第1部 謎の綱渡り師:6 ファンフェアーで
啓は夢の中で遊園地にいました。とても天気の良い日で、沢山の人々で溢れていました。彼はメリーゴーランドに乗り、観覧車にも乗り、次に、鏡の邸と看板の掛かっている建物に入って行きました。
中は鏡張りの、一本の長い廊下になっていました。合わせ鏡をすると見える、終わりのない空間のように、先が見えない程遠くまで廊下は伸びていました。啓はどんどんと中に進んで行きますが、次第に進み続けるのが怖くなり、引き返そうと後ろを振り返りました。しかし、そこには前方に続いているのと同じように、先の見えない廊下がずっと先まで伸びているだけでした。啓は来た道を戻ろうと駆け出しましたが、途端に鏡の壁にぶつかってしまいました。どうやら、鏡の迷路に迷い込んでしまったようでした。一本だった道は、複雑に入り組んだ迷路に変わり、右に行けども、左に行けども、出られません。啓は怖くなって、手探りをしながら必死に出口を探してさまよいます。
目の前の鏡の中に、突然人影が現れました。それは水色の水玉模様のだぶだぶの服を着て、白塗りの顔に口を赤く塗った道化でした。啓は怖くなって逃げ出しましたが、道化は鏡の中を自由に動き回れるようで、行く先々の鏡の中に現れては、白い手袋をした手で気味悪く手招きをしました。
ついに、道は完全な行き止まりになってしまい、啓は行き場を失ってしまいました。辺り一面鏡だらけで、その全てに道化の白い手袋が現れ、手招きし始めました。鏡はお互いに反射し合って、何百という白い手が啓を掴もうと伸びてきました。何処からか、誰かが自分の名前を呼んでいる声が聞こえてきました。啓は怖くて目をつぶり、両手で耳を塞いでしまいます。しかし声はどんなに耳を塞いでも頭の中に響いてきて、どうしても締め出すことが出来ませんでした。声はどんどん大きくなり、そこで彼は目を覚ましました。
「おいケイ、仕事の時間だ。起きろ、ケイ」
啓が目を開けると、そこには眼鏡を掛けた老人の顔がありました。啓は驚いて、ベッドから跳ね起きました。
「ここは、何処?」
「何を寝惚けたことを言っているんじゃ。とっとと起きて朝飯を食べて、仕事に掛かるぞ。その前に、顔でも洗って頭をはっきりさせてくるんじゃ」
ラギーニオはそう言って、啓にタオルを投げて寄こしました。啓はすぐに何処にいるのか思い出して、暗い気持ちになりました。昨晩眠りにつく時に、自分の身に起きたことが全て夢で、朝起きたらちゃんと全て元通りになっていると願っていたのでした。しかし、そんな啓の期待は、見事に打ち砕かれてしまったのでした。
啓は重い足を引きずりながら、ラギーニオの指差した洗面台へ歩いていきました。洗面台の前の壁には、大きな鏡がありました。啓は冷たい水で顔を洗い、タオルで顔を拭きながら、何気なく鏡を覗き込みました。寝起きで腫れぼったい自分の顔が映って、こちらをじっと見つめています。あまり顔色は良くありませんでしたが、顔を洗ったら少しは頭がはっきりしてきました。そして、突然大切なことを思い出しました。鏡です。目の前に鏡があるではありませんか。
啓は反射的に手を伸ばして、鏡に触ってみました。しかし残念なことに、やはり鏡は冷たくて硬い感触がするだけで、彼を通してはくれませんでした。啓はそれでもすがるように、手に力を入れて鏡を押したり叩いたりしてみます。
「どうして駄目なんだよ。何で通してくれないんだ」
はっと気付くと、鏡に誰か映っていました。慌てて振り返ってみると、一人の少年が立っていました。啓より三つか四つくらい年上に見え、背は啓より頭一つ分高く、痩せていて、こげ茶色の髪は伸ばしっ放しで肩まで届いていました。とても豪華とは言えない汚れた服を着て、睨むような目つきで啓を見つめています。どうやら、一人で鏡に向かって叩いたりわめいたりしていたのを、ずっと見られていたようでした。
「おーい、ニール。早いとこ洗わないと、染みになっちゃうよ」
何処からか、大きな声でそう聞こえてきました。見ると、その子の着ている上着に、こぼしたような濡れた跡がついています。恐らく、上着を洗い流すために洗面台にやって来たのでしょう。啓は場所を譲るために、洗面台の脇にどいてあげましたが、その子はそれでも彼を睨み付けたまま、目を離そうとはしませんでした。その子の探るような視線に居心地が悪くなった時、ラギーニオが呼ぶ声が聞こえてきました。
