遠野の寒戸の婆
生い茂る木々が少しずつ色を変えていく。
特に東北の夏は短く暑い暑いあっという間の夏を超えると遠野の山里には一足早い秋の気配が漂い始めていた。
その一角にある木々の緑を固めたようなエメラルドグリーンの色を称えた大きな岩を前に一つの影が姿を見せた。
「壊れろ」
壊れろ
「里なんて壊れてしまえばいい」
影は金槌を振り上げると岩に振り下ろした。
早朝の靄の中。
それに気付く人は誰もいなかった。
秋の走りになると山では霧がよく発生する。
それが緑と相まって一種幻想的な光景を広げる。
それは御厨政一が暮らす神の蔵も同じで彼は靄に包まれた山の日本家屋の一室でもそもそと布団から這い出すとコローンと転げ落ちた二体の手の平サイズの犬を見て
「シロとクロ……本当に俺を守るのに俺の上に乗る必要ある?」
と告げた。
シロとクロは元の大きさに戻ると必死でワンワンと吠えた。
『必要!』と訴えているようである。
が、胡散臭い。
政一はそんなことを思いながら立ち上がり
「軽いからもーいいよ」
と言い縁側の襖を開けると薪を抱えて土間へ向かっている栫と童を見て
「おはよう」
と声をかけた。
それに童が薪をぽーいと置いて駆け寄り
「お館さま、もう起きたのか?」
何時も早いじゃんね!
と笑顔を見せた。
「おはようじゃんね!」
政一は微笑み
「童や……」
栫の方が、と言いかけて、童が放り出した薪を拾い集めながらため息を零す栫を見て
「……おはよう」
と小さな声で告げた。
栫は政一の前に立ち頭を下げると
「おはようございます、政一さま」
と言うと
「まだ寝ておられても構いませんのに」
と告げた。
政一はそれに頷きつつ
「まあ……太陽が昇ると目覚める生活が……」
板についた
と呟いた。
童はそれに政一の手を掴むと
「じゃあ、童と遊ぶ!」
童と遊ぶじゃんね!
と笑顔で告げた。
が、栫がそれに
「童、仕事が先だ」
と言い、シロとクロを見ると
「シロは政一さまについてクロは里の周囲を見てこい」
と告げた。
「童も一緒に見てこい」
後は俺がやっておく
童は頷いて
「はーい」
とクロに乗ると
「行こう、クロ」
と告げた。
政一はそれに
「あ、じゃあ……俺も一緒に」
暇だし
と告げた。
栫は呆れたように
「なりません」
見回りの時には何があるかわかりません
「万が一の時に足手まといになります」
邪魔になるということです
とビシッと告げた。
……。
……。
いや、確かに魑魅魍魎を前にへっぴり腰を見せました。
武道なんてブドウ? って感じで運動できません。
しかし、言い方あるでしょ!
と政一は心で突っ込みつつ
「……あ、そうだ」
だったら俺も武芸を習いたいかな
と告げた。
栫はそれにいつもの能面に笑みを張り付けたような微笑みを浮かべて
「……かしこまりました」
その前に顔を洗って身支度を整えてください
と言うと立ち去った。
政一は目を細めた。
彼があの笑みを浮かべる時は『不本意』と言うことだ。
能面の笑みは否定だ。
政一はハハッと
「俺には無理と言いたいって顔に出てる」
とぼやきながら洗面所へと向かった。
朝から騒がしい神の蔵の集落であった。
その後、政一は食事をして、栫と童も土間の手前で食事を終えると木刀で訓練をつけてくれることになった。
心で否定はしても行動で否定はしないようである。
栫は政一に木刀を渡し
「とりあえず型を」
と自身は腰につけている刀を構えた。
政一はそれを見て木刀を手に鞘から出すように前に引っ張り
「おや?」
と腰紐から抜けきらない木刀をムンムンと引っ張った。
童はそれを見ると
「頑張るじゃんね!」
お館さまー
と両手を握って呼びかけた。
シロとクロもワンワンと吠えた。
栫は目を細めて
「……終わったな」
と心の中で呟いた。
政一が木刀を両手で刃の部分までずらしながら腰紐から抜いて漸く構えると栫は生暖かく微笑んで
「政一さま、政一さまの身は我々が守ります」
と告げて
「何かご本とか時間を過ごされるのに良いものをご用意いたしましょう」
と背を向けて立ち去った。
付き合っていられるか。と言う言葉が背中に書いていた。
政一はガーンとショックを受けると
「おーい」
と叫んだ。
童はそれに政一の腕を掴むと
「抜けたからいいじゃんね」
と言い
「それより、散歩いこ!」
童と散歩楽しむのがいいのじゃ
と告げた。
政一はムーと顔をしかめつつ、はふぅと息を吐きだすと
「そうしようか」
と童と手を繋いで散歩することにしたのである。
シロは政一の足元をぴたりと離れないように歩いた。
神の蔵の集落は政一と童と栫が暮らす少し小さめの日本家屋と理由があって様々な地域の守りをしていた『居候さま』が暮らす屋敷の二軒だけであった。
後は日本家屋の前の畑と周囲を取り巻くような緑の木々と、少し下ると小さな沢がある。
童は政一を連れて沢まで行くと
「釣りするのじゃ」
魚を釣って今日の昼飯の足しにするじゃんね!
