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第1部 謎の綱渡り師:4 ストライザの頼み

 啓は人気のない夜道を歩き、フィエーロサーカスのテントがある自然公園に向かいました。さっきまであんなに賑やかだったテントの周りは、人っ子一人見当たりませんでした。出店も全て閉められ、夜空に輝く月が、店を覆っている汚れた青いビニールシートを寂しげに照らしています。啓は身を低くして出店の間をぬうように進み、テントに向かいました。そして、閉まっている入場口前に着くと、耳を立てて何の物音もしないのを確かめてから、テントの布の間に身を滑り込ませて、こっそり中へ忍び込んでいきました。

 テントの中は薄暗くて、しーんと静まり返っていました。もし首飾りが落ちているなら、ここに違いないと、啓は客席や舞台の周りを見て回りました。最初は自分達が座っていた座席の下を、それから段々周りへと、微かな光を頼りに床に這いつくばり、イスの下を一つ一つ覗き込むようにして、捜していきます。しかし、何処を捜しても、銀の四葉のクローバーを見つけることは出来ませんでした。

 啓が身を起こして、痛くなってきた腰をさすった時でした。足音がして、人の話し声が近づいてきたのです。啓は息をするのも忘れて、とっさに隠れる所を見つけようと、会場の中を見回しました。すると、舞台正面の左側奥の所に、丁度良い具合に大きな木箱が積まれて、影になっている所が目に留まりました。急いで舞台に駆け寄り、箱の後ろに体を滑り込ませて息を殺していると、しばらくして、二人の男が話しながら会場の中に入って来るのが聞こえてきました。

 「全く、一体誰がやったんだか。お陰で団長はカンカンだ」

 「誰かの悪戯かね。鏡を全部割っちまうなんてなあ。サーカスにあるやつ全部だとよ」

 どうやら会場に入ってきたのは、サーカスの雑用係のようでした。二人は啓が木箱の後ろに隠れているなんて夢にも知らずに、不機嫌そうな声で話をしています。

 「鏡を一枚残らず割るなんて。明日のショウまでに何とかしろって、団長に怒鳴られたぜ」

 「今日は綱渡り師のストライザも落ちて怪我をするし、ついていない日だな。でもあいつ、よくあの高さから落ちて、生きていられたもんだなあ」

 啓は息をひそめて、見つかりはしないかと、じっとしゃがんで縮こまっていました。心臓の音が聞こえるくらいにドキドキと大きく波打っています。しかし、男達はそのまま話を続けながら、すぐ何処かに行ってしまい、会場はまた静かになりました。しばらく待っても、男達が戻ってくる様子がないので、啓はほっとして立ち上がろうとしました。しかし次の瞬間、突然暗闇から声がして、驚いて飛び上がってしまいました。

 「何しに来たんだ、お前さんは?」

 驚いたことに、木箱の後ろに隠れていたのは、啓だけではなかったようでした。何処からともなくもれてくる微かな明かりで、箱の裏に誰かもう一人隠れているのが見えたのです。

 「あ、あなたは…」

 啓が震える声を絞り出すと、その人は微かに笑いました。体のあちこちを包帯で巻いて、奥の壁にもたれるように座っているその人は、綱渡り師ストライザでした。風変わりな帽子と、鼻の辺りまでの仮面を片手に持っているので、すぐに彼だと分かりました。

 驚きのあまり声も出ない啓を、ストライザは身動きもせずにじっと見つめていました。薄暗い木箱の影で、不思議に光っているように見えるストライザの瞳に、思わず背中に寒気が走ります。心の中までも見透かされてしまいそうな不安にかられて、啓が慌てて視線をそらせると、ストライザは囁くように言いました。

 「お前さんは忍び込んで来たんだな。こんな夜中に子供が外を出歩いて、サーカスのテントに迷い込むなんて危険だぞ」

 ストライザの発音には、わずかに外国なまりが感じられましたが、驚く程流暢な日本語でした。

 「あなたこそ、こんな所で何をしているの?」

 啓が隠れている木箱の後ろは、小道具置き場になっていて、梯子や机、古い錆びた用具などで散らかっていました。かび臭くて埃っぽくて、怪我をした人が寝かされるような所には、とても見えませんでした。

