123.手紙
「ヤナ、どうして帰ってこないんだ」
アツリュウは古い見張り台からいつものようにエイヘッドの街を見下ろす。8月『雀月』が終わり、今日から9月『緑馬月』が始まる。北の地の夏は足早に去っていく。晴れの日はまだ残暑が厳しいが、一雨ごとに気温が下がり心地よい風が吹くようになった。
秋の収穫祭に向け、エイヘッドは準備に活気づいていくようだ。アツリュウが領主代行として着任してから5カ月。エイヘッドは落ち着きを取り戻し、人々は祭りを楽しむ心の余裕が出てきた。ミヤビハラ家は廃され、海賊騒ぎもおさまった。上手くいかないことは無数にあるが、代行としての役目は果たせているだろう。ここで領主として立っていく土台が、仕事の実績としてもアツリュウの気持ちとしても出来上がってきた。
仕事のことだけでなく、アツリュウは一生の伴侶を得た。リエリーという愛す人に触れる喜びを知り毎日幸せの中にいる。スオウやサンバシ、オルゴン、キボネという心から信頼し、支えてくれる人にも囲まれている。
幸せかと問われたら、アツリュウは何の迷いもなく幸せだと答えられる。けれど、苦しいまでの寂しさを抱えていた。
この幸せをヤナに見てもらわないと完成しない。
アツリュウはこの気持ちがどういう種類のものなのか分からない、けれどリエリーと一緒にいて幸せを感じるほどに、ヤナに教えたくなる。自分が幸せであることが彼を笑顔にするその喜びを知ってしまった。
神殿側の階段から人が来る気配がする、はっとして目を向けると登ってきたのはスオウだった。
言いようの無い不快感が込み上げた。ヤナと自分の二人だけの場所に踏み込まれた気分だった。
「なんでお前がここに来るんだよ」
あからさまに不機嫌な声になった、表情にも出ていただろう。
「すまない、おまえが嫌がることは知っていた。だがここで話すことを彼が望んだ」
スオウは迷いなく進んでくるとアツリュウの前に立ち、どう止めようが容赦なく目的を実行する気でいいることが見て取れた。
スオウは何か良くないことを運んできた。
嫌だ! と反射的に体が反応して体を後ろに引いた。
『彼が望んだ』彼って誰だ、そんなの一人しかいない。
「アツリュウ……」
スオウが口を開いた瞬間に、アツリュウは石壁に飛び乗った。「聞かない!」叫んで領主城に戻ろうとする背にスオウの大きな声が追ってきた。
「ヨンキントはもどらない」
後ろから矢で射抜かれたよな胸の痛みに、石壁の上に立ち尽くした。たぶん自分は知っていたのだ、ヤナが戻らないことを……でも、それは短い間のことで明日にもヤナは帰ってくると……
うなだれたままアツリュウはスオウの元に戻った。何も聞きたくは無かった、けれど聞くことがヤナの望みならアツリュウは受け取るしかない。
「ヨンキントから、この見張り台の神殿入口の鍵の置き場所を教えられた。彼はこの場所に自分以外誰も入れなかったらしい、いつも鍵をかけていた」
スオウの言葉にアツリュウは驚いて顔を上げた。知らなかった、ヨンキントがここの入り口に鍵をかけていたなんて。
「ヨンキントは俺を入れることは不本意だと、だが1度だけ許すからアツリュウと話をする時に使って欲しいと言われた」
アツリュウは胸の痛みがひどくなっていくのを感じ、壁に背を付けた。その隣にスオウも並んで壁に背を預ける。ああ、こうやって横に並んで話すのはヤナなのに、どうしてお前がいるんだよ。スオウを見ることができずに目を伏せた。
「ヨンキントはおまえを助け出すために、バッシャールを神殿に隠す必要があった。そのために彼はヨウクウヒ王と取り引きをした、あいつの言葉で言えば『父に私を与える』そうすれば、神殿は彼の思い通りになるのだと……だから彼は今、モーリヒルドの神殿で父王といる」