「ケイ、いつまで顔を洗っている。仕事じゃ、仕事!やることは山程あるんじゃぞ!」
啓はほっとして、急いでその場から逃げるように戻って行きました。それから、ラギーニオの持ってきた、へんな形と色の野菜らしき物が入っているスープと、赤いコショウをまぶしたようなパンを渡されました。お腹が空いていたので、初めて来た世界の、原料の知れない食べ物だろうとお構いなしに、啓は全て平らげました。変わった味のする朝食を食べた後、彼はすぐに仕事に連れていかれました。
建物の外に出ると、途端に彼は声を上げて驚いてしまいました。空は青いインクをこぼしたように真っ青で、雲一つない素晴らしい天気でした。昨晩の死んだようだった無人の遊園地は、太陽の光を浴びて別世界に見えました。カラフルに塗られた乗り物や建物が、夢の国のように美しく光っていて、見ているだけで楽しい気分になってきます。足を止めてその風景に見惚れていた啓に、ラギーニオの怒鳴り声が飛んできました。
「ケイ、とっととついてこんかい!」
遊園地はまだ開園前のようで客の姿はなく、係りの者らしい人々が忙しそうに動き回っている姿だけが目につきます。そんな中、大人に混じって、子供達の働く姿がありました。彼らは大体が啓と同じくらいの年令ですが、中には五、六歳の小さい子もいるようでした。
啓が不思議そうに、その子供達を気にしながら歩いていると、ラギーニオが言いました。
「心配するな。お前さんも今日の仕事が終われば、仲間の所に帰れるのじゃから」
「仲間?」啓は意味が分からず、聞き返しました。
「アローズ街のがき共のことじゃよ。何を寝惚けておる」ラギーニオは働いている子供達を指しながら言いました。
そうか、と啓は思いました。大人を手伝って遊園地で働いている子供達が、アローズ街の子供達なのです。昨晩の道化師は人違いだと知らずに、啓を勝手にアローズ街の子供だと思い込んだのでした。そうなると、もしアローズ街の子供達に見つかったら、自分が人違いだということがばれてしまうことになります。啓は慌てて、腰の曲がったラギーニオの体に隠れるように歩くことにしました。
啓はそれから遊園地の端から端まで歩いて回り、整備の仕事をするラギーニオを手伝って働きました。途中で開園になり、沢山の人々が園内にやってきました。それはとても楽しい光景で、お祭りかカーニバルのように賑やかになりました。啓もお客に混じって行きたいと思いましたが、もちろんそんなことが許されるはずはなく、ひたすらラギーニオについて整備の手伝いをして回りました。
それにしてもこの遊園地は、啓が今まで見たことも聞いたこともないような、おかしな乗り物や見世物が沢山ありました。昨晩迷い込んでしまった操り人間の館や、鏡の壁で建てられている鏡の邸を始め、家具もろとも回転する部屋の中を、ハムスターのように走り回される『回る家』、乗り手によっては本当に命の危険もあるという、本物の猛獣に乗る『猛獣メリーゴーランド』、自分が箱の中の大砲に仕掛けられて、大爆発と共に空に打ち飛ばされる『びっくり箱』、様々なショウを見せてくれる『ミニ劇場』、たまに恐ろしい速さで回転を始める『大観覧車』などがありました。
二人が『魅惑の温室』という、巨大なお化け植物が襲ってくるという、恐ろしい見世物小屋の整備をしていた時でした。ここのお化け植物は本物で、水を与え忘れていたため少し弱っているようなので、ラギーニオに頼まれて、啓は水をくみに行くことになりました。建物の外に飛び出して行き、近くの水道からバケツに水をくんでいる時、啓は少し離れた所に二人の少年が立っていて、こちらをじっと見ていることに気がつきました。彼はぎくりとしました。その内の一人は、今朝洗面台で会ったあの少年でした。その子は啓から目を離さずに、隣に立っているもう一人の男の子に何かを囁きました。その少年は、啓が朝会った子と、年令も背丈もほぼ同じくらいで、同じように汚れた服を着て、痩せていて、顔つきも似ているように見えました。隣の子程目つきは悪くなく、優しい穏やかな顔つきをしていましたが、それでも啓を硬い表情で見つめていました。
啓は慌ててバケツを掴むと、逃げるように建物の中に戻って行きました。どうやら、もうアローズ街の子供達は、仲間ではないよそ者が仕事場に紛れ込んでいることに、気付いてしまっているようでした。