と告げた。
政一は木に立てかけられていた二本の竿を見て
「おお!」
と言うと
「童ちゃんは釣りができるんだ」
これはもしかして栫さんのやつ?
と聞いた。
童は頷くと
「そう」
これが童のじゃ
と残りの竿を手に取った。
そして、草の茂っている場所に屈むと手で土を掘り小さな虫を手にすると竿の針に刺してポーイと投げ込んだ。
……。
……。
ワイルド! と政一は思わず
「え? 俺も……土掘って虫?」
と心で呟いた。
そこに栫が姿を見せると
「政一さまはこちらをお使いください」
と横に餌を置いた。
「今日の昼のおかずをよろしくお願いいたします」
武芸を教えろ! や結界の見張りにいく! などややこしいことを言われるよりも大人しく釣りをしてもらった方が助かるというのが栫の気持ちであった。
政一は餌を恐る恐る触りながら
「あ、ありがとう」
と笑みを見せた。
栫は不思議そうに驚いた表情で
「いえ」
と言うと背中を向けて立ち去った。
童はそれを見ると
「栫はお館さまに甘い!」
と言い、竿がピクンと引くと
「ほぉぉお」
と小さな声を零して綺麗な沢の一角を見つめた。
魚が餌をつついているのが見えるのだ。
政一も餌をつけて直ぐにその様子を見た。
「魚が来てる」
童は「シーなのじゃ」と言い、魚が食べる瞬間を待っていた。
そして、魚がぱくりと食べて引いた瞬間に竿を引っ張った。
魚は水を連れてぴょーんと跳ねるように岸へと引き上げられた。
政一は驚いて
「すごい!童ちゃん、おめでとー!」
と思わず手をぱちぱちした。
童は驚いて目をパッチリ開けて政一を見た。
いつもは栫と二人で釣れても二人とも粛々と沢に置いている籠に入れるだけだからである。
だが。
だが。
童は照れたように笑むと
「お館さまが喜ぶと童も嬉しくなるのじゃ」
と籠に魚を入れた。
政一は不思議そうに
「そう?」
魚が釣れたら嬉しいだろ?
