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101.くじらの星空

 リエリーはアツリュウの肩に頭を乗せて目を閉じた。

 愛する人に触れる喜びがあまりに強くて、震える心でしがみついていた。

 

 彼が動いて、身を離した。ぎゅっとリエリーの胸の中をつかむ怖さがあった。「私は帰りません」そう言おうとしたとき、ぐらりと体が傾いてリエリーの足が宙に浮いた。気づくとアツリュウに抱きかかえられていた。


「姫は帰さない」

 アツリュウの声が頭の上で聞こえた。それは彼がスオウに告げた言葉だった。


 アツリュウはくるりと向きを変え城に向かって歩き出した。

 リエリーは彼に抱きかかえられたまま運ばれていく、広場の真ん中あたりまでくると、アツリュウが「姫様私の首に手をかけて」と微かな声で言った。


 リエリーは言われた通りに彼の首に手をまわし、そのままぎゅーっとしがみついた。

 「姫は帰さない」彼がさっき告げた言葉が、甘く苦しいほどの喜びを与えた。

 

 領主城にもどると、彼はリエリーを抱えたまま階段を登り、ゆっくりと歩いて行った。領主館のアツリュウの自室の扉の前に着くと立ち止まった。


 彼が振り返るとそこに心配して付いてきたキボネがいた。アツリュウは彼に「しばらく開けるな」と怒った声で告げた。


 寝室に入ると、急に彼は勢いを増して足早にリエリーを運び、リエリーが気が付いた時には彼の寝台の上に倒された。覆いかぶさるようにして、己の体の上に彼がいた。

 そのままアツリュウはリエリーをじっと見つめる。怒った顔で口を結んでいる。


「アツリュ……」

 名を上手く呼べず、震える手でリエリーは上に手を伸ばし、彼の頬に指先でふれた。


 何か言おうとリエリーが息を吸ったと同時に、彼の唇が強く押し付けられた。噛みつくような口づけに目を閉じて、知らず彼にしがみついていた。


 心がめちゃくちゃに乱れて苦しかった。甘美で痺れるような(かたまり)を、どんどん押し込まれるようで、その気持ちを受け止めきれず、息を継ごうとするのに、アツリュウは頭を手で抱え込んでリエリーが逃げるのを許してくれなかった。

 彼は荒く継いだ息が落ち着いてくると、浅く口づけながら、狂おしく姫様と何度も呼ぶ。

 しだいに口づけが優しく甘くなり、深く何度も繰り返されて、リエリーの体は痺れたように何の力も入らなくなった。

 半分ぼんやりして、溶けるような心地にのみ込まれていると、もっと先に進むつもりだと彼の手が伝えてくる。


「待って」

 リエリーは両腕で彼の体を押しとどめた。

 琥珀(こはく)の瞳が見詰めている。胸の鼓動が、体の内から強く、強く打ち付けてくる。

 どうしようもなく切羽詰まったように、狂おしく求めてくる彼の瞳。

 そのあまりの熱さに怖くなって、もう一度「待って……」と。


「待たない」

 琥珀の瞳はリエリーを逃がさない、大きな手が頬を包む。彼の顔が近づいてくる。


「あなたが私を欲しいと言ったんだ」

 

 熱い吐息が耳に触れる、唇が耳に触れ「俺を欲しいと……あなたが……」(かす)れる声がもう一度ささやいた。

 そして、息もできぬほどリエリーは強く抱きしめられた。


                ◇◇◇   ◇◇◇


 静かだ。いつの間に眠っていたのだろう。

 薄い暗がりの中、ぼんやりとアツリュウの胸が目の前に見える。

 ここはどこ?

