幼なじみと見る十度目の桜
「然くん、どっちがいい?」
由布は二本のジュースを自分の頬に寄せるように持ち、俺に尋ねた。
「じゃあ、これ」
ジュースの間にある由布の眉間を指さしてみる。
「え? わたし? 鼻からジュース出たりしないよ?」
「鼻からなのか? 口じゃないのか? まあ、どっちにしても飲まないけどさ」
「もう、飲まないなら最初から選ばないでよー」
唇をすぼめて不満げにしている由布の顔を見て、つい笑い声が漏れてしまう。
「わたしがジュース出したら何味なんだろ? かつお味?」
拗ねていたかと思えば一瞬で表情を変え、今度は首をかしげて悩んでいる表情になる由布。黙って見ているだけでも飽きないなあ……と、長年一緒にいてもそう思う。
「……かつおジュースって聞いたことないなあ。なんでその味になった?」
そう俺が答えると由布は、ぽわんとした表情で上空を見つめた。
「お昼にかつおのおにぎり食べたんだー。おいしかった! あっ、高菜も食べたよ」
その力の抜けきった表情は、うまかった昼飯のことを反芻していたのか。
「由布、好きだよな。おにぎり。食費節約的な意味でいい好物だ。うーん、かつおも高菜もジュースとしては新しすぎるな。今日はこれにしとく」
ふわふわと脱線していた会話はまたふわふわと戻り、俺は今度こそ本物のジュースを指さした。
「うん、然くんはモモね。じゃあわたしはリンゴ」
「サンキュー」
ジュースの一本を受け取る。由布が俺の隣に腰掛けるのを待ってから、フタを開けた。同時にカシュ、と音が鳴る。
「あ、音がそろったね」
由布は髪をサラサラと肩の上で揺らし、ふふっと笑い声をもらした。
ここはコインランドリーの駐車場脇にある屋外の休憩スペース。桜の木を見上げるように自動販売機が三台並び、すぐ近くにはベンチが設置されている。桜はそろそろ散りどきか、というころで、自販機とベンチに花びらがぽつぽつと落ちていた。
ここに来たのは、コインランドリーで洗濯をするわけではなく、学校帰りの寄り道だ。俺たちの通う高校の通学路にこの場所はある。
「初の通常授業、お疲れさまー」
由布が乾杯のようにジュースをかかげるポーズをしたので、俺もそれにならう。
「お疲れー。中学とは雰囲気違うからかな、なんか緊張したよ」
「したねえ。教科書も新しいし、制服も新しいし……」
「校舎も改築したばかりだもんな」
「そう、教室ピカピカだった。新しいものに囲まれてるのに自分は変わってない気がするから、そわそわしちゃうっていうか」
「なるほどなあ。教科書や制服が自分になじんできたら、慣れてくるかな」
変わってない、という由布の言葉に、ふと思う。変わってないことの代表格は、俺たちの関係だ。
さっきも同じ中学出身の奴に、「温井と樫本って、老夫婦みたいだな」と言われたばかりだった。新しいどころか熟しすぎてるってことか? 俺たち、温井然と樫本由布は。
男女で幼なじみ。夫婦なんてからかわれるのは慣れているけど、老夫婦、は初めて聞いたな。ふたりとも動きや話し方がゆっくりめな気がするから、そう思われてるんだろうか。
由布とは昔からの付き合いだ。自動販売機、ジュース、という単語だけでも、由布との思い出は山ほど引き出せる。
小学生の頃、俺たちはジュースの自販機を眺めるのが好きで、ここの自販機も俺たちの見学コースのひとつだった。
あのときの俺たちは何が楽しかったのか、自販機の大きさの違いや、売っているジュースの種類、客層、そういったものに興味津々で、よく見て回っていたのだ。
由布が「自動販売機の中の人になって、いつもどのジュースにするか悩んでる然くんの代わりに選んであげる」と言い出したときは、機械の中に人間が入るスペースはないし、あったとしてもきっと窮屈だから、と必死で止めたっけな。
由布にこの思い出話をすると、目を細めて笑った。
「なつかしいねえー。あのときは自販機の中に入ってみたくて仕方なかったんだよね。ジュースを補充してるところに出くわしたとき、あっ、これは入るスペースないなって諦めちゃったなあ」
「由布が将来の夢に『自動販売機になりたい』って書き出す前に止めといてよかった」
