20.空っぽの自分
リエリーは女子学院の講義室で『帝国式貴族議会の概要と我が国における議会制度導入の展望』という、彼女の理解のはるか遠くにある、全く身にそぐわない講義を受けていた。
広い講義室は50人程が座れるように机と椅子が並べられている。
だが、今講義室にいるのは、男性教授と、それを取り囲むように座る7人の若い令嬢達。
リエリーは広い講義室の一番後ろに、侍女のシオと身を固くしてぽつんと座っていた。
逃げ出したい。
頭の中にあるのはそれだけだったが、どうすることもできず今日も女子学院の専科講義を受けていた。
セウヤ兄に許さないと言われて以来、彼から声をかけてもらえなくなった。
シオに己が兄にした、償いようのない罪を告白した。
シオは姫様のせいではないと繰り返し慰めてくれたけれど、それを聞くほどに罪悪感は募った。窓辺にひれ伏して泣くしかできない、シオがピプドゥ語でおとぎ話を語りながら背を撫でてくれた。
気がまぎれるようにと、別邸にいた頃の家庭教師にまた来てくれるよう、シオが連絡をとってくれた。
すると、家庭教師が派遣されている元の女子学院から使いの者が来た。
使いの者が言うには、カリス学院長が待っているとのことだった。「学院に来なさい」と。
シオが筆頭執事を通じて父の許しを請うと、あっけなく許可がおりた。
新しい王子が誕生して、父の関心はすべてそちらに注がれている。彼の無関心がなによりも自分の欲しい物なのだと思いほっとした。
『カリスのもとで学びなさい』
10歳の時、病で逝った母の遺言。
カリス・マルイ・トウドウは現在グイド陛下の政務顧問を務める国随一とうたわれる才女。
名にあるマルイは『尊き母』の意味で、我が国の女子教育に貢献したことで、グイド陛下の祖父、ムラド王の在位の時に、彼女が賜った『女子教育の母』を意味する称号だ。
カリスは母の親友で、カリス女子学院を創設した方で現在は学院長も務めている。
貴族の子女は学院に通い高等教育を受けることができるが、卒業後さらに、専門分野を学院に残って研究する院生になることができるのは、男性ばかり。男性優位の社会で、カリス学院長は女性が専門分野を学び、男性と肩を並べて働く道を切り開いている。
雲の上の人。
確かに、カリスに幼い日に会ったことはある。母とお茶を飲んでいる横顔を覚えている。
ただ、それだけだ。
母の遺言に従って、本来なら14歳から女子学院の中等科に通うはずだった。
祖父の世話のため、それが叶わなかったことを知ると。帝国留学から帰ったリュウヤ兄上が、すぐに高等科の制服を仕立てて、学院に通う手はずを整えてくれた。
でも、自分は学院に行かなかった。
祖父の世話がある、父が許さない、それは建前で……。
自分は怖かったのだ、外に出ることが。
今は祖父もおらず、父の許しもあり、学院に行かない理由を見つけることができなかった。
リュウヤ兄上が仕立ててくれた、高等科の制服は、学院を目指す少女達の憧れ。
帝国式でありながら動きやすいスカート。帝国式のパーティ用ドレスはコルセットをつけるが、体を締め付けるコルセットを必要としない日用スカートは、カリス学院長目指すの女性の解放を良く表していると思う。
紺色と白を基調とした制服は、とても可愛らしい。
この可愛い制服を着て、高等科の授業を受けてみようかな、講義室の後ろで、静かにしていればいい。そんな気持ちで学院に行ってみることにした。
「専科で学びなさい」
学院長室で6年ぶりに会ったカリス学院長は自分に何の質問もしなかった。近況を聞くこともなく、世間話をすることもなく、たった一言そう告げただけたった。
栗色のゆるく波打つ髪と、意思を強く伝える眉。母と同世代の彼女は40代、年齢を感じさせない若々しさで、思い出の中の彼女がそのまま目の前にいた。
しかしその鋭い眼光は、母の葬儀で抱きしめてくれたものとは全く違った。
「……専科? 私は高等科で学ぶのではないのですか?」
か細い声しか出せなかった。
「あなたを教えた教師達からは、高等科の内容は終えていると聞いていますよ」
