プロローグ
僕はもう考えることをやめた。
脳みそは一切のしがらみから開放され、ただ身体を動かすための指示の送電機能に切り替わった。
ここは自分の部屋だ。
自分の部屋にいて、自分の部屋に戻ってきたのだから、今自分が自分の部屋にいるのは当たり前のことだ。
当たり前のことなのだけど……、いや、もう考えることをやめたはずだ。
今は動かなくては。一秒でも早く。
僕は自分の部屋のドアノブをおもむろに掴んだ。
力一杯ドアを開ける。
ドアの向こう側には崩れ落ちた箱が転がり、ドアは全開しないことを今の僕は知っている。
体の体重を乗せて、ドアを強引にこじ開ける。
ドアの向こう側で箱が音を立ててへこむ音が聞こえる。
僅かな隙間が生まれ、そこに体を滑りこませた。
階段を降りる。
今でも、その段差の感覚を覚えている。
目の前に広がる一本の廊下を駆け抜けて、玄関へ向かう。
玄関のドアを開けて、外へ出る瞬間、ほんの刹那、僅かな恐れにより、身体が一瞬強張るのを感じた。
この世界は、本当に僕の世界?
しかし、どうであれ、外に向かって走り出すしかない。
今の僕にはそれしかできなかった。
だから、再びあれこれ考えることをやめて、ただ走り出した。
外の空気は午前3時にふさわしい冷気と静寂を帯びていた。
肺はその空気を動力とするべく、強欲に吸い込み、そして全身を駆け巡って吐き出される。
腕と脚がどうやって動いているのか分からない。
ただ、1秒でも早く、あいつの元に行かなくちゃ、ただそれだけだった。
1秒、コンマ1秒でも早く行かなくちゃ。
商店街のアーケードが見えてくる。
アーケードを通り過ぎればすぐあいつの家だ。
両側に並ぶお店のシャッターは全て降ろされている。
まるで誰も歓迎していないように。
ただ僕の駆ける足音だけが響く。
街灯は所々が切れており、僕が向かうその先は薄暗い闇が漂っている。
たったわずか数百メートルのアーケードだが、通り抜けるこの時間がひどくもどかしい。
以前よりも速く走れるようにはなっているが、それでもまだまだ速さが足りない。
一秒でも早くあいつの待つ場所へ。
その思いとは裏腹に、冷たい空気が僕の肺に潜り込み、喉から吐き出す息はとても乾燥している。
息が上がり、体が思うように動かなくなっていく。
何かにつまずいた感触とともに、体がバランスを崩して、僕の体は地面にたたきつけられた。
前はもっと速く動けたのに。
乾いた地面に涙が落ちる。
「大丈夫よ。」
どこからか、声が聞こえた。
そのとてもとても聞きなれた声は僕の頭の中に響き、何度もその台詞が反芻する。
一体何度、その声に励まされてきたのだろう。
そして、今この時も。
前と同じ身体でも、前と同じ自分でも。それでも、今の僕は、前の僕とは決定的に違う。
これは僕の物語。何年もの時間を駆け巡った、ほんの5秒間の物語。