106.獲物を食い殺してきた狼
リエリーがキボネに、これからアツリュウが捕らえられるので、二人で逃げるのだと話すと、キボネはリエリーがお願いしたものをすぐに用意してくれた。
リエリーの計画を誰かに話せば、絶対に止められることが分かっていた。
1人でバッシャールの元へ行かねばならなかった。
キボネに手紙を託した。オルゴン宛てと、もう一通はヨンキントに、迷った末に一緒に行ってくださいと彼に書いてしまった、どうしても怖くて頼ってしまった。
ウサギに鞍を付け、男物の従者の服を着たリエリーは一人領主城を出た。
アツリュウを連れ去る騒ぎが城正面広場で起きており、裏城門は手薄になっていた。
アリタ山に続く山道をウサギを歩かせ登っていく。
アリタ山は雄大な山だった。エイヘッドの象徴のような山で、ココサワ翁から聞いた森の人の精霊の話ではアリタ山に精霊王が住まうという。
恐怖に体が動かなくなり、何度も引き返そうとしてしまう。けれどリエリーは精霊たちの森に行くのだと自分を励まし馬を進めた。森はいよいよ深くなり、山小屋は本当にあるのかと不安になっていると、後ろに馬の蹄の音を聞いた。
「リエリー様! よかった追い付いて」
息を切らせて馬を走らせてきたヨンキントの姿が見えた。
「バッシャールに会うなど危険すぎます、帰りましょうリエリー様」
「ヨンキント、私はどの道を進んだとて、アツリュウが死ねば私も死ぬのです」
「ですがリエリー様、バッシャールがあなたに何をするか、死ぬよりひどい目にあわされる、そんな苦しみをあなたが受けたら、アツリュウがどれほど悲しむか! アツリュウのために行ってはいけません」
リエリーは心を落ち着かせ、静かに言った。
「むざむざと死ぬ気はないの。私はセウヤ兄様と戦争を始めます」
ヨンキントは「戦争?」と信じられないように繰り返した。
「兄様はシュロム王家の権力を持っている、そして私がもっているのは己の命ひとつ。私がこの命1つで兄様とどう戦うのかをヨンキント見ていなさい。アツリュウは私のものです、兄様には絶対に渡さない。そのためになら、私はこの命を懸けます」
「無茶です、リエリー様。相手はピプドゥ国の大罪人であり、いまや賊の頭領だ、そんな男と取引するなんて、女のあなたには危険すぎる」
ヨンキントは馬を寄せ、リエリーの手綱を取ろうとした。
リエリーは止めていた馬を進ませた、ヨンキントがすぐ隣にくる。
「取引なんてしません、私はバッシャールに与える見返りを何も持っていません」
「それならば、いったいどうやって話をするのです」
リエリーは微笑んだ。
「お願いをするのです」
◇◇◇ ◇◇◇
ヨンキントはリエリーに付いてきてくれた。
山小屋に着くとピプドゥの男が二人いた。リエリーがピプドゥ語で話しかけると、彼らはとても驚いた。
リエリーがピプドゥの神々の名を告げながら、戦士を讃える祝福を送ると、彼らは非常に喜んだ。リエリーが仮面の男に会いたいとお願いすると、二人のうちの一人が急いで山に入っていった。
「どうして仮面の男に会いたいのですか?」とヨンキントに聞かれた。
「彼は優しそうにみえたから」とリエリーが答えると、彼は「はあ」と困った顔をした。
リエリーは強気なことを言っても、やはりバッシャールに会うことは怖かった。館で襲撃された日のことを思い出したとき、仮面の男はココサワ翁にとても優しかった。だからまず、彼にお願いしてみようと考えた。
仮面の男はなかなか現れなかった。リエリーはピプドゥ語で、山小屋に残った男と話をした。男はバッシャールがいかに素晴らしいかをとめどなく語り、草原での暮らしを誇らしく話した。
昼が過ぎた頃、仮面の男が5人ほど引き連れてやってきた。彼はもう仮面を付けていなかったが、顔に見覚えがあった。年はアツリュウとさほど変わらない若さで、大きな目はすこし子供っぽさを残しており、優しそうに見えた。
「仮面の男さんこんにちは。ココサワ翁の腰は良くなったそうです。あなたの親切に私は感謝します」
リエリーがそう告げると、彼はそれはよかったと答えた。
「これはお礼です。あなたはこれを気に入ったようだから、たくさんもってきました」
リエリーはキボネの焼き菓子を彼に渡した。
