第1部 謎の綱渡り師:5 鏡の中へ
それはまるで、冷たい氷水の中へ飛び込んだような感覚でした。ピシッと全身が一瞬凍りついたような感じがして、底のない暗闇の中に真っ逆さまに落ちて行くようで、体中の血液がすうっと上に持ち上がります。
「うわっ!」
と次の瞬間、啓は硬い物にしたたか背中をぶつけて、痛さのあまり呻き声を上げてしまいました。しばらく、彼はそのまま動けずに固まっていました。やがて恐る恐る目を開くと、彼は地面の上に転がって倒れていました。さっき背中をぶつけたと思ったのは、倒れた時に打った硬い地面だったのでした。顔を上げて辺りを見回すと、目に飛び込んできた信じられない風景に、啓は呆然としてしまいました。自分の身に何が起きたのか、すぐには理解出来ませんでした。
目の前には、月夜に照らし出された、誰もいない遊園地が広がっていました。あまりに不思議な光景に、啓はしばらく見とれてしまいました。何一つ物音のしない無人の遊園地には、明かりが一つも灯っていなくて真っ暗で、月の光だけを頼りに、青白く輪郭を浮き上がらせています。目の前に立ち並ぶ変わった形の建物や、見たこともないような乗り物が、まるで忘れ去られた大昔の彫刻のように静かにたたずみ、時間すらも止まっているように見えました。どうして見たこともない建物ばかりなのに、ここが遊園地だと分かったのかというと、死んだように静まり返っている景色の向こうに、大きな観覧車が見えたからでした。その観覧車も、やはり周りの景色に同化するように青白く光り、動きを止めていました。
冷たい夜風が、優しく啓の頬を撫でて吹き抜けました。その時初めて、彼は外にいるのだと気付いて愕然としました。改めて辺りを見回す啓の顔から、みるみる血の気が引いていきました。どうしたんだろう。さっきまで確か部屋の中にいたはずだったのに。
啓は震える足で立ち上がろうとして、後ろによろけてしまいました。バランスを取ろうとして後ろに伸ばした手に、硬く冷たい感触が当たりました。顔を上げると、見えたのは自分の姿でした。鏡です。大きく、壁一面あると思われるくらいの巨大な鏡でした。啓はしばらくそこに映っている自分の姿と、後ろに広がっている夜の遊園地を見つめていました。何かが変です。何だか分からない不安が、頭にもやもやと霧のようにかかってしまったような気持ちでした。
どうして、僕はこんな所にいるのだろう。さっきまで自分の部屋にいて、それで…。
鏡に映る自分の首に、四葉のクローバーがキラリと光りました。それと同時に、啓の頭のもやもやが消えていき、代わりにそれまでの記憶がありありとよみがえってきました。
啓はぱっと鏡から手を離しました。まず浮かんできたのが、綱渡り師ストライザでした。それから次々と、自分が首飾りを捜しにサーカスに忍び込んだこと、そこでストライザから聞いたとんでもない話と頼み事、ストライザから預かった物を追い掛けて、フィエーロサーカスの人が家にやって来たことを思い出しました。そして、それから…。
啓はその場にしゃがみ込んでしまいました。思い出したのです。その後、自分が夢中で鏡に向かって走り出したことを。鏡に向かって走って、それで、それから一体何が起こったのでしょうか?
その時、啓はストライザが言っていたことが全て本当だったのだと、初めて理解したのでした。しばらく、啓はそこに座り込んだまま動くことが出来ませんでした。まさか本当にストライザの言った通り、鏡の向こうに別の世界があったなんて。こんな硬くて冷たい鏡を、一体どうやって通り抜けられたのだろうと考えて、はっとしました。
硬くて冷たい?
