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第1部 謎の綱渡り師:2 啓という少年

それは、啓の誕生日の翌日から降り続いた雨がようやくあがった、四月中旬のことでした。その朝、緑ヶ丘市の一角にある電柱に、こんな広告が貼られていました。

 『世界一の風変わり集団フィエーロサーカス。大人から子供まで大興奮、大満足のエンターテイメント。自然公園にて四月二十八日からついにスタート!』

 昨日までこの場所には、金融会社の広告と、新築マンションのショールームの案内が貼られていたのに、今はそれらの張り紙は、新しく貼られたサーカスの派手な広告の下に、完全に隠れてしまっていました。このサーカスの広告は、今年の初め頃から市内の掲示板にひっそりと貼られていたものでしたが、公演まで後十日をきったこともあって、突如市内のあらゆる所に貼られ始めたのでした。商店街で賑わう大通りから、スーパーやコンビニの店先、駐車場、寂しい路地の電柱にいたるまで、あらゆる場所で人々はこの広告を目にしました。そして、その日から人々の話題は、このサーカスで持ち切りになったのでした。

 啓の住んでいる緑ヶ丘市には、広大な敷地の自然公園があります。その昔は、米軍の基地だった場所で、飛行場などもあったと言います。米軍が去った後、その広い敷地の一部が、自然公園として残されたのでした。休日は家族連れやサイクリングを楽しむ人達で賑わいます。公園の端には、舗装された大きな広場があり、野外オーケストラや、アマチュア演劇や、骨董市などの催しに使われます。そして、そこには数年ごとに、サーカスも回って来るのでした。広場で行われる様々な催し物の中でも、一際人気があるのは、サーカスでした。世界中の色々な国からサーカスがやって来るたびに、人々は大いに盛り上がりました。ある時は、大きな動物が売りのロシアサーカスであったり、ある時は、アクロバット中心のアメリカサーカスであったり、小動物や道化が人を賑わすチェコサーカスや、雑技団が勢ぞろいの中国サーカスもありました。

 今回やって来るのは、例の広告にあるように、フリークショウが売りのフィエーロサーカスです。何処の国のサーカスなのかは書かれてはいませんでしたが、フリークショウと言うくらいですから、普通なら目にすることのない、珍しいものを引き連れて来るサーカスなのです。人々の期待は高まりました。

 さて、大通りの商店街の端っこにある靴屋の主人の関心も、もちろんフィエーロサーカスに向けられていました。

 「この広告を見たかい?フィエーロサーカスが、ついにまた緑ヶ丘市にやって来るって」

 靴屋の主人は、自分の店に貼られたサーカスの広告を指差して、隣の酒屋の主人に話し掛けました。

 「勿論、見ましたとも。嫌でも目につきますよ。なんせ、そこら中に貼り付けてあるんですから」酒屋の主人は、店の前の自動販売機に寄り掛かって答えます。

 「この前来た時も、すごかったなあ。奴らの連れてきた、目の三つある女。あれには驚いたね。お前さんも観に行ったんだろう?」

 「ええ、家族を連れて観に行きましたとも。どうせ偽物かと思いましたけど、実際に額にある目を見た時の衝撃は、今でも忘れられませんね。寒気がしましたよ」

 そこに、少し大きめのサイズの制服を着た、中学生の少年が二人歩いてきました。靴屋の主人は彼らを振り返って、にっこり笑いました。その中学生達は学校帰りの啓と、友達の洋介でした。

 「何だ、お前達。制服がまだ体に馴染んでいないようだな。服に着られているみたいだ」靴屋の主人は顎ひげを右手で撫でながら、二人の中学生を見下ろしました。

 啓と洋介は緑ヶ丘中学に通う中学生です。この四月に入学したばかりの彼らは、制服が少し大きくて、ブレザーの袖も長めでした。洋介は、啓よりは体が大きいので、少しはましに見えましたが、啓は小さい方なので、余計に制服が大きく見えました。

 「だってこれから大きく成長するから、大きめのサイズにしろって言われたんだ」啓は無邪気にそう言って、ニッと笑って見せました。

 「制服って嫌いだな。何だか堅苦しくて。自由だった小学校に戻りたいよ」洋介が肩をすくめました。

 「そうそう。それに新しい靴の紐がすぐほどけるんだもの」啓が口を尖らせて、新品の白い靴を見下ろしました。

 「あっという間に、中学にも新しい靴にも慣れるさ。部活はもう決めたのか?男なら体を動かすものにしろよ。わしは野球部だった」靴屋の主人が懐かしそうに言いました。

 「俺はサッカー部がいい。野球部には乱暴で怖い先輩がいて、練習も大変そうだしさ」

 洋介がそう答えて、ふと店に貼られているサーカスの広告に気付きました。

 「あ、またサーカスの広告だ。今日は何処に行っても、この広告を見るよ」

 「ああ、お前さん達も見たかい。フィエーロサーカスがまたやって来るってさ」

 靴屋の主人の言葉に、啓は嬉しそうに笑いました。

 「家に帰ったら早速頼んで、絶対に連れて行ってもらうんだ」

 「わはは。サーカスと言えば、誰でも楽しみにしているからなあ」

 啓は主人の言葉に、ふと思って尋ねました。「またやって来るって言った?フィエーロサーカスは、前にも緑ヶ丘市に来たことがあるの?」

 「ああ、何年前だったかな。もう七、八年前になるかね」

 「あの三つ目の女」突然、それまで無言だった酒屋の主人が口を開きました。「私は今でも時々夢に見ますよ。あの額の目がさっと開いて、こっちをギョロッと見る光景を」

 靴屋の主人も眉をしかめて、大きく頷きます。「あれは本当にすごかったなあ」

 啓と洋介は顔を見合わせて、目を輝かせました。

 「何、三つ目の女って?」

 靴屋の主人は、聞きたくて堪らないと、大きく見開かれている少年二人の瞳を見つめながら、ゆっくり顔を近づけてきました。そして小声で囁きました。

 「あのサーカスは、確か七年前だったかなあ、緑ヶ丘市に来たんだ。大好評で、すごい人気だった。あまりに好評だったから、その翌年もまたやって来たんだ。もちろん、出し物や見せ物をガラリと新しくしてな。その時、なんと額にもう一つ目のある女を連れて来たのさ」