まずは好きな講義を自分で選んで受けなさい。半年したら自分の研究したい分野を決めること。その2つをカリス学院長は告げると、質問はあるかとリエリーに問うた。
声も出せず、まごまごしていると、話は終わりになって部屋を出るしかなかった。
「シオどうしましょう。私専科なんて、とても行けません……」
シオに言ったところでどうにもならないと知っているのに、シオにしか話しかけられない自分がいた。
◇◇◇ ◇◇◇
専科の女子学生は皆独立旺盛な、最前線で活躍する意欲に満ちた方々しかいなかった。
カリス先生の厳しい選抜試験を勝ち抜いてきた女性たちは、挨拶を交わすことさえ、怖気図いてしまうような、強い覇気を放っていた。
貴族の交流では、王女ということで無下に扱われたことは一度もないが、ここで自分はあっという間に空気のような存在になった。
教授を受ける部屋に、侍女を伴っているのは自分だけだった。
質問されても、何も答えられず、自分の意見を述べることは1度もできなかった。
彼女らは議論を好む。
己の意見がない、物言わぬ人間は、いないのも同然なのだ。
彼女たちは時間が惜しいのだ、黙っている私をかまっている暇など1秒もない。彼女たちは未来を見ている。男性と渡り合うための戦う術を一刻も早く身に付け、己の力を社会で試したくて戦場に突撃していきたい人たちなのだ。
自分が恥ずかしいと思った。
カリスが母の親友で、母の最期の願いが、私がここで学ぶことだった。だからそカリスは私が学院に来ることを許している。
ここにいる人は皆、懸命の努力の末にここに入り、そしてもっと険しく困難な未来に立ち向かおうとしている人たちだ。
私が何の努力もせずに、王家の力でここにいることを皆知っている。
せめて、この機会を得られたことを生かして、皆と同じように学べたら、そう思うのに、縮こまって講義を聴くことしかできない自分。
カリス学院長は、一度だけ見に来てくれた。
話せないのならば、他の方法があるだろう。考えなさいそして実行なさい。
言葉を発することが怖くてできない、ならば思ったことを紙に書いて言葉を返すようとは決意した。それでも、己の意見は何も出てこなかった。
話せようと、話せまいと、己がいかに空っぽなのかを思い知った。
せめて一人で講義室に入ろうと思うのに、それさえ足がすくんで、いつもシオの手を部屋の一番うしろで握っていた。
専科の講義は、とにかく討論だった。
討論の多くは、グイド陛下が取り入れようとしている、帝国の新制度に関わることがほとんどだった。
詳しく知らなかったが、前王ムラドが急速に帝国式の制度を導入して、この50年でヒルディルドは大きく様変わりした。そして現王グイドが、政に身分を問わず実力主義で人材を集めていることについて、彼女たちは大いに期待を寄せていた。
ビャクオムの治世になってから、古い制度が改革され、女性が社会で活躍する場が生まれたこと。さらにグイド陛下は貴族が独占していた政に実力のある平民を登用しようとしている。目を輝かせて、その素晴らしさを語る令嬢、それを受けて、急速な変化に、ヒルディルドの伝統が軽んじられていると反論する令嬢。白熱する議論。皆なぜそう意見を持つかの根拠を朗々と述べる。
聞いているとため息しかでない。
でも、どうしてだろう。討論を聞くほどにリュウヤ兄上のことばかり頭に浮かぶ。
帝国留学から帰ったリュウヤ兄様が、ここで繰り広げられている討論に参加したら、どれほど生き生きと語るだろうと兄の嬉しそうな顔を想像してしまう。
リュウヤ兄様はグイド陛下を友人だと言った。そうセウヤ兄様から聞いた。
リュウヤ兄様が帝国留学中、グイド陛下も同時期に留学していた。そこで友人になったのかしら。
リュウヤ兄様とグイド陛下も、こんな風に討論していた日があったのかもしれない。
シュロム王家に属する人たちの中にいるときは、そんな想像をすることすら許されない気がした。