ヤナの言葉がよみがえる。『父はこの苦痛を受けた者こそが王たるべきと妄執している』
真っ白な紙に黒いインク瓶を倒したかのように、ばあっと黒く広がって染みていく。取り返しがつかない、ヤナどうしてまた苦しみの中に自ら飛び込んでしまったのだ。
「先にエイヘッドに帰るなんてどうしてヤナは俺に嘘をついたんだ。知っていたら俺はどんなことをしたってヤナを……」
スオウが一瞬だけ眉根をよせ苦し気な表情をみせた。
「おまえの耳にいれたら、きっと自分を助けようとするだろうと。だからヨンキントはそれを止めたかった。一度神殿に隠されてしまえば、もう外部の者が探し出すことは不可能なのだ」
「そんなこと、やってもみないで」
食ってかかろうとするアツリュウにスオウは向き合って肩に手を置いた。
「この国の者は皆、俺もおまえも含めてだ、本当のこの国の姿に気づいていない。力を持つのはビャクオムとシュロムの王で、ヨウクウヒは領土を持たぬ力のない存在だと信じて疑わない。でもそうでは無いのだ。考えてもみろ、シュロム王家は200年余りも続いた、その間にビャクオム王家を根絶やしにするなど容易かったはず、どうしてビャクオムをつぶせなかったのか、それは神殿に操られているからだ。シュロムとビャクオムは永遠に対立していることがヨウクウヒの望みなのだ。民意は神殿の教えに支配され、国の公文書は全て神殿を通さないと効力を待たない。月の色などという曖昧なものに王座を決めさせる、だが王家も貴族も民衆も月の神託は絶対だと信じきっている。そうやって全ての民の意識を操り、この国を実質支配しているのは神殿、すなわちヨウクウヒ王なのだ」
アツリュウの頭に流れ込んでくるスオウの言葉は、あまりに勢いが激しく、溺れて流されそうだった。意識もしていなかったヨウクウヒ王という見えない大きな存在が、みるみる目の前にせり上がってくる。
「すべての神殿はシュロムからもビャクオムからも侵されない治外法権を与えられ、内部には手を出せない。それがこの国のいたる所に置かれているのだ。アツリュウ分かるか? ヨンキントは神殿という別の国に行ってしまった。外の者である我々は国に入ることすらできない」
それは絶望的な言葉だった。神殿に入れない? そんな馬鹿なと乾いた笑いが出そうになる。あまねく全ての者に解放された場所、救いの場所と教えられて育った。この国の者なら皆そうだ。そこに入れないというのか?
「ヨンキントは痛いほどに分かっているのだ。アツリュウが自分のために彼が犠牲になったと知れば、命の危険を冒しても助けに来るだろうと。でも、ヨウクウヒの国はあまりに遠い、入ることさえできない国なのだ。その国の深部に隠された自分を見つけることは無理なのだと、どうか分かってほしいとヨンキントは言っている。ヨウクウヒ王がアツリュウの存在を知れば、ヨンキントを操る為の人質にされてしまう。身を捨ててまで助けたお前が傷つけられることを彼は恐れている。探さないで欲しい、それがヨンキントの望みだ」
自分の呼吸の音だけが聞こえる。生きていけというのか、ヤナを茫漠とした荒野に捨てて、己は暖かな花畑の中で笑って…… そんなことをヤナは望んんでいるのか。
何の言葉も出てこない。ただ己の無力さだけが全身を浸す。触れられた時は不愉快で払いのけたいとさえ感じたスオウの肩に乗せられた手が、唯一の救いのように感じられて、その手を上から握った。
幸せになる自分を想像してごらんと微笑んで、あの日もヤナが肩に手を置いてくれた。
ただ黙って、目を閉じて肩に乗るスオウの手を握っていた。情けなかったけれど、スオウは何も言わずにずっと待っていてくれた。
