第1部 謎の綱渡り師:3 フィエーロサーカス
信がそんな心配をしていることは少しも知らずに、次の日も、啓はフィエーロサーカスの広告をあちこちで見る度に、楽しみに胸を躍らせていました。市にやって来るサーカスを、啓は毎回とても楽しみにしていました。特に、今回のサーカスは今まで観たサーカスと比べても、何やらとびきり面白そうでした。
その夜、夕食時に啓は思い切って、自分からサーカスのことを言い出しました。
「ねえ、フィエーロサーカスのことだけど」
途端に、それまで明るかった食事の席が緊張に変わりましたが、サーカスのことを話すのに一杯で、啓は皆の様子が変わったことに、気がつきませんでした。
「すごく面白そうだよ。学校でも話題になっていた。ねえ、僕達も観に行くんでしょう?」
啓以外の四人は固まってしまい、気まずそうに食事の手を止めてしまいました。
「来週やって来るんだって。楽しみだなあ。ねえ、前にあのサーカスが連れてきた、三つ目の女の話…」
「あんな、いかれたサーカスには行かない」信が啓の言葉をさえぎりました。
啓は驚いて信を見ました。しかし、信は啓の方を見もしないで、また言いました。
「あのサーカスは駄目だ。あんなのは、いかれた連中の観るものだ」
「そんなことないよ。ねえ、観に行くんでしょう」啓が今度は、父親や母親の方を向いて言いました。
「悪いけど、無理そうなのよ。その…、お店が忙しくて、暇がなさそうなのよ」
「そうなんだよ。すまないが、今回は無理なんだよ、うん」
父親と母親は、苦し紛れに嘘を言いました。絵里は何も言わずに食事を続けています。
「それなら僕も学校から帰って、すぐにお店を手伝うからさ。そうしたら、皆でそろって観に行けるでしょう?すっごく面白そうなサーカスなんだ。だから…」
「駄目だって、言っているだろう!」
信が乱暴に、持っていた箸をテーブルに叩きつけるように置いたので、啓はびっくりして黙ってしまいました。
「あんなサーカスに行くことは、絶対に許さない。駄目だと言ったら駄目だ!」
そして信は立ち上がると、台所から出て行ってしまいました。
母親が困ったように、父親と顔を見合わせます。啓はとてもびっくりしてしまって、珍しくその夜は夕食を残してしまいました。信の態度にショックを受けたために、食欲を失ってしまったのです。
店の二階にある自分の部屋に早々に戻ってからも、彼はなかなか寝付けないでいました。いつまでも、信の怒った顔が頭から離れなかったのです。なぜ信が怒り出したのか、啓には全く分かりませんでした。ただサーカスを観に行きたいと言っただけだったのに。普段は優しい信が、あんなに顔色を変えるなんて。彼はフィエーロサーカスのことを、いかれたサーカスと言っていました。それがどういうことか、啓には良く分かりませんでした。確かに、三つ目の女を思えば、いかれていると言う表現も分かる気がしましたが、あんなに怒ることはないではないですか。
啓はもう寝てしまおうと思い、机から立ち上がりました。もしかしたら、今日信はただ機嫌が悪かっただけなのかもしれないし、明日になれば機嫌を直して、サーカスに連れていくと言ってくれるかもしれないと考えたのです。明かりを消そうと手を伸ばした時、誰かが一階の倉庫のドアをノックする音が聞こえてきました。階段を下りてドアを開けてみると、驚いたことに信が立っていました。
「信、どうしたの?」先程の信の怒った顔を思い出して、啓は少しドキドキしました。
「まだ明かりがついているのが見えたから、ちょっと様子を見に来たんだ」
信はもう怒っていないようでした。二人は黙って啓の部屋に上がって行きました。
「さっきは、すまなかったな」しばらくして、信は床を見つめたまま、口を開きました。
啓は何と言っていいのか分かりませんでした。静かに喋る、元気のない信の姿を見て、どうしたんだろうと考えていました。いつもはとても大きくて強く見える彼が、何だか今は少し小さく見える気がします。
「あのサーカスのことなんだが」信は顔を上げました。「どうして俺が突然怒鳴ったのか、驚いたと思うけど、それにはちゃんと理由があるんだ。それをお前に話しに来たんだ」
