表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

その後の大和撫子

作者: 葉泉大和

 ***


 燦々と照らされる夏の日差しに、体中の至る所からじわじわと汗が吹き溢れる。もう時刻は五時半を過ぎているというのに陽が落ちようとする気配は全くない。


 季節は早いもので、夏。

 この町に引っ越して来てから四か月が経ち、一つの季節が過ぎ去ったことになる。


 松城駅の周りを歩く人も涼し気な格好をして、暑さ対策をしていた。日向を歩こうとしないで、日陰を見つけて歩いている。


 待ち人が来るまでの間、私はこの四か月のことを思い出す。


 心臓が高鳴りながら松城高校の門をくぐったこと、初めて悠陽と出会ったこと、悠陽に秘密がバレたこと、悠陽と一緒に秦野高校とゲームをしたこと。思えば、ここから私の高校生活は大きく変わった。

 クラスメイトと普通に話せるようになったこと、悠陽とクレープを一緒に食べたこと、クラスメイトの女の子と一緒にショッピングに行ったこと、二年三組で体育祭で熱狂し、その後カラオケで打ち上げをしたこと、悠陽と一緒に映画を見に行ったこと、プール開きで馬鹿みたいにはしゃいだこと、悠陽に期末テストの勉強を教えたこと。


 私のこの四か月は、去年一年間の高校生活とは比べられないほど、密度の濃い時間となっている。想い出に残る出来事を上げていけば、キリがないほどだ。

 そして、想い出はこれからもどんどん増え続けるだろう。いや、まさに今日も増えていく。


 私は携帯を取り出して、悠陽とのメッセージ画面を開いた。


 悠陽とのメッセージのやり取りは、連絡先を交換したGW明けからたくさんあった。大抵は、私から悠陽にメッセージを送り、悠陽が淡々と返信をするだけだ。

 私は口元を綻ばせながら、悠陽との最新のメッセージのやり取りを見る。最新のやり取りは昨日。


 ――明日、松城町でお祭りだって! 行こっ!

 ――分かった。

 ――さすが悠陽! じゃ、明日の六時に駅前ね!

 ――りょーかい。


 悠陽らしい淡白とした短い返信。けれど、そこに嫌だと言わない彼の優しさが詰まっている。


 悠陽とのメッセージを見ていると、新しいメッセージがピコンという音と共に届いた。


 ――十分以内で駅に着く。


 自分でもこれ以上ないくらいに頬が緩むのを感じながら、私は携帯を巾着にしまって顔を上げる。

 悠陽が私の元へやって来る姿を、一秒でも早く見つけたかったからだ。


 見上げた視線の先には、これから夏祭りに向かうであろう人々の姿がたくさん見えた。

 その人達の目に、今の私はどのように映っているのだろうか。普通の女の子のように見えたらいいなと思いながら、悠陽が来るのを待った。


 ***


「既読つくの早いな」


 茉莉にメッセージを送った瞬間に、メッセージを読んだという印が付いた。つまり、これが意味するのはもう茉莉が駅前にいるということだろう。


 俺と茉莉の関係は、隣の席の同級生から仲のいい友達へと変わっていた。むしろ、松城高校の中で一番話す人物は茉莉であり、学外で遊ぶのも茉莉とが一番多かった。


 だから、茉莉が瞬間で既読を付けたということが、どういうことを意味しているのかすぐに分かる。茉莉と待ち合わせをする時は、いつもそうだ。茉莉が先に待ち合わせ場所に着いていて、俺が到着すると「遅いッ」と一蹴される。そして、茉莉に先導されながら、茉莉が行きたい場所に行くのが、茉莉と出かける時の基本的な流れなのだ。

 今日もそのような流れになるのだろうな、と思いながら俺は駅に向かう足を少し早めた。


 待っていると分かっている相手を、わざわざ待ちぼうけにさせるのは酷な話だろう。


 それに茉莉を一人にさせると、面倒な問題が降りかかって来る。


 更科茉莉という人間は、大和撫子のように整った容姿をしている。その容姿により、学校の中ではちょっとした有名人だ。二年三組以外の松城高校の人は、茉莉のことを高嶺の花のように思って、あまり声を掛けようとはしない。

 しかし、当然だが学校外の人はそのことを知らない。


 だから、茉莉と町中を歩いていると、よく声を掛けられることがある。いわゆる、ナンパというやつだ。

 大抵の場合、茉莉の隣に俺がいるから事もなく終わるが、もし一人だった場合を想定するとゾッとする。


 それに、茉莉には誰も知らない秘密があるのだ。茉莉の秘密は、彼女のためにも絶対に周りにバレてはいけない。


 そんなこんな考えている内に、松城駅が見えて来た。


 松城駅の周りは多くの人でごった返していた。きっとここにいる人のほどんどが、松城町の祭りに行くのだろう。


 俺は多くの人がいる駅前で一人の人を探そうと、首を左右に動かす。


「――お」


 すると、俺の視界に茉莉の横顔を捉えた。茉莉は長い黒髪をまとめていて、うなじが露わになっている。そして、今日の茉莉の服装は、夏祭りに相応しい浴衣だった。

 対して――、俺は自分の服装に目を向ける。この暑さの中、少しでも涼しくなろうと、半そで短パン、そしてビーサンだ。


 一瞬俺と茉莉の服装の違いに、このまま近づいていいのか迷いが生じた。

 しかし、俺と茉莉の間柄に今さら服装を気にする必要はないと割り切り、茉莉に声を掛けることにした。これ以上待たせることの方が申し訳ない。


 俺は勢い込んで茉莉に声を掛けようとしたところで、異変に気付き足を止めた。


 茉莉は一切周りを見ようとせず、ただ前一点だけを見つめていた。しかも、その横顔はどこか思い詰めたような表情をしている。

 しかし、茉莉の視線が何を捉えているのかまでは人混みが多すぎて、俺からはよく分からなかった。


 何かあったのか分からない。だけど、嫌な予感がするのは確かだ。


「まつ――」


 声を掛けようとした瞬間、茉莉の周りから人垣がなくなって、非常事態に気付く。


 そこには、甚平を来た若い男二人組に言い寄られている茉莉の姿があった。二人の男はまだあどけない表情を残していることから、きっと別の町の高校生だろう。


 この松城町の夏祭りは、町全体を巻き込むほど規模が大きい。電車を使って、別の町からこのお祭りに参加しようとしても不思議ではない。


「ねぇ、さっきから君一人みたいだけどさ、良かったら俺達と一緒に回らない?」


 茉莉に話し掛ける二人組の声が聞こえる。先ほどの懸念通り、どうやらナンパされているようだ。


 今日の茉莉は浴衣を着ていて、それが更に大和撫子のお淑やかさを増し加えたのだろう。何も知らない二人組が、ひと夏の想い出を作ろうと、茉莉に声を掛けることは納得出来ることではあった。