「俺も嬉しいし」
と竿を沢の真ん中あたりに向けて餌をつけて針を落とした。
緑がさやさやと風に揺れ木漏れ日が降り注いでいる。
ノンビリとした時間であった。
童も餌をつけた針を沢に投げてのんびりと岸の側に生えている草の上に座った。
政一は黙って竿を見ながら
「やっぱり何かしないとなぁ」
こういうノンビリ過ごすのもいいけど
「落ち着かないというか何処か手持無沙汰というか」
と考えていた。
「釣りはするとして……他に何かできることないかなぁ」
それに童は顔を向けると
「お館さまの仕事はお守りさまが帰りたくなったらお送りすることだから」
乙姫でちゃんとできたから別に後はノンビリしたらいいじゃんね
と告げた。
政一はそれに
「う~ん、多分今までの生活と違い過ぎるからなんだろうなぁ」
と呟いた。
もうかなり薄れてしまったが毎日が忙しかった気がするのだ。
電車に乗って。
バスに乗って。
何か毎日何かをしていた。
童は腕を組むと
「う~ん、難しいじゃんね」
ここで童や栫がしていることも釣りとかーお館さまのお世話とかー畑とかー
「あとシロとアヤトリ合戦してるのじゃ」
と笑顔を作って着物の袖から赤い糸の輪を取り出すとアヤトリを始めた。
政一はそれを見て
「あー、小学生の頃に女の子がよく遊んでたな」
と告げた。
「橋とか亀とか作れるんだよな」
童が橋を造ると橋の両端をシロの毛がすぅーと伸びると引っ張った。
政一は思わずこけかけた。
「小さくなったり大きくなったり、す、す、するだけじゃなかったんだ」
シロはそれに嬉しそうに
「わんわん」
と尻尾を振った。
童とシロのアヤトリ合戦が開始された瞬間に政一の竿がピクーンと引いた。
政一は慌てて竿を手に引いた。
が、それに童が
「あー、お館さま!早すぎじゃんね!」
と注意した。
魚は逃げると針だけが戻ってきた。
政一はそれを見ると
「……餌だけ食われた」
と呆然と呟いた。
童は笑むと
「もう少し待つのじゃ」
食いついたら引くのじゃ
と告げた。
シロは政一を慰めるように足の下をくるくると回った。
政一は息を吐きだすと餌をつけて沢に投げ入れた。
昼前まで釣りをして釣果は童が5匹のヤマメで政一がギリギリで漸く1匹ヤマメを釣り上げることができたのである。
栫は土間で籠を前にすると
「まあ、釣りはこれからも楽しむといいと思いますよ」
と言い
「昼ご飯を食べたら……山形へ行ってください」
と告げた。
童がそれに
「仕事か!?」
と聞いた。
栫は頷いた。
政一はハッとすると
「あー、少し聞きたいんだけど」
送るだけじゃないみたいだけど
「俺の仕事って本当は何すること?」
と聞いた。
先の四国では乙姫を里へ送り、その後、妖蛇の発見も仕事だという話だった。
栫はちらりと横目で政一を見て
「それは……お館さまの胸先三寸ですね」
ばっさり送りだけとすればそれだけで終わりです
「バッサリするかねっちりするかはお館さまの気持ち次第です」
と答えた。
「仕事と言う言葉は使っておりますが……仕事ではなくお役目ですから」
政一は目を細めると
「……棘がビシビシ感じる」
と呟いた。
「あー、わかった」
じゃあ俺は送りだけで徹底するよ
「それでもOKってことだろ?」
そう言って踵を返すと背を向けて土間を上がって家の中へと入った。
童はチローンと栫を見ると
「栫は今回のお館さまに冷たすぎるんじゃんよ」
と告げた。
「お館さまは何もわからないから聞いているじゃんよ」
栫はそれに顔を背けると
「……知っている、んだ……」
と言うと背中を向けて
「魚を焼くから昼食の準備をしろ」
と告げた。
童は「わかったじゃんね」と言うと食器棚から盆を出して食器を並べた。
政一は膳の前に座り
「まあ、本当にケースバイケースだな」
と呟いた。
乙姫の時はそれをしなければならないと思ったからだ。
強引に招かれたのもあるがバッサリ切り捨てて帰らなくて良かったとは思っている。
政一は息を吐きだし
「ま、とりあえずは成るように成れでいいか」
と呟いた。
昼食を終えるとリュックを手に立ち上がると土間へと姿を見せた。
童とシロが待っており栫が息を吐きだすと
「もうご存じだと思いますが交通費など宿泊費に関してはお気になさらずご移動ください」
と言い
「一番は里へ送り届けるということがお役目です」
なので本当にそれ以外に関しては政一さまが決めて良いのです
「何もせず里に置いて帰ってくる方もおられました」
と告げた。
政一は息を吐きだすと
「わかった」
ありがとう
と笑みを浮かべた。
「状況を見て決める」
やっぱり乙姫の時に思ったけど里に憂いがない方がいいと思うから
栫は頭を下げると
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
と告げた。
童は政一の腕に抱き着き
「じゃあ、行くじゃんね」
と告げた。
政一は頷いて
「じゃあ、後のことをよろしく」
と言い家の前に出ると乙姫がいた場所と同じ上の屋敷とこの家の道が交わる場所に人が立っていた。
ほっそりとした年老いた女性であった。