啓は黙ったまま、ベッドに腰掛けている信の隣に座って、彼が話すのを聞いていました。
「実は、あのサーカスは、その…。何て言ったらいいんだ」信はとても言いにくそうに、口をもごもごとさせました。「この家にやって来る前は、お前はたぶんサーカスにいて、そこから逃げて来たんだろうって話したことを憶えているか?実は、お前がこの家に現れた頃、フィエーロサーカスが緑ヶ丘市に来ていたんだ。だから俺達は、お前がフィエーロサーカスから逃げて来たんじゃあないかと考えているんだ」
啓は驚いて口を開けてしまいました。「僕が、フィエーロサーカスから逃げて来た?」
「もちろん、本当のことは分からない。なにせお前自身も、何も憶えていなかったんだからな。でも、それ以外に考えられなかったんだ。俺達は、奴らがいずれお前を見つけ出して、連れて行ってしまうんじゃあないかと、ずっと不安だった。でも、お前がうちに来たその次の年に、もう一度だけやって来て以来、奴らはずっと戻ってこなかった。だから安心していたんだ。奴らもお前を捜すのを諦めたんだろうと思っていた。母さん達も、もうあれから何年も経ってお前の見た目も変わったし、心配はいらないって言っていた。でも、俺はどうしても心配なんだ。もしあいつらが、お前を連れて行ってしまったらと思うと」
啓には、信の言っていることが信じられませんでした。まさか自分がフィエーロサーカスから逃げ出して来たなんて。つまり、啓はその昔、フィエーロサーカスの一員だったということなのでしょうか。
「僕がフィエーロサーカスにいたなんて、まさか、そんなことある訳ないよ」
「普通なら、そう思うだろうな。しかし、反対にそう考える以外にはあり得ないんだよ、お前の場合は」
啓は今まで考えてもみなかった自分の過去の話に、すっかり困惑してしまいました。昔のことを何も思い出せない啓にとって、自分がフィエーロサーカスにいたと言われても、素直には信じられませんでしたし、あり得ないことだと思いました。
「だから、俺はお前をあのサーカスには連れて行きたくないんだ。あのサーカスに近づいて欲しくもない」
「でも、僕がサーカスから逃げて来たとしても、それは何年も前のことでしょう?それに僕はもう十三才だよ。そんなに簡単に連れて行かれたりしないよ」啓は立ち上がり、腕を捲り上げて見せます。「背もこんなに伸びたし。ほら見て、腕だって少しは太くなってきたでしょう。もし誰かが僕をどうにかしようとしたって、戦ってやるよ」
そんな啓を見て、信は思わず笑い出してしまいました。「そんな小さい体と細い腕で、どうしようって言うんだ?そんな腕じゃあ、サーカスの猿にも勝てやしないぜ」
「なにおう、言ったな」
啓は信に飛びついていきました。しかしいつもの通りに、信はあっさりと啓を押さえつけてしまいました。
「ははは、俺に勝てるとでも思っているのか。五十年早いぜ。お前なんて、簡単に連れて行かれちまうぜ。サーカスの連中は皆、強い奴ばかりだろうからな」
「それなら、信が奴らをやっつけちゃってよ。サーカスの奴らがやって来ても、信がパンの生地をこねるみたいにして、投げ飛ばしちゃえばいいんだ。そうしたら、誰も僕を連れては行けない。皆、信の大きな体を見ただけで逃げ出しちゃうよ。うわあ、こいつにはかなわないってさ。反対に信が連れて行かれたりして。猛獣遣いになってくれって」
信は押さえつけていた啓の体を離してあげました。
「ははは、言ってくれるぜ。確かに今のお前じゃあ、サーカスでも使い道がないって諦めるかもなあ。そんなひ弱に何が出来るんだって」
啓は懲りずに、怒ってまた信に飛び掛かっていきました。
