#5 Satellite
『大手ガガ……ザッでとう、ホムラ』
夜の砂漠に、酷い雑音混じりの日本語が響き渡った。
それだけで分かる。
慌てて宇宙ステーション“プレイアデス”から、直にストリーミングさせたのは、完全に失敗だったと。
スペースデブリに、上空の大気状況。通信は、ただただ不安定だった。
同じプレイアデス発でも、ラジオアプリは約10秒の遅延でかなり改善されるのに。
最初から素直にダウンロードにすれば良かったが、もう遅い。
このビデオレターを最後まで再生しきるまで、辛抱するしか無かった。
『ザザー……んて、父さん誇らしくて仕方ガガッ』
音質も画質も酷い中、それでもねぐらの向こうの岩肌に映る父が微笑む。
白のボタンダウンに茶のカーディガン、黒縁の眼鏡、そして白髪混じりの日本人男性。
その背後に一瞬一瞬見え隠れする、見覚えのあるタンスと酉の市の熊手らしきもの。
それだけで分かる。撮っている場所は、実家の居間の、座卓の上だ。
ああ。20光年離れた、遠い遠い我が家。
たった半年でも、何もかもが懐かしかった。
『ガガッ……実は母さんも、色んな新聞の記事を何度ザーッ……み返しているんだ』
『明さん』
『おっとザザッ』
父がそう素っ破抜いてすぐ、スピーカーの奥から母の声が割って入った。
やっぱり、画面の外にいたのか──いなくていいのに。
だがそんな父が、一瞬ちらと見せてくれたしたり顔に、ホムラも思わず顔が綻んだ。
いつまでも、茶目っ気を失わない。とても良いと思うし、素直に見習いたい。
そんな父が、本当に──たまらなく大好きだ。
『そう言えば、髪型をザーッ……じゃないか。すごく似合ってガガッわいいぞ。お父さんもっと近くで拝みたザッ……ばらくそのままの髪ガガガッ』
それに父は、娘のイメチェンだって見逃しはしない。
この酷い雑音の中でも一生懸命褒めちぎられ、ホムラの口元が緩む。
家を出た時は、コヨミのこだわりでお嬢様結びにしていたが──勿論その時も、父は目一杯褒めてくれた。
ところが、砂混じりの熱風が吹き付けるこの環境で、普通のロングヘアと大差ない髪型では、とにかく乱れまくってどうしようもなく邪魔だった。
けれどもバッサリ切ることは出来ないし、そもそも体質的に意味がない。
エネルギーを消費すれば自然と短くなるし、食べて寝れば、翌日にはまた伸びてしまう。
だが結くにしても、映像に残る昔の母のようなポニーテールは、絶対に嫌だった。
そして今は、かんざしで留めたアップヘア──勿論それも、早々に候補から外した。
三つ編み、おさげ──てんで駄目。驚くほどこの環境に合わない──などと。
四の五の考えた末の、実家近所は外神田の巷でよく見るツインテールが──まさか一番無難で、一番しっくりと来てしまうなんて。
そして今は、ひょっとしたら──更に広範囲に流行らせてしまったかも知れない。
『ホムラは強い子だ。ガガガッ、昔から頑張り過ぎるからな。ちゃんと息抜きザザッ……、身体を労りなさいよ、斬込隊長殿』
大丈夫だよ。割とのびのび出来てる。でも、心配してくれてありがとう。
例えお互いの居場所が、遥か遠く離れていても。例え実の娘の方が、遥かに巨きな存在でも。
いつだって、気遣ってくれる。昔からそうだ。
そんな父のむき出し丸出しの愛が、たまらなく嬉しい。
それなのに、対するもう一人は──。
『ザザッしい物があったら何でも言いなさい。必ずガガッから、遠慮は要らないよ』
『……きらさん、甘やかし過ぎです』