 茉莉は二人組に興味を示さないようにそっぽを向くと、


「一緒に行く人がいるので結構です」

「ひゅー。なになに、もしかして彼氏?」

「べ、別にそういうんじゃ!」


 男の言葉に、茉莉は顔を赤らめる。茉莉の反応に、二人組は唇を舐めた。


「なら、いいじゃん! 君、三十分近く待ってるでしょ? すっぽかされたんだよ」

「あぁ、可哀相。俺だったら、こんな可愛い子、絶対に待たせないけどな」


 二人組の会話が盛り上がっていくのを聞きながら、茉莉は肩を震わせていた。

 あ、やばい。そろそろ出ていかないと、本当に収拾がつかなくなる。


「はァ? 悠陽が――」

「ごめん、茉莉! お待たせ!」


 俺は茉莉と二人組の間を割って入った。突然現れた俺に驚いたのか、二人組は一歩後ずさる。

 俺はあえて二人に気付いていないように、茉莉に笑顔を向ける。


 すると、


「悠陽ぃぃ! どんだけ待たせるのよぉ!」


 瞳を麗しながら、茉莉が真っ直ぐ俺のことを見つめた。瞳を麗している理由を知っている俺は、「ごめんごめん」と苦笑いを浮かべながら茉莉に詫びを入れる。


「じゃあ、そろそろ行こうか」


 このままの流れで、無事ここから抜け出せることを祈りながら、一歩踏み出そうとした。


「おい、ちょっと待てよ」


 しかし、そうは問屋が卸さない。


 先ほど後ろに下がった一歩分の距離を、二人組の男は詰め寄せて来る。俺を睨む付けるその目は、茉莉とのやり取りを邪魔したことへの怒りで吊り上がっていた。きっと俺の姿を見て俺になら勝てると踏んだのだろう、その口調も喧嘩を売るかのように荒々しかった。


 互いに平穏に切り抜けられるように行動したはずだったのに、上手くいかないものだ。


「俺達、まだ彼女と話してるんだけど」

「あ、何か用事でもあったんですか?」


 俺はあくまで素知らぬ態度で応じる。俺の態度を見て、更に余裕が出て来たのか、二人組はニヤニヤと笑い始める。


「俺達はこの茉莉ちゃんと一緒にお祭りに行く約束をしてたんだよね」

「君が遅いから、茉莉ちゃん一人で可哀相だったんだぜ?」


 茉莉、と名前も知らない見ず知らずの男達に呼ばれたことで、茉莉がぶるっと体を震わせた。彼らに対して、相当嫌悪感を抱いている証拠だ。


「あ、そうだったんですね。なら、これから一緒に行きますか?」

「嫌ッ! 絶ッ対に無理ッッ!」


 俺が二人組の男に提案した時、茉莉が首を横に振りながらハッキリと拒絶した。


 茉莉ならそう言うと思った俺は、僅かに口角を上げると、


「……だそうです。嫌がっているところを無理に連れていったら、せっかくの祭りも互いに楽しめなくなりますから。今日のところはすみません」


 一気にまくしあげて、二人組に頭を下げた。

 さすがにここまで拒絶の意志を示されたら、諦めるしかないだろう。


「テメェら、俺達を舐めてるのか?」


 しかし、予想に反して、二人組はまだ引くことはなかった。むしろ、二人のうち一人は怒りを露わにして、拳を握り締めている。


「下手に出てれば、図に乗りやがって! 痛い目に合わせてやるよ!」


 そして、拳を握り締めた男がそのまま俺に向かって拳を振るって来た。男の拳は、見て分かるほど素人のものだった。三か月ほど前、凄まじい拳の応酬をこの目で見たから、その違いが明らかに分かる。

 だが、素人の拳だと分かるだけで、俺自身も喧嘩とは無縁の素人だ。躱すことは出来ない。少し痛むだろうな、ということを覚悟して、俺は目を閉じた。


 男の拳が俺の顔に近づいて来た直前、俺は誰かに左腕を掴まれて、そのまま左の方に引き寄せられた。


 俺が急にいなくなったことで、男の拳は何にも当たることがなく虚しく空を切り、その勢いで男はよろけて転んでしまった。


 いつの間にか茉莉に左腕を抱き締められる形で、男が転ぶ様を見ていた。


「ハハ、ショー君だせぇ!」

「うっせ、タカヤ! テメェ、避けるのが上手いからって調子こいてんじゃねぇぞ」


 どうやら彼らには俺が茉莉の傍にいることが理解出来なかったようで、俺がひらりと躱し、茉莉を守るために動いたと解釈したようだ。


 しかし、それは違う。

 実際は茉莉が俺の左腕を掴んで、直前のところで助けてくれたのだ。


 相手に気付かれないほどの速さで瞬く間に俺を助け出すことは、茉莉にとっては朝飯前だ。

 何故なら、それが彼女の誰にもバレてはいけない秘密だからだ。


 更科茉莉の秘密――。


 それは、隣の県にまで名前を轟かせたほどの伝説の不良、血祭まつりだということだ。その名を聞けば、誰もが身を震わせるほど、圧倒的な実力を持っている。八か月ほど前に不良の世界から足を洗ったにもかかわらず、その実力は未だ衰えていない。


 だが、当然ながら素人であるショーとタカヤには、茉莉の実力を察知することは出来ない。こんな大和撫子のようにお淑やかで可憐そうな女の子が、まさか血祭まつりだとは思いもしないだろう。