啓は信の話を聞いて、フィエーロサーカスに行くことを諦めることにしました。もちろん、サーカスの広告を見る度に、そして、友達がその話で盛り上がるのを聞く度に、観たいという思いと戦わなければなりませんでしたが。それにもし、信の言っていたことが本当なら、フィエーロサーカスは彼が昔いた場所なのです。逃げ出した理由が何であれ、そこには仲の良かった友達や、もしかしたら彼の家族がいるかもしれないのです。それに、行けば昔のことを思い出すかもしれないのにと、少し残念にも思いました。しかし、連れ去られるかもしれないという言葉が怖いのも事実でした。連れ去られたまま、もう二度と家に戻れないなんて、それだけは絶対に嫌でした。
そうして日々は過ぎて四月二十七日になり、ついに明日がフィエーロサーカスの初公演という日になりました。その日、啓が学校から家に帰ると、仕事が早く終わったのか、信が家にいました。そして買い物ついでに啓を散歩に誘いました。もちろん、彼は承知して、制服を着替えると信と一緒に出掛けて行きました。驚いたことに、信は散歩と言いながら、サーカスのいる自然公園へやって来たではありませんか。
そこには、いつも見慣れている自然公園の広場とは全く違う景色が広がっていました。舗装された野外広場の中心には、大きなピンク色のサーカスのテントが、空を突き抜けるように高くそびえ立ち、その周りには、まだ公演は始まっていないというのに、沢山の人々が群がっています。見るとテントの周りに、まるでお祭りのように、沢山の出店が並んでいるのでした。食べ物屋からお菓子屋、おもちゃ屋や射撃屋まで出ていて、周りを大人や子供が楽しそうに囲んでいて、とても賑やかでした。いたる所にサーカスの人達でしょうか、派手な衣装を着た人々も混じっているのが見えました。
啓がその光景に見とれていると、信が声を掛けてきました。
「観たいんだろう、サーカスを。チケットを買っておこう。すごい人気のようだから、当日だと売り切れているかもしれないぜ」
啓は一瞬、信の言っている意味が分からず、きょとんとしてしまいました。
「その代わり、いつも俺のそばについていろ。どんな時でも一人にならないって約束できるか?」
啓は嬉しくて、信に飛びついていきました。「うん、もちろん約束するよ。ありがとう!」
サーカスを観に行けることになるなんて、信じられませんでした。もう完全に諦めていただけに、喜びはひとしおでした。嬉しさのあまり、サーカスに連れ去られるかもしれないという不安は、何処かに消えていってしまいました。
絵里の分も含めて、三人分のチケットを買った後、二人はテントの周りに出ている店を覗いて回ることにしました。
「ねえ、どうして僕は、昔のことを何も憶えていないのかなあ?」
啓は買ってもらった焼き立てのイチゴのクレープを頬張りながら、何気なく尋ねました。信は一瞬眉をひそめましたが、啓はクレープをかじるのに夢中で気がつきませんでした。
「きっと何か…、ショックなことがあったんじゃあないのか。ひどいショックを受けると、人は記憶をなくしてしまうことがあるんだそうだ。あまりにも辛いことがあると、その苦しみから自分を守るために、脳が記憶を閉じ込めてしまうんだと言うぜ」
「じゃあ、記憶をなくしてしまっても、全く頭から消えるんじゃあなくて、閉じ込めてあるだけだってこと?すると、またいつか出てくるかもしれないのか。僕もいつか思い出すことがあるのかな、自分のこと」
「そうかもしれないな。何かきっかけがあったり、昔いた場所に行ったりすると、ふとした瞬間に、戻ることがあるみたいだぜ」
啓は、巨大なピンク色のサーカスのテントを見上げます。
「ショックなことか。忘れてしまいたい程、辛いことってどんなことだろう。僕もそうやって、全部忘れちゃったのかなあ」
「お前の場合、高い所から落ちて、頭でもぶつけただけじゃあないか。ドジだから」
「ひどいよ」啓は笑っている信を睨み付けました。
わざと明るく話しながらも、信の心は沈んでいました。彼が考えている、啓が記憶をなくした理由なんて、とても話せません。でも、いずれ啓が全てを思い出してしまう日が来るかもしれないのです。啓の過去が、家族が考えた通りであってもそうでなくても、どちらにしろ、あまり幸せな過去ではないことに変わりはないだろうと、信は考えていました。
