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3.褒美はいらない

 リエリーは寝台の横に腰掛け、身じろぎもしないで横たわる兄を見ていた。


「セウヤ兄様……」

 リエリーが呼びかける声は、広い部屋のなかでか細く消えた。

 

 セウヤ兄が堀に落ちたあの事故から2カ月。

 救出された兄は命を取り留め、傷はふさがった。

 

 しかし17歳の兄の体に、もはや永遠に治らない傷が残された。

 医師たちは早い段階で、回復の見込みは絶望的だと断定した。


 用意された車椅子。

 窓辺を向いて置かれた車椅子は、まだ一度もその持ち主を乗せていない。

 

 何とか食事を細々ととるが、兄の意思は、生きる方とは反対へ向かっている。

 事故から目覚めて、彼は1度も床から出ようとしない。

 

 あの事故の日、セウヤ兄は水門の放水口に吸い込まれ、水路へ投げ出された後そのまま体は沈んで見えなくなった。近衛兵たちが次々に救助に向かったが、流れに押し戻されて放水口に近づけない。けれど……


 あの青年が、深みから兄を持ち上げて、水路の(ふち)まで抱えて運んでくれた。彼は兄を追い同じ場所に沈んだので、見つけることができたのだ。

 

 琥珀(こはく)色の瞳のあの青年は、兄を助けてくれた。

 リエリーとの約束を、彼は命を()して成し遂げた。


 奇跡のように助けられた命。

 リエリーは兄が死なずに済んで、心から感謝した。


 助かって良かった。良かったはずなのに。


 もう兄は歩けない……


 兄は意識を取り戻した後、足の激痛に苦しんだ。

 彼の両足は放水口で引っかかり、捻じ曲げられ骨は砕け、(けん)も複雑に切れてしまった。


 治療によって、痛みからは解放されはしたが、両足首の損傷がひどく、元に戻すことは無理だった。


 彼の足首から下は無残な形となり、もはや立つことも絶望的、人の助けがなければ動けない体であると兄は理解した。


 頭で理解はしても、感情は追いつかない。


 この2カ月間、兄は感情を渦巻かせたまま沈黙し、耐えきれなくなると癇癪(かんしゃく)を起して、リエリーに怒鳴り散らした。


 取り乱す兄を見て、父は早々に部屋を退散して、それきり訪れない。

『足はすぐに良くなると、繰り返し言って慰めておけ』

 リエリーにきつい口調で命令し、父は本邸に帰ってしまった。


 都の外れに建てられた、シュロム家別邸。

 リエリーが祖父と暮らす、小さくて豪華な、寂しい館。


 リエリーは、病んだ祖父の付き添い係。


 父に命じられて10歳から家族と離れて、祖父に付き添ってきた。

 そこに兄が、やはり祖父と同じように傷つき心を病んだ兄が、この館に加わった。


 ただここにいるだけ、それが私の役目。


「死ねばよかった」

 低い、感情を含まない冷えた声。

「リュウヤ兄さんがいない世界に、生きていても意味がない」


 セウヤ兄様の絶望、あれほどまでに慕っていたリュウヤ兄様を失ってしまった。セウヤ兄様が深く兄を敬愛していたことをリエリーは誰よりも知っている。

 

「せめて、リュウヤ兄さんが殺されたことを、あいつの罪を(おおやけ)にしたかった。それなのに… 機会は失われてしまった」


 セウヤ兄は長い時間をかけて、体を起こした。


「気が付いたら、こんな体。」

 彼がもたれかかれるよう、リエリーは背中に枕を入れて支えを作った。

 久しぶりに体を起こした彼は、しばらくぼんやりと外を見ていた。


「友だと…… グイドは俺の友だと、リュウヤ兄さんは言ったんだ」

 独り言のように兄が言った。


「友と信じた相手を殺すのかと、リュウヤ兄の信頼を利用したのかと、そう考えたら」


「私はグイドを許せない」

 兄は現王の名を呼び捨てた。


「リエリー、私の動かない体には、この怒りしか残っていない、こんな体と心でどうして生きていけるというのか、どうして助けた、どうしてあのまま、溺れ死にさせてくれな……」