さっき、目の前の鏡を触った時、硬くて冷たかったのを思い出したのです。啓は急いで鏡にもう一度触れてみました。手で触った鏡の表面は、やはり硬くて冷たいままでした。啓は少し力を入れて鏡を押してみました。次に叩いてみて、しまいにはこぶしでバンバンと強く鏡の表面を叩いたりもしてみました。しかし、どうやっても無駄でした。鏡は啓を拒否するように、通してはくれませんでした。
「ここから抜け出て来たはずなのに、どうしてまた戻ることが出来ないんだ?」
またしばらく、啓は鏡を叩いたりしていましたが、やがて疲れて止めてしまいました。とりあえず、フィエーロサーカスの人からは逃げられて、ほっとしましたが、こちらに来たものの向こうに戻れなくなってしまい、途方に暮れてしまいます。仕方なく啓は少し周りを歩いて回ることにしました。
啓が飛び出してきた壁のように大きな鏡は、実は本当に一枚の壁だったようで、少し離れて見上げてみると、全て壁が鏡になっている変な建物が建っていました。その奇妙な鏡張りの建物を回り込んで見ると、入口らしいドアが見つかりました。しかし鍵がかかっているのか、中に入ることは出来ません。ドアの上には大きな看板が掛かっていて、そこには『鏡の邸』とありました。
とにかく、ここにいても仕方がなさそうなので、啓は無人の遊園地を歩き始めました。それにしても静かです。夜だから当然なのでしょうが、遊園地といえば、明るくて楽しくて賑やかというのが普通です。ですから反対に、静かな無人の夜の遊園地にいると段々寂しくなってきて、心細くなってしまいました。一度怖いと感じると、今まで綺麗に見えていた青白い遊園地が、恐ろしい物に見えてきてしまいました。普段なら楽しく見えるはずのメリーゴーランドの馬や、壁の道化の絵などが、全て不気味な物に見えてきて、啓はここから逃げ出したくなりました。
その時、暗闇の遊園地の中、まるで夜の海に灯る灯台のように、一つだけ明かりのついている建物が目に入りました。啓は少しほっとして、その建物に近づいて行きました。西洋のお屋敷を小さくしたようなその建物の入口には、やはり看板が掛けてありました。
『操り人間の館』
その奇妙な名前の看板に気付く暇もなく、啓は明かりのもれているドアの隙間から、こっそりと中を覗き込みました。人の気配はなく、中には誰もいないようでした。啓はドアの隙間から体を滑り込ませて中に入って行きました。途端に甘い花の香りがする暖かい空気が、夜風に冷えた啓の体を優しく包み込みました。彼は何だかとても気分が良くなってきて、初めて来た未知の世界の、得体の知れない建物の中に忍び込んでいるということも忘れて、どんどん中に進んで行ってしまいました。
パッと強いスポットライトのような一筋の光に照らされ、啓は驚いて立ち止まってしまいました。途端に何かが手首や足首に絡みついてくる感じがして、啓は慌てて振り払おうとしました。しかし、不思議なことに、そこには何もありませんでした。まるで静電気がまとわりつくような感触です。気持ち悪そうに、啓は必死で手足をバタバタと振り始めました。
啓の右手がいきなり上に振り上げられました。何がどうしたのでしょう。彼の意志ではないのに、右手が勝手に上がったまま、どうにも動かなくなってしまったのです。すると今度は、左手が勝手に動き出したではありませんか。右足も、左足までもあっちこっちと動き出し、啓のいうことを全く聞かなくなってしまったのです。自分勝手に動き出した体をどうにかしようと、啓は一生懸命抵抗しましたが駄目でした。
「ちょ、ちょっと、何だ、これ?うわーっ!」
今度は腰が上に引っ張られる感じがしたと思ったら、本当に足が床から離れて、手足を不自然にねじらせたまま、体が逆さまに宙に浮き上がってしまいました。
「やめ、やめ。止めて、止めて。だめだ、ダメだ、駄目だ」
何処からかそう叫ぶ声がして、辺りがパッと明るくなりました。啓が空中に浮かんだまま動けずにいると、人の足音がして誰かが近づいて来るのが見えました。