「あはは、止めてくれてよかったー。あのおっきくて四角い体だと、家や教室に入るのもひと苦労だもんね」
当時の、好奇心で瞳を輝かせながら自動販売機を見上げていた由布を思い出した。そのイメージを持ったまま隣を見ると、記憶とは全く違った横顔があってびっくりする。
年を取ってるんだから、見た目が変わってるのは当たり前だ。当たり前なのに、なんかこう、不意をつかれると動揺してしまう。近頃こういうことがよくある。
考えても混乱するばかりなので、原因を追及するのはやめて、ジュースのうまさに集中することにした。そのとき、由布の間延びした声が上がった。
「あれ、桜だー」
その言い分だと、今初めて桜の木を見たかのようだ。ちょっとびっくり、という風に目をパチパチさせている。
「今さらどうした? ずいぶん前から桜の木、ここにあるけど。なんなら十年以上前から生えてるけど」
「ああ、えっとね、リンゴジュース飲んでたから、リンゴリンゴーって思いながら顔上げたら桜だったから」
「リンゴの木だと思ったのか?」
「あはは、木が瞬間交替しないよね」
「じゃあ、俺は桃の木だな」
手にしたジュースを見ながら言った。俺のは桃ジュースだから。
「桃の花もきれいだよねえ……。あっ、せっかくきれいな桜が目の前にあるのに、桜を楽しまないとだよね。ごめんね」
最後は桜の木に謝るようにして、ぺこりと頭を下げる由布。
「別に大丈夫だろ。花見をする人間だって、桜ばっかり見ずに酒やうまいもんや会話に意識を向けてるんだから」
ましてや、この場所に花見目的で立ち寄る奴は、そうはいないだろうし。
「じゃあその分、わたしたちがしっかり見ていよう!」
「由布」
「ん?」
「まばたきはしていいからな」
「してるよー!」
俺のツッコミに由布が高速まばたきで応戦する。一瞬静かになったあと、ふたり同時に声を出して笑った。
笑いながら、手にした飲み物や場所が違っても、毎年由布と一緒に桜を見てるんだなあ、とふと気づく。
今年も、去年も、その前の年も。
俺と由布の母親が友だちになって、お互いの家を行き来するようになったのは、俺たちが小学校に入るか入らないかって頃だった。その年に温井家と樫本家総出で花見に行った記憶がある。それなら、由布と桜を見るのは十年目ってことになるのか。
変わらずにいる。それが急にすごいことだなと思えてきて、隣の由布を見る。
横を向いたタイミングで、落ちてきた花びらが俺の鼻先にくっついた。
由布は笑って手を伸ばし、取ってくれる。
ちょん、と由布の指先が俺の鼻に触れたとき、なにか説明できない気持ちが湧いた。なんだろこれ。恥ずかしい? って気持ちか?
小学生のころから、ご飯つぶがついただの、虫がついてるだのと、お互い取ったり取られたりを散々繰り返してるのに。今さら、恥ずかしいって?
由布はちょっと目を伏せて、手に取った花びらをしばらく眺めている。その仕草にまた、不意をつかれる。
俺たちが一緒にいるってことは、確かに変わらない。だけど……。
知ってるつもりでいたことの中に、知らないことが増えていく。
自分の気持ちも、由布が時折見せる表情も。
ただわかるのは、来年も、こうして……。
「来年も、然くんとこうやって桜見たいなあ」
由布がふにゃけた口調でそう言い、考え事は中断された。俺は勢いよく顔を上げて由布を見る。
「ん? もしかして見たくない?」
「いやいや、そうじゃなくて、話がいきなりだったから」
実は俺も、由布と同じこと考えてたから、びっくりしただけなんだ。
……なんて、去年なら、なにも考えずに言ってたかもしれない。今年の俺は言えない。
「来年もここの桜、見れるさ。通学路だしな」
絶対由布と見たい、という強い気持ちはあった。だけどそれはやっぱり慎重に喉の奥へとしまい込まれて、口からはほかの言葉が出てきた。
「そっかあ、そうだよね」
由布の頬は、芯までゆであがったじゃがいもみたいに、ほろっと緩んだ。自分の中のもやもやのせいで、由布を残念そうな顔にさせたくなかったから、ちょっと安心した。
いつか、強い気持ちの方を伝えられる日はやってくるんだろうか、と考えながら、俺はしばらく桜の木を見上げていた。
隣で変顔をしている由布に大爆笑させられるまでの、ほんのちょっとの間だけ。