ラギーニオが言うには、アローズ街の子供と呼ばれる彼らは、アローズ街と呼ばれる町の一角に住んでいて、遊園地に(ラギーニオ達は、ファンフェアーと呼んでいますが)働きに来ているのだそうです。つまり、遊園地で働いている子供は全員、アローズ街の子供達だということになり、啓がよそ者だとばれるのに、そんなに時間は掛からないということになります。啓は自分の正体がばれる前に、こっそり逃げ出そうと、機会をうかがっていましたが、どうしても隙を見つけられないまま、ついに夜になってしまいました。
結局、一日ではとても整備の仕事は終わらなかったので、ラギーニオは途中で仕事を切り上げてしまうことにしました。
「また明日、残りをやることにしよう。もう今日は、これ以上出来ん」ラギーニオは痛そうに、腰をトントン叩きながら大きく息をつきました。
二人は、昨晩啓が泊まった建物に戻って来ました。そこで啓はラギーニオの持ってきてくれた、香辛料の香りが強い夕食を食べて、今日一日歩きっ放しで疲れた足をさすって休みました。もう閉園間際で客もまばらになった遊園地には、アローズ街の子供達の姿もあまりありませんでした。
これからどうしようと啓が思っていると、ラギーニオが声を掛けてきました。
「今夜は、もうアローズ街へ戻っていいぞ。明日、朝一番にここに来てくれればよい」
ラギーニオはそう言うと、啓を置いて、さっさと何処かに行ってしまいました。啓は一人、建物の外に残されて、どうしたものかと考えました。今夜はここの部屋に世話になる訳にもいかないようでしたが、かといって、ラギーニオの言うようにアローズ街に行けるはずもありません。
とにかく、自分がよそ者だったとばれる前に、ここから逃げ出そうと、啓は立ち上がりました。もう一度鏡の邸に戻って、彼が抜け出てきた鏡を通り抜け、元の世界に戻れるかどうか試してみるべきだと考えたのです。
啓が鏡の邸に向かって歩き出そうとした時です。誰かが近づいて来るのが見えました。
「ケイ、何しているんだ、こんな所で?」
それは、操り人間の館で出会った、ねじ回しの大男でした。
「お前も今夜はアローズ街に戻ってもいいんだろう。暗くならない内に、帰った方がいいぞ。そうだ、まだ何人かアローズ街の奴らが残っていたはずだから、一緒に帰るといい。お前は何処のグループなんだ?リーダーは誰なんだ?」
啓は何も答えることが出来ずに、困ってしまいました。どうしよう、今ここで本当のことを話そうか、それとも一目散に逃げ出そうか、啓は迷って考えます。
「おい、シンザ。そんなに問い詰めちゃあ、可哀想じゃあねえか」
そう声がして、もう一人が啓達の所にやって来ました。その人は、ねじ回しの大男とは反対にチビでやせていて、意地の悪い笑いを浮べていました。口からのぞく前歯は、一本欠けています。
「こいつは帰る所なんてねえんだ。こいつはお前が思っているように、アローズ街の子じゃあねえんだ。何処からか迷い込んで来た、宿無しのガキなのさ。そうだろう、ケイ」
啓はドキリとして、後ずさりしました。
「何だよ、どういうことだ?」ねじ回しの大男がきょとんとします。
「俺は最初から分かっていた。こいつを見た時から疑っていたのさ。こいつはアローズ街の者じゃあねえ。どさくさに紛れて忍び込み、寝床とただ飯をもらっていただけだ。とんでもねえ野郎さ」意地悪そうな男は、じろりと啓を見下ろします。「試しに俺は、アローズ街の奴らに尋ねてみたんだ。そしたらやっぱり誰一人として、お前を知っている奴なんていなかったぜ」
この言葉に驚いたシンザと呼ばれたねじ回しの大男は、啓を振り返ります。
「こいつの言っていることは本当なのか?お前、アローズ街の子じゃあなかったのか?」
「だからそう言っているじゃあねえか。そうだろう、お前は俺達を騙していたんだろう」
「でもこの子は昨日、操り人間の館をちゃんと修理したし、ムリロさんも何も怪しんでなかったぞ。ダークウェイさんだって、この子をアローズ街の子だって言っていたしさ」
「さて、どうするのかな。俺達を騙していた罪は大きいぜ。下手をすれば、警察を呼ぶことになるかもしれない。困ったなあ」目つきの悪い男はシンザの言葉を無視して、啓に伸し掛かるように囁きました。
男の脅すような態度に、啓は怖くなって、後ろにじりじりとさがってしまいました。そんな彼の目に、更に困ったものが飛び込んで来ました。昨日出会った仮面のような顔をした紳士ムリロが、こちらの方角に近づいて来るのが見えたのです。しかも彼は、二人の少年と一緒でした。魅惑の温室の外で、啓を見ながら何やら囁き合っていたアローズ街の少年二人でした。二人は手に重そうな荷物を抱えてムリロのすぐ後ろを歩いてきます。啓はどうにも逃げられなくなってしまいました。