 ストライザは身動きもせずに、小声で答えました。「お前さんと同じさ。誰にも見つからないように隠れているんだよ」

 啓にはなぜストライザが、こそこそと隠れなければならないのか分かりませんでした。自分はともかくとしても、ストライザはサーカスの一員なのです。テントの中の何処に行こうが、誰に見つかろうが、問題はないはずなのですから。

 「どうして、あなたが隠れなければいけないの?それより、あんな高い所から落ちて怪我をしたんだから、あんまり動き回らない方がいいんじゃあないの」

 ストライザは啓の言葉に目を細めました。「どうして、俺が綱から落ちたことを知っている?そうか、お前さんは、今日のショウを観ていたんだな」

 啓はためらいながらも頷き、そして気がつきました。目の前にいるストライザは、見上げるように高い天井に渡してあった綱の上から、つい数時間前に落ちたのです。普通なら、まず命はないはずでした。さっき会場に入ってきた二人の男達も、そう話していたではないですか。そのことを思い出して、啓はぞっと背筋の凍る思いがしました。

 ストライザは何かを考えているように、まだ目を細めたまま啓をじっと眺めていました。彼は先程言いました。誰にも見つからないように、こんな所に隠れているのだと。生きているだけでも不思議な程の怪我をした人が、どうやって、この場所まで移動して来たのでしょうか。啓は訳も分からず怖くなって、すぐにでもここから逃げ出したくなり、震える足を一歩踏み出しました。するとストライザは、片手をすっと差し出してきました。啓は驚いて、それ以上動けなくなってしまいました。ストライザが差し出した片手のこぶしを開くと、中から何かがこぼれ落ち、振り子のようにぶら下がって揺れました。薄明かりに慣れていた啓の目に、それは眩しいくらいにキラキラと光って見えました。

 「あっ、それ!」

 啓が声を上げたのも無理はありませんでした。それは啓が捜している四葉のクローバーだったのです。ストライザは啓の反応を見て、にやりと笑いました。

 「やはり、お前さんがここに来た理由は、これだったのか」ストライザは啓の首飾りを、また手の中に握り締めました。「ショウの後、会場に落ちていたのを道具係が見つけたので、預かっておいたのさ。なぜだか分かるか?」

 啓が答えられないでいると、ストライザは近くに来るように彼に手招きをしました。それでも、啓が怖がって動けずにいると、

 「これはお前さんの物なんだろう。だからこうして、夜中にわざわざサーカスに忍び込んで来たんじゃあないのか。これを捜すために」そう言って、またにやりと笑いました。

 啓は震えながらも、仕方なく言われる通りに、ストライザの近くへ行きました。

 「どうして、これを預かっていたのかと言うと、こいつが原因だからさ、俺が怪我をしたのは。五回転の技をした時、ライトの光に反射して、何かがピカッと光ったのが見えた。その光に目を眩まして、着地する足を踏み外して下に落っこちてしまったって訳なのさ。その光った物は、お前さんのこの首飾りだったんだ」

 「そ、そんな。どうして光った物が、僕の首飾りだって分かるのさ。お客さんが他にもあんなに大勢いたじゃあないか。そんなの、分かるはずがないよ」啓は怖さも忘れて、つい声を荒げてしまいました。

 「しーっ、静かにしろ。誰かに見つかるとまずい」

 ストライザは、慌てて啓を黙らせました。

 「そうだ。普通なら、そんなこと分かるはずがない。普通なら、三十メートル上にある綱から落ちて助かるはずはないし、普通なら、この首飾りがお前さんの物で、そのためにわざわざ忍び込んで来たことも分かるはずはない。いや、それくらいのことだったら、誰にでも分かるかもしれないが」ストライザは肩をすくめました。