 啓は驚いて、思わず少し後ろに下がってしまいました。

 「額に目がもう一つ?」

 「しーっ!」

 靴屋の主人が突然人差し指を口に当てたので、啓は慌てて両手で口を押さえてしまいました。靴屋の主人はわざとらしく辺りを見回してから、啓と洋介の耳に囁きました。

 「実はなあ、最近その女がサーカスの檻から逃げ出して、緑ヶ丘市の近くに来たって噂を聞いたんだ」

 啓は驚いて固まってしまいましたが、洋介はいぶかしげに眉をひそめました。

 「それで、誰かが三つ目の女について話しているのを聞きつけると、たちまちやって来て、全員噛み殺すって話さ…。ほら、後ろに!」

 そう叫んで、靴屋の主人は突然大声を上げると、啓と洋介の後ろを指さすではありませんか。啓が後ろを振り返ると、なんと本当に女の人が立っていたので、彼は思わず驚きのあまりにギャッと叫んで、横に飛び退いてしまいました。

 「何やっているんだい、お前さん」

 そこに立っていた女の人は、酒屋の主人の奥さんでした。啓が驚いたその姿が可笑しくて、ガハハと大口を開けて笑っている靴屋の主人、酒屋の主人、それに洋介の三人を奥さんは軽く睨み付けました。

 「誰が三つ目の女だって?」

 啓はショックのあまり、肩で大きく息をしていました。奥さんはそんな啓を安心させるように、優しく笑いかけました。

 「大丈夫かい、啓。安心しな、三つ目の女が逃げたなんて、真っ赤な嘘だよ。全く、こんな子供をからかうなんて」そう言って、まだ笑っている主人を睨み付けました。「表の掃除が済んだのなら、無駄口たたいてないで、さっさと店に戻ったらどうなんだい」

 「こうも見事に騙されるなんて、啓はまだガキだなあ」洋介はからかって笑いました。

 「だって、本当に女の人が立っているんだもの」啓は照れ臭そうに笑いました。

 その後、啓は洋介と別れて、自分の家に帰っていきました。彼の家はパン屋を営んでいました。商店街の外れにありますが、近くに高校や短大があるので、店は繁盛していました。オレンジ色の店の壁に、大きく描かれたこぐまの絵が目印のお店で、『こぐまちゃんのパン屋さん』の名前で親しまれています。

 夕食の席で、啓はサーカスに連れて行ってもらうように、親に頼むつもりでいました。しかし不思議なことに、あれだけ町中にポスターが貼られていて、沢山の人達が騒いでいるというのに、フィエーロサーカスのことは、なかなか食卓の話題に上りませんでした。

 「先週から売り出したブルーベリーパイは、評判がいいようね。ブルーベリーが目に良いっていうせいかしら」母親が漬物の入ったお皿をテーブルに出しながら言いました。

 「私も最近、目がすぐ疲れるの。パソコンのやりすぎかしら」絵里が目を押さえました。

 「それなら、店の冷蔵庫にあるブルーベリーを食べたらいい。少し余っていただろう、信?」

 父親はそう言いながら、無言で夕食を食べている信の方を向きました。啓もつられて彼を見ます。信は元々無口な方でしたが、今日は特に静かでした。

 「ちょっと、兄さん。聞いているの?」絵里が兄の肩を突きました。

 信はまるで、たった今自分の周りに家族がいることに気付いたように、顔を上げました。

 「どうしたのよ、むっつりと黙り込んじゃって」絵美里が少し眉をひそめて言いました。

 「別に、何でもない」

 信はぶっきらぼうにそう言うと、また視線をお皿に戻して夕食を食べ始めました。その様子に、母親と父親はちらりと目を見合わせました。信がこういう態度を取るのは、機嫌があまり良くないからだと啓は知っているので、その夜はサーカスのことは口にせず、黙って食事をすることにしました。絵里はそんな兄を不機嫌そうに睨み付けると、信を無視するように、その日会社の友達から聞いた噂話を喋り始めました。

 

その夜、皆が寝静まった後も珍しく信は部屋に戻らず、一人で居間のソファーに座り、明かりもつけずにビールを飲んでいました。そこに裏口の戸締まりを確かめに来た母親が、暗闇にいる信に気付いて居間に入って来ました。