 そろそろ話がややこしくなると思った俺は、


「あの、もういいですかね? じゃないと――」

「じゃないと何だ? 俺らをぶっ飛ばすってか?」


 立ち上がったショーが敵意の籠った瞳で言う。


 どうしてここまでして食い下がらないのか。何となく答えは分かっている。きっと彼らのプライドが、引き下がることを邪魔しているのだろう。


 しかし、俺はこの場を一刻も早く離れたかった。


 俺の左腕を掴んでいる茉莉の力がどんどん増しているのだ。耐えて、耐えて、耐えている彼女の我慢が、いつどこで爆発するか分からない。


「いや、そうではなく、彼女の限界が……」

「は?」


 茉莉から目を逸らしながら言う俺の言葉に、ショーとタカヤが同時に疑問符を上げた時だった。


「あれ、茉莉さんと諏訪君じゃん。こんなところで何やってるの?」

「……霜杉さん」


 GW明けに俺と茉莉といざこざがあった秦野高校のボスである霜杉剣児だった。霜杉さんの後ろには、いざこざの原因を作った張本人たちである海野と河田と池村もいる。


「俺達は秦野高校の連中と一緒に夏祭りに行こうとしててさ」

「問題起こさないでくださいね」

「ハハッ、俺らが問題なんて起こす訳ねーじゃん。ヨミ以来、そういうの控えてんだからさ」


 霜杉さんと俺が談笑する一方で、ショーとタカヤの顔色が変わった。


「秦野高校の霜杉……って、まさか……」

「何、俺のこと知ってるの?」


 ショーとタカヤに名前を呼ばれた霜杉さんが、含みのある笑みを浮かべて二人を見た。


 その笑顔に二人は何を読み取ったのか、


「い、行こうぜ!」

「秦野高校に目を付けられたら、やってらねェよ!」


 頑なに引こうとしなかった二人が、あっという間に去っていった。


 ショーとタカヤが去っていくのを見て、ようやく俺の腕を掴んでいた茉莉の力が弱まった。


「ったく、ナンパ目的で茉莉さんに声を掛けようなんて図々しいったらねーぜ」

「茉莉さんに声を掛けるなら、命を失ってもいい覚悟がねぇとな」

「それな」


 三人組の言葉には、誰も触れることはしない。


 あのヨミでの一件以降、俺達と秦野高校の人達は上手くやっていた。顔を合わせれば、互いの近況を話し合ったりと、会話に花が咲く程度の仲にはなった。


「それにしても――、茉莉さんの浴衣似合ってますね」

「えへへ、霜杉のおかげで浴衣を汚さずに済んで助かったよ」


 霜杉さんの言葉に、茉莉は浴衣を見せびらかすように手を広げる。


 ちなみに、霜杉さんは茉莉の正体が伝説の不良である血祭まつりと知ってから、ずっと敬語を使っている。それに対し、茉莉は一切敬語を使うことはせず、ずっとタメ口だ。これが不良の中でのルールなのかは分からないが、俺はあえて突っ込まない。


「あ、そうだ。よかったら霜杉さん達も一緒にお祭り回りますか?」

「……あー、やめとく」


 一瞬考える素振りを見せた霜杉さんだったが、後頭部を掻きながら言った。俺の言葉に呆れているようにも見えた。


「お祭り会場に仲間が先に待ってるから、もう行くわ」

「ありがとうございました」

「もしお祭りで偶然会ったらよろしくね」

「……四十一人と団体行動したいんですか?」

「見かけても知らんぷりするかも」


 茉莉の言葉にふっと笑いを零すと、霜杉さんがお祭り会場に向かって進もうとした。


 その時だった。


「諏訪君、わざとか知らないけど、そういう態度よくないよ」


 霜杉さんは俺の肩に腕を回して、俺にしか聞こえない声量で話し始めた。


「どういう意味ですか?」

「周りを見るだけじゃなくて、隣もしっかり見ないと」


 そう言うと、肩をポンと叩かれ、霜杉さん達は今度こそ駅前から離れて、お祭り会場に向かい始めた。


 霜杉さん達を見送ると、


「さて、と。俺達もそろそろお祭りに向かうとするか」


 俺は伸びをしてから歩き始めたが、後ろから茉莉がついてくる気配がなかった。


「……茉莉?」

「……」


 茉莉に声を掛けるも、茉莉からの返事はなかった。茉莉は後ろで束ねた髪を触れながら、唇を尖らせていた。


「……何か言うことないの?」

「え?」

「だから、私の浴衣姿を見て感想とかないんですか? って聞いてるの!」


 茉莉は顔を赤らめながら、声を荒げた。その言葉に、俺は気付く。そういえば、ショーとタカヤに絡まれて、茉莉の浴衣に対して言及していなかった。


 俺は改めて茉莉の姿を見る。

 茉莉の浴衣は鮮やかな水色をしていて、花の模様が全面に咲き乱れていた。汚れのない真っ白な帯が、自然と目を惹かせる。茉莉の雰囲気にピッタリと合っていた。


 まさしく大和撫子と呼ばれるに相応しい恰好だった。


 普段と違う茉莉から目を背けるように、夕陽に染まりつつある空を見上げると、


「に、似合ってるよ」


 大したことも言えずに、ありきたりな感想を言った。


 こういう時、もっと良い言葉を言えればいいのだが、あいにく俺の頭にそんな語彙はない。


 しかし、俺の言葉に茉莉は目を大きく見開くと、顔を赤くして、満面の笑みを浮かべた。


「うん、よろしい」


 そして、茉莉は満足気に大きく頷く。


 茉莉につられたのか、俺も自分で顔が赤くなるのを感じて、思わず茉莉から目を逸らす。


 普段見慣れていない浴衣姿も相まって、茉莉の姿をじっくりと見ることが出来ない。いや、普段見慣れていない浴衣姿によって、更科茉莉という存在が特別な美貌を持ち合わせた女性だということに、改めて気付かされてしまった。


「あ、あー。んじゃ、そろそろ向かおうぜ。どこの出店も混み出して来るからさ」


 俺は声を上擦らせながら、再びお祭りの会場に向かって歩き始めた。今度は茉莉もちゃんとついて来ているのが、下駄が鳴る音で分かる。


「悠陽のせいで面倒なことに巻き込まれたんだから、お祭りで何を奢ってもらおうかなぁ」


 いつものように左隣を歩く茉莉が、唇に指を当てながら考える素振りを見せる。


「……なんでもどーぞ」


 茉莉の言い分に関しては、茉莉を駅前に待たせてしまった俺が完全に悪いため、何も

言い返せない。


 俺は財布の中にいくら入っていたのか頭の中で考えながら、茉莉と一緒にお祭り会場に向かった。


 ***


 松城町の祭りは、町全体を巻き込んだビッグイベントだ。


 商店街には主に飲食系の出店が並び、公園には遊戯系の出店が並ぶ。そして、祭りのメインである花火を見るための会場として、ショッピングモールが解放されている。ガラス張りの窓側からは、ド迫力な花火を一望することが出来るのだ。もちろん外にいても見ることは出来るのだが、祭りで遊び疲れた人にとっては、座って見れることで重宝されている。


 そんなイベント満載な祭りを楽しもうと、俺達が最初にまず向かったのは商店街だった。腹が減っては何も遊ぶことは出来ないということで、お互いの意見がピタリと合致した結果だった。