そんな信の複雑な心境も知らず、啓は店を一つ一つ楽しそうに見て回っていました。そして、ふと甘い香りに気付いて振り返りました。少し離れた所に、綿あめを売っている店がありました。どうやら、甘い香りはそこから漂ってきているようでした。途端に、何かキラリと鋭い光が、啓の目に飛び込んで来ました。何だろうと辺りを見回すと、綿あめの店の裏から、何やら白いものがひらひらととび出ているのが見えました。良く見ると、それは白い手袋をした手でした。店の後ろに誰か隠れていて、手だけを出してこちらに手招きをしているのです。そして、時々その手がキラリと光っているのです。どうやら、手袋に付いている飾りが光っているようでした。
白い手はひらひらと、まるで蝶のように軽い動きで、手招きをし続けています。啓は自分の周りを見回してみましたが、不思議と、白い手に気付いている人は、他にはいないようでした。啓は思わず、白い手に引き寄せられるように近づいて行きました。信は丁度、別の店に気を取られていて、啓が自分のそばを離れていくことに、気がついていないようでした。
いつの間にか、啓は自分を呼んでいる白い手に向かって、片手を伸ばしていました。啓の手が届きそうになると、白い手は手招きをするのを止めて、手のひらを上に向けて手を差し出してきました。啓がその差し出された手に、何のためらいもなく自分の手をのせると、動物用の罠に獲物がかかった時のように、白い手袋は小さな啓の手をぎゅっと素早く握ると、彼を店の裏に連れ去ってしまいました。
その時、店から顔を上げた信は、ようやく啓がいなくなっていることに気がつき、慌てて辺りを見回しました。少し離れた綿あめ屋の方を振り向いた時、丁度、啓が誰かに手を取られて、店の裏に消え去るところでした。信は慌てて綿あめ屋に駆け寄って行きました。啓の姿が完全に店の裏に消えてしまうと、信は不安で堪らず、大声で啓の名前を呼んでいました。
不吉な予感が、信の胸を埋め尽くしました。啓が誰かに連れ去らわれてしまって、もう二度と帰ってこないのではないかという恐怖が、彼の頭を駆け巡ります。不安で真っ青になりながら、信は急いで店の裏に回り込みました。すると、少し離れた所に、啓の後ろ姿が目に入りました。そばには水色の水玉模様が鮮やかなだぶだぶの衣装を着て、白い手袋をした道化が、片手に色とりどりの沢山の風船を持って立っていました。彼の顔は不気味な白塗りで、異様に大きく真っ赤に塗られた口を、耳まで裂けるのではないかというほど三日月形に広げて、嫌らしく笑っていました。彼は沢山ある中から青い風船を一つ取ると、身をかがめて啓に差し出しました。
その後、啓はようやく信の声に気付いて振り向きました。そして駆け寄ってきた信の顔が、まるで幽霊でも見たように真っ白で、強張っているのに驚いてしまいました。
「どうしたの、その顔。気分でも悪いの?」
「何だ、いきなりいなくなって。あれほど、俺のそばを離れるなと言ったじゃあないか」
体が震えるくらい不安にかられていた信に、啓は風船を見せて無邪気に微笑みました。
「ほら見て、この風船。あの人がくれたんだよ。どれでも好きな色をって言うから、僕は青いのをって言ったんだ」
啓はそう言って振り返りました。しかし、すでにそこには道化の姿はありませんでした。また風船を配りに行ってしまったのでしょう。
信は啓の嬉しそうな顔を見ていて、何だか可笑しくなってしまいました。どうして、さっきあんなにも不安にかられたのでしょうか。信は自分の慌てぶりが可笑しくて、笑ってしまいました。
その後二人は、美しい銀細工の店で足を止めました。啓はピカピカと光っている銀商品を見て、目を輝かせています。その中でもひと際輝いている物が、彼の目を引きました。それは店先の一番目に付く所に飾られている、四葉のクローバーの形をした首飾りでした。真ん中に小さな石がはめ込まれています。啓は一目見て、その首飾りを気に入ってしまいました。店のおばあさんは、啓が気に入った四葉の首飾りを手に取りました。
「これは幸せのクローバーだよ。ここに埋まっているのは水晶。持ち主を守り、導いてくれる。悪いものが近づいてきても、それから守ってくれるんだよ」