またしても、窘めるような母の声。
今、この場にいる訳ではないと分かっていても、本当にいけ好かない。
『頼むよ母さん。俺だっザッまには親らしいことを』
父が、画面外へ哀願したが。
『……明、さん』
ゆっくりと声のトーンの落として言う母を見上げたその顔が──見る見る内に青くなる。
父の言動は軽率だったと思うが、母も大概だ。なまじ、堂々とし過ぎるから。
娘の記事を読み漁っていたのを暴かれて恥ずかしく思うなら、父にも隠れてやれば良かったものを。
だから、父は悪くない。母が勝手に自滅して、逆恨みしているだけ。
母のそんな中途半端にええかっこしいなところが、ホムラは大嫌いだった。
『……はい、ごめんなさい』
少し、いや大いに可哀想だったが、萎縮した父の姿は、ちょっと可愛い。
対等に話をしたとて、両親の間にあるのは絶対的な大と小と、覆しようのない強と弱。
今そこに映るのは、きっとこれ以上なんてそうない、宇宙一のカカア天下の姿だった。
と、画面からノイズが、すっと晴れて来る。
見上げると、さっきまで雲に隠れていた三日月が、その姿をやっと顕にしていた。
『とっ、ところで母さん、ホムラに何か……あっはい、大丈夫な、うん』
どうやら母に、ご機嫌斜めスイッチが入ってしまったようだ。
根に持つタイプだから、一体いつまでへそを曲げたままやら。
……まさか、録画から一週間経ったまさに今も──なんてね。
『こっ、コヨミさんとアクアは?……困ったな、みんな恥ずかしがっているよ』
そう言って父が苦笑いをすると。
『違うわよ!私撮ってるの!』
画面の外から、アクアの神経質そうな声が割り込んだ。
大方、そうだろうとは思っていた。
何せ父を除いた実家の大人たちは、揃って電子機器の扱いに疎いから。
『私が喋ったら誰が撮るのよ!お母さんが何か喋ったらいいじゃないの!』
『ふぇっ!?わわ、私ですか!?』
『おっ、おお、それじゃあアクア、カメラをコヨミさんに』
『まぁ、どうしましょう!』
画面の父がぐっと遠退き、代わりに三角巾と割烹着の女性が映し出された。
三角巾の下から見え隠れする、淡い青色の髪。
サファイアのように透き通った、綺麗な碧い目と、色白で実年齢を疑うほどの童顔。
そしてその手には、何故かおしゃもじが。
それをマイクか何かのように握り締めつつ、とびっきりの笑顔で。
『おっ、お嬢様!ご活躍何よりです!お休みには是非お帰り下さいね。お嬢様の大好物を揃えて、うんとお祝いしますから!私、お待ちしております!』
ああもう、百点満点。大変良く出来ました。ここにいいねボタンがあったら連打したい。
我が家のラブリーマスコットは、今なお絶好調に可愛かった。
これで母と一つ違い?またまたご冗談を。
と、そんなことを思っていたら、画面にまた父親が姿を表した。
相変わらずアクアは、実母の規格外の可愛さに、全く関心がない。
『ホムラの好きな金平糖、そこじゃ暑くて日持ちしないだろう………ガッ…た送るから、早めに食べなさい』
父の言葉通り、ホムラの手元には行きつけの店の金平糖が入った小瓶が。
お言葉に甘えてその蓋を開き、数粒取り出していっぺんに口にする。
噛めば噛むほど、懐かしくて優しい甘さが、口いっぱいに広がった。
わざわざ買いに行って、しかも地球に送ってくれるなんて。
地球人の父にとって、きっとそれだけでも大変な冒険だったろうに。
勿論、誰かが付き添っただろう。それでも、突き動かしたのは偏に父の行動力だ。
そんな父に、一体何をお返し出来るだろう?