「悠陽、私タコ焼きが食べたい!」


 真っ先にタコ焼きの看板が目に入った茉莉は、俺に意見を求めることなくタコ焼きの出店に向かう。タコ焼きなら食べ歩きも可能だし、特に異論はない。俺は黙って茉莉の後を追った。ここでの支払いはもちろん俺だ。


「おじさん、タコ焼き二つお願い!」

「あいよ!」


 タコ焼き屋のおじさんが作る最中、俺は財布を開いた。


「――っ」

「どうしたの、悠陽?」

「すみません、たこ焼き一つでお願いします」


 おじさんは怪訝そうな顔をしたが、何も言わずにタコ焼き一つ分をパックに詰めた。財布の中に、思ったよりお金が入ってなかったのだ。ここで無理をしたら、後々困るだろう。


「はいよ、タコ焼きお待ちィ!」

「ありがとうございます」


 俺は礼を言ってタコ焼きの入った袋を受け取ると、タコ焼き屋の列から離れた。お祭りの定番であるタコ焼きは、並ぶ人が多い。動きが緩慢だと周りに迷惑が掛かるだろう。


「悠陽、もしかしてお金――」

「祭りの前に軽く飯食ってたの、忘れてたんだ。タコ焼きの匂い嗅いだだけで腹が膨れてきちまってさ。ほら、気を遣わず食ってくれ」


 俺は茉莉の言葉を遮って袋ごとタコ焼きを渡す。

 もちろん、俺は家で飯など食べていない。正直、匂いだけで食欲がそそられるほど、腹が減っている。

 せっかくの祭りだ、茉莉には俺のことは気にせず、純粋に楽しんで欲しい。


「……、そう言うなら遠慮なく貰うわ。いっただきまーす!」


 俺の言葉を聞くと、茉莉は嬉しそうにパックを開き、タコ焼きとご対面する。串でタコ焼きを刺すと、ふぅふぅと息を吹きかけて、タコ焼きを頬張った。その瞬間、茉莉は破顔する。


 いつも茉莉はそうだ。美味しそうに物を食べる。その姿が平和で微笑ましく、ずっと見ていても飽きない。


 しかし、今回に限ってはあまり見ていられない。あまり見すぎていると、見てるこっちまで腹が減ってきてしまう。


 俺は視線を逸らして、空を見た。辺りは暗くなりつつある。耳を澄ませば、祭りの賑やかな音と茉莉のタコ焼きを冷ます息の音が聞こえて来る。

 改めて、夏だなと思う。こんなに夏らしい夏を過ごしたのはいつぶりだろうか。純粋に夏祭りを楽しむのは、小学生以来ではないだろうか。


「悠陽」

「ん?」


 茉莉の声に、空から視線を落とし、茉莉の方を向く。


 すると、


「あ、あふっ!」


 口の中に熱い物が入り込んで来た。一瞬、何が起こったのか分からなかった。


「あはは、典型的なリアクションね! どう、美味しい?」


 茉莉の言葉に、俺の口の中にタコ焼きが入ったことに気付く。熱さに少し慣れた俺は、ようやく味を堪能することが出来た。空腹だったことも相まって、タコ焼きは美味しかった。


「ん、美味しいけど……なんで」

「あのねぇ、か弱い私がこんな量を一人で食べられると思う? 悠陽も食べてくれないと逆に困るの」


 茉莉がわざとらしく頬を膨らませながら、タコ焼きを見せつける。いや、実際頬を膨らませているのはわざとだろう。茉莉はよく食べる。その割に体は細いままなのだから、その体の構造がどうなっているのか疑問だ。


「それに、タコ焼き屋のおじさんが少しサービスしてくれたみたいなの。串も二本付けてくれてたし」


 確かに茉莉の言う通り、本来は八個入りで二人とも一個ずつ食べたはずなのに、まだ八個のままだった。


「……そういうことなら、もらおうかな」


 茉莉の優しさとおじさんの粋な計らいを、無下にするわけにはいかない。

 俺は茉莉から真新しい串を受け取り、タコ焼きのパックも受け取ると――、そこでふと違和感を覚えた。


「あれ、茉莉今――」

「ああ! もう公園が見えて来たわ! 早く食べないと遊べないわ!」


 茉莉は大声を上げると、再びタコ焼きを食べ始めた。確かに公園は目の前だ。タコ焼きを持っていたら、満足に楽しむことは出来ない。


 俺もタコ焼きを食べ始める。やはりタコ焼きはまだまだ熱かった。茉莉の顔も、タコ焼きの熱さで赤くなっていて、空いた左手で顔を扇いでいた。


 ***


 公園に辿り着くと、俺と茉莉は何故かゲームで勝負することになった。発案者はもちろん茉莉で、勝負は二種目――射的と金魚すくいで決めることになった。


 まず初めの射的のコーナーに行くと、俺と茉莉は同時に鉄砲を構えた。六発中どちらが多くの景品を取れるのかによって勝敗が決する。


「じゃあ、スタートね」

「おう」


 二人同時にコルクを撃つ。俺は外れてしまったが、茉莉は見事ポケットに入るくらいの小さなキーホルダーを撃ち落とした。茉莉が「どう?」と言いたいような顔で見て来るのを、俺は鉄砲にコルクを詰めるフリをして視界に入れないようにする。

 二発目と三発目も同じだった。俺は的に当たらないが、茉莉はいとも簡単にキャラもののキーホルダーを撃ち落とす。


「ふふっ」


 茉莉が勝利を確信したように、笑みを零した。


「……くっ。茉莉の鉄砲の方が性能いいんじゃねーの?」

「あら、そこまで言うなら交換してみる?」

「いいのか? 後悔しても知らねーぞ」


 そう言って、茉莉と俺は互いの鉄砲を交換し合う。茉莉の顔からは余裕さは失われていなかった。その顔をしていられるのも、今の内だろう。その鉄砲の調子が悪いのは俺自身で実証済みだ。ここから三発連続で俺が当てれば、少なくとも負けることはない。


