告げられた女
「好きな人ができたんだ」
言われた事と目の前の光景の意味は割とすとんと腑に落ちた。ずっとこんな日が来ることを、心のどこかで予測していたのかも知れない。
ビリー・ジョエルが流れるカフェで、私は一年半付き合っていた彼氏に別れ話をされているところだった。4人がけのテーブルで、向かいには彼氏と、その隣に好き合っているという女の子。なんだかお約束の構図すぎて笑ってしまう。
このカフェは、職場の近くなので、何度か来たことがある。仕事の取引相手とも、目の前の彼氏とも、友達とも、ひとりでも。
ここのシフォンケーキが好きなのだ。話がある、と呼び出されたとき、いかにも深刻な話があるという感じだったので、今日は飲み物しか頼まなかった。でももうしばらくはこのお店に来られないから、最後に頼んでおけばよかったかなあと思う。いや余裕あるな私。
彼ーー大上くんは、綺麗な人だった。男の人にこういう形容は可笑しいだろうか。でも真っ先にそう思ってしまうんだから仕方がない。こんな人が私の恋人だったっていうのがちょっと信じられないぐらい。ああ、今過去形で言ってしまった。
大上くんとは、会社の同期で、何となく話が合って、何となく付き合うことになった。
いかにも美青年と言った、すべてが繊細な造りの大上くんと体育会系の私。周りは何の冗談だろうと思っただろうし、私もそう思ったし、多分大上くんも思っただろう。
少女漫画と青年漫画ぐらい相入れない。それでも何となく交際は一年半も続いたのだから、人生わからないものである。
私としてみれば、夢のような日々ではあったのだが、まあ、ずっと覚悟はできていたような気もする。不意にお別れを告げられる覚悟だ。
誰にも言えなかったが、付き合っている間中、彼はいつも本心を隠しているような気がして、心を許されている感じはあんまりしなかったのだ。
特にここ最近、まったく兆候がない訳ではなかった。少し距離ができた気がしたことも、彼の態度がよそよそしくなったことも気づいていたので、少しずつ心の準備はしているつもりだった。
そして、夢の終わりが、今。
大上くんの隣にいるのは、私ではない。私よりも細くて、可愛らしくて、思わず護りたいと思ってしまうような、可憐という言葉がぴったりな、きれいな人だった。
「茜はさ、強いじゃん? だから、俺がいなくても大丈夫だと思うんだよね。でも、こいつは俺が守ってやらないと駄目だから」
そう言って大上くんが隣に座っている女の子を抱き寄せる。戸惑ったような、でも嬉しそうな顔をする彼女。私は向かいの席でそれをぼんやりと見ているという構図だ。
でた、「茜は強い」。
結構言われ慣れてはいる言葉ではあるし、何なら自分でもよく自称していた。女だてらに偉そうなおじさんたちとやり合う渉外課では強くないとやっていけない。
歳の離れた弟妹がいるので、小さい頃から必然的にしっかりしないといけなかったし(精神)、日課の5㎞のジョギングも最近は欠かしていない(物理)。ひとりでおっさんの通り魔を撃退した事もあるぐらいだ。そう、私は強い。
でも大上くんの口からそれを聞くとは思わなかったな。言っちゃあれだけど、お別れの理由にしては、割と陳腐な言葉じゃないか。振るにしても、言い方っていうか、彼にはもっとスマートな言葉を期待していた。ちょっとがっかりだ。
くすくすと笑い合いながら顔を近づけるふたりを見て、私が何も感じないとでも思ってるのかな。こんなに人の気持ちを考えない人だったっけ。
なんだか少し私の中の大上像よりも、現実の大上くんの方が軽薄な気がして、私は失望していた。いや、失望しているふりをしたかった。これも防衛反応かもしれない。
「そんなわけで、別れてくれないかな?」
悪びれもせず、そうのたまう彼に、私は頷く以外何ができただろう。
良かった。ちゃんと覚悟していて。手に入れたものはいつでも無くなってしまう。それを忘れないでいて良かった。
彼の言った言葉を反芻する。私は強い。
「わかった」
安心したような顔をするのかと思いきや、私の返答を聞いた大上君は無表情だった。いや、いちおう顔は微笑みの形をしている。でもこれ、笑顔じゃないよなあ。
「大上くん?」
もしかして具合でも悪いのか、と声をかける前に隣の彼女がずいっと出てきた。
「ごめんなさい……私、何度も諦めようと思ったんです、でも、どうしてもたっくんと離れるなんて、できなくって」
大上君の隣にいる彼女が、申し訳なさそうに私を上目遣いで見る。華奢な肩、綺麗に巻かれた髪。念入りに手入れされた爪。私とは正反対のものばかり持っている女の子だった。大上くんたっくんなんて呼ばれてるのか。私はついに名字呼びを脱却することができなかったというのに。
大きな眼をうるませる彼女に、無理矢理自分を納得させる。
仕方ないよ、これだけ可愛い女の子と両想いだってわかったら、そりゃあ男の子はそっちに行っちゃうでしょ。むしろ、私みたいな取り柄のない女と、よく一年半も付き合ってくれたな。
もしかしたら、もうずっと好き合ってたのに、言えなかったとか? ありえる。私もたいがい鈍いのでね。だとしたら、悪いことをしてしまったのかもしれない。
彼女、繊細そうだから、きっと悩んだんだろう。
大上くんの心配をするのは、もう私の特権じゃなかった。
「気にしないで」
良かった。言えた。よく言った私。そしてごめん。これが私の精一杯。
そりゃあ、悲しくないと言えば嘘になる。好きだったからね。
でも、大丈夫だよ。立ち直ってみせるよ。
今は、強がることしかできないけど。
「……これ、一緒に払っておいて」
ふう、うっかりケーキを頼まなくて良かったぜ。
ほとんど口をつけなかったコーヒーは、単品では割高なのだが、まあ、学生街のカフェなので、そこは知れている。
千円札を取り出そうと財布を取り出したら、やんわりと止められた。
「いいよ、コーヒー代ぐらい、俺が出すよ」
いつもは大体割り勘だったのに、こんな時だけそう言うことを言う。
あ、彼女に良いところ見せたいのかな。
彼女になら、たっかい料理でも何でも奢るのかな。
考えれば考えるほど惨めになるので、遠慮はしないことにした。
「ありがと」
短いお礼しか言えなかった。
今まで、ありがとう。
本当はそう言えたら良かったのに、泣いてしまいそうだったから言えなかった。
最後に一度だけ、と大上くんの顔を見る。
いつもみたいに穏やかな笑顔を見たかったのに、何故か彼はひどく真剣な顔をしてこちらを見ていた。
罪悪感だろうか? そんな馬鹿な。
何故か、その時、彼が私を引き留めたがっているという妄想(というか願望というか)が私を支配しだしたので、いかんと思って視線を振り切ってみた。
「じゃあね」
大丈夫だったかな。語尾震えてなかったかな。
さすがに泣きそうだったので、ちょっと早足でドアにちかづく。
ドア付近のキャッシャーに立っているお姉さんに、「支払いは連れがします」と告げると、心得たように、ありがとうございましたと言われた。
引き留める声はなかった。もちろん。