貰ってばかりでは、悔しいけれども母の言う通り、甘やかされ過ぎだ。
三馬鹿達のように、それぞれの経済的理由でやって来た訳ではないのだから。
……ここに来てからの方が、お金に苦労しているけれども。
『母さん、アクア、本当に何もないか?……じゃあホムラ、怪我をしないように──って、もう本当にしないんだったか。不思議だなぁ、羨ましいもんだなぁ』
リスポーンアンカーに締めの常套句を奪われ、父はばつが悪そうに頭をかく。
だがそれでも。
『だからって、気を緩めるんじゃあないよ。戦果が一番じゃない。無事と健康と、元気が一番だ。それじゃあ、ホムラの武運長久を祈って!程々に!頑張れ!』
父は、やはり父。その言葉と笑顔を最後に、ビデオレターがやっと終わりを告げた。
もう、とにかく胸がいっぱいだった。
父のお陰で、多少はあったホームシックだって、大分楽になった。
でも帰省が叶ったなら、絶対にハグだ。盛大にぎゅーっと、抱き締めるしかない。
勿論、コヨミとアクアにも。拒否権なんて、絶対に認めない。
嫌だと言っても、関係ない。暑苦しいと言っても、知るものか。
何にせよ、家族は皆元気そうだ。仲の悪い母とは言え、それだけは何よりだ。
でももし一つだけ、言いたいことがあるとすれば。
「時間差怖ぇな。もう三週間近く前の話だぞ」
「ねー。本当に不思議だよね」
小屋の前に無造作に置いたコットにふんぞり返り、コロナビールの瓶を片手に一緒にビデオレターを見ていたエンリケの感想が、まさにそのままだった。
三週間弱かけて返って来た、ハロウィン夜の特別作戦“百鬼夜行”の反響は、一足先に落ち着きを取り戻していた当事者達とのギャップが浮き彫りだった。
エレメンティアと地球間では、普通の通信が出来ない。
何もかも郵便物として、“インターステラー”で運ぶ必要がある。
手紙然り、サーシャ達の中古車然り、地球のニュース然り。例外なんて、一つもない。
だから、地球で活動する兵力の半数超が集まって、ここアリゾナのメイド屋敷を壊滅に追い込んでいたなんて大事件を母星が耳にするのは、大体一週間と少し後の話。
そしてそのきっかけだった人物が、今まさにそこで呑気にビールを呷っている。
状況と話題がとにかくあべこべで、本当に不思議な感覚だった。
「お前、本当にお嬢様って呼ばれてんのな」
からかうように言いながら、エンリケは空になった瓶を小屋の外のリサイクル箱に投げ入れた。
バコンガシャンと、もうすぐ満杯になる賑やかなそれも、近く半月の彼方へと飛び立つ。
例え地球サイズの小さな空き缶空き瓶だって、しっかりと集めれば立派な資源だから。
「やめてよ。コヨミさん以外から言われるの、凄く嫌」
ホムラが頬を膨らませながら言い返すと、エンリケ鼻で笑いながら。
「地元じゃちやほやされてたんだろお嬢様?ご機嫌ようお嬢様?口がクソひん曲がっていてよお嬢様?」
「だーかーらーっ!」
ほら、やっぱり嫌味だった。だから嫌だった。
わざわざそう言う必要がない人が言うそれが、皮肉でない訳がない。
その証拠にエンリケは、小馬鹿にしたような顔で指を差しながら。
「ハッ!お前が、一向にお兄ちゃん呼ばわりをやめねぇ仕返しだ。見ろよ、ついに向こうにまで広めちまいやがって。あーあ、恥ずかしい奴」
言われるがまま見れば、さっきまでビデオレターを映し出していた向こうの岩肌には、10日前のおすすめ動画や母星のSNS情報が。
『【E-NHK】オーガレス・ミヤビの一人娘、ハロウィン百鬼夜行の目標その手に』
『【地球速報】奪われた“兄”取り戻す大勝利。アリゾナにて』
『【E東京下町かわら版】カグツチホムラさんゆかり深川木場斧鉞、入門者相次ぐ』
『【20光年ジャーナル】仕立て上げられた主は“兄”、深まる地球との“絆”』
『【アイキャン!】ツインテールに合う最新コーデ特集。錬成衣と本物、両方をチェキ!』
『【ETuberアキバアキハ】正しいお兄ちゃんの見つけ方;今アブダクションはご法度だよ!』
『【白金タカナ・六本木ギロと今宵もギロッパ!】タカナ、弟くんのが欲しい!←通報ギロ』
『【ゆっくり解説カグツチミヤビ】昔のホムラママがガチで凄い・前半【E版三船敏郎】』
『【ハッシュタグ速報】 #カグツチホムラ #メイドざまぁ #斧鉞女子 #手乗りお兄ちゃん』
全くそんなつもりがなかったのに、画面は完全にエゴサーチ状態。