 「普通ならって、どういう意味?」

 「普通ならありえないことが出来るってことは、つまり、俺は普通じゃあないってことさ。高い所から落ちてもこうして生きているし、お前さんがどうして忍び込んで来たのかも、俺の目を眩ませたのが、人や物が沢山あった中でも、この首飾りだってことも分かるのさ」

 啓は何も言えなくなってしまいました。ストライザの言っていることは、普通ならとても納得のいかないものでした。しかし彼は現に、こうして怪我をしながらも生きているし、啓が首飾りを見つけるために忍び込んで来たことも、見抜いてしまったのです。

 次の瞬間、ストライザはいきなり啓の腕を掴んだかと思うと、ぐいっと力を入れて、彼を自分の方へ引き寄せました。啓は恐ろしくて、逃げ出そうと身をよじりましたが、ストライザの力は強く、とても振り切ることなど出来ませんでした。怪我をした人にこんな力が出るなんて、啓は死にそうな程怖くなりました。

 「お前さんに、頼みがある」ストライザは啓の腕を掴んだまま、突然言いました。「他に頼める者がいない。このサーカスの連中は、誰一人信用出来ないし、向こうに戻ろうにも、鏡を全て割られてしまったので無理だ」

 啓は突然思いもよらないことを言われて、困惑してしまいました。

 「いいか。今から俺の言うことを良く聞くんだ。今はとても信じることは出来ないだろうと思うが、これから話すことは全部本当のことなんだ」ストライザはまだ啓の腕を掴んだまま、放してはくれません。「今日、俺はショウで失敗して、体の自由を奪われてしまった。理由は先程言ったように、お前さんの首飾りの光に目が眩んだせいだ。しかし、だからと言ってお前さんを責めている訳ではない。遅かれ早かれ、あいつらのせいで、どっちみち俺は同じような目にあっていたかもしれない。用心はしていたんだが」

 「あ、あいつらって?」啓の声は、自分でも分かるくらいに震えていました。

 「サーカスの連中だよ。あいつらは、俺が持っているある物に目を付けてから、ずっと奪おうと企んでいたのさ。俺は訳あってフィエーロサーカスと一緒にしばらく旅をしていたんだが、その間に俺の正体がばれてしまったらしいんだ。おまけにあの物を見られてから、あいつらはあれを手に入れようと、ずっと隙を狙っていたのさ。普段なら、あんな奴らが束になってかかって来たって、何てことはなかったんだが、今のように怪我をしている時には、さすがの俺でも、一人で抵抗するのは無理だ」

 ストライザは傷が痛むのか、一息ついて顔をしかめました。

 「あいつらは、いずれ俺をこういう目にあわせて動けなくして、あれを奪い取ろうと企んでいたんだろう。しかし、自分達の手を汚さずとも、今日運良く俺が自分から失敗して、こんな姿になったので、あいつらは手を叩いて喜んでいるだろうよ。今夜あいつらは、あれを奪いに必ずやって来る。俺はその前に、どうにかして向こうに戻ろうとしたんだが、鏡が全部割られてしまったので、どうしようもなかった。俺があれを持ったままいなくなってしまうことのないように、あいつらが割ったんだ。それで俺は、こんな所に隠れているって訳なんだ。さすがの俺でも、ここに隠れるだけで精一杯だった」ストライザは痛そうに体を少し動かしました。

 啓はストライザの話を黙ったまま聞いていましたが、正直言って分からないことだらけでした。分かったことと言えば、ストライザに何か訳があって、フィエーロサーカスと一緒に旅をしていたこと。そして、彼が持っているある物をサーカスの仲間に狙われていて、それを取られることを恐れて、怪我をしているにもかかわらず、こんな小道具置き場に隠れているのだということくらいで、それ以外はさっぱり理解出来ませんでした。ストライザは正体がばれてしまったと言いますが、どういうことなのでしょう。そして彼の言う向こうとは、一体何処のことなのでしょう。それが何処であれ、向こうに戻ることと、鏡が割られたことに、どういう関係があるのでしょう。一体ストライザは何を持っているというのでしょうか。