 そして、交換し終えた後の鉄砲にコルクを詰め、互いに四発目を撃つ。


「やっ――」


 見事俺が放った弾は、的に命中した。これで景品をゲットだ、と思った瞬間。


「――た?」


 コルクに力がなかったのか、的は落ちることはなかった。


 一方、俺がさっきまで使っていた鉄砲を使った茉莉は、先ほどと何も変わることなく景品をゲットしていた。これで四個目の景品をゲットしたと同時、茉莉の勝利が決まった。


「う、嘘だろ……」


 俺は茫然と鉄砲と倒れなかった景品を交互に見つめていた。茉莉は俺の横で必死に笑いを堪えている。


「あはは、どうやら鉄砲は関係なかったみたいね。悠陽くん、まだまだ腕が甘いですなぁ」

「な、なら残りの弾で二回戦だ。あの一番大きな景品を落とした方の勝ちでどうだ?」

「クマちゃんのぬいぐるみね。いいわよ」


 茉莉を上手く乗せることが出来て、二回戦が始まる。

 さすがの茉莉でも、あの二十センチはありそうな大きいぬいぐるみを撃ち落とすことは難しいだろう。


 案の定――、


「あー、悔しい!」


 茉莉はクマに当てたものの、数ミリ動いただけでゲットまではいかなかった。俺が撃ったコルクもクマに当たったが、ちょっと動くだけだった。


 予想通りだ。いくら茉莉でも、後一発で撃ち落とすことは難しいだろう。この二回戦でも俺は勝つことは出来ないが、負けることもない。


 先ほど負けた悔しさを少しでも紛らわすための、苦肉の策だった。


 そして、互いに最後の一発を撃つ。あと一発か二発あれば撃ち落とせそうな瀬戸際までクマのぬいぐるみを追いやることが出来たが、もう互いに弾はない。


 俺の狙い通り、二回戦は引き分けで終わった。


「残念だったな、茉莉。次の店――」

「まだ勝負は終わってないわよ、悠陽」

「え?」


 そう間抜けに声を漏らした時、射的のおじさんが茉莉の前にコルクを二つ置いた。追加料金を払っていないのに、どういうことだろうか。


 おじさんは伏兵のようにニヤリと笑うと、


「兄ちゃん、悪いな。うちの店、子供と女性にはサービスで二発分追加してるんだ」

「……」

「そういうこと」


 茉莉は可愛らしく片目を瞑ってウインクする。


 俺が茫然と立ち尽くす中、茉莉は残りの二発を使って、見事クマのぬいぐるみを撃ち落とした。


 茉莉はその場で小さくジャンプをすると、満面の笑みを浮かべて、俺にVサインを突き付けた。


 完敗だ。ここまで来れば、いっそのこと清々しい。茉莉の笑顔につられるように口角を上げると、茉莉を称えるように拍手を送った。


「それにしても、嬢ちゃんスゲーな。うちのボスを倒しちまうなんて。ほら、このクマもってけ」

「ううん、クマちゃんは大きいから要らないわ。それに、目玉景品がなくなったら、おじさんも困るでしょ?」

「くぅぅ、優しい嬢ちゃんだぜ……ッ!」


 射撃のおじさんが感動してる中、最初に茉莉が獲得した四つの景品をいただいて、俺と茉莉は射的を後にすることにした。


 ***


「よし、次は絶対に負けないからな!」


 そして、どでかいゴムプールに泳ぐ金魚たちの前で、俺は高らかに茉莉に宣戦布告をしていた。


 この金魚すくいが、最後の勝負だ。どちらが多く掬えたかで勝負が決まる。


 金魚すくいのおじいさんからポイとお椀を受け取ると、腕まくりをして本気で取り掛かることをアピールする。


「ふふっ、そんな意気込まなくたって、どうせ私の勝ちは決まっているのに。二重の意味で」


 そう、金魚を多く掬えたとしても俺の負けは決まっているのだ。


 縁日での勝負が射撃と金魚すくいの二回だけだったら、まだ引き分けはあり得た。しかし、先ほど俺は射撃で泣きの一回を茉莉に持ち掛け、敗北した。だから、ここで茉莉に勝ったとしても、一勝二敗で茉莉に勝つことは出来ない。


「ま、まだ分からないだろ」

「あ、私あの白い金魚捕まえる!」


 茉莉は赤の金魚がたくさん泳いでる中で、比較的数の少ない白い金魚に狙いを定めたようだ。茉莉も浴衣の袖を少し持ち上げ、金魚すくいに備える。


 茉莉は白い金魚がいるところにポイを入れた。しかし、その衝撃で白い金魚は本能に従って逃げる。


「逃がさないわ!」


 茉莉はそう言うと、水中の中で器用にポイを移動させ、見事白い金魚を捕まえた。しかし――、


「あ」


 ポイを水から上げた瞬間、ポイが破れて白い金魚が逃げてしまった。逃げた金魚は、茉莉から離れるように遠くへと泳いでいった。


「……あぁー」


 茉莉は泣きそうな顔で、金魚が逃げる様を見つめる。


「ほい、俺の勝ち」


 俺はその隙に近くにいた赤い金魚を軽々と捕まえた。


「あー、悠陽だけずるい」

「金魚すくいにもコツがあるんだよ。ポイ全体を濡らすとか、金魚を追うんじゃなくて待つとかさ」

「ぶー、道理でいつも掬えないわけだ。悠陽が早く教えてくれれば、もっと楽しめたのに」


 俺の説明を聞きながら、茉莉は分かりやすく拗ねている。そっぽを向きながら、頬を膨らませる姿は、ただの意地を張った女の子にしか見えない。


「ほら、やってみるか?」


 自然と俺は茉莉にポイを差し出していた。俺の行動に驚いた茉莉は、信じられないものを前にしたように目を見開いている。


「え?」

「どうせ俺の負けは決まってるんだし、最後に失敗したまま終わるのも嫌だろ。コツはさっき言った通りだから、もう一回やってみ」

「……う、うん」


 茉莉はおずおずと俺のポイに向かって手を伸ばす。受け渡す際、茉莉の手に触れてしまったが、小さくて柔らかくて温かい手だった。反射的に引っ込めそうになったのを、なんとか抑えることが出来たのは秘密だ。

 茉莉は何も気にしていないようで、俺から受け取ったポイを真剣に見つめると、先ほど俺が少し教えたコツを口の中で呟いていた。


 更科茉莉は何でも出来る人間だ。勉強も出来るし、運動もこなせるし、性格もいい。だから、学校中の人からそう思われている。


 でも、実際はそうじゃない。最初からそうだった訳では、決してない。

 茉莉にだって出来ないことはある。けれど、出来ないことを出来ないままにしない意欲があるし、また、知らないことを認めて新たな知識を受け入れる順応さがある。

 更に、一つのことに極限まで集中できる精神力がある。


 茉莉は先ほど逃がしてしまった白い金魚を見つけると、波音立てないように近くへとポイを入れた。白い金魚は、茉莉がポイを入れたことに気付いていない。茉莉は金魚の動きだけに集中している。