 彼の腕の中で目を覚まし、体を動かすと、彼は大きな固い手で、リエリーの頬を優しく包んだ。

 瞳と瞳が重なると、アツリュウが幸せそうに微笑んだ。


 素肌で抱き合っていることにリエリーは驚いた。

 ああでも、なんて心地がいいんだろう。

 滑らかな彼の胸に頬をすり寄せると、アツリュウの唇がリエリー髪に何度も触れるのが分かった。


 部屋に入った時は明るかったのに、今は夕刻だろうか。

 窓掛け布を閉じていないので、陽が暮れた後の青い光が部屋を満たしていた。


 眠る前、初めは震えるばかりで身を縮めるしかなかったが、彼の見つめる瞳も、姫様と呼ぶ甘い声も優しくて、少しずつ力が抜けていき身をまかせた。

 口づけされながら、ゆっくり、ゆっくり、大好きなアツリュウの大きな手が、リエリーに優しく触れてきて安心の中でうっとりと心地よさに身を任せた。いつしかアツリュウに何もかもを愛されていた。初めての感覚に震える度に、深く甘く口づけられる。そうして濁流に飲み込まれるように、なすすべもなく彼の嵐の中にいた。夢中で抱き付いて……そこで意識が途切れている。


 アツリュウの手が優しく髪を撫ぜている。

 私が眠っている間、彼はずっと起きていたのかしら。

 リエリーが抱きつくと、彼が強く抱きしめかえしてくれた。

 私は知らなかった、

 こんなにも心が満たされて、幸せな場所が、この世にあるなんて。


「姫様」

 声音は震えて、少し苦しげだった。


 体を離して彼の顔を見上げる。どうしたの? と問うと、返事の替わりにアツリュウが上から抱き付いてきた。

 リエリーの胸に顔を埋めて、彼がきつくしがみついてくる。

 それは先ほどの彼が、狂おしく求めてきたそれとは違って、子供が母に抱きつくような姿に思えた。


 どうしたの? と聞いてもアツリュウは何も言わず、すがりつくように強く抱き付いてくる。

 そうして、とても熱いものがリエリーの胸にこぼれた。

 あまりの熱さに驚いて、何が起きたか一瞬分からなかった。けれど肩を震わせて、息を殺すように嗚咽を耐える彼の涙なのだと気が付いた。

 涙がこれほど熱いことをリエリーは初めて知った。


 もう何も聞かずに、彼の頭を撫ぜてあげた。

 ゆっくり、ゆっくり髪をすくように、小さな子供をあやすように撫ぜ続けた。


 「姫様」と繰り返しささやいて、きつくしがみつきながら、アツリュウはもう嗚咽を抑えることができずに、声を上げて熱い涙を流し続けた。


 『(くじら)の歌』を歌っていた。

 母にせがんで、寝る前によく歌ってもらった子守歌。


 子守歌と言っても、朗らかな曲調で、幼子が色を覚えるためのかわいい童謡だ。

 もう、自分が歌える日がくるなんて、2度と来ないと思っていたのに。

 旋律(せんりつ)は、知らないうちにリエリーの口からこぼれていた。


 よるのおそらに くじらがおよぐ

 くるりと まわって おびれが はじけて 赤のほし


 よるのおそらに くじらがおよく

 くるりと まわって せびれが はじけて 青のほし


 歌の中で、鯨は夜空を泳いでくるりと回る、すると体がだんだんはじけて、様々な色の星に代わる。

 そうして、9回まわると、体がすべて星になるのだ。


 よるのおそらに くじらがおよぐ

 くるりと まわって おなかが はじけて 黄のほし


 よるのおそらに くじらがおよぐ……


 鯨の体がすべて星になっても、アツリュウの涙は止まらなかった。リエリーの胸に溜まった熱い涙が、体からこぼれて落ちていく。


 リエリーは彼の頭を撫ぜながら、優しく歌い続けた。

 繰り返し、繰り返し、夜の空に鯨はやってきて、その姿を星にかえた。


 彼の嗚咽が小さくなって静かになり、やがて安らかな寝息にかわった。

 色とりどりの星が満天にひろがるアツリュウの夜空を眺めながら、リエリーは彼の頭を撫ぜてあげた。

 

 

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