第3部 シュレトの首飾り:2 ルーナンの鏡
朝食後に早速ジョーカーズは、中心街へ出掛けて行きました。クレイが案内してくれた通りに、ロース公園前から五十八番のバスに乗り、美術館が見える辺りで降りました。
「大きい建物だなあ」タエが興奮した声で言って、首に提げている望遠鏡を覗き込みました。
美術館は恐ろしく巨大な、白い四角い箱のような建物でした。高さよりも横幅があり、入口付近の頭上には、ドーム型の屋根がプリンのようにのっています。横に長い石の階段を上がると、見上げる程高い鉄の扉があり、巨人の腕のように太い石の柱が何本も、扉の上にある石の屋根を支えていました。美術館の左隣には、似たような白い石造りの建物、役所が建っていました。大きさも造りも美術館と良く似ていますが、こちらは窓が沢山あり、壁には彫刻が彫られていて、時計塔もありました。役所の正面はだだっ広い芝生の広場になっていて、小さな噴水もあります。青く広い空、緑の芝生に色とりどりの花壇、強い初夏の日差し。その中にそびえる二つの白い建物は、周りの景色に良く映えて壮大でした。
ジョーカーズは長い石の階段を上って、美術館の中に入って行きました。ロビーに入って上を見上げると、ドーム型の天井があり、外からの光が窓を通して軟らかく降り注いでいました。その下にはチケット売り場があり、二階への階段につながる廊下が、左右に延びていました。
特別展のチケット料金は、一人五ネユ九十エネスでしたが、全員十八歳未満なので半額になりました。ウィルが人数分のチケットを購入します。
「特別展は動物禁止です。犬は特別展へは入れません」カウンターの後ろにいる女性が、ジュニアを見て愛想のない声で言いました。
「え、犬は駄目なんですか?」サムが驚いて聞き返しました。
「じゃあ、誰かがジュニアと一緒に外で待っていないとならない。二手に分かれよう」
ウィルの提案に、まずはウィル、ノエラ、ミミ、ケイの四人が行くことになりました。
「僕達四人は、鏡のわずかな違いに気付いている。だから最初に行くのがいいと思うんだ」
「じゃあ、僕ら鈍い組は、ここでジュニアと待っているね」タエが明るい声で言います。
ジュニアと一緒に、入口近くのベンチに腰掛けるニール、サム、タエの三人を残して、ケイ達は特別展へ進んで行きました。
「わあ、綺麗。素敵だわ」
入口を入った途端に、美しく輝く宝物の数々が、ガラスケースに収まって飾られているのが見えてきました。ウィルとケイは、展示品に声を上げたノエラとミミを引っ張って、どんどん部屋の奥へ進んで行きました。金の額縁に飾られた肖像画の数々、真珠が数千個縫い付けられたドレス、着けたら肩がこりそうな大粒の宝石のネックレス、純銀のティーセットに金張りの食器、装飾用の美しい剣や鎧の前を次々に通り過ぎて行きます。
ようやくスラビス王の名前がある部屋に着きました。その部屋はとても広くて、少しの間、四人はルーナンの鏡を見つけるために、辺りを探さなくてはなりませんでした。
「あ、あった、あったよ!」
ケイの声に、すぐにウィル達が駆け寄って来ました。目の前のガラスケースには、金の額縁の装飾が見事な、一枚の四角い鏡が飾られていました。思っていたよりも小さく、縦三十センチ、横二十五センチくらいの大きさでした。そばには、『ルーナンの鏡 バスク家初代ラド・バスクより当時のスラビス王子に寄贈』とありました。
「これがルーナンの鏡か。なんて綺麗なんだろう」ケイは夢見るように言いました。
ルーナンの鏡は輝きがより鮮明で、より透き通っているような、何ともいえない美しさで、中心街のバスク家本店で見た、どの鏡より美しく見えました。そしてその輝きこそ、ケイが綱渡り師から預かった、鏡のかけらの輝きだったのです。
「本当、とても綺麗です」ミミはため息をつきました。「わざわざケイのかけらと比べる必要もないですね。ケイのかけらは、ルーナンの鏡に間違いないです」
「やっぱり、ケイのかけらはルーナンの鏡だったんだ。一体アークは何者なんだろう?」ウィルは展示されている鏡を見て、つぶやきました。