 「あいつらは、俺が部屋にいないのに気付いて、あちこち捜して回るだろう。ここにもいずれやって来る。そうなる前に、お前さんが先にやって来てくれたことに、本当に感謝したいくらいさ」

 ストライザは痛そうに顔を歪めながら、啓の腕を掴んでいる手をそのままに、もう片方の手で帽子の中からある物を取り出しました。そして、それを銀の四葉のクローバーと一緒に啓の手の平にのせると、自分の手で包み込むように、ぎゅっと握らせました。

 「あいつらに奪われる前に、これを頼む。あいつらに取られる訳にはいかないんだ。これはある人を捜すための大切な物で、俺は…。お前さん、名前は?」

 突然聞かれて、啓は乾いた声で自分の名前を言いました。

 「そうか、啓か。いいか、啓。これから俺の言うことをしっかり聞くんだ。今は意味が分からなくても、とにかく聞くんだ。さっき、俺が自分を普通ではないと言ったのを憶えているだろう?なぜかと言うと、俺はこの世界の人間ではないからなのだ」

 啓の頭の中が、一瞬真っ白になってしまいました。

 「俺はこちらの世界の者ではない。鏡の向こうからやって来た者なのだ。だから、こちらの世界からしたら、俺は普通ではないのだ」

 ストライザが何を言っているのか、啓には全く理解出来ませんでした。この人は何を言っているのでしょうか。こちらの世界だの、普通ではないだの、おまけに鏡の向こうからやって来たなんて。この人はどうやら落ちた時頭を打って、少しおかしくなってしまったのだと啓は思いました。しかし、そんな彼の考えを見透かしたように、ストライザは言いました。

 「言っておくが、俺は頭を打っておかしくなった訳ではないぞ。これは全部本当のことなのだからな。お前がすぐに、俺の話を信じられないことくらい分かっている。しかし今はとにかく聞くんだ。俺は今、ある人を捜している。アークという名の人物だ。その人を捜し出すためのヒントがこれなのだ」ストライザは啓の手に握られている物を示しました。「これはあいつらが思っているような、宝でも何でもない。アークを捜すための手掛かりだ。これを奪われてしまっては、アークを捜し出すことは出来なくなってしまう。頼む、これを預かってくれないか」ストライザは啓の腕を握る手に力を入れました。「そして、頼む。俺にもしものことがあったら、俺の代わりにアークを捜し出して欲しいのだ」

 「え?」啓は目を見開きました。

 「どうしても俺は、アークを見つけ出さなくてはならないのだ。俺は向こうに戻れないし、ここに隠れていてもあいつらに見つかって、これを奪われてしまうのはもう時間の問題だ。だから頼む。俺の代わりに、これを持ってアークを捜してくれ。アークも俺と同じ、鏡の向こうの人間なのだ。だから、お前さんを鏡の向こうに行けるように力を貸してやる」

 ストライザはそう言うと、人差し指を啓の左耳の後ろに当てました。ピリッと、まるでそこに氷を当てられたような冷たい感触が走り、啓は思わず身を引いてしまいました。その動きにはっとしたように、ストライザはぱっと啓の腕を掴んでいた手を離して、目を見開きました。

 「俺は…。俺は、一体何を…」

 ストライザに触れられた耳の後ろをなでながら、啓は彼を見つめました。ストライザは目を二、三回パチパチさせて、呆然と啓を見つめ返しました。

 「俺は一体、何を言っているんだ。全くどうかしている」そして首を振りながら、笑い声をもらしました。「全くどうかしている。本当にどうかしている。こんな大事なことを、見ず知らずの子供に頼むなんて、全く正気の沙汰ではない。無理に決まっているではないか。やはり、落ちた時に頭でも打って、思考回路がどうかしてしまったのではないだろうか。全く情けない。いくら追い詰められて焦っているからって、会ったばかりの子供に、アークを捜してくれなんて頼むだなんて」

