……え? 殿下に?」
リエリーは、結果を知っているのに、それでも手が震えてきた。
「そうなのです。兄様に直接、嫌です……と」
シオは口に手を当ててしばらく何も言えず震えていた。小さな声で、それでどんな罰をお受けになったのです? と恐る恐る聞いてきた。
その日、その場には、大勢の護衛官や近衛兵士が見物に集まっていた。
アツリュウの言を聞いた途端、その場にいた先輩の護衛官の一人が、アツリュウをひれ伏せさせ、何たる不敬かと怒鳴り、お許しが在ればこの場で切り捨てますと、兄に迫ったそうだ。
兄がそのようにしてもよいか? と静かにアツリュウに問うと、彼は、これ以上ない丁寧な態度と言葉で兄に謝罪し、そして……
私それを聞いたとき、鼓動が早くなりすぎて苦しいほどだったの……とリエリーは呟きながら胸にぎゅっと手を当てた。
「申し訳ございませんでした。殿下がお許しくださるならば、たった今、班長と二人で飛び降りてまいります。アツリュウはそう宣言して、その彼を叱った先輩護衛官を連れて、3階に行ったそうです。そして飛び降りたと」
きゃっ、と小さな悲鳴をシオが上げた。リエリーとシオはまたきつく手を握り合った。
「兄様はね、なんだかつまらなかったと。そうおっしゃったのよ。アツリュウがあまりにも簡単に降りて来たから、なんだか拍子抜けされたのですって」
リエリーはシオに、身振りを付けて、アツリュウがどう降りて来たのかを一生懸命説明した。
彼は、窓から歩く続きみたいに出てくると、2階の窓の突起に1回トンっと乗って、そこから地面にすとんと着地してくるりと1回転、滑るようにあっという間で、窓に顔が見えてから、地に立つまで、3つ数える間もなかったそう。彼があまりに簡単にやったので、なんだか特別な感じが全くせず、兄はどんな余興が見れるかと楽しみにしていただけに、がっかりしたと。
驚きに振るえて声も出ない妹に、さらりと告げたのだ。
「それでね、続きがあるの」
すでに二人はドキドキしすぎて、抱き合うように体を支えあった。
「アツリュウは、飛び降りると、すぐに下から大きな声で「では班長の番ですどうぞ」ってその護衛官を呼んで、皆が一斉にその方に注目して……兄様はそれを止めずに見ていたそう」
「どうなったのでございます、その方は?」
「泣くような声で、どうかご容赦くださいませと叫んで、もちろん飛び降りなかったそうです。3階ですもの、普通は到底無理な事です。兄様はアツリュウにも、その護衛官にも罰は与えなかったそうです」
二人は顔を見合わせて、とはーっと深く息をついた。
「あまりにお話の刺激が強く、シオは訳が分からなくなってきましたが、アツリュウ様がご無事でなによりです」
リエリーは、兄からこの話を聞き終えて、泣きたい気持ちでアツリュウの無事を感謝したことを思い出す。
リエリーは気づけばアツリュウのことばかり考えている。
今どんなことをしているんだろう。
どんな表情を浮かべているんだろう。
彼はどんなことが好きで、仕事でないときは何をして過ごすんだろう。
彼にいつも健やかでいて欲しい。
そして…… もしも叶うのなら。
遠くからでいいから、彼をもう一度見たい。
寝台に体を横たえると、いつものように、シオが優しく「お休み、可愛いお姫様」とピプドゥ語で囁いて一つ頭を撫ぜてくれる。本来は侍女がするべきことではないのだろう。されど10歳で母を亡くし、祖父と二人で暮らしてきたこの6年。シオがこうして母のようにしてくれなかったら、己はこの屋敷にある、白くて冷たい彫像のように、物言わぬ置物になっていただろう。
「いつか、セウヤ殿下がアツリュウ様を連れてきてくださるといいですね」
シオが、リエリーの切なる心の声を代弁してくれた。
灯りを消そうとして、シオは動きを止めた。
熊の叫びのようなうなり声が、遠く夜の闇に響いてくる。
リエリーはすっと身を起こし、寝台を降りる。
シオが無表情で、夜着の上にガウンを羽織らせる。
お祖父様が目覚めて、錯乱している。
それはこの館に仕えるの全ての者が知っている、一つのままならぬ理。
彼女が逃げだすことを許さない、この館の変わらぬ現実。
『リエリー様しか、上様をお鎮めすることができない』
リエリーは先導するシオの灯りに続いて、部屋を出た。今夜は、日の出までには落ち着くといいのだけれどとと思いながら。
祖父は『水鳥の上様』と呼ばれている。
シュロム王族は、祖父の代で王権を失った。
王が住まう王宮へビャクオムが、代わりに離宮へシュロムが、
200年余り続いた、両王家の居住地は、月の色が『銀』と決まった日ひっくり返った。
首都モーリヒルドには都の中心に湖がある。
湖を挟んで、北に離宮、南に王宮。
『水鳥の宮』と呼ばれる離宮は、白い姿を水面に映す、さながら鷺を思わせる美しさ。
対となる王宮は、黒を基調に荘厳にそびえ、月女神様が統べる闇夜を表現している。
祖父は水鳥と呼ばれる離宮に住まう、大賢王と名高い強い王の息子だった人。
だから人々は「水鳥の上様」と彼を呼ぶ、もう王になれない、かつての王太子様。
彼はまだ己が王太子のままだと信じ続け、今やその身が、なんの力も持たぬ、老人に姿を変えたことを認められない。
彼が46歳で父王は崩御し、若き日に、その美しさを誉めそやされた面影はもはやなく、老い衰えて89歳。されど43年間揺るがずに、彼の頭の中では、盤石なる父王の治世がいまだ続いている。
狂言と暴挙を繰り返す祖父を、リエリーの父ハリーヤは離宮から追い出した。そして祖父が何よりも愛する芸術を詰め込んだ、郊外の小さな館に閉じ込めた。
リエリーの父は無情にも、年端もいかぬ10歳の少女であった娘リエリーを、祖父とともに鳥かごに閉じ込めた。それがお前の役目だと言い渡して……
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