 そこまで言って、彼は突然、頬を打たれたようにハッと目を見開いた。


「リエリー、私を助けた者がいると聞いた。男だ、私と同じように放水口から流された」

 自分を助けた者に、彼はようやっと、意識を向けたようだった。


「その男はどうなった。生きているのか? 無事なのか?」

「お怪我はなく、お元気にされていると聞きました」


「どこにいる? 何者だ?」

「どこ……にいらっしゃるかは存じませんが。あの……ミタツルギ家のご子息とお聞きしました」


「ミタツルギ家の息子だと?」

 兄は薄く笑って馬鹿にしたように言った。


「私を助けて、ミタツルギ家のそいつは名を上げたことだろう、そいつは怪我なしか? 幸運なことじゃないか、父上から褒美(ほうび)もたいそうもらったのじゃないか? この私をこんな体にさせておいて、その男は喜んでいるだろう」


「あの方は、そんな、喜ぶなんて」

 リエリーは兄の怒りが、命の恩人である彼にまで向いたことに驚いた。


「あの方? 会いに来たのか、その男は? この私の無様(ぶざま)な体を、確認しにきたのか?」

 セウヤがの苛立ちが増すことが怖くて、リエリーは体を固くする。


「違います、あの方は……何も、なにも望まなくて、だから、私はお会いすることはなくて、お礼を申し上げることもできなくて、だから会ってはいないのです」


 言葉がつっかえ、要領を得なくなると、セウヤ兄はいつも苛々する。リエリーはいつ怒鳴られるかと(おび)えながら続けた。


「それで、私はお話を伝え聞いただけで、その……あの方は褒美(ほうび)を断られたと」

「褒美を断っただと」


「は……い、そう聞きました。父上が望むものを褒美にとミタツルギ家にお伝えになりましたが、でも、あの方は何も望まないとお返事されたそうです」

 

忌々(いまいま)しい」

 長い沈黙の後で、兄が口にした言葉の意味がよく分からなかった。


「ふざけるな、何故、褒美を断る」

 どうして、兄が彼に対して激高しているか、分からない。


「許さない、私をこんな体にしておきながら、聖人気取りか? 崇高なことでも成し遂げたと思っているのか?」


 けれど兄は顔を赤くする程に、体を震わせる程に、怒りはさらに増していく。

 そしてとうとう、永遠に床から出ないと思われた、その体を動かした。侍従に「出かける」と宣言するほどに。


「その男に会いに行く」


 リエリーは兄の体の回復を望んでいた。

 歩けなくなっても、車椅子で生きていく彼を、誠心誠意支えて生きていこうと思っていた。

 

 早く気持ちを安らかにして、あの車椅子に乗ってくれたらと、そう思っていた。


 兄を前向きに変えるのは、優しさとか思いやりとか、将来への希望とかそういうものだとぼんやり思っていた。


 けれど、彼を車椅子に乗せたのは、あの人への怒り。

 リエリーにはセウヤ兄の心の仕組みがどうなっているのか、とうてい理解できなかった。


 命の恩人であるはずの、あの人を……そして私を救ってくれたあの人を……


 セウヤお兄様、お願い、彼を傷つけないで。

 

 恐ろしい変化を見せ、兄の痩せた体はきびきびと側仕えに命令し、身支度を整えさせた。

 セウヤは車椅子を侍従に押させて、リエリーを残し部屋を出て行った。


 呆然としたまま、兄が出て行った扉を見つめた。




 シュロム家の第二王子セウヤと王女リエリーは、ちまたではシュロムの天使と呼ばれている。

 シュロム王家にまれに現れる銀の髪とすみれ色の瞳で生まれた二人。


 その(うるわ)しい姿は、大神殿に描かれる天使が、現世(うつしよ)に降り立ったかのようだと、人々は感嘆(かんたん)する。


 1才違いの兄妹は、幼い頃から双子のようによく似ていると言われる。

 しかし、似ているのは顔だけで、兄は別世界に住む人のようにリエリーの想像の及ばないところで生きていた。


 セウヤ兄はお恐ろしい程に賢く、本を丸暗記できる。8歳には、家庭教師の手に負えなくなり、特待生として、国の最高学府に招かれた。


 12歳になると、数学の世界に、彼はあっという間に取り込まれ、推測して論理的に結論を見出す作業に没頭(ぼっとう)した。頭の中の世界に、彼は入ってしまい。長い間出てこなかった。