 そして、白い金魚がポイの方に泳いできた瞬間――、


「えいっ」


 とポイを上げ、見事白い金魚を掬いあげることが出来た。俺は思わず握り拳を作った。自分のことのように、いや、自分が掬い上げた以上に喜びを噛み締めている。


「やった! 初めて掬えたよ!」

「ああ、見てた! さすが茉莉だな!」


 金魚を掬えた茉莉は、興奮気味にポイを持った手で俺の肩を叩く。ビシバシと来る衝撃が肩を伝って、俺の全身に喜びの感情を伝えているかのようだ。


「よし、そしたらもう一匹掬うわよ――、あ」


 茉莉が意気揚々と再チャレンジしようとした時、素っ頓狂な声を漏らした。俺はその声に何があったのかと茉莉の方を見る。すると、破れたポイの隙間から、茉莉と目が合った。

 どうやら茉莉が俺の肩を叩いたとき、その衝撃でポイが破れてしまったようだ。


「残念じゃ。今、金魚を持ち帰れるようにするからのぉ」


 金魚すくいのおじいさんは、そう言うと袋を取り出し、茉莉が掬った白い金魚を袋の中に入れた。次におじいさんは俺にお椀を渡すように催促して来る。


 しかし、俺は首を横に振り、


「あ、俺は金魚持ち帰らないんで」

「え、もったいない! なら、私が代わりに貰うわ。おじいちゃん、彼の金魚も私の袋の中に入れてもらえる?」

「ほいほい」


 おじいさんは俺が掬った金魚を茉莉の袋の中に入れた。白い金魚と赤い金魚が、袋の中で仲良く泳ぐ。


「可愛いー」


 受け取った金魚の袋を見ながら、茉莉は満面の笑みを浮かべた。相当気に入ったのか、優しく袋をつついて、金魚の反応を楽しんでいるようだ。


 茉莉がいつまでも金魚を眺める姿を、俺はいつまでも見ていられることが出来た。


 水色の生地の全面に花が咲く浴衣という和装、艶やかな黒髪は纏め上げられ、ちらりと見えるうなじ。そして、見る者を惹き付ける笑顔。やはり学校中が茉莉のことを大和撫子と称するのも、この姿を見れば納得せざるを得ない。


 不意に心臓が高鳴るのを感じ――、


「――あぁ!」


 茉莉が突然大声を上げたことで、更に心臓が跳ね上がった。茉莉が慌てたように俺の方を向く。


「ど、どうした?」


 俺は胸を抑えながら、問いかけた。


「そろそろ花火が始まる時間じゃない?」

「え、あ、本当だ。いつの間にか結構近くなってる」


 腕時計を見ると、七時二十分過ぎ。確かに、花火が始まっても良い頃合いだ。


「行こっ!」


 茉莉が立ち上がって、移動を始めようとする。俺もつられて立ち上がる。


「おう。でも、どこへ……」

「花火が見やすいところ!」


 それを聞いているというのに、茉莉は自信満々に笑みを浮かべている。まるで正解を言ったかのようだ。


「――ああ!」


 でも、その答えにもなっていない答えで十分だった。


 下駄の音を響かせながら駆ける茉莉の後を、俺は何も言わずについて行った。


 ***


「わぁ、綺麗ね!」


 夜空に一筋の線が描かれ、パッと解き放たれたように無数の火花が咲く。そして、力強い光を世界中に見せたかと思いきや、名残惜しくも夜空へと溶け込む。しかし、余韻を残すことなく、もう一度花火が空に打ち上げられる。

 その鮮やかで、儚い光の連続に、俺と茉莉はただただ魅入られていた。茉莉の手首に引っ掛けられている金魚達も、突然夜空に咲いた火の花に目を奪われているようだ。


「……よく、こんなところ知ってたな」


 周りを見ると、誰もが夜空に咲き誇る花火に視線を持ってかれていた。


 茉莉に案内された場所は、松城町で一番高いところに位置する坂の上だった。一方向は住宅街に囲まれているが、一方向は見開きのある場所だ。きっと明るい時間だったら、松城町を一望することも可能だろう。近隣の住民たちは、自分の家から花火を見上げている。

 花火を十二分に堪能するためには、花火を見る場所として提供されているショッピングモールよりも適した場所だ。

 きっとショッピングモールにも負けず劣らずの人数が、この場所に集まっている。


「うん、昨日歩いて探してたんだ。せっかく悠陽と一緒に見るんだから、一番いい場所で見たくって」

「え?」


 茉莉の言葉は、花火の音に紛れて全部聞こえることは出来なかった。聞き返そうとするも、俺の言葉も花火と共に夜空に溶け込む。


 それに仮に、俺の疑問符が茉莉に届いたとしても、答えてはくれなかっただろう。

 だって、茉莉が花火を見上げる横顔はあまりにもうっとりとしていたから。そして、俺自身も茉莉と花火という画に目を奪われる。


 俺はふっと息を漏らすと、顔を上げ、花火に集中した。幾発もの花火が、夜空に彩りを与えている。


 結局、茉莉がこの場所を知っていた理由を、俺は知らないままだ。でも、それでいい。茉莉が教えてくれた場所が、花火が見やすい場所だということだけで今は十分だ。


 そして、それから俺と茉莉は隣り合わせで、静かに花火を見ていた。いつもの通り、俺の左隣は茉莉がいて、茉莉の右隣に俺がいる。二人の間に響く音は、ただただ花火の打ち上がる音だけだった。


 この幻想的な景色を誰かと見るのは、いつぶりだろう。

 子供の頃は、いつも友達がいて馬鹿みたいに騒いで、花火が上がる度に誰が花火の音よりも声を上げられるか競い合ったりもした。けど、年が重なる内に、周りの友達は風情をたしなむことに趣きを置くようになり、一人声を張り上げる俺は浮くようになった。そして、誰かに誘われることもなくなり、結局祭りに足を運ぶこと自体しなくなった。一人で夏の夜空を歩いていると、どこかから聞こえる花火の音に耳を傾け、儚く散る光を遠くから見るだけだった。


 でも、今は違う。


 子供の頃に見た近さで、いや年を重ねて背丈も伸びた分、子供の時よりも僅かばかり近くなって、花火を見上げている。

 手を伸ばせば届きそうで、でも届かない距離で花火が打ち上がる。人々に現実を忘れさせるほどに、美しく、力強く輝いたのち、儚く世界に溶け込んでいく。


 今なら花火の風情を楽しみたいという気持ちが分かる気がした。


 いつまでも、この時間が終わらなければいいのに――、と思う。


 しかし、終わらない時間はなく、そろそろ花火もフィナーレを迎えようとしていた。


 夜空に幾重もの花火が、彩られていく。

 俺は茉莉の方を向いた。茉莉がどんな表情で、この景色を見ているのか気になったからだ。


「――ッ」


 茉莉は、俺と向き合った形で満面の笑みを浮かべていた。心から楽しくて楽しくて仕方がないと表情に書かれているようだった。そして、上に指を向けて、俺に夜空を見ることを促す。茉莉の細い指に従って、空を見る。