 「あなた何をしているの、そんな所で。まだ起きていたの?」

 信は黙って母親を見上げて、ビールを一口飲みました。

 「すぐに寝る」

 そうぶっきらぼうに言いながらも、信はソファーから動こうとはしませんでした。母親はしばらく彼を見下ろしていましたが、やがてそっと息子の隣に腰を下ろしました。

 「あなた、また飲んでいるの?」

 「一本だけだよ」

 母親の方を見もしないで、信はまた缶に口をつけましたが、すでに空になっているのに気付くと、いら立つように舌打ちをしました。

 「サーカスのことね」

 母親がぽつりと言った言葉に、信は思わず顔を上げました。

 「あのサーカスのことで、あなたは心配しているんじゃあないの?」

 信は決まり悪そうに、母親から視線をそらせました。彼女は軽くため息をつきました。

 「啓が来てから、あなたは変わったわね」母親は話し始めました。「和敏を事故で失ってからあなたは気力を失って、お酒を飲んで荒れていた。子供を一人失うだけでも沢山なのに、あなたまで壊れていくのを見て、どうしたら良いのか分からなかったわ」

 母親の言葉に、信はうつむいたまま何も言いません。

 「あなたは自分を責めたのね。あの子が死んだのは自分のせいだって。でも…」

 「俺のせいだ!」信は突然叫びました。「俺のせいであいつは死んだ。全部俺のせいだ…」

 「馬鹿なことを言わないで。誰のせいでもないわ。いい加減に自分を責めるのは止めなさい」母親は少し怒ったように言いました。

 「俺のせいだ…」信は辛そうに首を振り、頭を抱え込んでしまいました。

 八年前まで、信には和敏という当時五才になる弟がいました。和敏は一番末の弟で、遅くに出来た子供だったこともあり、家族にとても可愛がられていました。特に信は、年の離れた弟を誰よりも可愛がっていたのです。しかし、無残にも和敏は、あっけなく死んでしまったのでした。交通事故でした。和敏が事故にあう一週間前、信は駅前のデパートで馬の模型を買ってあげました。動物が大好きだった和敏は、その模型をとても気に入り、誰も知らない隠し場所に、大切にしまっておくことにしたのです。そのことを一刻も早く、信に伝えようとしたのでしょう。

 「お馬さんを秘密の場所に隠したって、お兄ちゃんに言ってくる」

 そう言い残して、信が当時バイトをしていた店に行くために、家を飛び出してしまったのです。彼は周りを確かめもせずに大通りに飛び出してしまい、そこに走ってきたトラックに無残にもはねられてしまったのでした。

 「俺のせいだ…。あいつは俺に会いに来るために…」

 「何言っているの、誰のせいでもないのよ。それよりも私が、私さえちゃんとあの子を見てあげていれば…」今度は母親が言葉を詰まらせて、すすり泣き始めました。

 「違う、母さんのせいじゃあない。違う、違うって」信の言葉も涙声になってきました。

 幼い和敏の死は、とてつもない悲しみを家族にもたらしました。信はその日から、弟の死の悲しみと、自分を責める苦しみから、無気力になってしまい、通っていた大学にも行かなくなり、お酒を飲むようになってしまったのでした。毎晩毎晩、信は飲み屋で死人のような顔でお酒を飲む毎日が続いたのです。

 「でもあの子が来てから、全てが変わったわ。啓を、死んだ和敏の代わりにするつもりはないけれど、私達は啓に救われたわね。あの子が私達に、特にあなたに、また生きがいを与えてくれたのだと、私は思っているわ。あの子があの日、倉庫で倒れていなかったら、私達家族は今頃どうなっていたか」

 「だから怖いんだ、また失うのが。和敏を失って俺は死んでいた。それを啓に救われたんだ。だからまた啓を失うと思うと、すごく怖いんだよ」信はくっくっと笑い始めました。「笑っちまうよな、怖いんだよ、俺は。情けないけど、心配で仕方がないんだ」

 母親はそっと信の肩に腕を回しました。「それは私達も同じよ。でも、もうあれから七年も経っているのよ」

 「でも、あいつらが!またフィエーロサーカスが戻って来るんだ。この緑ヶ丘市に」

 「啓がフィエーロサーカスから逃げて来たという確かな証拠は、何処にもないのよ」

 「しかし、それ以外に考えられなかったじゃあないか。当時色々考えて、皆だってそう思ったじゃあないか。だから啓が倉庫に現れたその翌年に、あのサーカスが再び戻って来た時も、啓をなるべく家から出さなかったじゃあないか」信は母親の顔を、訴えるような目で見つめます。

 「それは、用心にこしたことはないからね。でも何度も言うように、あの時からもう七年も経っているのよ。啓だって成長して見た目も変わったし、サーカスもとっくに諦めているでしょう」

 「フィエーロサーカスはいかれた連中の集まりだ。何処の国のサーカスだか知らないが、今の時代にフリークショウなんて、時代遅れもいいとこだ」信は怒ったように言いました。

 「だけどそもそも、啓がサーカスから逃げて来たかどうかだって、確かではないのよ」

 「でも、それ以外考えられなかったじゃあないか。それ以外に説明がつかなかったじゃあないか!」信は空になったビール缶を片手で握りつぶして、大きな声を出しました。

 「しーっ、静かにして。皆が起きてしまうじゃあない」母親は小声で信をなだめました。

 確かに母親の言う通り、啓の過去について、何一つ確かなことは分からないのでした。全ては推測で、どうにか納得のいく説明をつけようと、後から頭を悩ませて、考え出したものでしかなかったのです。それでも信が、フィエーロサーカスが緑ヶ丘市に来ることを心配するのは無理もないことだと、母親も十分承知していました。なぜなら、彼らが考え出した啓の知られざる過去の生い立ちは、たとえそれがどんなに突拍子のないものだとしても、それ以外に納得のしようがないというのが、事実だったのですから。

 