「どうだ、黙っていないで何とか言ったらどうなんだ。俺の言っていることが真実だから、何にも言えなくなっちまったか?え、おい」
その男は啓が追い詰められているのを、まるで楽しんでいるようでした。ムリロ達はその間にも、どんどん彼らの所に近づいて来ています。
これまでだと思いました。二人の大男に追い詰められて逃げ場はないし、アローズ街の少年達もいるのでは、いくら自分がアローズ街の者だと言っても無駄です。どんな嘘や言い訳も通用しません。もし自分がよそ者だとばれたら、どうなるのでしょう。自分が誰で、何処から来て、家族は何処にいるのか尋ねられたら、どう答えたらいいのでしょう。もし正直に鏡の向こうから来たなんて話したら、頭がおかしいと思われるに決まっています。それにストライザは何と言っていましたっけ。自分が鏡を通り抜けてやってきたということを、誰にも知られるなと警告していたではありませんか。
「おい、ケイ」
怯えたように声のした方を見上げると、それはムリロと一緒に歩いてきた、穏やかな顔をした方のアローズ街の少年でした。彼は荷物を建物の入口に下ろすと、啓の予想に反して、明るく笑いながら近寄って来ました。
「どうしたんだ、ケイ。何やっているんだよ、こんな所で」
その子の後ろから、もう一人の少年も荷物を置いて、近づいてきました。
「お前、まだ残っていたのか。丁度良かった、俺達と一緒に帰ろうぜ」
「何だ、お前ら。こいつを何処に連れて行こうっていうんだ?」意地の悪い男が、じろりとアローズ街の子を睨みつけました。
「何処って?決まっているよ、僕達の家さ」
「何?」今度は意地の悪い男がきょとんとしました。
「こいつ、俺達のグループだぜ。今夜はもう帰ってもいいんだろう?」
「お前らのグループだあ?何を言ってやがる。お前さっき、こいつを知らねえってそう言っていたじゃあねえかよ」男は啓の腕を掴んで、ぐいっと引き寄せました。
「嫌だなあ、あれは冗談だってば。こいつ、うちのグループの新米で、まだ良く分からないことが多くて。手間が掛かるかもしれないけど、一つよろしく」
二人の少年は、さっさと啓を引っ張って歩き出しました。二人の大男は呆気にとられて、少年達に引っ張られていく啓を見ています。ふと、少年達が足を止めて立ち止まりました。見上げると、ムリロが立ちはだかっていました。
「荷物はあれで全部だから、俺達も、今夜はこれで帰るよ」目つきの悪い少年が、少し引きつったような笑顔で言いました。
ムリロは三人の少年達を不思議な黒い瞳で見下ろしました。アローズ街の二人の少年が、少し不安そうにムリロを見上げます。すると、ムリロがじっと啓を見つめて微かに笑いました。
「お疲れ様でした。明日も遅れないように、頼みますよ」
それを聞いて、二人の少年はほっとした表情をしました。
「それじゃあね、お休みなさい」
それからアローズ街の少年達は、啓を引きずって足早に歩き出しました。啓は二人に腕を引っ張られながら、呆然としていました。そうです、彼は助かったのです。この二人は自分を助けてくれたのです。信じられないまま、啓は自分を引っ張っていく二人をかわるがわる見つめました。
辺りの景色が変わり、彼は遊園地の外に出たことが分かりました。暗い人気のない夜道を、二人の少年はどんどん歩いて行きます。十分ほどそうして歩いたでしょうか。ようやく二人は歩くのを止めて、啓の腕を離してくれました。
「ここまで来れば、大丈夫だろう」穏やかな顔をした少年が、振り返って言いました。「僕の名前はウィル。こっちにいるのが弟のニールだ。君はケイでいいんだよね?」
啓は無言で頷きました。
「これから君をアローズ街に連れて行く。でも、絶対に誰にも見つからないようにしなくちゃあいけない。いいね?」
ウィルとニールは、啓を連れて再び歩き出しました。今はただこの二人について行くしかないようでした。人気のない通りを更に進むと、暗闇に低く浮かび上がっている建物が見えてきて、門の所で三人は立ち止まりました。
「静かにして、何も喋るんじゃあないぞ。誰かに見られるとまずいからな」ニールが辺りを見回して小声で囁きました。
「大丈夫、もう遅いし、皆疲れて眠っているだろうから」ウィルも辺りの様子を慎重にうかがいます。