 最後に一際大きい花火が、空一面を覆い尽くさんばかりに、弾けて光った。

 思わず、目も、耳も、心も奪われる。


 最後の花火が夜空と一つになると、閑散としたいつもの夜に戻った。先ほどの花火を合図にして、これにて今日の祭りは終わりを告げる。


 周りの人は口々に感想を言い合いながら、それぞれの帰路に戻る。人々の顔は、みな幸福感や充実感に満ちていた。


「――俺達も、帰るか」


 そう茉莉に話しかけたが、茉莉からの返答は何もない。いまだ余韻に浸っているのか、茉莉はぼんやりと夜空を見上げている。その瞳は、いまだに光り輝く花火を捉えているかのように、煌びやかに輝いていた。


 俺は何も言わずに、茉莉が現実に戻って来るのを待った。やがて、花火の余韻から抜け出したのか、茉莉は顔の向きを変えると俺を真っ直ぐに見つめ、


「……あのね、悠陽。私――」


 一歩を踏み出した時だった。


 突然、茉莉のバランスが崩れ、倒れそうになる。俺は咄嗟に茉莉が倒れないように支えた。右手が茉莉の腰に触れ、左手は肩に触れる。

 茉莉の小さな体が、すっぽりと俺の懐に収まる。小さくて、細くて、守ってあげたくなるような体。

 茉莉は転びそうになったのが恥ずかしいのか、顔を上げようとしない。茉莉のつむじと纏められた髪、ほんのりと赤くなった首しか見えなかった。ギュッと俺のシャツを掴む茉莉の力が強くなった気がした。


 心臓が高鳴るのが自分でも分かる。茉莉に聞こえてはいないだろうか。


 何か言葉を発しないといけないことは分かっているのに、俺の頭の中では茉莉を気に掛ける言葉一つ浮かばない。


 そんな時、


「――」

「――」


 俺と茉莉の間の見えない感情を照らすように、もう一度だけ世界が明るく輝いた。


 ***


 もう終わったと思っていた花火が、再び夜空に轟いた――ようだ。


 その最後の花火を、私は見逃してしまった。

 下駄に履き慣れていなかったせいで、転びそうになったところを悠陽に支えられたからだ。

 縋るように悠陽の胸元を握り締めて、視界には悠陽の白いシャツしか見えなくて、気付けば目を瞑りたくなるほどに、世界が眩く明るくなっていた。悠陽の心臓の音を耳にしていて、打ち上げ花火の音を聞き逃してしまったから、本当に突然の出来事だった。


 一瞬明るくなったことでようやく花火が上がったことを把握した私は、ゆっくりと顔を上げる。予想外の出来事に驚いたように、悠陽は花火の余韻が残る夜空を見ていた。


「……」


 今ここで何か言わなければいけないと頭で分かるのに、上手く言葉が出て来ない。むしろ、私の意志とは裏腹に、悠陽のシャツを握る手が強くなる。


 こんな関係は、こんな感情は、悠陽と私に相応しくない。

 私と悠陽は仲のいい友達だ。私が今まで生きて来た中で一番心が許せる大切な友達――、それが諏訪悠陽だ。悠陽との今の距離感が、心地いい。

 そんな友達に対して、どうしてここまで心がざわつき、平静を保つことが出来なくなるのか。時折、自分で自分の感情が分からなくなってしまう。


 何度も何度も口が開くだけで、想いが言葉となることはついになかった。


 突然の花火に興奮を隠し切れない雑踏の中、


「――茉莉」


 悠陽に名前を呼ばれた私は、静かに顔を上げる。悠陽と目が合った。真剣な眼差し、でも、どこか困ったような表情を浮かべていた。


 悠陽は腰に回していた右手を、私の右肩に置き換えた。自分でも体がピクリとなったのが分かった。その反動で、悠陽のシャツを握っていた手が弱くなる。そのタイミングを見計らったかのように、悠陽は一歩後ろに下がった。私と悠陽の距離は、悠陽の腕の長さ分。


 ほんのりと紅く染めた頬と、真剣な目で、悠陽は私を見つめている。私はその眼差しの強さに耐えられなくて、自然と伏し目がちになった。


 私の肩に置く悠陽の手の力が強くなる。そして――、


「鼻緒切れてないか?」

「はい?」


 あまりにも素っ頓狂な質問に、私もつられて間の抜けた声が出る。


「あれ、鼻緒が切れたから転びそうになったんじゃなくて?」


 見当違いな言葉に、私は半ば呆れつつ、


「……ただ下駄に履き慣れてなくて、バランスを崩しただけよ」

「なーんだ、よかった」


 悠陽が安堵したように朗らかに口角を上げた。


 いつもどこかで拍子抜けするような言葉を紡ぐのが悠陽だ。


 こんな状況でも変わらない悠陽に、「ふふっ」と自然と笑みが零れた。そして、一度笑ってしまえば、


「あははは」


 歯止めの利かなくなったように声を上げて笑い始めてしまった。頭の上にはてなマークが浮かんでいるのが見て分かるほどに、悠陽は戸惑っている。帰路に着く人も、何事か私と悠陽の方をちらりと見ては、各々の道を行く。


 きっと、まだまだ私と悠陽の関係は、隣の席の仲がいい奴――のままだ。そこから進展することは、私には考えられない。

 誰とも付き合ったことのない私には、友達の先に何があるのかなんて分からない。

 だから、ずっとこのままでいい。


 なのに――、


「帰ろっか」


 悠陽に向けて、私は浴衣の右袖を伸ばしていた。


「……えっと」


 悠陽はどう反応すればいいのか分からず、言葉を濁す。


 きっとお祭りの雰囲気にやられてしまったのだろう。お祭りには不思議な雰囲気がある。少しだけ背中を押して、大胆にしてくれるかのようだ。でなければ、普段の私はこんな行動はしない。


 それと、ママに選んでもらった浴衣も後押ししてくれている。

 男の子――悠陽と一緒に祭りを回ることをママに伝えると、ママは急いで襖の奥から浴衣を探し出してくれた。昔ママが数回だけ来た浴衣らしく、鮮やかな水色が私の心を掴んだ。ママに着付けてもらっている最中、少しだけ血祭まつりよりも前の、純粋だった昔の頃を思い出した。浴衣を着付け終わると、そのまま浴衣に相応しい髪形に整えてもらう。


 そして、全てが終わると、私は鏡の中の自分に驚いた。

 自分でも言うのも変な話だが、そこには可愛らしくお淑やかな、まるで大和撫子のような姿をした女の子がいた。


 ――こんな可愛い茉莉の姿を見たら、その男の子はきっと惚れ直しちゃうわ。今度お家に呼んで来なさい。

 ――私と悠陽はそんなんじゃないから!


