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100/129

100.呼び声

 アツリュウは立ち尽くしていた。

 去って行く馬車は第一城門を出ると、すぐに見えなくなった。


 風が、城前の広場の草を揺らして吹き抜けていく。


 姫の姿はもうここに無いのに、己の心臓から、彼女の体がどんどん遠くへ離されていくのが見えるようだった。姫が遠ざかると感じるほどに、心臓は強い力で引きずり出されて、引きちぎられて血を流す、胸が割ける痛みがあった。


「アツリュウ」

 呼び声に顔をあげると、ヨンキントが隣にいた。


 夏の日差しからアツリュウが陰になるように背の高い彼が立っていた。

 周りには彼以外誰もいない。自分がいったいどれくらいの時間ここに立っていたのか分からなかった。


「今日は神殿側の階段から行ってください」

 アツリュウが一人になりたいときにいつも行く古い見張り台をヨンキントは指さした。


 アツリュウは無言のまま従った。いつものように屋根伝いに行ったら、自分は跳び降りてしまいたくなるだろう。


 ヨンキントは後ろから付いてきて、アツリュウが見張り台にたどり着くと、何も言わずに去って行った。

 ヨンキントの姿が見えなくなった瞬間に、もう自分の体を支えることができなくなった。アツリュウは崩れ落ちるように膝を付き、石の床にうずくまった。


 泣いたところで何も返らない。


 過ぎ去った時も、己が犯した過ちも、

 あまりに弱く、どうしようもなく弱く……


 ただの一度も抱きしめてあげられなかった自分。


 時をどこまで戻しても、何度やり直したとしても、きっと自分には叶わない。


 生まれたその瞬間から、やり直すことなどできない形で生まれてきたのだから。


 姫様と……声に出して呼ぶことさえ、もう許されない気がした。それでも止めようもなく呼び続けた、「姫様」と何度も、額を石に押し付けて、ひたすらに呼び続けた。


「……アツリュウ」

 遠くに声を聞いた気がした。


「アツリュウ、アツリュウ」


 遠くから姫様の声が自分を呼んでいる。

 

 顔を上げた、彼女を失いたくない願望がそうさせるのか、彼女の声が聞こえる。

 立ち上がって、広場を見下ろした。

 第一城門が開かれて、馬が一頭見えた。


 スオウが騎乗している、手綱をもつ彼の腕の中に姫様が見えた。


「アツリュウ!」


 信じられないほどの大きな澄んだ声。彼女の声に馬が驚いて動くのをスオウが手綱を(さば)いて止めようとする。それでも彼女が何度も大声で叫ぶので、馬が左右に頭を振る。


 走った、見張り台の階段を駆け下り、神殿の中を走って入り口を飛び出すと、アツリュウはひたすらに走った。緑の草の中を、走って、走って「姫様」と叫んだ。


 スオウが馬を降り、両手で姫様を抱え下ろすのが見えた。


 姫様の顔が見える、彼女が両手の拳を握りしめ、体を前かがみにして息を吸う、そしてまた大きな澄んだ声が響いた。


「アツリュウ!」

 

 全速力で駆けてきてアツリュウは立ち止まった、荒く継ぐ呼吸が少しずつ静まっていく。

 銀の髪が風にそよいでいる、あの日歌を(つむ)いだ唇が…… すみれ色の瞳が…… 

 もう2度と会うことは叶わないと…… もうけして見ることもできないと……


 目の前に、ただ一人の愛おしい人がいた。


「姫……どうして」

 夢でななく、姫様はそこに居た。彼女は帰ってきたのだ。


「アツリュウ、私は帰りません」

 きっぱりとした言い方に、彼女の強い意志を感じた。


 アツリュウはゆっくりと首を横に振った。

「なりません姫様、モーリヒルドにお帰りください」


 姫様は(いど)むように(にら)みつけてきた、そんな顔を向けられるのは初めてだった。

「セウヤ兄様に逆らったら、あなたは殺されますか?」


「はい」

 それは事実だ、セウヤ殿下は自分を殺すだろう。


「死んで」

 息を飲んだ。


「だったら、アツリュウ、私のために死んで」


 彼女の言葉の意味が、ゆっくりと頭の中に入ってくる。

 すみれ色の瞳は、真っすぐにアツリュウを捕らえ襲いかかるように燃えている。彼女は本気だ。


「セウヤ兄様のために死ぬことは許しません、私のために死になさい!」

 姫様が大声で言い放った。


「私が逆らえば、責めはアツリュウに負わせると兄様は言った。でも、私は責められることなんて何1つ無い、私があなたを愛することを誰にも責めさせない!」


 アツリュウは息を止め、彼女の燃え盛る感情の塊を全身で受けた。

 目の前に王女がいた。命令の言葉が下される。


「アツリュウ、あなたは私のものです!」


 すみれの瞳、あの日、俺の魂を吸い取った花の妖精。


「私の全ては、初めからあなたのものだ」


 姫の体が、ふわりと動いて、アツリュウの胸の中に入ってきた。

 彼女の両の腕が、己の体に巻き付く、そうして、強く、強く、抱きしめられた。


 ああこれは、知っている。この感じを自分は知っている。

 抱きしめられてきた。幼い時からたくさんの人に……なんだ……こうすれば良かったのか……


 ゆっくりと己の腕を彼女の背にまわした。

 頬を銀の髪につけて、そっと、ゆるく抱きしめた。


「アツリュウ、あなたが欲しい。全部、全部、あなたの全部を私にください」

 腕の中から、愛しい人にお願いをされた。

「はい」と答え強く彼女を抱きしめた。


 風が吹き抜けていく。目を閉じそのままずっと抱きしめていた。

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