確かにこれは、少し恥ずかしい。
向こうでは、10日前には既にこうだったのかと思うと、余計じわじわとこみ上げる。
しかもこれは、あくまで今日更新された日本語トピックだけの話。
きっと明日には、翻訳が進んで更にカオスなことになるに違いない。
でもだからと言って、今更呼び方を戻そうなんて、全く思わない。
だって、初めてここで逢った時は。
「お兄ちゃんが、自分で兄貴分って言ったんじゃん!ぜぇーったいに、やめないもんね!」
そう言って顔を近付け、舌をべっと出してあかんべえをすれば。
「おうおうおう!この異星お嬢は兄貴分とガチの兄貴の違ぇも分かんねぇのかよ!ったくやれやれだ!」
エンリケはいとも簡単に、その挑発に乗った。
コットから飛び起きてホムラを見上げ返しながら、大袈裟に両手を振り上げ罵る。
トムキャットに喧嘩を売るジェリーマウス。スヌーピーにキレ散らかすウッドストック。
何にだって例えられそうな、売り言葉に買い言葉。
お互い目と鼻の先で睨み合いながら──日本語で罵り合う。
「何をー!?日本語ネイティブじゃないくせにー!」
「異星人がネイティブ名乗んなバーロー!」
多少の英語訛りはあれ、エンリケは驚くほど流暢に。
それどころか、あの画面の漢字混じりの日本語だって、エンリケは難なく読んでいる。
だが、これ自体は今日初めての話ではない。
あの日以来──配属間もなかった頃の、ゴーストタウンで。
一人だけ、腕の立つ刀のメイドがいると、言われた矢先のエンカウントで。
いとも簡単に追い詰め、こちらの喉元に長物を突き付けて来た、ナナシに向かって。
『俺の妹に、手ぇ出すんじゃねぇ!』
この“イッツ・ア・スモール・ワールド”は、何の前触れもなく突然差し替わってしまった。
同じおとぎ話でも、きっと“ドレミファ・どーなっつ!”くらいのスケールに。
毎日会ったら何とやら──だから──。
「グレードアップキャンペーンで、お兄ちゃんになったんですぅー!ご意見苦情は、絶対私をお姉ちゃんって呼んでくれない実家のアクアにどーぞ!」
「知るか!ってか、お前自身は姉の方なのかよ!?」
「あれっ、言ってなかったっけ?ビデオの中でお父さんが呼んでたアクアのことだけど」
「知らねぇよ!」
何にせよ、エンリケの驚きは無理もない。
今の今までずっと、お望み通りの妹属性しか振り撒いて来なかった。
変に姉アピールするよりずっと慣れていたし、自分が歳下なのは、紛れもない事実だ。
それに故郷には──妹のように可愛がってくれた、姉のような地球人女性もいた。
姉のように、妹のように。エレメンタルと地球人、種族の違いすら乗り越えて。
そこに血縁なんて、全く関係なかった。
だったら兄だって──例外にならない。したくない。
人と人の間に絆を作るのは、心の持ちよう。ただそれだけだもの。
「何だか水っぺぇキラキラネームだな」
「あっ、ご明答!水のエレメンタルだよ」
「何をどうしたら、てめぇに水の妹が出来るんだ?」
「正確には、お父さんとコヨミさんの間の子なんだけど」
「いっ、異母妹……!?」
「そだよ?」
またも酷く驚いているエンリケに、ホムラはきょとんと首を傾げた。
つまり妻妾同士とその娘同士が、同じ屋根の下で暮らしているということだ。
母系社会でその言い方は余り正しくはないが、他に言い方がない。
だから、それを真に受けてしまうと。
「あのビデオの中に、ドロドロ昼ドラ展開かよ……この泥棒猫ッ!」
「……何言ってんの?女中さんがいる家なら普通だよ?」
「はぁー……やっぱお嬢は、言うことが違ぇな」
結局、そこに帰着するのか。
兄と呼び続ける自分を差し置いてだが、なんてしつこい。
「そこまで言うなら、お嬢様の言う事、少しは聞いてくれてもいいんじゃない?」
そう、ホムラが口を尖らせても。
「あぁ?お前の下僕になったつもりはねぇよ。図に乗んな」
要するにそう言いたいだけで、実際にそう扱ってはくれない、と。
溜め息をついたホムラだったが、しかしすぐ何かを思いついたように。
エンリケが踏ん反り返ったコットにすっと手を伸ばし、そのままぐいと傾けてやる。
「おわっ」
エンリケのちっぽけな体は、いとも簡単に手のひらの上へと滑り落ちて来た。
そのまま、顔の高さまで運んで来てやれば。
「てめぇ何しやがる!降ろしやがれクソが!」
エンリケは、自分を乗せたホムラの手のひらを拳で殴り、脚で蹴っ飛ばし。