 ストライザは疲れたように、手で額を押さえました。

 「すまない、啓。俺はどうかしていたんだ。俺が頼みたいのは、こうだ。それをある人に届けてくれ。そうだ、それでいい。それをある人に届けてくれるだけでいい。その人も鏡の向こう側にいる。だから、どっち道お前には鏡を通り抜けてもらうことにはなるが、それを届けてくれるだけでいい。いいか、サーカスの奴らに見つかる前に、鏡を通り抜けて向こうの世界に行くのだ。うっ…」

 傷が痛み出したのか、ストライザが苦しそうに呻きました。しかし彼を心配する余裕のない程、啓の頭はこんがらがっていました。鏡の向こうの世界?鏡を通り抜ける?啓にはストライザが、まるで違う国の言葉を話しているように思えました。

 「それから、警告しておく。絶対に誰にも、俺が今話したことを言ってはいけない。アークの名前も、この手掛かりのことも、なるべく人に知られないようにするのだ。そうしないと、お前さんに何か危険が及ぶことになるかもしれない。それから向こうに行っても、お前さんが鏡のこちら側の人間だということを、誰にも知られるなよ。いいな」

 そしてストライザは、啓の手を指差しながら付け加えました。

 「それを、ある人に届けるのだ。そしてその人に伝えてくれ。その手掛かりは、バスクケの…」

 そこまで言い掛けて、彼は突然言葉を飲み込み、視線を宙に漂わせました。微かですが、物音が聞こえてきました。ストライザが小さく舌打ちしました。

 「ついにあいつらがここまで来たか。急ぐんだ。早く行け。あいつらに見つかる前に、それを届けてくれ。その人は…」

 しかし、ストライザは最後まで言うべきことを言い終えることが出来ませんでした。今度は、すぐ近くで物音が聞こえたからです。

 「行くんだ。早く逃げろ!」

 突き飛ばされるように体を強く押されて、啓は何が何だか分からないまま、舞台を飛び越え客席を抜けて、テントの外に出ました。視線の端に、ちらりと影が動くのが見えましたが、それが何なのか確かめる暇もなく、無我夢中で走り出しました。

 

 何処をどう走って家までたどり着いたのか、全く覚えていませんでした。彼はハアハアと大きく息をして、ベッドに崩れるように座り込みました。いつまでも呼吸がおさまらず、全身に汗がにじんでいました。寒くもないのに体がガタガタと震えます。ようやく少し落ち着いてきた呼吸の中、たった今何があったのか頭の中で整理しようとしましたが、とても気持ちを集中させることが出来ませんでした。

 ふと気付くと、力を入れて握り締めたままだった手の中に、啓の大切な銀の四葉のクローバーと、ストライザから渡された物がありました。それは、小さなこげ茶色をした革の袋でした。彼はその袋を見下ろしながら、ストライザの言ったことを思い出しました。

 『アークという人物を捜している。俺の代わりにアークを捜してくれ。俺は鏡の向こうからやって来たのだ…』

 サーカスのテントの中であったことを考えれば考える程、何もかもがおかしくなってしまったように思えてきました。あの綱渡り師は、一体何を馬鹿なことを喋っていたのでしょう。鏡の向こうの世界など、あるはずがないではありませんか。だって鏡とは、単に物を映す一枚のガラスなのです。物を映しているだけの道具の中に、別の世界が存在しているはずなど、ある訳がないではないですか。ストライザは啓がそんなことも知らないと思って、からかったのでしょうか。啓は少し頭にきました。いくら彼が童顔で小柄だからって、ひどい話です。啓は年より幼く見えるとしても、中学一年になったのです。もう子供騙しの作り話に騙されるような年令ではないのですから。

 額の汗が引いていき、熱くなっていた体から熱が引いていくと、啓は段々可笑しくなって、笑い始めました。まんまとストライザの意地の悪い冗談に引っ掛かってしまった自分が、馬鹿馬鹿しくなってきたのです。しばらく自分の間抜けさにさんざん笑ってから、彼は取り戻した銀の首飾りを、大事そうに首に掛けました。

