29.婚約者
どうしてあの時、私はすぐに頷かなかったのか。
リエリーは繰り返し思い出す。
額から血を流し、体中に傷を負って倒れた彼を。
グイド陛下は止めてくれると言った。私が彼の妃になると頷いていれば。
それより前に、エイヘッド領のロドリゲスの妻になると、早々に宣言すれば。
どれもぐずぐずと決心せず、己の身ばかり守って。
彼をぼろぼろにした。
頭の中で、アツリュウは血まみれで倒れたままだ。
それが最後に見た彼の姿だから。
会いたい。
千回も、万回も心の中で繰り返す。
でも、私のために彼は傷ついた。今回だけではない、彼が兄を助けるために堀に飛び込んだ時も。
あの時も、私のために彼は命を懸けたのだ。
長い冬の間、彼はミタツルギ家で療養していると教えてもらった。体も順調に回復していると……
シオが彼の誕生月は12月の『猫月』だと、どうやって知ったのか教えてくれた。
白いハンカチに、小さな猫の刺繍をした。明るい茶色の猫は、跳んだり、伸びをしたり、丸まって昼寝をしたり、猫は何匹も増えた。
元気に跳ねまわり、ご飯を食べるのが大好きで、昼寝の時間がないと文句を言う。
でも、私が困っていると、すぐに助けに来てくれる。私の優しい猫でハンカチは埋め尽くされた。
彼は私に与えてくれるばかりで。
私は彼を傷つけるばかり……。このまま彼がミタツルギ家に留まってくれるといいのにと願った。
春の気配がする頃、セウヤ兄様がアツリュウが私の婚約者になったと告げた。
全身が痺れるように心地良い響きだった。私がアツリュウの婚約者。
1日中、甘い想像をして過ごすことができた。
その甘い夢の中で、ずっと生きていける気がした。
知っていた。
それは現実に起きないことだと。
セウヤ兄様はアツリュウをいつか殺してしまうだろう。
きっと、私のためにアツリュウは死んでしまうのだ。
◇◇◇ ◇◇◇
春が訪れ、桜と水仙が咲き誇る暖かい午後、離宮の庭園の、いくつかある東屋の1つに、セウヤ兄様が待っていると知らされた。
木立に隠れた奥まったその東屋に、リエリーは言われた時間にシオと二人でたどり着くと、そこに兄はまだいなかった。セウヤ兄様が車椅子で来るには、狭い小路は無理なのではと思われた。
リエリーが座って桜の花を見上げていると、草を踏む足音がした。誰かが来るようだ。
振り返ると、木立の間から……
全身が熱くなったのではと思った。顔は熱を帯びて一瞬で赤くなるのが分かった。
鼓動が早鐘を打って胸の内側を叩いてくる、うるさい程に全身でドクドクと鳴る。
アツリュウ……
立ち上がって体を彼の方に向けた。アツリュウがゆっくり歩いてくる。眼差しが遠くから私だけを捕らえて……
「行かないで、シオ」
立ち上がり去ろうとするシオの腕を捕まえる。
シオにしがみつく手が震える。
彼が目の前に立った。もしかして夢を見ているのではと思った。昼も夜も、彼のことばかり考えて生きていた。会いたくて胸がつぶれてしまいそうだった。その彼が私の前に……いる。
ああ、そして瞳が……苦しい程に求めていたあの瞳が……
琥珀の瞳が私を見ている。
……風がそよいでアツリュウの前髪を揺らした。
「あ、傷が」
額に戦の日の傷跡が見えた。あの日の傷ついた彼を思うと痛みが胸に走った。
するりと、シオが腕を抜いた。焦って捕まえようとした手は届かなかった。
『幸運を』ピプドゥ語ですれ違いにシオは彼にささやいて、振り返らずに行ってしまった。
二人きりになった。
彼を見上げる。もう血を流していない彼が、元気を取り戻した彼が、ほんの少し手を伸ばせば届く距離にいた。知っている、この肩と胸の形も、逞しい腕の感じも、大きな掌も全部ずっと見つめていた彼の体、頭の中で何度も思い浮かべる彼の全て。アツリュウ……
「姫……様」
ささやくように彼の声が自分を呼んだ。優しい眼差しが私を見ている。
「……はい」
返事は震えて、あまりにも微かな声しかでなかった。彼の目が少しだけ細められ、優しい眼差しが、苦しい程に甘くなった。
彼は私を見ても驚いていない、彼は私がいることを知ってここに来たのだ。
彼の瞳を見つめた。痛いほどに鼓動は胸を打つのに、もうその瞳から目を逸らせなかった。
ずっとこうしたかった。あなたを見たかった。
風がまた吹いて、傷跡が露わになる……。無意識にその傷に手を伸ばした。