……そんな、生意気な手乗り地球人に。
「ねえ、私の言うこと……ちゃんと聞いてよ」
ビデオレターの母のように、声のトーンをぐっと落として、ゆっくりと語りかける。
母の全てが、嫌いな訳じゃない。
参考に出来そうなものは見習う。それくらいの柔軟さは持っているつもり。
静かに、ソフトに。しかし迫力を添えてやれば──。
「なっ何だよ……」
……効果は抜群だった。てきめん過ぎて、寧ろ驚きだ。
顔より大きなじと目に覗き込まれようが、首根っこを掴まれて数十フィートの高みから二本指で吊るされようが、全くお構いなしだった小人が。
予想外の反応に、一瞬どうしてやりたかったか忘れてしまったが、何とか思い出して。
「はい」
エンリケに、右手に摘んだ物を見せる。
今、摘むようなものなんて、もう言わずとも。
「……あ?」
「金平糖、食べて」
エンリケから見れば特大のモヤッとボールを、その小さな顔の近くへ更に近付けてやる。
ビデオレターを見る前にも同じことを尋ねたが、その返事は。
「だぁら、いらねぇっつっただろ。甘ぇモンは嫌いなんだよ」
案の定。エンリケは顔をしかめながら、それをぐっと押し返した。
こんなに美味しいのに。一つくらい付き合ってくれたって。
……ならば自ら、その気にさせるしか。
「ふーん……」
エンリケを乗せていた左手を、自分の口元へと更に近付ける。
手を伸ばせば届く距離にホムラの唇を見ながら、エンリケは。
「あぁ?従わなきゃお前を食べちゃうぞかよ!てめぇはガチャピンか!」
例えが凄く古い。でも、見当違いだ。そんなことはしない。
ホムラはその耳元で、右手を添え、それでも小さく、囁くように。
「……ざぁーこ♪」
そう言ってすぐ、さっき寝転がっていたコットの上にさっと降ろしてやった。
そして澄ました顔で、食べさせたかった金平糖を自分でぱくり。ああ、美味しい。
幸せの一粒を咀嚼しながらちらっと見下ろした、その顔と来たら。
「てめぇこのメスガキ……!」
目で見て分かるくらい真っ赤。まるで馬券をすった、第一巻の両津勘吉だ。
狙い通り過ぎて、今度こそにんまりしてしまう。
「ふふっ、ただのお砂糖の塊がそんなに怖いなんて、ほんと可愛いんだから♪」
再び手を伸ばし、人差し指でそっと、その頭をひと撫で、ふた撫で。
そうすればほら、指の裏からボカッとゲンコツが!
「痛っ」
「てめぇ散々コケにしやがって!食ってやろうじゃねぇか!何がザコだこのクソアマァ!」
うわぁ、とんねるずの番組に出演した杉谷拳士みたい。
けれども、ここまでヒートアップすれば、もうそう簡単には引き下がらない。
クスクスと笑って瓶から一粒二粒取り出しながら、しかし更にもうひと押し。
「ねぇ大丈夫?お兄ちゃんの一口サイズじゃないよ?」
「るせぇ!とっとと寄越せ!」
「ふふっ、はいどうぞ♪」
やる気になってくれた単純な小人に、ホムラはもう一度金平糖を手渡した。
と言うか、力尽くで引っ手繰られた。
だが口よりも大きなそれを前に、受け取ってからエンリケが固まる。
そのまま齧っても──顎が外れるだけだ。
「難しいねぇ。どうしよっか♪」
手をこまねくエンリケにそう言って、ホムラはまた一粒、余裕綽々で口に運ぶ。
ポリポリと、いとも簡単に噛み砕く音を響かせて。
「あ~美味し。砕いてからあげよっか?」
「……ふん。舐めんな!」
そう捨て台詞を吐くとエンリケは金平糖を抱え、ドアの壊れたままの小屋へ飛び込んだ。
そしてまもなくドッスンバッタンと、小屋中を豪快にひっくり返す音が。
気になって、ホムラが覗き込もうとすると。
「ハッハァ!あったぜこん畜生が!」
見計らったように、エンリケがドア前に再び現れる。
大袈裟に振り上げたその右手には──真新しい、まだ光沢を鈍く放つ金づちが。
驚いた、大正解だった。
地球人が、エレメンタルサイズの金平糖を食べるのに一番手っ取り早い手段は、確かにそれだったから。
と言うか、瓶詰めの蓋の裏に割る為の金具が付属していたのだけれども──ちゃんと、言葉で頼んで欲しくて、黙っていたのに。
でもまさか、自ら答えを導き出してしまうなんて──完敗だった。
「古今東西、てめぇじゃどうにもならんことを道具で克服して来た!それが人間様だ!!」
ほとんど叫びながら、エンリケは左手に握り締めた金平糖めがけ、それを振り下ろした。
パキィン!