 啓はふと、革袋を見下ろしました。ストライザは、これはアークという人物を捜す手掛かりで、値打ちのあるものだと勘違いをしたサーカスの人達が狙っていると話していました。どうせそれも作り話だと分かっていましたが、中に何が入っているのか興味を持ち、早速、革袋を手の上で逆さにしてみました。

 そのまばゆいばかりに輝く宝石のように美しい物が、手の中に転がり出てきた瞬間、彼の呼吸は止まってしまいました。大人しくなった心臓がまたドキドキと大きく打ち始め、顔色がみるみる血の気を失って青ざめていき、体が震え出しました。

 『あいつらは、これを狙っているのだ』 

 またストライザの言葉が、啓の頭の中によみがえってきました。

 『これは、あいつらが思っているような宝でも何でもなく、アークを捜すための手掛かりなのだ』

 ストライザの話が冗談だと思っている啓の手の中で、それはキラキラと輝いて、彼を不安の渦巻く暗闇の中に、突き落とそうとしているようでした。もしストライザが啓をからかうために、あんな冗談を言ったのだとしたら、手の中にある物はどう説明したらよいのでしょう。彼の言っていたことが全て冗談であるためには、ここにある物も冗談のような物でなくてはならないのです。しかし実際には、冗談とはとても言えない物でした。ということはストライザの話も…?

 さっきストライザに触られた左耳の後ろが、ちりちりと引っ掻かれたように痛み出してきました。ストライザはあんなに高い所から落ちても無事でいたのは、自分が普通ではないからだと言っていました。なぜ普通ではないかと言うと、鏡の向こうから来たからだと。普通の人なら死んでもおかしくない事故なのに、ストライザは生きているどころか、サーカスの人達から隠れるために、自分の足で歩ける程だったのです。そもそも、彼は啓より先に、木箱の裏に隠れていたではなかったですか。彼には今夜、啓があそこにやって来るのを知ることなんて出来なかったはずです。ですから、啓をからかうために待ち伏せしていたなんてことが、あるはずがないのでした。

 啓は頭を抱えてしまいました。サーカスのテントに忍び込むなんて、止めておけば良かったのです。それより、最初から信の言うことを聞いて、フィエーロサーカスなんかに行かなければ良かったではないですか。啓は頭が混乱してしまって、考えるのが嫌になってしまいました。もうとにかく夜も遅いし、色々あって疲れたので、眠ってしまおうと思いました。一度ぐっすりと眠って明日になれば、何か良い考えが浮かぶかもしれないし、信に相談してみればどうにかなるとも思ったのでした。

 パジャマに着替えるのもおっくうだったので、服を着たまま明かりを消して、啓は頭から布団を被って横になりました。さっきまで明るく輝いていた月は、雲に隠れてしまったようで、明かりを消した部屋の中は、海の底のように真っ暗になりました。とにかく今は眠ってしまおうと、啓はしっかりと目をつぶって何も考えないようにしました。

 カタン、とその時小さな音がして、啓は布団の中ではっと目を開けました。風に吹かれてドアが揺れたような音でしたが、なぜか妙に気に障る音だったので、しばらく耳をすませて布団の中でじっとしていました。するとまた、カタカタと音が聞こえてきました。今夜は風なんてなかったのにと不審に思っていると、カタカタという音はそのままずっと続き、鳴り止まなくなりました。

 啓は布団を跳ね除けて、様子を見に行こうとベッドから下りて、部屋のドアの隙間から顔だけ覗かせて、倉庫の入口に続く階段を見下ろしました。彼の目はすでに暗闇に慣れていたため、ぼんやりとドアが見えました。ドアは微かに揺れながらカタカタいっていましたが、突然ぴたりと止まって動かなくなりました。野良猫だろうと思って、ベッドに戻ろうと、覗いていた顔を引っ込めようとした時です。驚いたことに、ドアが音もなくわずかに開いたではないですか。啓の心臓がドキンと大きく鳴り、彼は急いで顔を引っ込めてしまいました。