「だめだめ、全然直っていないじゃあないか。これじゃあ、明日までに間に合いそうにないねえ」
そう言いながら近づいてきた人物を逆さまに見た啓は、凍り付いてしまいました。その人物はすらりとした長身に、黒の背広を着た紳士でした。ピカピカに磨かれている革靴、そして手には白い手袋をしてステッキを持っています。しかし、啓が驚いたのは、その人物の顔でした。紳士の顔は白塗りで、両目を十字に囲むように赤と青の線が描かれ、両目の下から頬にかけて、弧を描くように赤い線が伸びています。口も笑っているように赤く塗られていました。そして彼の鼻には大きな赤い丸いものが。そう、サーカスの道化がよくつけている、赤い鼻がくっついていたのです。その顔を見て、啓は体が凍る思いでした。白塗りの顔のメイクといい、赤い鼻といい、まさにサーカスにいる道化師そのものだったのでした。それに白い手袋!まさかこんな所まで、フィエーロサーカスの人が追い掛けて来るなんて。
赤鼻の道化師は、栗色のカールした髪を掻き上げて、ため息をつきました。
「全くこれじゃあ、『操り人間』じゃあなくて、『吊るされ人間』ってとこだねえ。こんなの明日使えっこないぞ。ダメだ、ダメだ」そう言って、可笑しそうにくすくすと笑い始めました。
啓は逃げ出したい思いで、体を動かそうともがき出しました。すると、紳士は笑うのを止めて彼を見上げました。その拍子に道化師と視線が合い、途端に啓はもがくのを止めてしまいました。道化師と目が合った瞬間、背中に寒気が走ったのです。その瞳はとても不思議な色をしていて、光っているように見えました。頭の中まで見透かされてしまいそうな気がして、啓は思い出しました。あの目です。綱渡り師ストライザが最初に啓を見た、あの時と同じ目だと感じたのです。
道化師は啓を見つめたまま、すっと腕を伸ばしてきました。ついに捕まる、と啓は観念して目をつぶりました。しかし道化師は、人差し指で啓の額を優しく突いたかと思うと、笑って言いました。
「そう暴れないで。今すぐ下ろしてあげるから」
道化師はそう言うと、何処かに向かってパンパンと手を二回鳴らしました。すぐにがくんと腰が落ちて、啓の足が床に着地しました。同時に手や足に巻き付いていた静電気のような感触もなくなり、急に支えを失った啓は、よろけて尻もちをついてしまいました。逆さに吊るされていたので、頭に血が上ってふらふらしたのです。白い手袋がまた伸びて来て、彼を軽々と助け起こしてくれました。
「これはきっと、中心の歯車のせいだ。歯車の歯が一つ欠けたせいかもしれない。全く厄介なことになってしまった。まるで一枚欠けてしまったトランプのようだね。何一つ噛み合わないんだ。ゲームなんて出来っこない」道化師は独り言でも言っているように、つぶやきました。
「もう一度中を調べて見ますか、ダークウェイさん」
また一人の男が啓の所に現れました。体にヒョウ柄の模様を描いた大きな筋肉質の男で、手に大きなねじ回しを持っていました。
「そうするしかなさそうだね。参ったよ、ファンフェアー早々いかれちまうなんてね」
「つい、今日の夕方まではちゃんと動いていたんですがね。一体何があったんだか」大男はつるつるに剃り上げた頭を掻きました。「突然だったんですよ。それまでうまい具合に操られて、いい気分になっていた客が悲鳴を上げたんで、急いで駆けつけてみると、客の体がねじ曲がって、糸のこんがらがったマリオネットみたいに空中にぶら下がっているんです。慌ててスイッチを切ったら、糸が切れて、客は床にしたたか尻を打っちまって」
あはは、とダークウェイと呼ばれた赤鼻の道化師は、背を反らせて大笑いを始めました。
「全く、そいつはさぞかし可笑しな眺めだったろうにねえ。私も一目拝みたかったよ」
「笑っている場合じゃあないですよ。その客は、もうかんかんになっちまって」