 子供の体に、大人の頭脳。

 

 周りの同世代の子供とは会話もせず、大人を言い負かし、孤立してしまうセウヤ兄。けれど、リュウヤ兄だけは特別で、「兄上、兄上」とリュウヤ兄に暇さえあればくっついていた。


 眉目秀麗(びもくしゅうれい)なセウヤ兄は神童と呼ばれ、人々の注目を集めた。身長が伸びて声が低くなると、兄は行く先々で年頃の婦女子からの、ため息交じりの甘い視線に取り囲まれた。


 さらにシュロムに属する諸侯が、セウヤ兄と懇意になろうと取り巻いた。

 彼らは、あまりに(さと)いセウヤ兄に夢を見るのだ。


 彼がいずれシュロムの長となり、その聡明さで王権を取り戻すであろうと。


 甘い視線の婦女子にも、便宜を図って近づこうとする貴族諸侯にも、セウヤ兄は興味を示さなかった。

 嫡男のリュウヤ兄を(おとし)める発言を、匂わせる相手には容赦なく、合理的な氷の言葉で切りつけた。


 どんなに褒め称えられても、セウヤ兄はリュウヤ兄を慕っていた。

 リュウヤ兄は優秀な弟が自慢で、二人は仲の良い兄弟だった。


 目を閉じて、開いたら、世界は一変した。

 リュウヤ兄様は死んでしまった。


 賢いがゆえに、世界と上手く繋がれないセウヤ兄が、唯一リュウヤ兄に手を引いてもらうことで、なんとかこちら側に留まれていたのではないだろうか。

 

 リュウヤ兄を失ったセウヤ兄が、心の均衡(きんこう)を失って、どこへ向かってしまうのか分からない。


 

 侍女が食事を勧めても、リエリーは到底食べる気持ちにはならなかった。

 陽が真上に登り、下って夕日になり、細く長く部屋に影をつくる。


 恐ろしくゆっくり進む時の中で、兄が命の恩人である彼に、何をしてしまうのか……不安の中で待つしかできなかった。


 あの日

 橋の欄干(らんかん)の上で

 あの人は静かにリエリーを見つめていた。


 琥珀(こはく)色の瞳は黒い()に縁どられ、強く印象に残る眼差(まなざ)し。

 あの瞳は、何かを強く宿(やど)していた。


 それが何であったのか分からない。

 されど、その強い何かは、矢のように真っすぐに放たれて、彼女の胸の中心を射抜いた。

 

 彼に射抜かれた胸は、もう元に戻らない。

 痛みではない、けれど痛みと形容するしかない強烈な何かを、彼女の胸は抱えている。

 

 リエリーの脳裏によみがえる彼の琥珀(こはく)の眼差し。

 あの青年のことをリエリーはひたすら思い返している。


 セウヤ兄が彼を傷つけてしまうことを恐れた。

 彼の体も、そして心も、傷つけて欲しくないと強く願った。


 窓から差し込む夕日が色を失い、濃く青い闇が部屋を満たし始めた頃セウヤは帰ってきた。

 

 どう言葉をかければ、彼の無事を確認できるのか。

 頭の中で目まぐるしく考え、そして何も言葉は見つからず立ち尽くす。


 兄の目は満足げに笑っていた。

 瞳孔が大きくなって、興奮している。


 嬉しそうな顔にぞっとした。


 彼は何をしてきたのだ?


 兄はもう何年もそうしていたかのように、自然な感じで、車椅子を両手で動かしで彼女の正面に来た。


「あいつが気に入った」

 兄は一言、リエリーにそう告げた。

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