 そんな馬鹿な、と啓は思いました。確かに帰って来た時、鍵はいつものようにちゃんとかけたはずです。もし外にいるのが家族なら、ノックをして啓の名を呼ぶはずでした。啓が恐る恐るまた下を覗いて見ると、ドアはやはりわずかに開いていました。そして今度は、そのわずかな隙間から、白い手がぬっと入ってきたではありませんか。誰かがドアを開けて、中に入ってこようとしているのです。恐ろしさのあまり足の力が抜け、啓は壁にもたれてしまいます。胸がドキドキと早く打って、息苦しい程でした。

 その時、いつの間にそうしていたのか、ストライザから預かった革袋を、しっかり握り締めていることに気がつきました。そしてはっとしました。あいつらです。サーカスの人達が、ストライザの大切な物を取り返しに、やって来たのに違いありません。恐らく彼らは、啓がテントから逃げ出すのを目撃して、後を追って来たのでしょう。そして、ストライザがこれを持っていないのを知ると、すぐに啓が怪しいと睨んで、家にやって来たに違いありません。ドアの隙間から表れた白い手。暗闇とはいえ、人の手があんなに青白く光って見えるはずがありません。きっと白い手袋をしているフィエーロサーカスの人の手なのでしょう。サーカスの人達が、ストライザからの預かり物を奪うためにやって来たのです。

 どうしよう。

 啓の心臓は、壊れた機械のように激しく脈打っています。みしっ、と階段のきしむ音がしました。ついに奴らがドアから入って来て、階段を上り始めたのです。啓は急いでストライザから預かった革袋をポケットに押し込みました。

 どうしよう。

 啓は部屋の中を見回しますが、逃げる所も隠れる所もありません。タンスの中になんか隠れたって、すぐに見つかってしまうでしょうし、窓から外に出るといっても、下に飛び降りて無事でいられるかどうか、ストライザでもあるまいし、とても自信がありませんでした。天窓も小さすぎて、通り抜けることは出来ませんでした。

 どうしよう。

 全身に汗が噴き出し、呼吸が荒く浅くなっていきます。

 どうしよう。

 家族を大声で呼びましょうか。しかし、ここからいくら叫んでも、母屋で寝ている家族を起こせるか分かりません。ストライザは言っていました。これを奪うために、奴らはいずれ自分を動けないような目にあわせただろうと。足が恐ろしさのあまりにガクガクしてきました。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう!

 みしっ、と足音はゆっくりですが、確実に近づいて来ていました。啓は必死で暗い部屋を見回しました。

 その瞬間、雲に隠れていた月が出てきたのでしょう、柔らかい月光が天窓から差し込んで、部屋の中が明るくなりました。キラリと鋭い光が啓の目を刺しました。見ると、そこにあったのは、部屋の隅に置いてある姿見の鏡でした。天窓から差し込む月光が、鏡の中にいる自分を照らしていて、首から提げている銀のクローバーに反射して光ったのです。

 『俺は鏡の向こうから来たのだ。鏡を全て割られてしまったので、向こうに戻れない。あいつらのせいだ…』

 そして、啓は木箱の後ろに隠れながら聞いていた、二人の男の会話を突然思い出しました。

 『誰かの悪戯かね。鏡を割っちまうなんてなあ。一枚残らず割られちまっている』

 みしっ、とついにすぐ後ろで音が聞こえたその瞬間、考えるよりも先に、体が恐怖のために動き出していました。頭の中では、まだストライザの話を信じていた訳ではもちろんありませんでしたし、鏡の中に別の世界があるなんて、考えることも出来ませんでしたが、その時はそんなことを考えている余裕なんて、とてもありませんでした。ただもう、自分を追ってきた白い手から逃れることだけを考えて、啓は頭から鏡に突っ込んでいったのでした。


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