127.私の花の妖精
「この木だ。この場所でリエリーが歌うのをあの日見たんだ」
アツリュウは馬を止めると、一本の木を指さした。
2年前、リュウヤ殿下とセウヤ殿下そしてリエリー王女が遠乗りに訪れていたのを、河原の対岸からアツリュウは見ていた。
あの日彼女は遠い人だった。
頭を上げて見ることすら叶わない別世界にいるお姫様。
今自分の妻となったその人は、隣で美しい白馬に乗り並んで遠乗りに来ている。
アツリュウは、ササナリ家当主となったリエリーの婿になり、ミタツルギ家を出てアツリュウ・ササナリとなった。これからはエイヘッド領主としてエイヘッドの地を治めていく。
領地に帰る前に、アツリュウの願いでセウヤとリエリーを供なって特別なこの場所を訪れていた。
セウヤは一人で騎乗できないので、シンライガの馬に特別な鞍を付けて二人で騎乗している。前後にはかつての同僚のシュロム宮廷護衛団の護衛が付いている。その中に姫の専属の護衛としてスオウがいた。
「兄上が遠乗りに誘ってくれて、私は久しぶりに学院から出てきた。春とはいえまだとても寒くて、早く帰ろうとごねた私にあの花の所まで行こうと言って……」
セウヤはあの日のことをよく覚えていて、リュウヤ殿下のことを懐かしく語った。
「リエリーは普段からよく二人の前で歌っていたのか?」
アアツリュウの問いにリエリーは恥ずかしそうに首を振った。
「人前で歌うのは苦手で外で歌うなんて初めてでした。でもあの日はリュウヤお兄様がこの頃何をしているのかと聞いて、お祖父様が作曲した聖歌を歌う練習をしていますとお伝えしたら、ならここで歌ってみせてとお願いされて……」
「それならあの日の曲は祖父が作った聖歌だったのか?」
セウヤが訪ねると、あらお兄様忘れてしまったの? とリエリーは少し驚いた顔をした。
「あれはお母様がお好きだった歌ですよ」
リエリーの言葉にセウヤは返事を返さず、思いにふけるように木立を見上げしばらく眺めていた。花を終えて新緑の若葉が伸び始めている。
「アツリュウが向こうに立っていたのは覚えが無いのです。こうして対岸を見るととても近く感じるから、人がいたのなら気づいていたとは思うのですけど…… アツリュウと初めてあった特別な時だったのに覚えていなくて残念です」
アツリュウは軽く頭を振って、そんなことはいいんだと伝えた。あの日見た3人の姿が蘇る。
「リュウヤ殿下はとても優しく微笑んでいらした。弟と妹を本当に大切に思っておられたのだと、あのお顔からよく分かったよ。3人の特別な思い出を、ほんの束の間だったけれど共に体験することができて俺は幸せ者だ」
アツリュウはあの日立っていた場所に、かつての自分の姿を見る。
「あの頃何もかもを無意味に感じて自分が嫌でたまらなかった。自分から逃げ出すことができないなら、いっそ死んでしまいたかった。だからいつもめちゃくちゃな戦い方ばかりしていて、剣の師範に叱られてこの場所で仕事をしていたんだ」
リエリーが馬を並べて、アツリュウと一緒に今は誰もいない対岸に目をやった。
「あの日リエリーを見た時、何もかもが吹き飛んで、ただ君だけを見ていた。君のすみれの瞳に俺の全ては吸い込まれてしまったんだ。あの日、あの瞬間から俺は君のものなんだリエリー。もう一度君を見ることが俺の生きる意味になった。だって俺の全てを、君がもっていってしまったんだから」
リエリーは優しく見つめ返すだけで何も言わなかった。川のせせらぎと、柔らかな春の風が梢をゆらす音だけが鳴る。
穏やかで、満ち足りて、もうあの時のように逃げ出したいなどと思わない。ただ、あなたと共にありたい。何ものにかえても守りたい人、そしてあなたもまた自分を同じ強さで思い守ってくれる、唯一の存在。
「今ここに、リュウヤお兄様がいてくれるのを感じる。私の大好きな夫を紹介できて嬉しい。リュウヤお兄様とセウヤお兄様、それからアツリュウ聴いていてください」
銀の睫毛が伏せられて、リエリーはしばらく何も言わなかった。心の中でリュウヤ殿下と話をしているのかもしれなかった。そうしてやさしく微笑んで、開かれた瞳は、どこまでも澄んだすみれ色、「あなたを愛しています」と己だけに向けられる。アツリュウを捕らえる瞳からもう目を逸らすことなどできない。
息を大きく吸って、可愛いサクランボの唇から歌がこぼれだす。
清らかな歌声が、天に向かって響き渡る。
あなたの歌が私を生かし。
あなたの歌が私をここまで導いた。
歌声が光の粒を散らすように広がって、アツリュウの胸を満たしていく。
ただこの時を、歌声に包まれてあなただけを見つめていたい。
己の魂の全てを吸い込んだすみれの瞳。
私の花の妖精。
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初めて長編を書きました。最後まで読んでくださった方々に本当に感謝しております。
我慢と耐える男の人、名付けて『耐え男』が大好きなので、その手の話をこれからも書いていきます!
同じ趣味の方に喜んでもらえるよう頑張ります。