アツリュウが目を開けると、スオウが間近にのぞきこんで「彼からの手紙がある」と告げた。
彼の手には何もない、アツリュウが不思議に思ってどこに? と問うとスオウは少し困ったように微かに笑った。
「暗記させられた。まさかこの世で一番頼みたく無い相手に、アツリュウへの伝言を頼まねばならぬとは最悪だと悪態をついていた。言っておくが、あの男はそうとうに口が悪く腹黒い、おまえの前では優しいだけの兄かもしれぬがな。俺だってこんな役はごめんだ、だが俺の命はあいつに預けてある身なのでしかたがない」
アツリュウは聞く覚悟ができるまで、少し時間がかかった。これがヤナと自分を繋ぐ最後のもののように思えて怖かった。ヤナの別れの言葉を聞きたくなかった。
スオウが上を向いて目を閉じ彼の頭の中の手紙を読んだ。
「アツリュウのことが無くても、私はいずれ父に捕まる運命からは逃れられないのです。私はこの人生に向き合うしかありません。今までは辛いばかりでしたが、あなたに出会ってからは、どこにいても、いかなる時も幸せです。この幸せを与えてくださった月の導きに感謝して生きのびます。だから心配しないでください。次に会うときまで、あなたもリエリー様と幸せでいてください。2人の幸せが何よりも私を幸せにするとあなたはもう知ってくれていますよね。できることなら手紙を書きたかった。でも私のあなたへ対する気持ちが万が一にも父の手の者に知られることを恐れて、とても不本意ですがスオウ殿に伝言を頼みました。だから肝心な言葉を最後に言えないのが残念です。でもあの夜に伝えましたからね。それでは私は必ず帰ります。待っていてください」
この国中にある神殿のどこに隠されたのか、ヤナを探し出すのは途方もない。
エイヘッドの大森林も、その先の岩砂漠を越えたピプドゥも、大海を渡らねばならぬ帝国もいずれも遠く見ることも無い国と思って生きてきたが、本気でその気になれば行くことはできるのだ。
しかしヨウクウヒ王が統べる神殿という国は招かれた者しか入れない。入ることさえできない、そんな恐ろしい国がヒルディルドの国にあるとは知らずに生きてきた。胸に広がる寂しさと共にアツリュウは理解した。ヤナを探す術が自分には無いのだ。
背の高いスオウを見上げると、彼が体をかがめて目線を同じ高さにする。それが子供扱いされているようでいつもなら許せないのに、悔しいけれど「スオウ」と呼んだ。
「分かった。ヤナを探すことは諦める。彼の言う通り俺は待つ」
スオウが何も答えず、硬い手でアツリュウの頭をぐりぐり撫でてきた。
「なんだよ、やめろよ」
されるままに文句を言ったがスオウはやめない。
「弟達が泣いた時は、いつもこうしてやっていた」
「泣いてないだろ」
「そうか? おまえは泣いてるが」
「なんで言うんだよ、こういう時は気づかないふりをする……もん……な」
もう喋ることができずに、壁に背をつけたままずるずると崩れて座った、そのまま頭を伏せて、みっともなくぐずぐず泣いた。スオウも隣に座った。やっぱり頭をぐりぐり撫でてくる。
「撫でんな」
スオウがすぐにやめて立ち上がった。
「なんだよ、行くなよ座ってろよ」
アツリュウがどれだけ恥ずかしい思いで「行かないで」と甘えたかもしらずに、スオウはまた隣にすわると感情のこもらない声で言った。
「前から思っていたが、おまえは年齢より幼い感じがする」
アツリュウは涙が頬をつたって流れるままに、上を向いて泣き笑いした。
「ちくしょう! なんてこと言いやがるんだ最悪。そんなこと言われて嬉しい男がどこにいるんだよ、慰める気あんのかよ」
スオウは何も答えず、ただ隣に座っていてくれた。