「よし、誰もいないようだ。行くぞ」
ニールはまた啓の腕を掴むと、身を低くして小走りに門の中に入って行きました。その後にウィルも続きます。校庭のような広い空間を横切って、その先に幾つかある建物の一つに駆け寄ると、入口から上に伸びている階段の横にニールは隠れました。そして、上着を脱いで啓の頭にすっぽりと被せました。
「誰にも見られないようにするんだ。少し我慢しろよ」
啓は息苦しいのも我慢して、大人しく顔を上着で覆いました。重くて、少し油の臭いがします。ウィルが階段の上から小声で手招きしました。
「大丈夫。早く、今の内に」
ニールは啓を連れて階段を駆け上がりました。腕を引かれて闇雲に急いで、気がつくと、突然止まったニールの背中に顔をぶつけていました。後ろでドアの閉まる音がして、ようやくニールが啓の腕を離しました。
「よし、もう上着を取ってもいいぜ。でも静かにしろよ、皆寝ているからな」
啓は被っていた上着を取り、息を吸い込みました。周りは暗くて良く見えませんが、どうやら部屋の中にいることだけは分かりました。ウィルが小声で啓を部屋の奥に連れて行き、更にその奥にある部屋に入り、静かにドアを閉めました。あまり大きくない部屋で、向かい側に窓があるようでしたが、今はカーテンが閉じられているので外が見えませんでした。暗闇に慣れてきた啓の目にぼんやりと、部屋をほとんど占めるように並んでいる二段ベッドが三つ見え、寝息が微かに聞こえてきます。
ニールが左側のベッドを指して、枕と布団を投げて寄こしました。
「ここに寝るんだ」
啓は暗闇の中、布団を受け取って頷きました。
「あれ、お帰り」
その時、右側のベッドの上に小さな影がむくりと起き上がりました。三人はぎくりとして固まってしまいました。
「げっ、タエ。起きていたのか?」ニールが焦った声で言いました。
「お帰り、随分遅かったね」タエと呼ばれた子は、開かない目を擦りながら、むにゃむにゃ言いました。
「もう寝るんだ。明日の朝、起きるの辛いよ」ウィルが駆け寄って、タエを寝かせて布団を被せてあげます。
「僕、明日も頑張れ、れる…」寝言のように言って、タエは再び眠ってしまいました。
ニールはほっと胸を撫で下ろして、啓を振り返りました。
「俺達は、朝ここを早く出て仕事に行く。お前はそれまで、ベッドの中で見つからないように隠れていろ。俺達が出て行って少ししたら、誰にも見られないように外に出て、ファンフェアーに向かうんだ。ファンフェアーのあるロース公園は、門の所から見える、空に浮いているバルーンを目指して真っ直ぐに進めばいい。帰りは、公園の北入口の近くにある木陰に隠れていろ。風船で出来たでっかい熊が立っている辺りだ、知っているな。俺達が帰りにお前をそこに迎えに行く。分かったか?」
啓は再び暗闇で頷きました。
「それから、明日仕事場では誰とも話をしないようにして、ひたすら忙しく働く振りをするんだ。特にシンザとゴンザの二人には会わないようにして。さっき君に絡んできた二人だよ。万一誰かに何か言われたら、自分はジョーカーズの新米だと、そう言うんだ」
今度はウィルに言われて、啓はまた頷きました。
「今夜はもう寝よう。体を隠すように布団を被るんだぞ。お休み」ニールはそう言って、自分のベッドに入っていきました。
「心配しないで。何かあったらウィルとニールを呼んでくれって言えばいい。僕達がいつでも駆けつけるからね。お休み」ウィルは優しく言うと、ニールのように自分のベッドに潜り込みました。
今日一日ファンフェアー中を歩き回り、働き続けたせいで、くたくたに疲れているにもかかわらず、啓は布団に包まっても眠れずにいました。自分が今、アローズ街にいるのも信じられなかったし、自分の身に何が起きたのかさえ、まだ良く分からないでいました。フィエーロサーカスに行かなければ、こんなことになっていなかったと思うと、悔しくて泣き出してしまいそうで、サーカスに行きたがったことを心底後悔しました。あんなに信が警戒していたのに、自分はそのことも聞かずにサーカスに行き、結局、こんなことに巻き込まれることになってしまったのです。
服のポケットに手を入れると、綱渡り師から預かった革の袋がありました。家族はどうしているでしょう。急に彼がいなくなってしまって、どれ程心配していることでしょう。信の大きな背中が、とても恋しくて仕方がありませんでした。大きな信のそばにいれば、何も怖いものなんてなかったし、とても安心していられました。今は一人ぼっちで、誰も彼を守ってくれる人なんていないのです。全く知らない土地、知らない世界に一人ぼっちです。鏡の中に別の世界があるなんてことすら知らないでいたのに、自分はそこにたった一人で迷い込んでしまったのです。