スラッグ渓谷の地下で、ポム爺さんが飛行石を含んだ鉱石にそうするように。
細かい破片を四方八方に散らしながら、金平糖はついにぱっくりと割れた。
「オラァ!もっとだ!もっと食いやすい大きさにしてやらぁ!」
調子に乗って更に叩き割れば、そこにはもう、金平糖ではなく別の砂糖菓子が。
それを、小屋から一緒に持ち出したアルミの深皿にザラザラと集める。
「どうだクソデカメスガキ!金平糖から格下げしてやったぜぇ!」
そう言って高く掲げる、見るも無惨な氷砂糖の山。
形はどれも不均一で、しかしもう、難なく口にすることが出来る大きさで。
そしていざそれを摘んで口に含み──その目を一層大きく開けて、丸くする。
「……おい、こりゃあ……サイダー味の金平糖じゃねぇか」
予想外の反応が返って来た。
ただただ甘くて、きっと眉間に皺が寄ると思っていたのに。
「あ、分かった?青いのがサイダーで、他に桃色とレモン色が──」
そこまで言って、ホムラは口を止める。
エンリケはただ黙々と、一心不乱に、砕いた青い金平糖を口へ運んでいた。
甘いものは嫌いだと、酸っぱくして言ったその口は、一体どこへやら。
けれどもホムラは、それを微笑みながら見守った。
自分も、敢えて青色の金平糖を選んで口に運びながら。
同じものを、ただ一緒に食べるだけ。
たったそれだけで、どうしてこんなにも満たされるのだろう?
「どうだ!これで気は済んだかよ!」
空になったアルミ皿をカーンと投げ捨て、まさかの完食アピール。
両手を振り上げて、コロンビアン・ガッツを決めるエンリケに。
「わぁすごーい!」
ホムラは素直に歓声を上げながら、ぱちぱちと拍手した。
指の腹にも乗るたった一粒。それでも、目の前の小人は、自力で食べきった。
父ですら、完食出来なくて頼って来たと言うのに。
本当に、この人は。
「クソッ口の中が甘ぇ!今度ぁクソほど濃いコーヒーが……くしっ!」
と、落語のオチのように言おうとして、くしゃみを一つ。
ほら見ろ。ビデオレターを観始める前から、寒くないのかと尋ねたのに。
幾ら砂漠でも、11月後半の夜の寒空で、そんな薄着でいるから。
「ほーら、やっぱり寒かったんじゃん」
ホムラはそう言って、エンリケの身体を軽く握り、足元からも掬うように拾い上げた。
湯呑みを持つ要領で持ち上げたのに、曲げた指の上からエンリケがひょっこり顔を出す。
ちょうど、古いシリーズのマリオが、スーパーキノコを握りしめているように。
肌から伝わる体温は、確かに冷たい。これでは本当に風邪を引いてしまう。
昼夜で気温がかなり違うのに、やせ我慢して張り合おうとするから。
そうして欲しいだなんて、こちらは一言も言っていないのに。
「人間なんだからさ、お兄ちゃんは」
我慢なんて、しなくて良い。わがままを、言ってくれて良い。
私をお嬢様と言うのなら、私もわがままを我慢しない。
私を妹だと言うのなら、私もあなたを兄と呼ぶ。
毎日嫌でも顔を合わせるのに、上っ面の付き合いなんて──増やしたくないから。
「ちゃんと、私を頼ってよ。そりゃまだ頼りないかもだけどさ」
自覚だってある。実際そう思われている感じもする。
でも、そうだと思うのなら尚更、もっと色々教えて欲しい。
これまでみたいに──これまで以上に。
その分だけ、もっと強くなる。だから──。
「もう、私に遠慮なんて、しないで」
そう囁くと、エンリケは黙ったまま──しかし観念したように、ホムラの指の方にもたれかかって来た。
それを見ながら、ホムラはふっと微笑んだ。
やっとだ。本当にこの人は──甘えるのが下手だから。
「……私ね、嬉しかったんだ」
傷んだシャツの上から、その小さな胸に、人差し指の先を軽く押し当てる。
小さくても、厚い胸板の奥から。小さくても、一生懸命な。
小さくても、はっきりとした鼓動が。とくんとくんと、大きく返って来る。
生きている。こんなに小さいのに、こんなに必死に。
同じ時を一緒に生きるこの感動を、一体なんて伝えれば良いのだろう?