「機嫌を直してもらうのに、随分苦労したんですよ。本当に笑い事ではありません」
違う方からそう言う声がして、また誰かが啓達の所にやって来ました。部屋に入ってきた人物は、ダークウェイと同じくすらりと長身で、白い襟付きのシャツに綺麗な刺繍入りのベストを着て、首には薄紫色のスカーフを巻いた、お洒落な紳士でした。しかし、またその人の顔ときたら。啓は思わずまた声を上げそうになってしまいました。まるで、仮面でも被っているように、その人の顔は真っ白でつるんとしていて、大きな二つの黒い目らしきものと口しか見当たりません。赤鼻の道化師のように白塗りの顔なのですが、彼の場合は白く塗っているというよりも、作り物のような感じで、まるで陶器か何かで出来ているみたいに見えました。今にも、パリンと華麗な音を立てて壊れてしまいそうな、不思議なはかなささえ感じさせます。
「そうですよ。ムリロさんが来て客をなだめてくれなかったら、本当にどうなっていたことか」ねじ回しを持った大男が、部屋に入ってきた紳士を振り向いて言いました。
「ムリロは物を扱うのが上手いからね。カードでもナイフでも、人形でも、かんかんに怒っている客でも何でも」道化師ダークウェイはおどけたように言って笑います。
「お客様は物ではありませんよ、ダークウェイ。それより、こんな所で笑っていないで、早く修理を始めた方が良いのではありませんか。明日の開園までに間に合わなくなります」
啓は無人の遊園地で初めて会った奇妙な三人を、逃げるのも忘れて、不思議そうに眺めていました。赤鼻の道化師と、ヒョウ柄でねじ回しを持った大男、そして仮面を被ったような紳士の三人は、啓のことなんかそっちのけで話を続けています。少なくとも、どうやらこの人達は、自分を追い掛けてきたフィエーロサーカスの者ではないようでした。啓はこっそりと建物に忍び込んだことも忘れて、三人の会話を聞いていました。
「そうだった。こんな所で油を売っている場合じゃあなかったんだ。早速修理に行かなくては。きっと中心の歯車のせいだと思うんだよ。あれがいかれちまったに違いない」
ダークウェイはくるりと向きを変えて歩き出しました。この時、ムリロが初めて啓に黒い瞳を向けました。
「こんな夜遅くまで手伝わせて、申し訳ありませんね。今夜はここに部屋を用意したので、そこに泊まってください。修理がいつまで続くのか分かりませんが、夜遅くにアローズ街まで帰るのは、あまり安全ではありませんからね。最近、野犬がこの辺りをうろついているという噂もあることですし」
「あ、あの」
啓は何か言おうとしましたが、ダークウェイの声が響いて、彼の声は掻き消されてしまいました。
「さあ君達、何をぐずぐずしているんだね。明日までに我々は歯車達の機嫌を直さなけりゃあならないんだよ。操り人間の館が閉まっているファンフェアーなんて、まるで手品師が帽子から鳩を出すようなものだよ」
「それって、びっくりして驚くってことですかい?」大男が間抜けな声で尋ねます。
「違うよ、全くその逆だよ。ありきたりでつまらん、さ」
「さあ、それでは行きましょうか。修理屋のラギーニオも、あなたが来るのを待っているでしょうから」
どうやらムリロ達は、啓を他の誰かと間違えているようでした。啓は自分が人違いだと言う暇もなく、ムリロと大男と一緒に、道化師の後を追って行かなくてはならなくなりました。
それにしても、啓が迷い込んだ建物は変な所でした。全体にこげ茶色の落ち着いた雰囲気の家具が並ぶ廊下を通ったと思ったら、次の部屋に行くと内装ががらりと変わって、ピンク色の壁にレースのカーテンが掛かった部屋になっています。次の部屋は図書室で、部屋中の本棚に難しそうな本がぎっしりと詰められているかと思うと、次は小さな劇場で、客席や舞台が見えました。一体この建物はどうなっているのだろうと頭を悩ます啓を連れて、ダークウェイ達はどんどん先に進んで行きました。やがて突き当たりにある小さなドアを開けて、四人はその中に入って行きました。