おばあさんは、首飾りを啓に手渡しました。彼が見下ろすと、光に当たってピカピカと眩しいほどに輝きました。なんて綺麗なのでしょう。啓は首飾りが欲しくて堪らなくなりました。
「これ、いくらだい?」
啓ははっと我に返って、おばあさんにお金を払っている信を見つめました。信はしゃがんで、買ったばかりの首飾りを啓の首に掛けてくれました。
「これは、お前のお守りだ」
啓は首に掛けられた銀のクローバーが、自分の物になったことが信じられませんでした。
「俺は、普段あんまりお守りだの何だのと、そんなたぐいは信じないたちなんだが、今はそんな物にでもすがりたい気分なんだよ。俺がいない時でも、このお守りが俺の代わりにお前を守ってくれると、そう願いたい」信は、啓の頭をくしゃくしゃ撫でました。「皆には内緒だぜ。俺がそんなこと信じているのかって、笑われちまうからだろうからな」
その時、啓は信がどれ程自分のことを心配していてくれるのか、理解したように思いました。でも正直言って、どうして信がそんなに心配するのか、理由が分かりませんでした。今日テントの周りで見掛けたフィエーロサーカスの人達は、とても陽気で明るく、彼らが自分を連れ去ろうとするなんて、とても考えられないと思ったのです。
信が啓と絵里をサーカスに連れて行くと聞いて、両親はとても驚きました。しかし、信はそんな両親に肩をすくめて言いました。
「いつまでも、見えない影に怯えていても、しょうがないだろう」
ついに、待ちに待った日がやってきました。今日は、啓達がフィエーロサーカスに行く日です。公演は夜の七時からでしたが、啓は朝から待ち切れない思いで、授業も全く頭に入りませんでした。
夕方六時頃、三人はフィエーロサーカスのテントがある自然公園へ向かいました。もう辺りは薄暗くなっていて、野外広場に広がる店の明かりが賑やかに光り輝いていました。その中でも、巨大なサーカスのテントは、照明の光に照らされて夜空にそびえたっていました。啓は信が買ってくれた首飾りを絵里には見せていたので、アクセサリーが好きな彼女が、ぜひその銀細工の店を見たいと探して回りました。しかし不思議なことに、その店は何処にも見つかりませんでした。がっかりしている絵里を引きずるようにして、彼らはその後、巨大なテントの中へ入って行きました。
啓は服の下に隠れていた首飾りを見えるように、襟の外に出しました。いざテントの中に入る時になって、サーカスに行けるという喜びでかき消されていた、連れ去られるかもしれないという不安が、再びよみがえってきたのです。だからこうして、お守りを見えるように掛けておけば、少しはその不安が消えるだろうと考えたのでした。不安と同時に、彼の心には少しの期待もありました。
「もし僕が、本当にフィエーロサーカスにいたとしたら、何か思い出すかもしれない」啓は心の中で秘かにそう願っていたのです。
外から見た巨大なテントは、中から見ると更に大きく感じられました。思わず見上げずにはいられない程高い天井からは、長いロープのような物がいくつも垂れ下がり、大きな照明が明るく下を照らしています。会場は大きな円形をしており、その周りを取り囲むように客席が並べてありました。すでに大勢の人が席について、ショウが始まるのを心待ちにしていました。
啓達の席は正面から少し左に寄った所でしたが、そこから会場全体が良く見渡せました。
「すごいわねえ、今まで観たサーカスの中でも、一、二を争うくらい大掛かりだわ」絵里が周りを見回して、わくわくした声で言いました。
啓もそわそわと忙しく会場を見回していました。初めて見るフィエーロサーカスの大きに、すっかり驚いてしまったのです。絵里の言う通り、今まで緑ヶ丘市にやって来たサーカスに比べて、フィエーロサーカスはとても豪華で、テントも客席も、何もかもが他のサーカスに比べて立派できらびやかでした。
もしかしたら、自分が昔このサーカスの一員だったのかもしれないと考えるだけで、啓は何だかぞくぞくしてきました。こんなに大きなサーカスにいて、町から町へと旅をしながら、一体どんな生活をしていたのでしょう。しかし、残念ながら今のところ、啓が昔のことを思い出す気配は少しもありませんでした。