「お兄ちゃんって呼べるのは、私だけの特権なんだよ」
20光年の彼方で見つけたこの奇跡を、失いたくない。
ずっと、ずっと。守り通したい。
このちっぽけな一瞬一瞬が、ただただ愛おしい。
大事な人を、自分の心に一番近い場所に抱きしめながら。
小さな鼓動と大きな鼓動が織り成す、確かなシンクロナイズを静かに感じながら。
「……一緒に、エレメンティアに帰ろ」
ホムラはまた、その小さな頭をそっと撫でた。
不思議と、いつものように怒られることはなかった。
暗くした無機質な部屋に響く、ジョン・ウィリアムズの陽気な一曲。
勿論オーケストラの姿などない。
それどころかスピーカーシステムすらも、一見部屋のどこにも見当たらない。
けれども、映写機も使わず壁に直接映し出された映像の中で、宇宙人と言うには大袈裟過ぎる着ぐるみ達が酒のようなものを飲み、鳴き声で会話し、そして楽器を奏でる。
これがもし本当だったなら──いや、まだきっと、可能性の範疇にある。
例えそれが、どんな形でも──いずれ出逢う“彼ら”が、高確率で自分達より矮小でも。
そう信じていれば、映し出された宇宙の酒場は──いつか、遠い銀河の遥か彼方に──。
「またスター・ウォーズの一作目からですか、ナナシ」
と、心の底から好きで、酔いしれていたと言うのに。
棘しか感じない言葉の選び方に、ナナシは溜め息を漏らしながら困ったように笑った。
やっと復旧した部屋の、設備テストを兼ね──と言うのは、ただの方便に過ぎない。
要するに、ただのサボりだ。だから。
「なんぼでも見たい映画が、人には必ず一つ二つあるんえ。あんたも分かるやろ?」
部屋の中心にたった一脚。
簡素なデザインの黒いシングルソファに腰掛けたナナシが、悪びれもせずそう嘯いた。
白いエプロンと紺のロングスカートの下で、茶色い編み上げブーツを履いた脚を組み、肘掛けの上で頬杖を突く。
真っ直ぐ切り揃えた濡烏の前髪の下で、人形のように整った顔が苦笑する。
後頭部から伸びた、長い長いポニーテールは、背もたれの後ろでその先端がフローリングにまで届いてしまっていた。
「ええ。昼間は復旧直後の食堂で、ハリー・ポッターの大鑑賞会だったと。お陰で夕食はジャガイモだらけだったと聞いていますよ。ここをホグワーツに改名しましょうか?」
部屋に入り込む後光を背に腕を組みながら、もう一人のメイドが容赦なく皮肉った。
モデルのように背が高く、アッシュブロンドの髪を後頭部でシニヨンにして纏めていた。
「たはー!なんぼ言うても感化され過ぎやろー!これやから“人間”はー!」
ナナシはケラケラと笑いながら、底抜けに明るくすっとぼけた。
しかし入口のメイドは、C-3POのように表情を崩さない。
それが誰の仕業だったか、最早言うまでもない。だから。
「ええ全くです。ジェダイが敵を次々と屠るエピソードがあるのなら、是非メイド全員で観たいものですね」
「え、えーと、続き見たいん?ウチ、今エピソード4の気分なんやけど……」
「いえ結構です。あなたのバイオグラフ・シアターなど、クソどうでも良いですから」
「Oh……い、いけずぅ」
歯に衣着せぬと言うか、あまりにも容赦がなくて、流石に心を抉られる思いだ。
とは言え、もう大概にしておこう。そこの朴念仁が、本当に怒り出す前に。
「ハイハイ、ほなこれでストッ……」
「そのままで構いませんよ。私もその画面が使いたいので」
そう言うと入口のメイドはそのまま、ナナシと同じ編み上げブーツでコツコツと靴音を立てて、部屋に入って来る。
全く想定していなかった答えに、ナナシが目を丸くしていると。
「ミシチェンコ親子の動きがありましたので、ご報告です」
オビ=ワンがライトセイバーを抜いたシーンの上に、Twitterの画面がどんと被さった。
腕を斬られた酷く不細工なヒューマノイドの悲鳴は、トップ画面に固定されたツイートの添付動画から流れ出した、大音量のエレクトロ・スウィングにかき消されてしまった。
そしてそれをBGMに、画面の中では大きなヘッドホンをした短髪の少年が、DJコンソールを前に上機嫌に身体を揺り動かす。
間もなく手前に浮き上がったアール・デコ調のフォントが、来たる次のサタデーナイトのイベント情報を次々に告げた。