七年前の十一月十一日、緑ヶ丘市では、日に日に厳しさを増す寒さの中、いつものように一日が終わろうとしていました。いつものように、商店街の外れに建つ天宮家でも、父親がパン屋の店から隣の母屋に戻り、高校生の絵里と母親の三人で、いつものように静かな夕食を終えました。信は家にはいませんでした。この時間なら、いつものように飲み屋にいることでしょう。信は弟が事故死してから、何もせずに酒びたりの毎日を送っていましたが、家族はそんな彼をどうすることも出来ずにいました。幼い子供を失って、早一年が経とうとしていましたが、家の中は静かで死の影が漂っていました。いつも聞こえていた家族の笑い声、特に和敏の声が全く聞かれなくなってしまった家は、まるで死んでいるようでした。笑顔や安らぎ、幸福感といった心を暖めてくれるものが全て、この家族から奪われてしまったかのようでした。

 その夜も、いつものように十二時半頃になると、父親は外に出掛けていきました。飲み屋で酔いつぶれて寝ているか、道で死んだように座り込んでいる息子を迎えに行くためです。

 時刻が一時を回ろうとした頃だったでしょうか。父親に抱えられて家に帰ってきた信が、水を飲もうと台所に行った時、突然外から物音が聞こえてきました。庭の方から聞こえるその音に、何事かと不審に思った父親が、様子を見に外に出てみることにしました。しかし、ドアを開けて庭に出た父親は、慌てたように、すぐに家の中に戻ってきました。

 「倉庫の中から、聞こえてくるようだ」

 家の庭に建てられている二階建ての建物は、通りに面した一階の部分がパン屋の店になっています。店の調理場の更に奥、庭の方にある部分は、店の倉庫として使っていました。二階は小さな部屋が一つあるだけで、そこは家のがらくたや、使われなくなった家具の置き場として使われていました。物音はどうやら、その二階部分から聞こえてくるようでした。父親も信も、パン屋の裏にある倉庫の、庭から出入りできるドアには、大きな錠がかかっていることを知っていました。建物のどの窓にも鍵がかかっているし、防犯のために鉄格子まではめてあるのです。倉庫の二階には天窓が一つついていますが、小さくて、とても人がくぐり抜けられるような大きさではありません。通りに面した店の方も厳重に戸締りをした上に、シャッターを下ろしてあるのですから、そちらからも入れるはずがありません。ですから、どう考えても、誰かが建物内に入り込めるはずなどないのですが、音は確かに、二階の物置場の方から聞こえてくるのでした。

 「ネズミか何かかもしれんぞ。それとも野良猫かもしれない」

 父親がそう言った時です。倉庫の二階の方から、物を倒すような大きな音がしました。それはネズミなどの小さいものが動き回るような音ではないことは明らかです。物置だろうが何だろうが、建物内に人がいるならば、店に泥棒が入ったのと同じですから、父親が焦るのも無理はありませんでした。

 父親が鍵を取りに行っている間、信は倉庫のドアや鍵を調べて回りましたが、何処にも異常は見当たりませんでした。窓の様子も、店の様子も外から見て回りました。しかし、何処も壊された所はないようでした。物音はそれから全く聞こえてこなくなりました。

 少しして、父親が鍵を持ってきました。その後ろから、母親も何事かと出てきました。

 「何があったの?どうしたのよ」

 心配そうに聞いてくる母親を手で黙らせて、父親は倉庫の鍵を開けようと、ドアに近づいて行きました。片手には、台所から持ってきたフライパンが握られています。信も用心のため、近くに立て掛けてあったほうきを手にして、ドアの脇に立ちました。父親はなるべく音を立てないように静かに鍵を開け、信に目で合図を送ると、手に持っていたフライパンを握り直し、倉庫のドアを勢い良く開けました。

 バン!と開いたドアが、壁に跳ね返って激しく音を立てました。手探りでドアの脇にある蛍光灯のスイッチを入れ、ほうきをバットのように構えながら、信が倉庫に入って行きました。ドアを入ると、すぐ目の前に階段があり、その先に二階のドアが見えます。一階と店を父親に任せて、信は階段を駆け上がり、二階に急ぎました。ほうきをしっかり握り直してから、素早くドアを開け、明かりをつけます。

 二階は少し荒らされているように見えました。と言っても、元から物があちこちに無造作に積まれているだけなので、どの程度荒らされているのか、はっきりとは言えませんでしたが。使わなくなった机や棚、古本の束や箱、埃だらけの鏡やイス、電球のないランプなどで部屋は埋まっていました。それでも古着がしまわれていた箱が崩れ落ちて、床に散らばっているのが分かりました。様々な色の洋服が、ぐちゃぐちゃに床にばらまかれています。