「おおパティ、パティ!」
仮面の男は大喜びした。すぐに包みを開けると、周りの男たちもすぐに囲んでこれは何かと騒いだ。
リエリーは彼らが美味しそうに菓子を食べるのを眺めていた。
「リエリー様、準備がいいですね、お菓子をすごい喜んでいる。なんだか彼らは思ったより穏やかですね」
「ピプドゥでは、むやみに女性を傷つける男は非常に軽蔑されます。そしてもてなしを受ければ、もてなしを返す、恩義を大切にする人々です。そしてもう一つ、外から来た客人を大切にする文化があります。さらに……」
その先は言わずリエリーは微笑んだ。
◇◇◇ ◇◇◇
山の中の日暮れは早い。空はまだ日暮れの明るさが残っていたが、リエリーとヨンキントが、男たちに背負われて、バッシャールの根城に付いた時には、あたりは薄暗くなっていた。
目隠しを取り、天幕の前に立たされる。リエリーは仮面の男に手を引かれ中に入った。
「バッシャール様、わたくしの友であり、客人であるリエリーをお連れしました」
天幕の中は思ったより広く明るかった。毛皮を敷いた上に男が座っていた。
リエリーはその顔を見た瞬間、全身に鳥肌がたった、あの日の男の声が耳元によみがえり、ぞわぞわと怖気に包まれる。入るのが嫌でたまらない、ここが地獄となるのか、アツリュウを救う頼みの綱になるのかは分からない。
覚悟はできているはず。私にあるのはこの命ただ一つ、そしてそれはアツリュウだけのもの。
リエリーの顔を見たとたん、バッシャールは大きな声で笑った。
「ジャミルよ、ピチパはおまえの友になったのか、これは驚きだ。ならば我々はピチパを最高の礼でもてなしせねばなるまいな」
「はい、頭領。リエリーは私たちに戦士の祝福を与え、これまでの戦を褒め讃えました。私たちの戦がヤーナの誉れになったのです」
バッシャールはジャミルの言葉を聞いて笑いが止まらない。
「やれやれお前達はピチパにすっかり骨抜きにされたか、だが、確かに戦えど、戦えど、ヤーナの誉れにしてくれる女がここには一人もいなかったからな。それは良かった、ピチパをお前の友と認めよう」
「もっとこちらにおいでピチパ、友と紹介された客をもてなさ無いことはピプドゥ人の恥、あなたも知っていることだろう。私は礼をもってあなたを迎えよう」
バッシャールはヨンキントにも分かるように帝国語でそう言うと、彼の隣に座るようリエリーに手招きした。
どの位置に座るべきなのか、ピプドゥの作法があるはずだったが、さすがにそこまでの知識はリエリーに無かった。バッシャールの隣に座ることは恐らく間違いであろう、しかし、リエリーはなんとしてもバッシャールを動かさねばならない、ぐっとお腹に力をいれて彼の隣まで進んだ。
神の名を告げてピプドゥの挨拶する。バッシャールの手が伸びてきて、リエリーはぐいと引き寄せられた、彼の胸のなかに転びそうになり、すぐに手を突っぱねてさけようとした。
後ろから抱えられ、ふわりと体が浮いた。
「無体はゆるしません」
ヨンキントが帝国語で鋭く言うと、彼がバッシャールの隣に座り、その横に抱きかかえたリエリーを座らせた。
「番犬にしては、弱そうな男を選んだな」
にやにやとしながらバッシャールが帝国語で言った。
天幕の中には、ジャミルと呼ばれた仮面の男と、バッシャール、そして彼の斜め後ろに、恐ろしい気配を纏った鋭い目つきの男が一人いた。
「名をリエリーをいうのか。私に会いにきてくれるとは嬉しくてしかたがない。さっそく持ってきてくれた土産を食べてもいいかな?」
バッシャールが顎を擦りながら、嬉しそうに帝国語で話す。
「土産は何もないのですバッシャール」
リエリーも帝国語で返した。
「おやおやこれは驚いた。ピプドゥでは出された食べ物はその場ですぐに食べるのが礼儀だろう、土産も同じ、もらったらすぐに食べねば失礼だ。私は怒っているのだよ、あれほどに私がお願いしてもピチパはきいてくれなかったというのに、ジャミルにはたやすくあなたの名を教えたのだな。さあ私の膝においで、まずあなたを食べよう」
ピプドゥ語でバッシャールは言うと両手を広げて「おいで」と呼んだ。
はあ? リエリーは頭の中でカーリンの口癖を叫んだ。
バッシャールは私を食べると言った?