「あっ、ダークウェイさん。やっぱり直っていませんでしたね」
そこは今までの部屋と違って、がらんとしていました。奥の壁の高い所にドアが一つあるだけで、そのドアまで上れるように手すり付きの階段が伸びていました。ドアから頭を出すような格好で、一人の男がダークウェイに話し掛けてきたのです。
「全く駄目だったよ。このままだと、明日も客を吊るしてしまうことになりそうだ。この子が、身をもって証明してくれたよ」ダークウェイが啓の肩を叩きました。
「ラギーニオが、早くアローズ街の子を連れてきてくれって言うんですが、実は、頼むのを忘れちまって。この物忘れのひどさを何とかしないと、いずれ俺はくびですよね」その男は困ったように、硬そうな黒い髪の頭を掻きました。
「何、心配はいらないよ、サイモン。我々がちゃんと一人連れてきたからね。君、名前は?」
今更、人違いなどと言えなくなっていたので、仕方なく啓は名前を正直に答えました。
「ケイか。ここにいるケイが、ラギーニオの手伝いをしてくれるから大丈夫さ」
ダークウェイは啓を連れて、軽い足取りで部屋の奥にある階段を上って行きました。ムリロも大男も二人の後を追って階段を上ります。ドアを入ると、まるで機械の中にでも紛れ込んでしまったようでした。数え切れないくらいの大小様々な歯車が、複雑に絡み合っていて、いたる所に、ねじや訳の分からないものが飛び出しているのが見えます。近くにレバーやボタンが沢山ついている台があり、そこに背の曲がった一人の老人が屈み込んでいました。
「ラギーニオ、故障はどうやらスイッチにあるのではなく、中の歯車の方らしいぞ」
ダークウェイが声を掛けると、老人は振り向いて眼鏡をぐいっと持ち上げました。
「ああ、わしも今、それが分かったところじゃ。厄介な所がいかれたもんじゃよ」
「明日までには、何とかなりそうですか?」
ムリロが尋ねると、ラギーニオは首を振りました。「いかれた歯車を見てみないと、何とも言えんな」
「何とか頼むよ。明日には操り人間の館を復活させてくれないかなあ」
「出来る限りのことはしてみるがねえ、ダークウェイ。何しろこの歯車の数だ。考えただけでも気が遠くなるわい」ラギーニオは啓に手招きをしました。「さあ、早速手伝ってもらおうか。大人では、この狭い隙間を通り抜けることが出来んのじゃよ。大丈夫、スイッチは切ってあるから」
啓は言われた通りに、ラギーニオの指差した隙間から、歯車の迷路の中に入っていかなければならなくなりました。
「心配しないで。君が中にいる間は、スイッチを入れたりはしないから」ダークウェイが恐ろしい冗談を言って笑いました。
「ちょっと待て。この中で迷子になっちまったら困るから、これをつけていくんじゃ」
ラギーニオはそう言って、長いロープの端を啓の腰に縛りつけました。
「中に進んでいくと、やがて一つだけ、とてつもなく大きな歯車がある。そいつの様子を見てくるんじゃ。ねじが外れていたり、歯が欠けていたりしてないか見てくるんじゃぞ」
啓はとんでもないことになってしまったなと、ロープを体に縛りつけ、歯車の隙間から中に進んで行きました。後ろからラギーニオの声が聞こえてきます。
「もし中心の歯車に異常がなければ、全ての歯車を隅から隅まで調べてみなけりゃあならんぞ。そうなったら明日、この建物を開けるのはとても無理じゃな」
啓は巨大な歯車の迷路を、這いつくばるようにして進んで行きましたが、何処をどう進んでいるのかさっぱり分かりませんでした。ラギーニオという老人は、この中に一つだけ大きな歯車があると言っていましたが、それが一体何処にあるのか見当もつきませんし、もし体に巻かれているロープがなかったら、帰り道も分からなくなっていたでしょう。ここは人違いだとばれる前に、ロープを外して逃げ出した方がいいのかもしれません。きっと前に進んで行けば、いずれ壁に突き当たるでしょう。ここは建物の中なのですから、何処かに出入り口か、窓くらいあるはずです。
