17.誰が悪いのか
アツリュウに会えなくなった。
リエリーが、いつものように馬場に行くと「今回から私がお世話させていただきます」と初めて見る男性に告げられた。
アツリュウ様はどうされたのですか? 次回は彼が来ますか? などシオが聞きたい事の全てを質問してくれたが、彼は詳しいことは知らないようだった。
分かったことは、もうアツリュウは来ないこと。
これからは、この男性がアツリュウの代わりに『お嬢さん』を引くとこと。
代わりに来た男性は、お嬢さんを引く間、何度も振り返っては大丈夫ですかと確認してくる。馬場を1周したところで、シオが怒って「姫様お一人でお乗りくださいませ」とその者を下がらせた。
「ねえ、お嬢さん」
馬場で1人お嬢さんに乗りゆっくり歩かせながら話しかける。
「アツリュウはもう来ないのですって。お嬢さんも寂しいでしょう? 私も……」
シオたちは遠くにいて、馬場の端を歩く。自分の呟きを聞く者はお嬢さん以外にはいない。それでも自分の胸の内を言おうとすると、言葉に詰まった。
「お嬢さん……、私……、私も……寂しい……の……」
お嬢さんの首に触れると温かな体温が伝わってくる。鬣に結んだリボン、このリボンを結んだ日のことが思い出される。あの日は彼がいて……、次も、また次も会えるのだと思っていて……
こんなに突然終わってしまうなんて、知らなくて……
「私……アツリュウに……」
会いたい。
その言葉を口に出すことができなかった。
たとえ、誰が聞いていなくても口に出してしまったら、もう本当に戻れない場所に行ってしまうような気がした。
心の中で思うことだけ、それだけは止められないけれど。
口に出してはいけない。
願っていはいけないのだ。
何かを願って、叶ったことなど無い。良い子で、父上の言うことを聞いて、お祖父様の言うことを聞いてただそこにいること。それだけをしてきたのだ。
何かを願っても、手に入らない事を自分は十分学んだのだ。私は諦めることに慣れている。
これが普通なのだ。何かを願ってはいけない。
乗馬を終えると、シオは驚くほど怒っていた。
「私絶対に納得できません。侍従頭を通して、セウヤ殿下にお願いしてみます。アツリュウ様を戻してくださるように」
「いいのです。私はお嬢さんに会えるだけで満足ですよ」
シオの黒曜石の瞳が悲しみを映している、まるで自分の心を見るかのようで苦しい。
「姫様、だって……。姫様がこんなにも元気になられたのは……」
ああ、言わないで。それを言葉にしないでシオ……
「アツリュウ様のお陰ですのに」
目を閉じ、胸の痛みにただ耐えることしかできなかった。
お願い、彼との時間が特別だったのだと言葉にしないで……
私の心はもうアツリュウのことばかりで、彼との時間を繰り返し思い出してばかりいる。
彼の背中……
彼の大きな手
彼の横顔……
琥珀の瞳が向けられた時の優しい眼差し……
この気持ちを言葉にしてしまったら、もうどうやって生きていけばいいか分からないの……
◇◇◇ ◇◇◇
夏の終わりの嵐が続いて、あちこちで河川の氾濫や山崩れが起き、父はシュロム属領の仕事で、長い事館を開けた。
父が不在のある晩。
ちょうど満月の明るい夜。
真夜中にセウヤ兄に呼び出された。
彼の部屋に入ると兄は車椅子に乗っていて、部屋に灯りは無いが、窓からの月光で彼の姿が浮かび上がっていた。
「リエリー」
背を向けたまま、セウヤ兄に名を呼ばれた。
兄に会うのは久しぶりだった。河川の氾濫の件で忙しいのだと聞いていた。けれど離宮に自分が住むようになってから、どんなに忙しくても、必ず顔を見せてくれていた兄、それがある日を境に全く会えなくなった。
何か兄にあったのではないか? 心配していただけに、この真夜中の呼び出しはリエリーをさらに不安にさせた。
「兄様、何かあったのですか?」
側に行こうとして、自分の問かけに無言のままの彼に恐れを感じた。足がすくんで近づけなかった。
彼は怒っている?
「リエリー、分かったのだ」
彼の声は低く、いつもの兄の声ではなかった。怒っているというより、ひどく冷たい。
「……何が、分かったのですか?」
「リュウヤ兄上を殺したのが誰かが分かった」
背に冷気が走りその場に固まって動けなくなった。
「なあ、リエリー。お前は私の言葉を信じていなかっただろう。兄上が殺されたとお前は信じなかった」
答えられなかった。
リュウヤ兄上が舞台から落ちた日、自分はその場にいなかった。聞いたままに事故だと思っていた。何故なら、人々が見ている前で、グイド陛下が兄に何かするなど、とても無理だと思われたから。
「お前には話していなかったが、リュウヤ兄上には毒針で刺された跡が体に残っていた。おそらく、神経に作用して、意思に反して走ってしまう毒なのだ。だからあの日、兄上は舞台から落ちた。その毒針を誰が刺したと思う?」
胸に悲しみが込み上げる。もしそれが本当なら、リュウヤ兄様はどれほど恐ろしかっただろう、自分の体が、意に反して舞台から落ちていくなど……
「なあ、リエリー。誰がやったと思う?」
「あ……、そ、れは……、あの舞台にいた陛下しかできな……い」
「そうだろう、私もグイド以外それができる人間はいないと考えていた。だがな、私は先日隠し扉を見つけたんだ。それで、兄上を殺せる人間が他にもいることが分かった。それはな……、よく聞けリエリー」
車椅子が音もなく動いて、セウヤが振り返った。月明りの窓を背にして、顔は良く見えない。
「父上だ。リュウヤ兄上は父上によって殺された」
え?