リエリーは怪訝な顔でジャミルを見た。これはピプドゥ人が友と紹介された客にすることなのかしら? と目で問いかけた。
ジャミルは彼女は私の友ですと必死に止めてくれた。どうやらバッシャールの物言いは、ピプドゥ人からしても失礼なようだった。
さっきまで笑っていたバッシャールの顔がすっと鋭くなり、彼が指先を一つ動かすと、ジャミルはぱっと顔色を変えて、すぐに天幕を出て行った。ぞっとする目でバッシャールがリエリーを見た。
「なあリエリー、ここがピプドゥならばおまえを客人として扱っただろう、おまえは上手にジャミルを虜にした褒めてやろう。だがな、おまえの遊びには付き合わない。私の機嫌はあまりよくない、だからピチパは2つのことしか選べない。おまえ自ら私に体を与えるか、私に犯されるか、どちらか選べ」
ピプドゥ語で告げられて、リエリーは体を硬直させた。弱みを見せたくないのに体が震えるのを止められない。歯がカチカチ鳴り出して、ぐっと奥歯を噛んだ。一言も話せぬうちに、自分はもうこの男に追い詰められてしまった。
この男に犯されるまえに死ぬ覚悟はできている。胸元に隠した短剣のことを意識する、大丈夫私は死ねる。息を吐いたが情けないくらいに震えていた。
「お願いにきました」
リエリーは震える声のままに、帝国語で話しかけた。
「私は機嫌が悪いと言ったはずだ。お前のお願いが何かは知っている」
「私の願いを知っているのですか、どうやって?」
バッシャールはつまらなそうに顎を擦った。
「女が私にするお願いは3種類しかない、金か、男か、誰かを殺して欲しいか。リエリーこの3つ以外のお願いだというなら聞いてやってもいい」
リエリーは次の言葉を持っていなかった。彼の言う通り、リエリーのお願いは彼の言うところの「男」にほかならない。
「ほう、返事が無いということは……男か。ピチパもしょせん可愛い声で囀りながら、女だということだ。ならば話は早い、私が抱いてやろう、そうすればお前のお願いごとの男はどうでもよくなる。たっぷり喜ばせてやろう、私の機嫌もよくなる」
バッシャールはピプドゥ語で話すので、ヨンキントはリエリーが何を言われているのか分からない、心配そうにこちらを見るだけだった。
ここからどう話せば、バッシャールを説得してセウヤのところに連れて行けるのか、リエリーには何の策も無かった。この男は今まで出会った人間の中で最も恐ろしく、自分の手に負えるような存在ではなかった。今この瞬間にも、彼が立ち上がりリエリーをねじ伏せれば、自分は簡単にこの男の好きにされてしまうだろう。
不機嫌な顔をそのままに、バッシャールの体は今にも動き出しそうだ。獲物を食い殺してきた狼が、次の獲物を狙っている。
リエリーはどうすればいいのか分からなかった。