啓がそう思い始めた時、目の前が突然開けて、とてつもなく巨大な歯車が現れました。その歯車は、周りにある他の歯車に比べて一際大きいので、すぐにこれがラギーニオの言っていた歯車だと分かりました。その歯車には、大きさの違う沢山の歯車が複雑に絡み合っています。
ラギーニオはこの大きな歯車を調べてこいと言っていました。しかし、いくら中に入る隙間が狭いからと言っても、啓のような子供に歯車の調子を調べてこいだなんて、良く考えれば無茶な話です。啓は専門家でも、修理屋でもないのですから、何も分かる訳がないではありませんか。彼は困って、逃げ出す所でもないかと周りを見回しました。しかし、そこに見えるのは歯車の迷路だけです。まるで大きな時計の中にでも迷い込んでしまったようでした。
「おーい、ケイ。大きな歯車は見つかったかーっ!」
後ろの方からラギーニオの叫ぶ声がして、啓は我に返りました。仕方なく彼は大きな歯車を調べてみましたが、特に異常は見当たりませんでした。一番上を見上げた時、目の前の巨大な歯車の真上にのっている小さな歯車に、何か物が挟まっているのに気がつきました。それが歯に引っ掛かって動きを妨げていたことがすぐに分かりました。啓は歯車に足を掛けながら登っていって、さんざん苦労して、挟まっていた物を歯車の間から抜き取ると、ロープを伝ってラギーニオ達の所へ戻って行きました。
「ケイ、どうだった?」
啓は歯車に挟まっていた物を差し出して、このせいでちゃんと動かなかったのだろうと告げました。
ダークウェイがそれを啓から受け取り、眺めます。「こんな物が歯車の間に?これはブローチじゃあないかい?魚の形をしたブローチだよ。とても凝った造りになっているねえ」
ダークウェイがブローチを渡しながら言うと、ムリロも頷きました。
「そのようですね。でも、どうしてこんな物が、機械の中に挟まっていたのでしょう?」
ムリロは手を広げてブローチを啓に見せました。それは確かに、魚の形をした銀色のブローチのようでした。とても美しく、高価なものに見えました。
「きっと、ふとした拍子に、お客の物が建物の何処からか入り込んでしまったのだろうよ」
「妙なこともあるものですね。しかし何処から入ったんだか」大男が首を傾げます。
「私の相棒のダークウェルが、ある朝目覚めると、部屋で寝ていたはずが、鍵のかかったライオンの檻の中にいて面食らった、なんてこともあったからねえ。ブローチが歯車の中に紛れ込むなんて、日常普通に起こりそうなものだよ」ダークウェイがステッキをトントンと床に打ちつけながら、楽しそうに言いました。
「あの人と、日常を比べないでくださいよ。差がありすぎます」ムリロがくすくす笑いました。
「それより、試しにスイッチを入れてみることにしよう。本当にこれで直ったかもしれないしね。おい君、テストをするから、試しに入口から入ってみてくれないかな」
ダークウェイが頼むと、ねじ回しの大男は頷いて部屋から出て行きました。ラギーニオがスイッチを入れると、歯車の迷路が唸り声を上げて、ゆっくり動き始めました。ダークウェイ達は、ラギーニオと助手のサイモンをそこに残して、階段を下りていきました。
「これで直っているといいんだけどね。あの男が上手いこと操られて、浮かれ気分で戻ってくるか、はたまた、こんがらがって悲鳴を上げるか」
「操られるって、どういうことなの?」
啓は先程、自分の体が突然言うことをきかなくなってしまったことを思い出して、聞いてみました。一体この建物は何なのでしょう。訳の分からない数々の部屋といい、歯車といい、啓にはさっぱり分かりませんでした。
「おや、ケイ。君は操り人間の館が何なのか、知らないのかい?」ダークウェイが啓を振り返って、大きく驚いて見せます。
「操り人間の館?」
「この建物の名前ですよ。表の看板を見なかったのですか?」
啓はムリロに首を振りました。