 とっさに、信が持っていたほうきを身構え直し、大声で父親を呼びました。父親は転がるように二階に駆け上がってきました。

 「どうしたんだ?」父親が興奮したような声で、信の背中に話し掛けました。

 ほうきを振り上げた腕を下ろしながら、信は崩れた古着の山を覗き込むように、身を低くしました。父親も、息子の視線の先にある古着の山を覗き込みました。

 「誰かが、埋まっている」信が驚いた声で短く言って、古着の山を指差しました。

 古着に紛れて、小さな子供の手が覗いているのが見えるではありませんか。子供が古着の下敷きになって、埋まっているのです。

 「何てこった!」父親はすっとんきょうな声を上げました。「何でこんな所に子供が?」

 信はほうきを放り出して、古着の山をどかし始めました。父親もはっと我に返り、信を手伝って古着をどけにかかりました。

 「何だって子供が、一体どうやって…」父親は独り言のように繰り返しています。

 ようやくどかされた古着の下には、小さな男の子がうつ伏せに倒れていました。その子は気を失っているようで動きません。

 「まさか、死んでいるんじゃあるまいな」父親は心配そうに男の子を見下ろします。

 信は優しく男の子を抱き起こしました。色白で小柄ですが、丸顔の可愛らしい子でした。まだ五、六才といったところでしょうか。目が固く閉じられたその顔には、血の気がなく、髪が乱れて額を覆っていました。気を失っていることを除けば、普通の男の子のようでしたが、その子の着ている服といったら、なんと奇妙で滑稽なのでしょう。首元や袖口に、赤や青などの原色の大きなフリルがついている、黄色のつなぎを着ているのです。履いている靴も、つま先の細くとがった、とても変わったものでした。

 その時、倉庫の中で何が起きているかと、外で待っていた母親が二階に上がって来ました。

 「ちょっと、何があったのよ」

 父親は母親を振り返りました。その口は、まだ驚きのために開いたままでした。

 「子供だよ。何がどうなっているんだか」

 母親が驚いて駆け寄ってきて、心配そうに男の子の顔を覗き込みました。

 「何ですって?まあ、信じられない。一体どういうこと?」

 信が男の子の顔に掛かっている髪をそっと掻き上げると、額が赤い血で濡れていました。さっきの大きな音は、この子が物を倒した音だったのでしょう。恐らく、真っ暗闇で何も見えず、何処かにぶつけて怪我をしたようでした。

 「まあ、怪我をしているじゃあない。とにかく、家の中に運びましょう」

 「お前は、信と一緒に男の子についていてくれ。私は少し店の方を見てくるから」

 父親はフライパンを握り直して、一階に下りて行きました。信と母親は男の子を連れて家に急ぎました。

 しばらくして、父親が家に戻って来ました。

 「あの子は大丈夫か?」

 父親は、自分が戻ってきた音に二階から下りてきた母親に尋ねました。

 「とりあえず、信があの子を自分の部屋に寝かせたわ。まだ意識は戻っていないけれど」

 「お父さん、大丈夫?」

 騒ぎに気付いて起きてきた絵里が信の部屋にいて、父親の姿を見ると、心配そうに駆け寄って来ました。

 「ああ、私は平気だよ。それよりどうだ、その子は?」

 父親は部屋に入って行き、ベッドに寝かされている男の子を覗き込みました。

 「額に切り傷があっただけで、他に怪我をしている所はないみたい。一応手当てをしておいたから、とりあえずは大丈夫でしょう」母親もベッドに近づいて来て言いました。

 「しかし、全く分からん。一体何があったんだか」父親は首を振って腕を組みました。

 「倉庫で何か分かったの?」

 母親が聞くと、父親はまた首を振りました。

 「それが全くなんだよ。店は全然荒らされてはいなかったし、窓も鉄格子もしっかりはまったままだった。壁にある穴なんて節穴くらいなもので、ネズミすら入る隙間はない。ドアには錠がかかっていたんだしなあ」

 「何、それどういうこと?」絵里が不安そうに尋ねました。

 「つまり、この子が何で倉庫にいたのか別にしても、そもそも、どうやって建物の中に入れたのか分からないってことだよ。出入り口は、全て閉じられていたっていうのに」

 「まさか、そんな馬鹿なことって」絵里が驚きの声を上げます。

 「信じられないが、私が調べた限りではそういうことになる」

 「だけど、この子が目を覚ました時に聞いてみれば、はっきりすることだわ。この様子では、この子はしばらく目を覚ましそうにないし、警察に知らせるのは、この子が目を覚ましてからにしましょう。今夜は信がついていてくれるって言うから」母親が言いました。

 「きちんと目を覚ましてくれれば、いいんだがなあ」

 父親が信のベッドに眠っている子供を、心配そうに見下ろしながらつぶやきました。

 その子が意識を取り戻したのは、次の日の午後でした。しかし彼が目を覚ました後も、どうやって倉庫の中に忍び込んだのかという謎が、解明されることはありませんでした。なぜなら少年は、倉庫での出来事を何も憶えてはいなかったからです。

 「何も、憶えていない?」

 高校から帰ってきた絵里に、その子のことを話すために、家族全員台所のテーブルに集まっているところでした。

 「しっ!静かにして。声が大きいわ。あの子が起きちゃうじゃあないの」

 男の子はまだ信のベッドで眠っていました。夕方軽く食事をした後、まだ頭がはっきりとしない様子で、疲れて眠ってしまったのでした。

 絵里は少し声をおとして言いました。「憶えていないって、どういうことよ」

 「そのままの意味さ。憶えていないんだ」信がお茶を一口飲み、答えました。

 信達は、唯一名前が啓であることと、六才という年令だけ憶えていた少年に、少しでも倉庫での出来事を思い出させようと努めましたが、全く無駄でした。結局、啓は何一つ思い出すことはありませんでした。電話を受けてやって来た警察官の質問にも、ただ困ったように首を振り続けるばかりだったのです。