何を言っているの?
「どうして、そんなことをお父様が……するの?」
兄は冷たく笑った。
「どうして? どうしてだろうなあ。それは私にも分からない。そしてもはや、父上の理由などどうでもいい。あるのは、あいつが兄上を殺したという事実」
理解が追い付いていかない。本当にお父様がリュウヤ兄様を? そんな、信じられない。
「ゆずり葉の指輪、お前がさんざん聞かされてきた指輪の名。あの指輪に毒針が仕込んである。そして、あの老いぼれが繰り返し言っていた言葉。『ムラドを走らせる』と」
それはリエリーが6年間、繰り返し祖父から聞いた言葉だ。
「あの舞台は、新月の舞いを踊るビャクオム王を走らせ、落とすために造られたのだ」
セウヤは声をあげて笑いながら言った。
「それなのに、あの老いぼれは、ムラドを走らせることができず、その息子の父上は、代わりに大切な自分の息子を、走らせて殺したんだ。馬鹿みたいだろ、どうしようもない馬鹿で、愚かな……」
笑っていた兄が、急に黙った。
それきり、何も言わない。
音もなく彼が車椅子を進めて、リエリーの足元に来た。下から覗き込む、彼の瞳が月の光を反射して、そこに目があることは分かるのに、表情は見えなかった。
「あの日、父上は『ゆずり葉の指輪』をしていた。兄上の葬儀の日だ」
脳裏に、白馬に乗る前の父と兄のことが浮かんだ。
「あの日、父上は恐れたのだろう。私が、リュウヤ兄上の体に、毒針の証拠があると大勢の前で示されるのを。父上は一刻も早く、リュウヤ兄上の体を焼いてしまいたかった。だから……私も走らされた」
あの日の白馬……
あの時のことは、鮮明に覚えている。固唾を飲んで、兄の一挙手をつぶさに見ていた。なぜなら、兄が何をするのか、怖くてたまらなかったからだ。
セウヤお兄様が乗馬して、従者が離れて、最後にお父様があの白馬を撫ぜていた。
あの時は、セウヤ兄を励ますようなそんな仕草に見えた。けれど、あの時まで馬はとても大人しかった。
それなのに、兄上が乗馬したとたんに、走り出した。
がくがくと足が震えてとても立っていられなくなり、その場に崩れるようにしゃがみこんだ。
「嘘、そんな、お父様が、あの時白馬になにかしたの?」
「そうだよリエリー、父はリュウヤ兄上が殺されたことを知られる訳にはいかなかった。私がしようとすることを、止めねばならなかった。だから、馬に毒針を刺して、事故を起こした。まあ、私が堀に落ちるとまでは想定していなかっただろうが、だが、暴れ馬から落ちれば、どうなるか。死んでもいいと判断したことには違いない」
「顔を上げろ……」
震えたまま床にへたり込んで、何とか両手で体を支えていた。とても顔を上げられない。
「まさかな、リュウヤ兄だけでなく、私まで、殺そうとするとはな……だが、一つ、分からないことがあるんだ」
顔をあげろともう一度冷たい声が頭から降ってきた。恐々と頭を上げる。
「どうやって父は、私の計画を知ったのだ?」
彼はもう、答えを知っているのだ。
「……言いました。私が……お父様に、言いました」
『リエリー、けして誰にも言うな』
葬儀の前の晩、兄から告げられた計画。けして言わないと約束したのに、私は恐怖に耐えられず……
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
自分のせいだったのだ。
セウヤ兄様の足が動かなくなったのは。
もう、一生歩けないのは。
自分が約束を破ったからだ。
「ごめ…… ん…… な……さ」
この期に及んで、口からこぼれたのは、幼子が使うようなごめんなさいとういう言葉。
なんという、うすっぺらな、謝罪の言葉。
兄を裏切った事実も、彼が足に負った傷も、自分が何をしようと、何を言おうと、もう元には戻らない。
「許さない」
それきり、兄はもう何も言わなかった。
彼は車椅子を動かして、窓辺に行き、背を向けて振り返らない。
満月の光は、部屋中に満ちて、影を作るほどに明るく部屋を照らした。
失ったのだ、と思った。
私は兄にけして許してもらえない存在になったのだ。
セウヤ兄のことを、怖いと思うことがあった、でも、兄はいつでも自分を気にかけてくれていた。妹の自分を愛してくれる唯一の人だった。
そして、己はずっと、セウヤ兄を守りたいと思っていた。
セウヤ兄を守りたかったのに、現実は、彼の心も体も深く傷つけた。
これからどうやって兄に償えばいいのだろう。