七時になり、ショウの開始を告げるベルが会場に響き渡りました。しばらくすると、照明が次々に消されていき、辺りはあっという間に真っ暗になってしまいました。ざわついていた客席が、急にしーんと静まり返ります。
パッと一筋の光が、円形の舞台の中央を照らし出しました。偉そうな高いシルクハットを被り、白い手袋をした手に長い鞭を持った一人の男が立っていました。帽子の下からは、ライオンのたてがみのようなオレンジ色の髪が長く伸び、目はギョロギョロと油断なく光り、口の上には二本の髭がぴんと生えていました。彼は両腕を広げて、ライオンが吠えるような声を出しました。
「紳士淑女の皆様、今夜はフィエーロサーカスにようこそ。世界一の風変わりなショウを、たっぷりとお楽しみ下さい」
男の吠えたような声を合図に音楽が始まり、辺りが明るくなりました。舞台の出入り口の銀色のカーテンが開き、サーカスの芸人が次々に飛び出して来ました。皆派手な色のキラキラと光る衣装を着て、笑顔で飛んだり跳ねたりしています。そして全員が、おそろいの白い手袋をしていました。奇抜と言われているフィエーロサーカスでしたが、暗くて不気味な雰囲気は全然なく、噂に聞く程の怪しさはありませんでした。
今回、彼らが連れてきたのは、身長が三メートル以上あるノッポの男、指先から噴水のように水が飛び出す女性、すごいジャンプ力を持つ耳のとんがった男の子など、目を疑う人達ばかりで、啓はすっかり興奮してしまいました。特殊な芸人が繰り広げる、息を呑むような曲芸が次から次へと飛び出してきて、満員の客はすっかり釘付けになりました。
そんな中、水色の水玉模様のだぶだぶの服を着た、白塗りの道化が登場してきました。啓はその道化の姿を見て、すぐに誰だか気がつきました。信とチケットを買いに来た時、青い風船をくれた道化です。彼は舞台に出てくると、円の中心に立ってちょこんと客にお辞儀をして笑いました。白塗りの顔に赤く塗られた嫌らしい大きな口から、黄ばんだ歯が覗きます。啓は一瞬、道化が自分の座っている座席の方を、ちらりと見たように思いました。
その道化は、実は手品師で、助手の美女二人と共に、素晴らしい手品を披露してくれました。箱の中に入った美女が次の瞬間、煙の中で箱と共に消え去ったり、道化が膨らませた風船を割ると、中から大きな熊が出てきたりしました。道化は、啓に風船をくれた時と同じように白い手袋をしていて、それが照明の光を反射させて、時々キラキラと光って見えました。道化は最後に美女二人を大きな音と共に消してみせた後、お辞儀をして銀色のカーテンの向こうに消えて行きました。客は拍手喝采です。
次に出てきたのは、しなやかな筋肉の美しい上半身をあらわにして、キラキラのラメ入りの青いズボンをはき、背中まで尾を引くように、先の垂れ下がった風変わりな帽子を被った男性でした。白い手袋をはめた手には、先のとがった長いステッキを持っています。鼻の辺りまで顔半分を隠すように仮面を被っていて、そこに二つ開いている穴から、光った瞳が見えました。
彼は舞台の端にある梯子に駆け寄ると、軽やかに上り始めました。いつの間にか天井には、二本の綱がテントの端から端まで渡されていました。会場にスピーカーを通して、ライオンのような声が響き渡りました。
「皆様、ただいまより、我々の誇るべき天才綱渡り師、ストライザの登場でございます。彼は下に網もなく、命綱もない、高さ三十メートルもある所に渡してある二本の綱の上で、見事な芸をご披露いたします」
その間にも、綱渡り師ストライザはどんどん梯子を上っていき、一度手を上げて合図をすると、高さ三十メートル上に張られている綱の上をさっそうと歩き始めました。下から見上げる客が、息を呑んで綱渡り師を見つめます。彼は上から糸で吊られているのではないかと思うくらいに、綱の上で身軽に逆立ちや片手立ちをして見せ、二本の綱の間をかわるがわる飛び移り、コマのように回転したりしています。
