避難所
「現段階で分かったことはーー」
ミキの上に1つ置かれたラジオを中心に、皆神妙な顔立ちでそのアナウンスを聞いている。
「ひとつ目から放出された液体は98%が水である方が判明しました。そのほか微量のナトリウムなどが含有してします。」
「これは人が触れても特に害はないのでしょうか?」
途切れ途切れの音声を、聞き流すまいと意識を高める。
「現段階では問題ないとの事です」
ホッ。
そんな安堵したため息が、誰かの口から漏れる音がした。何もわからない状況から一歩前進。さらにそれは無害だという報告。
まるで涙じゃないか。そんな疑問は誰の頭にも浮かんだんだろうが、それを直接口に出すものはいなかった。
喜んでいいのかどうなのかよく分からなかったけれど、体の緊張感が少し剥がれたが気がした。かくついた体育座りが崩れ、ゆっくりと胡座の形へと変わっていく。ぎこちないその動きに僕自身違和感を覚えながら。
「この物体「ひとつ目」。一体何なのでしょう。今日は生物学者の松本解さんに来ていただきました。」
「松本さん。このひとつ目は生き物なのでしょうか?」
「一体これがなんなのか私にも検討が付きませんが、生きているということは間違いないでしょう」
「ひとつ目はやはり生きているということになるのですね」
「瞳孔の可動、瞳孔反射。僅かながらに血管なような組織も確認されています。この個体は間違いなく生命を宿しているといってよいでしょう。」
「ひとつ目はエイリアンなのか?という議論も出されていますが」
「正直新種の生き物とは考えられません。地球外生命体という事で話はーーーーーーーーー」
地球外生命体…。
テレビの放送で、それも専門家が集まる中でた名前を耳にし、僕らは皆考えるのをやめてしまっているように感じられた。情報が出てくるごとに、先程と相反してまた、表情が曇り始める。
「移動しよう」
一人の男性がゆっくりと立ち上がり、そして小さな声で呟いた。
おそろしい化け物のそばから一歩でも遠のきたい。そんな願いからか、山を迂回しより遠くへと向かうものたちが現れたのだ。
その人たちの表情を見るに、もういてもたってもいられないという感じだった。それは新情報が出てきたからというわけでなく、もとよりこの状況になってしまってからあるものというように思えるものだった。そしてそれらに後押しされたかのように、山を下るというものが出始めたのだ。
ーーが。
「ちょっとどういうことですか、ここから動けないって」
「ですから、避難場所の準備がまだ整っていないんです。あと数時間待っていただけなければ困ります。」
「ふざけるな、もう2日もこの山の山頂に居るんだぞ!」
「ここは発生地からすでに何百メートルも離れています。まだ正式な避難所は準備が整っておりません、もうしばらくお待ちください」
ーー正式な避難所。ここも、山頂とはいえ、簡易テントは用意され、食べ物、水、寝床までは完備されている。生活するにあたって不自由だと感じるところはないくらいだ。見るからに避難所の外装を整えたこの場所は、逆にちゃんとした避難所ではないといったら嘘になってしまう。
それに高台に位置し、波が押し寄せてきてもそれを跳ね除けた地。街の全体を一望出来るくらいの標高で、下山するとなると30分ほどかかる小山だ。
正直安全か安全じゃないかで言ったら前者だろう。それは今までの出来事が示し合わせているのだから。
だけれど、そういうことじゃないんだ
「ここにいれば津波が来ても安全ですし、倒れてくるものもありません」
安全ーー。それはとうに証明されていた。だけれど違う。
街全体を一望出来る地。それは同時に、あの‘目玉”も視界に入るということ。
僕達をこんな目にしたその元凶が、目の前にありそれが常に嫌でも視界に入るということ。
これが何を意味しているのか、そして僕らの気持ちはどうなのか。
スーツ姿の担当者の人も、それには気づいているようだったけれどーーー。
そこから周囲の空気がまた一変した。
走って下山する者。恐怖で座り込む者。怒りで抗議する者。その他口は上げずとも、神妙な眼差しでそれらの光景をじっと見つめている者。
それまで、協力して励ましあっていた空気はとうに崩れ去り、そこには感情と感情とがぶつかり合い、痛ましい光景が繰り広げられていたのだ。
僕もそれに押されるかのように、足が震え、そして立っているのが辛いと感じ始めてしまった。日中あれだけ自身を至らないところを変えようと努力していたのに、体が動かなくなってしまったこの状況に、その程度だったんだと再確認させられる。悔しさと恐怖が秒針とともに増え続け、考えることがやめたくなってきた頃合いだった。
一変。
それは唐突に起こった。この乱脈な場面が静寂で廉直な雰囲気に変化したのだ。
不憫な状況をまた一変させたのは、突然に挙げられた一つの声だったーー。
「皆さん!」
冷静をきしたような覇気のある声に、先ほどまで声を上げていた数人らが動きを止めた。
こんな状況下に一人。人混みの真ん中あたりで、身じろぎせず一つせずに直立している。足元から頭上までひとつの直線を描いたような姿勢。自負心を思わせるような精強な背筋に、その場の皆は目を奪われた。
僕もすぐさま声のした方向へと体を傾け、そして確認した。
袖を膝下まで捲り上げ、その両手は地面を向き、力が込められているというのが今にも伝わる。整えられた黒髪が、吹きゆくそよ風によって靡いていた。
紺色に白の入ったブレザー。それには幾つか土が掠れたような汚れが付着しているが、本人は気にしている様子がない。
乱痴気騒ぎの雑音の中声を上げたのは、ざっくばらんな女子高生のようだった。