 「じゃあ、どうやってあの子が倉庫の中に入ったのかも、分からないってこと?」

 「自分が倉庫の中にいたこと自体憶えていないんだ。分かる訳がないだろう」

 「そんな馬鹿なことって」少し黙ってから、絵里がまた口を開きました。「そんなこと、まさか兄さん達、信じている訳じゃあないでしょうね?」

 絵里の言葉に、三人は顔を見合わせました。

 「ちょっと、止めてよ。そんなの嘘に決まっているじゃあないの。憶えていないだなんてことある訳ないでしょう。とぼけた振りをして知らない顔をしているだけよ、きっと」

 「もちろん、そう思ったさ」信は妹をさえぎるように言いました。「そう思ったさ、俺達も最初はな。怒られるのが怖くて、とぼけた振りをしているんだろうって」

 「でも段々と、あの子は本当に何も憶えていないんじゃあないかって、そう思えてくるのよ」母親が信の後に続けました。「本当に、何も分からないって顔をしているのよ。私達が何を言っているのかまるで分からないって、そういう感じなの」

 「それに最初、啓は自分の名前すら、すぐには思い出せなかったんだぜ。しばらく考えてからやっと思い出して」

 「そんなの、本当の名前を言いたくなかったから、嘘の名前を考えていただけよ。いい大人三人が、子供一人にうまく騙されるなんて」絵里が三人を見回して、呆れたように言いました。

 「それなら、後でお前が自分で聞いてみりゃあいいだろう。そうすれば、俺達の言っている意味が分かるぜ」

 信が少しうんざりした声で言うと、その言葉に怒ったように絵里が何か言い返そうとする前に、母親が口を挟みました。

 「警察も結局、何も啓から聞き出せずじまいだったのよ。恐らく何かのショックで、一時的な記憶喪失になっているんだろうって。まあ、今は私達が何を言っても、あの子が思い出さないと言うんだから、どうすることも出来ないでしょう。まだ頭が混乱しているのかもしれないし、嘘を言っているとしても、少しして落ち着いてくれば、本当のことを話してくれるかもしれないわ。とにかく、今はもう少し様子を見てみるべきだと思うのよ」

 絵里も納得したように肩をすくめました。「確かに、今は何も出来ることはなさそうね」

 「警察は、啓という名で捜索願が出されているかどうか、調べてくれると言っていたよ。明日にでも検査をするために病院に連れて行くそうだ。今日一晩は、信が部屋に置いてもいいと言ってくれてね」

 「じゃあ、兄さんは何処で寝るわけ?まさか子供の時みたいに、私と一緒の部屋でなんていうんじゃあないでしょうねえ。私は絶対に嫌よ」

 「俺だってお断りさ。お喋りのお前と一緒の部屋じゃあ、うるさくて寝られやしねえしな」

 テーブルを挟んで睨み合う二人の間に、父親が割って入ります。

 「信は自分の部屋で、床に布団をひいて寝てもらうことにしたんだ。喧嘩は止めなさい」

 父親はそう言うと、母親にお茶をもう一杯頼んでから、ふーっと大きく息をつきました。

 「しかし、あの子は何とも変わった子だなあ。それにあの服装ときたら」

 「あっ、そういえば!」絵里が突然何かを思い出して、声を上げて立ち上がりました。

 その声に驚いて、父親はあやうくお茶をひっくり返すところでした。絵里は台所を飛び出し、居間に置いてあった自分の鞄を掴むと、興奮しながら戻って来ました。

 「これ見てよ。皆に見せようと思って、持って帰ってきたのよ」

 絵里は鞄から折りたたまれた紙切れを取り出し、テーブルの上に大きく広げて見せました。そこには大きくこうありました。

 『世界一の風変わり集団フィエーロサーカス』

 「昨日から、自然公園で公演しているサーカスの広告じゃあないか。これがどうしたって言うんだね?」父親が首を傾げて、絵里に尋ねました。

 「あの子の服装、サーカスの衣装に良く似ていると思わない?アメリカサーカスの道化が、あの子の服みたいに、大きな襟のついた可笑しな服を着ていたのを思い出したのよ」

 「そう言われてみれば、サーカスの道化の衣装みたいだわ」母親は頷きました。

 「じゃあ、あの子はこのサーカスから、うちの倉庫にやって来たって言うのか?でもどうして?」

 「もしかして、逃げ出して来たんじゃあない?」絵里が今思いついたというように、手で口を押さえました。「でも、そうじゃあなかったら、どうしてあんな真夜中に、小さい子供が外を出歩いていたっていうのよ。変だわよ。しかもあんな格好で」

 「サーカスから逃げ出して来た?いや、しかし…。まさか、でも考えられないことじゃあないな」父親はじっとテーブルの広告を睨み付けています。

 「そうよ、絶対に逃げ出して来たのに違いないわ。他に説明出来る理由がある?子供が真夜中にサーカスの衣装を着て、外を出歩いているなんて」絵里は確信したように、自分の言葉に頷きました。

 「でも、啓が何も思い出せないって言うのは、どう説明するの?」

 母親が尋ねると、絵里は首を横に振りました。

 「だから、それはあの子がとぼけた振りをしているだけなのよ。せっかく逃げ出して来たのに、また連れ戻されると思ったら、正直にサーカスから逃げてきました、なんて白状する訳ないじゃあないの」