いよいよストライザが最後の見世物、空中五回転をするというアナウンスが流れました。
「今から、天才綱渡り師ストライザによる、空中五回転の技をお見せいたします。この技は、大変難しい命懸けの技ですので、どうか彼の集中力を乱さないように、お静かに願います」
ドラムの音が響き渡り、会場の緊張感を高めていきます。スポットライトの光が、会場と客席の上を動き回り、その中の一つがストライザを照らします。綱の上でしばらく呼吸を整えていた彼の体が、突然動きました。勢いをつけて、空中に向かって高くジャンプしたのです。啓も瞬きをするのも忘れて彼を見つめます。ストライザの体が離れた勢いで、綱が大きく揺れるのが見えました。ゆっくりと、彼の体が空中で回転していきます。一回、二回、三回、四回、五回と回転をして、ストライザが見事、綱の上に着地しようとした時でした。
会場の中を動き回っていたスポットライトの一つが、突然啓達のいる客席を照らしたのです。眩しさに思わず目をしばたいてしまった啓は、その時何が起きたのか見ることは出来ませんでした。ライトの光が通り過ぎていき、彼が目を開いた時には、何か大きな音がして、辺りに人々の悲鳴が沸き起こっていました。どうしたのだろうと見上げてみると、驚いたことに、綱渡り師ストライザの姿が綱の上から消えているではありませんか。
「いやーっ!」啓の隣に座っていた絵里が、口に手を当てて悲鳴を上げました。
啓が驚いて見ると、彼女は天井を見上げる代わりに、下の舞台を見ていました。啓が彼女の視線を追っていったその先に見たものは、舞台の中央に転がっている一つの塊でした。
啓の心臓がドキリと大きく脈打ちました。会場にあるその塊は、見事な筋肉の美しい、綱渡り師ストライザではありませんか。啓の顔から血の気が引いていくのが分かりました。ストライザが着地に失敗して、地上三十メートル上から落下してしまったのでした。
辺りは騒然となりました。悲鳴を上げる女性達、ストライザに駆け寄るサーカスの人達、立ち上がってストライザの様子をうかがう人々。啓も思わず立ち上がって、前に座っている客の間から会場を覗き込もうとしました。その途端に彼は、押し寄せてくる人々に押し流されてしまいました。
あっという間でした。舞台へ向かう野次馬の群れに押し流されて、啓の姿が見えなくなってしまったのです。信は大急ぎで啓の名前を呼びながら、後を追って人を掻き分けて行きました。しかし大勢の客に揉まれて、ほとんど身動きが出来ません。
人々に押し流されながら、啓は必死で戻ろうともがきましたが、無駄でした。どんどん押し流されていき、とうとう舞台の所まで来てしまいました。
「皆様、どうか落ち着いてください。どうかお静かに、お席にお戻りください!」
舞台ではサーカスの人達が叫びながら、押し寄せてきた客を必死で食い止めていました。しかしその叫びも空しいまま、野次馬はどんどん舞台の周りに集まって来ていました。啓は押し寄せてくる客の流れに、押しつぶされてしまうかと思いました。息もまともに出来ず、声を出すことも出来ません。
その時です。野次馬を掻き分けるようにして、誰かが近づいてきました。その人物は、強く押されて倒れそうになった啓の手首を、しっかりと掴んだのです。彼が見上げると、そこには赤い大きな口で笑っている白塗りの顔がありました。それは、啓に風船をくれた白塗りの手品師でした。啓は突然現れた白い顔に、一瞬唖然としました。手品師の表情は、狙っていた獲物を捕らえたような興奮でみなぎっていました。大きく見開いた彼の灰色の瞳が、啓の頭からつま先まで、値踏みするように素早く動きます。そして、啓が驚くのもつかの間、手品師は彼の体に手を回すと、あっという間に何処かに連れ去って行ってしまったのでした。
「啓、何処だ、何処にいるんだ!」
必死で叫びながら、信は野次馬の群れを掻き分けて、啓を捜し続けていました。絵里も辺りを見回しますが、会場の中はストライザの事故で騒然としており、客はあちこちに動き回り、まさに混乱状態になっていました。あちこちから人の叫び声や泣き声が聞こえてきます。子供の泣き声や、女性と男性の怒鳴り合いや、お互いを呼ぶ声。こんな所から、どうやって啓一人を見つけることが出来るのでしょう。