啓は寂しくて心細くて、どうしようもなくなりました。どうしたら元の世界に戻れるのでしょう。どうすれば家族の所に帰れるのでしょうか。なぜストライザに会った時、革の袋を預かってしまったのでしょう。どうしてストライザからの預かり物を、大人しくサーカスの人に渡してしまわなかったのでしょう。なぜ何も考えずに、鏡の中なんかに飛び込んでしまったのでしょう。
しばらくそうして自分の愚かさを悔やんでいた啓でしたが、やがて疲れて眠りに落ちていきました。
次の日は、ウィルとニールに言われた通りに行動して、自分でも信じられないくらいうまくいきました。部屋にいた全員が仕事に行った後、誰にも見られることなくファンフェアーに戻り、ただひたすら働き続けました。昨日啓を問い詰めた男達も、からかいに来ることはありませんでした。
その日の仕事が無事に終わり、言われた通りに木陰に隠れてウィルとニールを待ち、人目を避けるように、啓は再びアローズ街に帰って行きました。昨晩と同じように、門の所でウィルが辺りをうかがおうと、首を伸ばしました。すると突然、ぱっと辺りが明るくなったかと思うと、門の脇から大きな黒い影が出てきて、三人の前に立ちはだかりました。三人はびっくりして、眩しさのあまり手を顔の前にかざして、目をしばたきました。
「な、何だ?」ニールが驚きの声を上げました。
「ようやく戻ったか、双子」
三人の頭の上で低い声がしました。啓が目を開けて見上げると、そこには大きな青年が立っていました。
「ア、アレスタ」ウィルが囁くようにつぶやきました。
「今夜も、おそろいで帰宅か?」
アレスタは鋭く人を射抜くような瞳をしていて、肩幅が広くがっちりした大きな体つきをしている、強そうな青年でした。彼の顔は手に持っている明かりで下から照らされて、とても恐ろしく見えました。薄茶色の髪がつんつんとハリネズミのように上に跳ね上がっていて、そこに光が当たって、まるで顔の上に燃え上がっている炎のように見えます。啓は自分が巨人に見下ろされた小人になったような気がしました。
「こんばんは、アレスタ。こんな所で会うなんて」ニールが引きつった声を出しました。
アレスタは恐ろしい形相で彼を見下ろし、口の角でにやりと笑うと、言いました。
「こんな所で会うなんて、なんてのん気な挨拶だなあ、ジョーカー。偶然会ったんじゃあなくて、会うために俺は待っていたんだ。お前ら三人を、この暗闇の中で」
「アレスタは、アローズ街の責任者なんだ」ウィルがこっそり啓に耳打ちしました。
啓はウィル達の後ろで青くなりました。アローズ街に隠れていたことが、すでにばれてしまっていたようです。何も言えずに三人が黙っていると、アレスタはまた口を開きました。
「お前らは確か双子だったはずだよなあ。それがどうして、今夜に限って三つ子になっているんだ?おい、ジョーカー。お前に弟でも出来たか?どうだ、一つこの俺に紹介してくれないか、お前の新しい兄弟を。いくらお前がジョーカーだからって、見たこともない弟が出来ましたなんて、いただけない冗談だぜ」アレスタは体を前屈みにして、啓に顔を近づけました。「それとも、自分で自己紹介するか?」
ウィルが啓をかばうように、前に出ました。
「ごめん、アレスタ。ケイのことは、ちゃんと今度の集会で話すつもりだったんだ」
アレスタは、今度はウィルに視線を移しました。
「そうだよ。ずっと内緒にするつもりなんてなかったんだ」ニールも一歩前に出ました。
アレスタは折り曲げていた体を真っ直ぐにして言いました。「じゃあ、何で先に俺に断ってからにしなかったんだ。少なくともそれが筋ってものだろう」
「だから、最初はそうしようと思っていたんだけど、急にそう出来ない事情になって…」
「そう出来ない事情って、何なんだ!」
ニールに噛み付くようにアレスタが怒鳴るのを見て、啓は思わず一歩前に出て叫んでしまいました。
「この二人は僕を助けてくれたんだ。二人が悪いんじゃあないよ!」
アレスタがじろりと睨んだので、啓はびくっとしましたが、勇気をもって続けました。
「僕がアローズ街の者じゃあないって、ファンフェアーでばれそうになった時、二人が助けてくれたんだ。だから二人が悪いんじゃあないよ。全部僕のせいなんだ」