 ママは顔を綻ばせながら、「そっか、茉莉の気になる子は悠陽くんって言うのね」と納得したように家事に戻った。嵌められた、と頬を膨らませて、「もうっ、行ってきます!」と私は飛び出すように家を後にした。鈍感な悠陽は私の浴衣姿を見たらどう思うだろうか、そんなことを思いつつ、僅かに期待を抱きながら駅へと向かった。


 今目の前で顔を真っ赤にする悠陽を見ながら、私は心の中でママに向かってお礼を言う。浴衣のおかげで、また悠陽と近くなった。もう少しだけ、近くなれる気がする。


「また転ぶかもしれないじゃない。それに、こんな人ごみの中を離れて歩いたら迷子になるでしょ。もしはぐれて誰かに絡まれたら、どう責任取るの」

「……茉莉さんならきっと一蹴出来ると思うんだけど」


 ようやく紡いだ一言が、これだ。


「なんか言った?」

「あいたたたッ」


 私は悠陽に一歩詰め寄ったついでに、下駄で悠陽の足を踏んでやった。悠陽は涙目になりながら、


「な、何も言ってませんよ。だから、足をどけてくれ」

「ふん、ならいいけど」


 私が悠陽の足から離れると、悠陽はほっとしたように肩を下ろした。


「で、どうするの? 帰り道、エスコートしてくれるの?」


 仕切り直すように、改めて私は右腕を上げる。


 悠陽は気恥ずかしそうに頭を掻くと、


「――ん」


 そっと優しく、腫れ物に触れるかのように私の袖を左手で掴んだ。そして、悠陽は私に背を向けて歩き始めた。悠陽に引っ張られ、悠陽の歩調に合わせて私も歩き出す。やはり悠陽の歩幅は男の人の歩幅で、私は無理をしないと追い付けなかった。


 悠陽の手に引かれながら、私は顔を上げる。

 私の視線の先には、想像よりも大きな悠陽の背中がある。更に視線を上に向けると、紅く染まった悠陽の耳が見えた。


「――ふふっ」


 私は漏れた息を隠すように、左手の浴衣の袖で口元を覆う。ピチャリとビニールの中の水が揺れ、赤と白の金魚がくっついた。


 しかし、私が笑ったのが悠陽に聞こえたのか、振り返ると、


「なんか言ったか?」

「ううん、何でもない」


 私は首を横に振って、飛び跳ねるように大きく一歩を踏み出す。


「なら、いいけど」


 そう言うと、悠陽は再び歩き出した。悠陽の歩く速度は、先ほどよりも合わせやすくなっていた。きっと悠陽が、私に合わせてゆっくりにしてくれたのだろう。


 私は悠陽に引かれる形で歩く。


「――ねぇ、悠陽。今日楽しかったね。お祭りなんて久し振りで、なんか懐かしかった」

「俺もだよ。やっぱ祭りの雰囲気とか好きだ」

「……そうね」


 私は頬が紅潮していくのを感じながら、なるべく平静を装って言った。自分のことを言われたわけではないのに、同じ発音の名称を好きだと言われると、少しばかり意識してしまう。


「……夏休み、次はどこ行く?」


 静かになるのを恐れて、私は次々と悠陽に話を振っていく。話が止まって音がなくなった途端、私の心臓の音が袖を通して悠陽に届くのではないかと心配だった。私の心臓が速く脈打っているのを、悠陽にはバレてはいけない。


「次――、か。海とかもありだな」

「水着姿の女の子を見て、鼻の下伸ばすつもりじゃないでしょうね」

「――ばっ、そんなことしねーよ!」


 動揺した悠陽の手に力が籠ったのが分かった。その反応が予想通りで、私は思わず笑った。


「あはは、冗談よ冗談。悠陽はそんなことしないって分かってるし」


 私は気分が舞い上がって、悠陽の左隣まで距離を詰めると、大きく右腕を振った。悠陽は抵抗することを諦めているのか、私の右袖を掴む悠陽の左手も、一緒に大きく前後に揺れる。


「あー、修学旅行が楽しみだなぁ」

「修学旅行って……、まだ三か月も先だけど?」


 脈絡のない私の言葉に、悠陽は眉根を寄せて疑問符を上げる。


 私は大きく振っていた右腕を止めると、


「うん。……でも、三か月なんてすぐだよ」


 私は松城高校に転入してから今日までのこと――すなわちこの四か月間のことを思い出す。振り返ればあっという間だ。楽しい時間は、すぐに終わりを告げてしまう。だけど、私の心に色濃く残って、決して色褪せることはない。


 四か月でこんなに早く感じるのだ。修学旅行までの三か月なんて、きっとあっという間にその日が来ているに違いない。今からその日が来るのが楽しみだった。


「そう、かもな。でも、その前に文化祭もあるぞ」


 悠陽は私の言葉を否定することなく、むしろ更に私の胸を高鳴らせてくれるような言葉を紡ぐ。


 人の意見を否定しないところは、ずっと変わらない悠陽のいいところだ。


「あー、そうじゃん! 忘れてた! 私、文化祭にまともに参加するのって今回が初めてかも」

「俺も去年は息潜めてたから、初めてみたいなもんだな」

「私ね、メイド喫茶とかコスプレ喫茶とかやってみたいかも」

「……周りを惑わすような恰好はやめとけ。もうちょっと自分の容姿に自覚をもった方がいいぞ」

「え? それ、どういう意味?」

「……さぁな」


 口を滑らせたと言わんばかりに、悠陽は顔をおもむろに逸らす。

 けれど、私は「ねーねー、悠陽ってば。ねーねー」としつこいくらいに問い詰めていく。悠陽は「あーあー、聞こえない」と子供みたいに話を遮った。


 こうして、私たちは軽口を叩き合いながら、隣同士で帰り道を歩いた。

 家までの道のりが果てしなく長く感じられて、けれど、それでもいいやと私は口元を緩めていた。いつまでもいつまでも悠陽の隣を歩けることが、今は何よりも嬉しかった。


 ――歩く度、私の左手首の金魚たちが入ったビニールの中の水が揺れる。その度、白と赤の金魚達は自然と身を寄せ合っていた。 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