 父親と母親は考え込んでしまいました。そして険しい表情で広告を見下ろして、黙り込んでしまった信に気がつきました。絵里も信の様子が変なのに気がつきました。

 「兄さん、どうかしたの?」

 「…いや、別に。ただ…」信は無意識に顎を手でなでながら、つぶやきました。

 「どうしたんだ、信?」

 父親が尋ねると、じっとポスターを見ていた信の目が、ゆっくりと父親を見上げました。

 「…実は、ちょっと思い出したんだ、飲み屋で会った変な奴から、嫌な話を聞かされたことがあるのを。青白い顔をした、君の悪いやつだった。そいつは、飲み屋のカウンターで俺の隣に座ってきて、勝手にぺらぺら喋っていやがった。そいつの知り合いが昔、地方の片田舎で人さらいをして、金を稼いでいたんだって。何人もの子供をさらったり買い取ったりしては、サーカスや旅役者に売り飛ばしていたらしい。子供を買いたがる連中は色々いるらしいが、その中でも、サーカスが一番高値で買い取ってくれると言っていた。下働きとしてこき使ったり、ショウに出したりと、使い道は山程あると言って。その男はサーカスの気味の悪い話をさんざん俺にした後、こう言った」信は少しためらう様子を見せてから、先を続けました。「サーカスでは、買い取った子供達が逃げ出さないように、薬を使うそうなんだ。どんな薬かは知らないが、恐らく意識をもうろうとさせるようなやつだろう。子供達は薬のせいで逃げる意志を失うか、または薬欲しさにサーカスに留まらざるを得なくなる。しかし、長く与え続けていると、副作用で脳が冒され、幻覚を見たり、記憶が失われたりすることがあるようなんだ」

 三人共言葉を失い、青い顔で信の驚くべき話を聞いていました。

 「そんな気味の悪い話、時代錯誤もいいところだわ」母親の声が震えています。

 「この時代にとても信じられない話だが、もしかしたら一部のサーカスでは、実際に行われていることなのかもしれないな」信が低い声で言いました。

 「それじゃあ、啓が何も思い出せないって言うのも、まさか」父親の顔が怒りで青ざめています。「もしかしたらその薬のせいかもしれない。そういうことなのか?」

 「分からない。でも啓がサーカスから逃げて来たのかもしれないって絵里が言った時、突然この話を思い出したんだ。本当にそうだとは考えたくはないが、啓の記憶がないのも、これだと説明がつく。もっとも、本当にサーカスから逃げて来たかどうかも、はっきりしていないんだけど」

 「そ、そうだ、まだ何も定かではないんだ。しばらくすれば、あの子も何か思い出すかもしれないし、警察も何か言ってくるだろうからな」父親は自分を安心させようとするように、早口で言いました。

 しかし、四人ともその後は何も言わず、テーブルの上に広げられたサーカスの広告を、気味の悪いものでも見るように、じっと見下ろしていました。

 「私、もうサーカスに行くの、嫌になっちゃったわ」絵里は青い顔で広告を掴むと、くしゃくしゃと丸めてしまいました。

 「全てのサーカスがひどい訳じゃあないんだ。一部が良くないからって、全部を悪く思うのは良くない」信が顔を上げました。「しかし、今来ているこのフィエーロサーカス。奴らに関してはどうかな。こいつらはフリークショウが売りの連中なんだろう。どんなに怪しいことを裏でやっているとしても、大して驚きはしないけどな」

 絵里は手に持っていた広告をさらに小さく丸めて、ごみ箱に投げ入れました。

 「とにかく、私が明日あの子に色々聞いてみるわ。あの子が話してくれれば、全部はっきりするんだもの」

 三人共、絵里の言葉に頷きました。皆少しでも早く、本当のことを知りたいと思いました。分からないと、何事も悪い方へ考えてしまうものです。ですから一刻も早く、啓が全てを話してくれることを望んだのでした。しかし、そんな皆の期待は、結局かなえられることはありませんでした。絵里も啓と話をして、彼が嘘を言っている訳でも、とぼけている訳でもなく、本当に何も思い出せないのだと認めざるを得なかったのです。啓がサーカスから逃げてきたのか、そしてもしそうでないのなら、一体何処から来たのか、どうやって倉庫の中に入ったのかなど、全ての謎は一つも解明されることはありませんでした。警察からは何の手掛かりもないままでしたし、啓の記憶が戻ることもなく、ただ日々だけが過ぎていったのです。

 「家族がいたら、捜索願が出されていないはずはない。そうしたら、警察から連絡があるはずだ」父親が言いました。

 啓が倉庫で見つかってから、すでに三週間が過ぎようとしていました。その間に警察にも何の手掛かりもないというのは、あり得ないことでした。

 「やっぱりフィエーロサーカスから逃げてきたのよ。だから警察に捜索願が出されていないんだわ。人さらいから買った子供なんて警察にばれたら、大変なことになるもの。それに、薬を使っていたことがばれてしまう可能性だってあるし」母親です。

 「そうよ、絶対に啓はサーカスにいたのよ。もしかしたら、それで倉庫の中に入ることが出来たのかもしれないわ。手品で良くあるじゃあない。小さな箱に入ったり、鍵のかかっている箱から自由に出入りしたりするのが。啓はその芸を使って倉庫に入ったのよ」

 「絵里、あの芸は、箱に元々仕掛けがしてあってだな」父親は苦笑します。

 「でも、あり得るかもしれないな」信です。「手品の芸はともかくとしても、確かにサーカスの芸人は、普通では考えられないような曲芸が出来る。だから、それで啓が倉庫の中に入れたというのも、あり得ないことではないかもしれない。他に考えられる方法があるか?父さん」

 信に聞かれて、父親は思わずぐっと黙ってしまいます。

 「そうよ、建物の鍵は全て閉まっていたって、父さんが自分で言ったんじゃあないの。普通なら中には入れないって言ったのは、父さんよ」

 「もし本当にフィエーロサーカスから逃げてきたのだとしたら、彼らは捜しているでしょうね、あの子のことを。警察に届けていないのなら、自分達で捜しているんだわ。もし見つかったら、啓はサーカスに連れ戻されてしまうのかしら」母親の顔は青ざめています。