アレスタはしばらく啓を見下ろしてから、尋ねました。「そういうお前は、一体何者なんだ?どうしてファンフェアーに潜り込んだんだ?」
啓はアレスタの問いに、どう答えたらいいのか分からなくて、口をつぐんでしまいます。まさか正直に、鏡を通り抜けたらそこがファンフェアーだった、なんて言えるはずがありません。ダークウェイという人物に勝手に人違いされて、成り行きでこうなったと言っても、最初にどうしてファンフェアーに迷い込んだのかを、結局話さなければならなくなってしまいます。啓は三人に見つめられて沈黙に耐えられなくなり、本当のことを話せない悔しさで唇をぎゅっと噛みました。
その時、暗闇を貫くような悲鳴が辺りに響き渡りました。皆は驚いて、何事かと周りを見回しました。
「な、何だ、今の悲鳴は?」
建物の横から、誰かがこちらに向かって駆けてくるのが見えました。
「た、大変だ、アレスタ。ベニが、ベニが!」
「どうした。何かあったのか」アレスタの表情が強張りました。
「大変だよ。ベニが、ベニが野犬に襲われているんだ!」
「何だって!」
アレスタは一目散に、走ってきた子の指し示す方角に駆け出しました。アレスタにつられて、ウィルもニールも、そして啓も、アレスタの後を追って走り出しました。すぐにまた悲鳴が聞こえました。彼らが一番右側に建っている建物の角を曲がると、犬の恐ろしい唸り声が聞こえ、近くの街灯に照らされて、大きな黒い犬が威嚇するように立っている姿がありました。なんと大きな犬でしょう。首の下辺りに白く三日月形に模様がある他は、闇のように黒い、狼のような犬でした。その犬の向いている先には、建物の壁を背にして、地面にしゃがみ込んでいる女の子がいました。
「ベニ!」
アレスタが叫ぶと、女の子は怖さで泣きじゃくりながら振り向きました。
「兄さん、助けて!」
「あの犬は、最近この辺りをうろつくようになった野犬に違いない」啓の隣でウィルが言いました。
アレスタがベニに駆け寄ろうとすると、野犬は牙をむいて彼を威嚇しました。とても大きくて凶暴そうな野犬です。襲われたら、いくらアレスタでもひとたまりもないでしょう。周りには数人の子供しかおらず、遠巻きに見ていることしか出来ないでいます。
アレスタは野犬の気をベニからそらせようと、落ちていた石を掴んで投げようとしました。その瞬間、なぜだか分からないのですが、急に啓の体が素早く動きました。
「何をするんだ、お前。離せ!」
啓はとっさに、石を野犬に投げつけようと振り上げたアレスタの右手を掴んだのです。ウィルとニールは唖然としてしまいました。
「何のつもりだ、お前。離せって!」怒鳴ってアレスタは啓の腕を振り払いました。
「静かに。騒いじゃあ駄目だよ」
啓はアレスタを制するように静かな声で言うと、ゆっくり野犬に近づいて行きました。
「お、おいケイ。何をする気だ?」
騒ぎに駆けつけた数人の子供達が、いつの間にか周りに集まっていました。ウィルは啓を呼び戻そうとしましたが、彼は手を上げて静かにするように合図をすると、更に野犬に近づいて行きました。
どうしてなのか分からないのですが、彼は野犬を大人しくさせることが出来ると確信していました。こんな場合、どうやって犬に接したらいいのか、その方法が頭の中に思い出されたのです。もちろん、啓は犬を飼った覚えはありませんし、犬についての詳しい知識がある訳でもありません。でもなぜか彼は方法を知っているのです。時々自分でも知らないはずのことが、出来てしまうことがありましたが、そんな時は、失った過去に理由があるのだと、勝手に思うことにしていました。
「おいケイ、危ないぞ、戻って来い」ニールが後ろで心配そうに叫びました。
あのアレスタでさえ、怯えた目つきで啓と野犬を見つめて、動くことが出来ません。大きな野犬はすぐに啓の方を見て唸り、威嚇し始めました。恐ろしい歯をむき出して、今にも飛び掛かってきそうに身を低くします。しかし、啓は構わずゆっくり進んでいきました。
「ほら、大丈夫」
野犬から目を離さないように、三メートルくらい離れた所でしゃがみ込んで、自分の顔を野犬の目線と同じ位置にもっていきます。
「大丈夫だよ、ほらね。僕は君の仲間だよ、だから安心して」