ここでは、シュロムとかビャクオムとかを飛び越えて、ヒルディルド国としてどうあるべきかを討論している。ここはシュロムでもビャクオムでもない、中立の世界で、自由に彼女たちは意見を述べることができる。この世界をカリス学院長が創り上げたのだ。
カリス学院長ってすごい人ねと、今日はこんな講義を受けたのよ、そんな話をリュウヤ兄様に聞いてもらいたいと切に感じた。
リュウヤ兄様に会いたい。
こんな駄目な自分を見たら、兄様は呆れるかしら。
でもきっと、笑顔で『大丈夫だよリエリー』っていつもみたいに……
「様…… 姫様!」
シオに呼ばれてはっとする。
「姫様、今創世記神話のお話をされていますよ。姫様全て暗記してらっしゃるから、お話に参加できるのではないですか?」
討論のざわめきが、ピタリとやんで、教授と7人の令嬢がばっと振り返った。全員の視線が一斉に自分に注がれた。
「創世記神話をすべて暗記していらっしゃる?」
1人の令嬢がつぶいた。
黒板の近くの、講義台近くに集まって討論してした女子学生が、すごい速さで自分の周りに集まった。7人にぐるりと取り囲まれる。男性教授が最後にやってきて、「創世記神話にお詳しいのですか?」と聞いた。
震えるほどの緊張に身を縛られれ動けない。シオがかわりに何度も頷いた。
討論の内容は、宮殿で経費削減のために、例年行われている1つの地味な儀式を取りやめることにした。ところが神殿から猛反発があり、結局その儀式は残された。それは何ゆえかというのが話題だった。
令嬢たちは神官たちが宮殿での勢力を衰えさせないための、勢力争いからくるものだと主張したが、1人がそれは創世神話の逸話からくる理由ではないかと意見した。だが皆その逸話を詳しく知る者がいないのだ。
しかしすぐにその理由が分かった。
その儀式は地味ではあるが、神官達にとっては『種まき』と同じなのだ。
1年を通して行われる儀式の根拠となる始まりの種。
種を蒔かなければ、その後の花の祝いも、収穫の感謝も神に捧げられない。
その儀式がを取りやめるとなれば、神官たちが猛反発するのは当然だ。
言葉にして説明しようと思った。根拠となる聖典の一節を諳んじることもできる。
皆が自分に注目している。
答えを待っている。
言わなければ、息を吸って、それは……と声にした。
声はかすれて、「そ」しか音にならない。
そうだ、カリス学院長に言われた別の方法にするんだ。
あわてて、紙とペンを取り出した。皆が待っている急がないと。
ペンを持つ手がぶるぶる震える。急いでさあ書いて。書くことは全部分かっているのだから。
ペンにインクを付けようとして、ペン先がインク瓶にも入れられない。でも令嬢たちは黙って待っていてくれる。
何とかして紙にペンを置くと、手の震えのままに線が乱れた。書こうとするのに、震えた線が紙につくだけ……
「わかりません」
これ以上皆を待たせるのが忍びなく、やっとの思いで紙に書いた。
「よろしかったら、次の講義までに書いてきてくださってもいいのよ」
1人の令嬢が優しく言っていくれた。
「そうそう、私ずっとあなたとお話したかったの。あなたはピプドゥに所縁のかる方なのでしょう?ピプドゥの文化について知りたいわ」
別の令嬢がそうシオに向かって話かけると、皆一斉に私も聞きたいと思っていましたのと、シオに質問を浴びせ始めた。
その場はそれから、ピプドゥの話題で盛り上がり。しばらくすると、皆前に戻って討論を再開した。
皆さんの優しさがとても有難かった。こんな自分を責めるでもなく、待ってくれたのに……
ただ、ただ自分が情けなかった。
分かりませんと書いた紙を握りしめた。
祖父の世話係から解放されたいと願っていたけれど。
解放されてみたら、自分にはどこにも居場所はない。
母が、開いてくれた道も、自分には分不相応で、あまりに自分が情けなくて。
それでも毎日懸命に学院に通い、ひたすらぽつんと後ろに座って話を聞いた。
でもある日、部屋を出ようとすると足が震えて動けなくなった。
今日だけ休もう、そうして一度休むと、それきりもう学院へは行けなくなった。