 「もし奴らに見つかれば、逃げ出したことで仕打ちを受けるだろうし、もう二度と逃げ出すことのないように、奴らは…」信の顔も母親同様、青ざめていました。

 「止めてよ。怖いこと言わないで、兄さん」絵里が怯えた声を上げました。

 「そんなこと、絶対にさせないぞ。絶対に啓を奴らの手に渡したりするものか。あの子は私達が責任を持って守り抜くぞ」父親が強く言いました。

 警察からの情報も何もないままだったので、啓は長い時間を掛けて複雑な公の手続きをふんで、その後、正式に天宮家の家族となったのでした。啓は自分をめぐって、家族がどんな心配や苦労をしたのか全く知りませんでした。家族が啓には何も話さない方が良いと考えたからです。いずれ彼が大きくなり、自分から昔のことを尋ねてくるその時まで黙っていようと、皆の意見が一致したのでした。

 啓は記憶がないということを除けば、何処にも異常がない明るい素直な子供でしたので、いつまでも大人しくベッドに寝てなどはいませんでした。母親の後をついて回って、色々家事を手伝ったり、父親と一緒に店の二階の物置場を片付けたりと、元気に動き始めたのです。(啓のことがあってから、父親は久しぶりにそこを片付ける決心をしたのでした。)絵里も啓をとても可愛がるようになり、まるで弟のように接し始めていました。そんな中でも、啓は特に信になついたようで、暇さえあれば彼にくっついて過ごすようになりました。

 信は啓が倉庫で倒れていた日を境に、ぴたりと飲み屋に行かなくなっていました。啓の面倒を何かと見ていたお陰で、行く暇がなかったというのが理由でしたが、実際には必要がなくなっていたのです。啓が来てから、信は確実に変わり始めていました。和敏の死後、見ることのなくなっていた笑顔が、段々見られるようになっていったのです。そして次第に、家の中から消えていた明るさや笑いが、戻り始めていったのでした。最初は啓の記憶が戻ることを願っていた天宮家でしたが、月日が経つにつれて、反対に彼が何も思い出さない方がいいと思うようになっていったのです。

 大好評だった公演を終えて、フィエーロサーカスが緑ヶ丘市からいなくなった時、彼らはどんなにほっとしたことでしょう。だからその翌年、フィエーロサーカスが再びやって来ると知った時は、どんなに驚いたことか。彼らは不安に怯え、一刻も早くサーカスが遠くに行ってしまうその日を、指折り数えて待ったのでした。

 啓が天宮家にやって来てから、もう七年の月日が流れました。当時六才だった彼も、今では十三才です。啓は自分の誕生日も覚えていなかったのですが、法的に天宮家の一員になった日が四月十六日だったので、その日を彼の誕生日にしようと、家族が決めたのでした。昔は物置だった店の二階は、現在、啓の部屋になっていました。父親が綺麗に片付けた部屋を啓がとても気に入ったので、模様替えをしてベッドや棚を運び込み、立派に変身させたのでした。

 高校生だった絵里も今では社会人で、一人暮らしを考え始める年になりました。信は気力を取り戻して、数年間バイト生活をした後、本気で父親の店を手伝う決心をして、今はパン作りの職人を目指して店で働いていました。母親は変わらず店を手伝いながら家事に忙しく、父親も少し頭の毛が薄くなりましたが、相変わらず朝早くからパンを焼いて元気に働いていました。

 

啓は天宮家に来てから小学校に通い始め、成績は中の下。得意科目は美術。苦手な科目は算数。仲良くなった近所に住む洋介と一緒に、外で飛び回るのが好きで、活発にのびのびと育ちました。童顔で背も小さい方ですが、今年の四月にはれて緑ヶ丘中学に入学して、持ち前の素直さと人懐っこさでクラスにもすぐに馴染みました。制服もまだ大きめでぎこちないし、新品の靴も履き慣れていませんが、来週には部活を決めるために、洋介と一緒にサッカー部の見学に行く約束もしています。

 啓は過去の記憶がないことを、あまり気にはしていませんでした。毎日、家でも学校でも何不自由のない暮らしをしているのに、なぜ過去を気にする必要があるのでしょう。しかし時には、仕掛けも分からないはずなのに、壊れた時計を直してしまったりすることがあり、そんなことがあると、さすがに自分の知らない過去を少しでも思い出そうとするのですが、どうしても駄目でした。一度自分の過去について、信に尋ねてみたことがありましたが、たぶんサーカスにいたのだろうと、ぶっきらぼうに言われて終わりました。啓自身が思い出せないのですから、信が知っているはずもないのです。

 「また、奴らが戻ってくるんだ」信はつぶしたビール缶を乱暴に床に置きました。「どうする、母さん。もし万が一にも、今度こそ、奴らが啓を見つけ出して連れ去ってしまったら?啓がいなくなってしまったらどうしよう。母さん」

 「もし彼らが啓を見つけたとしても、もう連れて行くことは出来ないわ。あの子は法的にうちの子になっているんだから、心配ないわ」母親が優しく言いました。

 「でも、法なんて無視して、啓を連れ去っていくかもしれない。怖いんだ。俺は怖いんだよ、母さん。啓がいなくなってしまったら、俺はまた、和敏の時のようになってしまうかもしれない。もう、失うことには耐えられないんだ」

 母親は、怯えたように背中を丸める息子の大きな背中を撫でて、慰めてあげることしか出来ませんでした。


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