「予定通り今週末、オレクサンドル・ミシチェンコが、自分の店でライブを開催します」
「おー!ホンマかぁ!DJサーシャ、シェケナベイベー!イェーイ!」
嬉しそうな声を上げて、ナナシがソファから飛び上がった。
そうして身軽そうに着地したナナシの背丈は、隣に立つシニヨンの肩にまでしか届かず。
最早、大人と子どもの体格差同然だ。
シニヨンが、散々皮肉りながらも丁寧語でなければ、誰もが上下関係を見誤っただろう。
「なぁ、“ミニオンアバター”の手配はどないやの?」
ナナシの問いかけに、シニヨンはほぼ即答した。
「拠点復旧の方に予算が割かれた関係で、残念ながら半分です」
「かー!相も変わらへんとケチくさっ!ノーマルよりずっとちっこいねんえ!」
それを聞いて不満をぶち撒けるナナシに、シニヨンは冷静に言い返した。
「しかし、一体分は一体分です。それどころかアバターを湯水のように消費し過ぎだと、苦言が返って来ましたよ」
「そ、そやけどぉ、スーパーでリーズナブルなコストカッターやってなんぼ言うたら……」
「ナナシ、お言葉ですが」
ぶつぶつうじうじと、恨み節の絶えないナナシを遮るように、シニヨンが口を挟む。
「何故、ミニオンなのです?ノーマルアバターで制圧するのが得策かと思いますが」
ナナシは一瞬きょとんとした。しかしすぐにニッと笑みを漏らして。
「なぁヒルダ。ウチら、別に制圧しに行く訳やあらへんえ」
今度はシニヨン──ヒルダが首を傾げた。
では何のため?そう言わんばかりの顔で、とても分かりやすい。
「ウチら、サーシャのファンなんえ。社交の場に相応のナリで行く。それだけの話や」
しかし、まだ釈然としない顔のヒルダに、ナナシは苦笑しながら。
「穏便に済むなら、それ以上のことはあらへんやろ。ノーマルは威圧し過ぎなんえ」
「しかし、ミシチェンコ親子はエレメンタル共を招待したようです」
「尚更や」
ピシャリと即答。
ひょうきんで、どこか飄々としていたナナシの顔から、笑みが消えていた。
「地球人を、怖がらせるな」
そこの剣幕に、ヒルダは初めて表情を変えた。
「……はい」
ヒルダの返答を聞いて、ナナシはやっと満面の笑みを浮かべた。
しかしその次には。
「ヒルダ、ダンス出来るけ?」
……意味が分からなかった。
何の脈絡で?それに、出来たからと言って一体何が?
「……いいえ?」
「ほな、教えたるえ」
Twitterの画面の上に、YouTubeのインターフェイスが更に覆いかぶさる。
間もなく再生されたのは、Lost In The Rhythm- Jamie Berry ft. Octavia Rose。
イントロの音のこもりが晴れドラムが入ると、部屋がぐっとライトアップされた。
ありもしないミラーボールの反射に、光源の分からない色取り取りの光線。
その中で、ナナシはエプロンを跳ね、ロングスカートを翻す。
ヒルダと自分が座っていた黒いソファを華麗に避けつつ、軽やかに、ステップを決める。
画面でも、ほっそりとした若い優男達が、家で、ショッピングセンターで、ステージでタップしていた。
「……あなたは本当に多才ですね」
外見からは想像も出来ない。ましてこんな場で、こんな流れでは予想もしない。
だがナナシはダンスを止めず、ただ白い歯だけを見せるだけ。
決して終わらない、この悪夢のような現実を。
それに耐えられず、弱さ故に機械になることを選んだこの世界を。
どうしてあなただけは、こんなに楽しそうに──。
「……では、ご教授願いましょうか、mein Führer」
小さく溜め息をつきつつも、ヒルダが見様見真似に踊り出す。
見て分かる程度に、そのステップのベクトルをコピーしながら。
大衆音楽に、大衆芸能。何がどう芸術的かは、さっぱり分からない。
退廃的で、刹那的で──けれどもそれは、素直に──。
「楽しいやろ?」
「いいえ、まだ分かりません」
「ったく、愛想くらい言いやホンマ。出世しいひんえ」
「余計なお世話です」
口ではつんけんに言いながらも、ヒルダは踊るのをやめない。
きっとこのまま、朝まで踊り続けるのだ。その歌詞のように。
少なくとも、次のミイラ取りが、ここに現れるまでは。