人々が見守る中、啓と野犬の見つめ合いが続きました。アレスタはあまりの思いがけない啓の行動に、呆気にとられていましたが、ふと見ると、野犬がさっきより少し大人しくなっているではありませんか。ウィルとニールもあんぐりと口を開けてしまいました。信じられないことに、野犬が段々静かになっていったのです。しまいには、あれだけ唸ってむき出していた牙も引っ込み、唸り声も止まりました。
野犬は大人しく啓に近づいていき、目の前に来ると頭を低く下げました。啓が大きな頭に触れると、野犬は耳を後ろに倒して、大人しく頭を撫でさせました。そして尻尾を振り始めたのです。
「君、一人ぼっちで寂しかったんだろう。君も仲間が欲しくてここに来たのかい?」
野犬をまるで自分の飼い犬のように撫でる啓を、アレスタを始め、周りの子供達は呆然として見ていました。啓はその後、壁に張り付くように座り込んでいる少女に気付くと、立ち上がり、彼女に手を差し出して微笑みました。ベニは夢でも見ているみたいに大きな瞳で彼を見上げ、差し出された手を掴んで立ち上がりました。
「ベニ!」アレスタは夢から覚めたように叫んで、妹に走り寄っていきました。
それをきっかけに、周りに集まっていた子供達が、わーっと歓声を上げて手を叩きました。ウィルとニールは啓に駆け寄って行きました。
「すごいよ、ケイ。お前、良く平気だったな」
啓はウィル達に、すごい、すごいと背中を叩かれました。周りの子供達も、野犬を怖がりながらも駆け寄ってきて、口々に褒めてくれました。啓は照れ臭そうに笑いました。
突然周りが静かになったので、見上げると、そこにはアレスタと、妹のベニが立っていました。啓はさっき、アレスタに問い詰められていたことを思い出して、浮かれた気持ちが急に風船のようにしぼんでいきました。気がつくと、ウィルとニールが啓を守るように、それぞれ両脇に立っていました。
アレスタはじっと啓を見下ろして、いきなり右手を差し出しました。啓は意味もなくたじろいて、身をすくめてしまいました。
「俺の妹を助けてくれた礼を言う。ありがとう、ケイ」
啓は驚いてアレスタを見上げました。差し出された手が握手のためだと気付いて、怖々とアレスタの手を握りました。ベニも近づいてきてお礼を言いました。彼女の顔は涙で汚れていましたが、さらさらの黒髪に、大きな瞳と笑った笑顔が可愛い少女でした。横にいる大柄のアレスタの実の妹なのかと疑いたくなる程、小柄で線の細い体つきをしていました。
アレスタはベニを連れて建物の中に入っていこうとしましたが、ふと思い出したように振り返ると、啓の横に座っている野犬を見下ろしました。
「ケイ、お前がここにいたいんだったら、頼りねえリーダーだけど、きちんと最後まで面倒みてもらえよ」
そう言ってアレスタは、ウィルとニールを見てにやりと笑うと、ベニと一緒に歩いていってしまいました。三人共ぽかんとして彼の後ろ姿を見送っていましたが、急にニールが啓を肘で突きました。
「おい。アレスタは今お前に、俺達に面倒見てもらえって、そう言ったよな?つまり、面倒見るってことは、ここにいても良いってことだよな?」
三人共信じられないことが起きて、夢を見ているようでした。周りの子供達は、アレスタが行ってしまうとまた騒ぎ始めて、啓に群がってきました。
「ねえ、君。もしかして、ここの新しい住人になったの?何処のグループなのさ?」
子供達はわいわいと騒ぎましたが、それをウィルとニールがなだめます。そして夜も遅いからと、渋る皆を黙らせると、啓を連れて自分達の部屋に帰って行きました。すると困ったことに、野犬はすっかり啓になついてしまったのか、一向にそばを離れようとしないのです。仕方なく、彼らは野犬も一緒に連れて帰るしかありませんでした。
部屋の中は静かで、他の子供達は仕事に疲れてすでに寝ているようなので、三人は皆を起こさないように忍び足で、ベッドがある部屋から、台所を挟んで反対側にある部屋に入ると、ドアを閉めました。六畳程の広さに小さなテーブルと棚、汚い三人掛けのソファー、それに床に数個のクッションが置かれているだけの部屋でした。
「まあ、とりあえず座れよ」
ニールは啓をソファーに座らせると、自分は色あせた緑色のクッションの上にしゃがみ込みました。野犬は大人しくソファーの横に寝そべります。ウィルは台所から何か飲み物を運んできて、一つを啓に手渡しました。
「どうもありがとう」
啓は熱いカップを受け取りました。それは、少し甘い香りがする、紅茶のような飲み物でした。
ウィルも自分のカップを手に取り、ニールの隣に腰を下ろしました。