「何だ、君は知らなかったのかい?だったらさっき、突然吊り上げられて、さぞ驚いただろうに。初めて入った時に故障していたなんて、何とも気の毒なことを。すまなかったねえ」ダークウェイは、またステッキをトントンと床に打ちつけました。「操り人間の館は、全ての人の夢をかなえてあげる所なんだ。人はそれぞれ憧れを持っているだろう。例えば、有名ダンサーになって舞台の上で踊り、拍手喝采を浴びたい。楽器の天才になって、あらゆる曲を弾きこなしたい。運動神経抜群になって、人があっと驚くアクロバットをしたい、などなど。人は現実にはとても出来そうにないことを、思い願ったりするものだろう?それらの夢を少しの間だけでも体験させてあげられるのが、この場所なんだよ」
「どういうこと?」啓には道化師の説明がまだ良く分かりませんでした。
「操り人形ってあるだろう。人が操ることによって、人形はあらゆる人物になれるし、あらゆることをすることが出来る。それを人形にではなく、人間にしてあげるってことなんだよ。操られた人間は操られるままに、本人には普段出来ない、曲芸や振る舞いが出来るようになるんだ。凄いだろう?」
ダークウェイは、啓に説明しながら自分が興奮していきました。
「ぞくぞくしないかい?突然自分の体が動いて、普段は出来ないことが出来るようになるんだ。例えば、腰の曲がった老人にだって、空中五回転だろうが何だろうが、お手のものだよ。まあ、その後の体の調子までは、ちょっと保障しかねるけどね」
「人間を操り人形のように操るの?どうやって?」啓はすっかり驚いてしまいました。
「勿論、操り人形と同じだよ。糸で操るのさ」
「でも、糸なんて見えなかったよ。僕が空中に持ち上がった時も…」
「そりゃあそうだよ。見えない糸で操るんだもの」
その時、ねじ回しの大男が戻ってきて、ダークウェイは言葉を切りました。
「ああ、君。どうだったね?」
その男は顔に嬉しそうな笑みを浮かべて、軽い足取りでやって来ました。
「いやあ、最高でしたねえ。俺は軽やかに黒い馬に飛び乗って、野山を駆け巡って来ました。牧場にいたあの可愛い娘なんて、おれを見てうっとりしちゃって」
「どうやら、君の苦労は見事に報われたようだよ、ケイ。素晴らしいよ、ありがとう」
ダークウェイは啓の手を握って、丁寧にお礼を言いました。
「これで明日、お客を落胆させないで済む。おーい、ラギーニオ。無事に直ったようだよ」
ダークウェイが上にあるドアに向かって叫ぶと、ラギーニオの顔が現われ、ぐっと親指を立てて見せました。
「こんなにあっけなく直ってしまうなんて、本当に驚きだよ。君には修理屋の才能があるらしい。どうだろう、良かったら明日も手伝ってくれないかなあ。ラギーニオは明日から、ファンフェアー全体を整備して回るのだけれど、ぜひ助手として彼を手伝って欲しいんだよ。君なら優秀な助手になれるだろう」
ダークウェイは啓の返事を聞く間もなく、くるりと向きを変えました。
「それでは、私はこれで失礼させてもらうよ。なにせ劇場のことで色々と仕事が溜まっているのでね。ダークウェル一人に任せていたんじゃあ、怖くて信用出来ないよ。あまり常識を外れたことをさせないように気をつけなくては。有名なダーク兄弟の名が泣くよ」
「あなたの口から常識なんていう言葉を聞くなんて、意外ですね、ダークウェイ。ここはもう私一人で大丈夫ですから、あなたは劇場に戻ってくださって結構ですよ」
ムリロが言うと、ダークウェイは一度啓達を振り返りました。
「それでは、そうさせてもらいます。皆さん、ごきげんよう」
そして道化師は丁寧に深々と、舞台で役者がするようなお辞儀をすると、軽い足取りで部屋を出ていってしまいました。啓がぽかんとして、ダークウェイの背中を見送っていると、ムリロが声を掛けてきました。
「遅くまでご苦労でしたね。早速、部屋までご案内しますから、こちらへ」