やがてストライザが担架でカーテンの向こうに運ばれていくと、ようやく野次馬は段々静かになり始めました。まるで潮が引いていくようにして、人々が舞台の周りから離れ始め、騒然としていたテントの中も、落ち着きを取り戻していきました。それでも信は、まだ啓を見つけることが出来ずに、走り回っていました。
席に戻る人々の間に、奇妙なものを見たような気がして、信は思わず足を止めました。見るとそれは、だぶだぶの水玉模様の衣装を着て、白塗りの顔と大きな赤い口で不気味に笑う、道化の姿でした。チケットを買った日、テントの外で啓に風船を渡し、さっき舞台で手品を披露して見せた道化です。人の群れの中で、幽霊のように浮かび上がって見える彼は、赤い口を歪めて笑いながら、信の方をじっと見つめているではありませんか。なぜ彼がこんな客席の所にいるのだろうと、不審に思いながらも、信はなぜか道化から目を離すことが出来ずに、その場に立ちすくんでしまいました。すると気味の悪いことに、道化はゆっくり腕を上げて、真っ直ぐ信に向かって指を差してきたのです。まるで、道化が自分を指差して笑っているようでした。
信の背中に冷たいものが走り、突然訳の分からない恐怖に襲われました。なぜ彼は自分を指差して笑っているのだろう。なぜあんな所に立っているのだろうと、信が青い顔をしていると、道化はそばにいる誰かに、何かを囁くように身をかがめました。その時、人の波が引いていき、道化の隣に立っている小さな姿が目に入りました。
驚いたことに、道化の横には啓が立っているではありませんか。信は急いでそばに駆け寄って行きました。
「啓!心配していたんだぞ。見つかって良かった!」
「僕、あっという間に人に押されて、舞台の方まで行っちゃったんだ。すごい人で押しつぶされそうになって。でも、この人が助け出してくれたんだ」
そう言って啓が振り返った所には、もう道化の姿はありませんでした。
「助け出したって?」
「うん、それでその後、僕を信の所まで連れてきてくれたんだよ」
「とにかく無事で良かった。全く、どうにかなっちまうかと思った」
もしかしたら啓が誰かに連れ去られて、二度と帰ってこないのではないかと、信は心配していたのでした。さっき道化を見た時、あんなに不安になったのも、二度と帰らない啓を必死になって捜している自分を、道化があざ笑っているように見えたからでしょう。絵里も啓の姿を見て、ほっとしたように駆け寄って来ました。
皆が席に戻ると、テントの中にアナウンスが流れてきました。ストライザの命には別状はないということと、不祥事が起きたことを詫びる言葉が流れた後、サーカスのショウは続行され、それからは事故が起きることもなく、無事にショウは幕を閉じたのでした。
綱渡り師が落下するという事故があったものの、フィエーロサーカスは啓の期待していた通りの面白さだったので、彼はとても満足していました。まだサーカスの興奮が冷めないままでしたが、家に戻ったのが夜遅くだったので、その後すぐ自分の部屋に戻り、ベッドに入ることにしました。
服を脱いでパジャマに着替えていた時、首に掛けてあったはずのお守りの首飾りが、なくなっていることに気がつきました。啓は慌てて辺りを見回したり、服やポケットの中まで調べてみたりしましたが、何処にも見当たりませんでした。何処かに落としてきたのかと考えて、彼ははっとしました。綱渡り師ストライザの事故で人に揉まれた時です。あの時、きっと落としてしまったのに違いありません。
どうしよう、と彼は途方に暮れました。買ってもらったばかりで、あんなに大切にしていたのに、もうなくしてしまうなんて。そのまま首飾りを諦めて、大人しくベッドに入るなんてとても出来ませんでしたので、彼は決心して立ち上がると、また服を着始めました。こっそりフィエーロサーカスのテントに潜り込んで、首飾りを捜してこようと思ったのです。