彼がはっとして身を引いた。
彼は足早に反対側に回ると、東屋の卓の向こうに腰を下ろした。しばらく見つめてから自分も向かい合うように腰を下ろした。
彼は深く息を吐いて、そのまま下を向くと目を閉じてしまった。強く拳を握り膝に置き、もう一度深く息を吐いた。とても緊張しているように見えた。
「ごめんなさい」
ずっと伝えたかった言葉を告げた。
私のせいであなたを傷つけてごめんなさい……どれほどの痛みと苦しさを味あわせたのだろう……
彼が目を開けた。もう一度謝ると、優しく微笑んで首を左右に振った。
琥珀の瞳が、陽の光を受けて美しく透き通る。
風が微かに吹いて、ひらひらと桜の花びらが落ちた。
何も話す気配がなかった。穏やかに優しく自分を見ている。静かな眼差しの中で、包まれているような心地がする。胸は苦しく高鳴るのに、どうしてこんなにも安心するのだろう。
ああこの人は私の婚約者になったのだ。そして今目の前で、私を見詰めている。
全身が喜びに満たされた。
彼とお喋りしたいことがたくさんあった。
『お嬢さん』は人参が好きではないと気づいたことや、あなたに猫のハンカチを作ったことや、今月『隠れうさぎ』の4月は、私の誕生月でもうすぐ17歳になることとか……
ずっとあなたに会いたかったこととか……
彼が視線を逸らして、また大きく息を吐いた。何か言おうとして目を閉じ拳を握りしめた。
それがとても寂しかった。私を見て欲しいずっとあなたと見つめ合っていたい。
彼が目を開いた時、たった今までここにあった穏やかなものが失われたことに気づいた。悲しそうな瞳があった。
「エイヘッドに行くことになりました」
それはこの国の最北の地の名前だった。
「ど……して?」
「仕事です。やることがあって……。向こうに行ったらたぶん……もう帰ってこない」
もう帰ってこない? 全身を満たしていた喜びが冷えていく。
「何を……するの? また兄様に何か恐ろしいことをさせられるの?」
彼は目を逸らして小さく笑った。「違います」と言うまでに間があった。
両手で顔を覆った。まただ、兄様はまた、アツリュウを傷つけるのだ。また私のためにあなたは自分を傷つけるのだろうか?
悲しい、どうして私はここにいるんだろう。消えてなくなってしまいたい。
「もう……やめてください。お願い……兄様の言うことを……もう聞かないで」
うまく言葉がでてこない。
顔を上げると、彼の戸惑った顔があった。
「……婚約者を……やめるから……だから」
口にしたとたん悲しくて胸が切り裂かれるように痛んだ。
嫌、私はあなたの婚約者でいたいの、いつかあなたの妻になる夢をみていたいの。
ああでも、私がいる限りあなたは兄様に操られる……
「エイヘッドに行かないで」
「それは……できない」
彼が私のために行くのかは分からなかった。私のためになんて思い上がっているのかもしれなかった。でももしも、またアツリュウが私のために彼を犠牲にしようとしているのなら、それを私は望まない。
ぼたぼたと血を流していた彼が脳裏に浮かぶ。
何て言えば伝わるのだろう。どうすればアツリュウは兄様から離れてくれるのだろう。
「おねがい……」
彼を見つめた。大好きな琥珀の瞳。
あなたが好きなの。
大好きなのアツリュウ。
「私をもう……求めないで」
琥珀の瞳が揺れて、一瞬苦しそうにして目を伏せた。
沈黙の後で彼が低く「分かりました」と答えた。
彼が立ち上がった。
急いで立ち上がり「行かないで!」と心の中で何度も叫んだ。
これで最後なの? あなたにもう会えないの?
彼がゆっくり歩いて、すれ違って、行ってしまう。
アツリュウが2歩ほど離れたところで立ち止まり振り返る。
「いつか……あなたを心から大切にして、守ってくれる人が現れたら。姫様その人と結婚してくれますか?」
彼の声音も眼差しも、そのまま私を包み込んでくれるかのように、あまりにも優しかった。それなのに……どうしてそんな残酷なことを聞くの?
首を強く左右に振った。
誰とも結婚しない。誰とも……永遠に…… 涙が出てきそうになって、俯いた。
胸が苦しくて、悲しくて。できることなら彼の腕を捕まえて「行かないで」と、「私のそばにいて」と……
俯いたまま上げられなかった顔を上げた。
彼はもういなかった。