ムリロは館をラギーニオ達に任せると、啓を連れて、来た道を戻りました。彼はまた図書館やら花柄の部屋を通り抜けながら、ムリロの後についていくしかありませんでした。ムリロは操り人間の館から出ると、観覧車のある方へ夜の遊園地を歩いて行きました。
啓は、これからどうしたらいいのだろうと考えていました。もちろん、彼がいた世界に帰らなくてはならないのですが、どうしたら帰れるのか、その方法が分からないのでした。前を歩いているムリロという人に、色々聞いてみたいと思いましたが、結局止めてしまいました。自分がストライザから鏡の向こうにある世界について聞いた時、全く信じなかったことを思い出したのです。信じられなかったばかりか、啓はストライザが頭を打っておかしくなったとさえ思ったではありませんか。もし、ムリロが啓のように、別の世界が存在することを知らないとしたら、鏡を通り抜けてやって来たなんて言った途端に、やはり彼のことを少し頭のおかしい子供だと思うに違いありません。それに、鏡の向こうから来たことを話したら、ムリロは啓が実は人違いだった、ということに気付いてしまいます。今更、ムリロ達が本当に探していた、アローズ街の子と呼んでいた、その本人ではないことがばれてしまうのが怖かったのでした。今はとにかくアローズ街の子になりすまし、大人しくムリロについて行くしかないようでした。
ムリロは啓を連れて、ある建物の中に入って行きました。今度は中に入っても、吊り上げられたりすることはありませんでした。ムリロは啓を建物の一室に連れて行きました。そこはベッドと簡単な机が置いてある、居心地の良さそうな部屋でした。
「ここが今夜のあなたの部屋です。洗面台は廊下の突き当たりにありますので、ご自由にどうぞ。何かいるものがあれば、下に誰かいるので聞いてください。明日ラギーニオが仕事の時、呼びに来るでしょうから、それまでゆっくりお休みください」
ムリロは部屋のドアを閉めて、行ってしまいました。啓は部屋の中で一人になり、ようやく体の力が抜けたように、ベッドに腰を下ろして一息つきました。しばらくはぼうっと座ったまま動けませんでした。そのままごろりとベッドに横になります。体がとても疲れていて、重く沈んでいくようでした。
啓は天井を見つめながら、ストライザを思い浮かべました。
『俺は、鏡の向こうから来たのだ…』
啓が意地の悪い冗談だと思っていたストライザの話は、本当だったのです。彼自身が鏡を通り抜けて別の世界に来ている以上、否定することなんて出来なくなってしまいました。ということは、ストライザの話は全部が本当であろうということになります。彼は鏡の世界から来た人だったのです。だから、自分を普通ではないと言い、あんな高い所から落ちても生きていられたのでしょう。ストライザが持っていた物を、フィエーロサーカスの人達が狙っていたことも事実でした。現に、彼らは啓を追って、家までやって来たではありませんか。
アークという人を捜していると、ストライザは言っていました。そのための手掛かりがフィエーロサーカスの人達に狙われているので、取られる前に啓に預けたのです。その手掛かりは今、啓のポケットの中にありました。啓はストライザからそれをある人に届けるようにと、渡されてしまいました。
でもそんなことを頼まれたって、と啓はため息をつきます。この世界の存在すら今まで知らずに暮らしてきた啓に、どんな人かも、何処にいるのかも知らない人に、これを届けろなんて。その人の名前すら、ストライザは啓に告げることが出来なかったというのに。
啓はもぞもぞと寝返りを打ちました。とにかく今考えることは、一刻も早く元の世界に戻ることでした。さっき、鏡は啓を通してはくれなかったけれども、もう一度試してみたら上手くいくかもしれないし、他の鏡で試してみるのも良いかもしれません。目を閉じたまぶたの裏に、家族の顔が浮かびました。啓が突然いなくなったら、彼らはどれだけ心配するでしょう。早く戻らなくちゃあ。そう思いながら、啓は眠りに落ちていきました。