特別展から出てきたウィル達と交代して、今度はニールとサムとタエの三人が、中に入って行きました。念のため、ケイがかけらを持って三人について、再び行くことになりました。
中に入った四人は、なかなか戻って来ませんでした。ウィル達が痺れを切らして、近くにある時計を見上げる頃、ようやくニール達が出口から出てきました。
「やっと戻って来たよ。随分遅かったじゃあないか?」
ウィルが尋ねると、ニールがベンチに腰掛けながら答えました。「んもー、こいつが迷子になっちまってさあ。焦ったぜ」
「迷子じゃあないよ。ちょっとはぐれちゃっただけだよ」タエがむくれました。
「そんなことより、ルーナンの鏡は?ちゃんと確かめてきたんだろうな?」
「うん。ちゃんと見てきた。鏡は間違いなくルーナンの鏡だったよ」
「おい、タエ。展示されているのがルーナンの鏡だってことは、誰もが百も承知だ。ルーナンの鏡がケイのかけらと同じかどうかを、確かめるために行ったんだぜ」
「違うよ、ニール。ルーナンの鏡がケイのかけらと同じかどうかじゃあなくって、ケイのかけらがルーナンの鏡と同じかどうか、確かめに行ったんだ」サムが横やりを入れます。
「それって、同じことじゃあないかよ」
「そんなことより、どうだったのよ。あなた達、ちゃんと見てきたんでしょうね?」ノエラがいらいらした口調で言いました。
「時間は掛かったけど、皆、最後には賛成してくれたよ。二枚の鏡が同じ物だってこと」
ケイが笑いながら言うと、三人共大きく頷きました。
「そう、ちゃんと確かめてきた。間違いなく、ケイのかけらはルーナンの鏡だよ」
「私達七人全員が、同じ意見って訳ね。じゃあ、ウィルの考えたように、アークは初代ラドがルーナンの鏡を寄贈した貴族の子孫って考えて、ほぼ間違いないんだわ。段々私達、アークに近づいてきたって感じじゃあない?」ノエラが明るい声で言いました。
「ノエラの言う通りだ。で、これからどうするんだ?」ニールがポンと膝を叩きました。
「せっかく中心街に来たんだ。少し情報集めをしようか」ウィルが提案します。
「情報集め?ニールみたいに病人になって、助けてくれた人に色々聞くの?」
「違うよ、タエ。ラドが誰にルーナンの鏡を寄贈したのかとか、関係しそうな情報を僕達の手で集めるんだよ」
美術館を出た後、ジョーカーズは三つに分かれて、情報を集めに行くことにしました。まず、ウィルは再びバスク家本店を訪ね、副店長のロウニー・リーズから、ラドがルーナンの鏡を寄贈した貴族について聞きに行くことにしました。ケイとジュニア、ノエラ、タエは図書館に、ニール、サム、ミミの三人は本屋へ行き、それぞれバスク家やラドについて調べることにしました。
「夕方には焦げたオーブンに集合しよう。ニールとケイが場所を知っているから。それまでどんなことでもいいから、情報を集めてくるんだよ」
ジョーカーズはクイン通りから三手に分かれて行きました。皆と別れた後、道を知っていてどんどん先に進んで行くノエラの後を、タエとケイが追い掛け、三人は図書館に到着しました。そして階段を上って、二階にある歴史書の所に進んで行きました。
ニール達は皆と別れた後、しばらくクイン通りをぶらついて本屋を探しました。しかし、何処にもそれらしい店を見つけることが出来ないでいました。
「この通りには、本屋はないようだね。そうだ、誰かに聞いてみよう。あの人がいい」
サムはそう言って、道端で新聞を売っている新聞売りの所へ駆けていきました。その新聞売りは老人で、アローズ街から来たサムよりも、もっとひどい服装をしていました。新聞売りというより、道に座る浮浪者に見えました。
「本屋なら、町一番でかいやつがジョンの仕事場通りにある。『湧き水』って言う名の本屋さ。アローズ街の者でも、本に興味があるとは感心だ。仕事ばかりしていたら、体力だけが自慢の筋肉バカになっちまうからなあ」新聞売りが笑って答えました。
「ど、どうして僕が、アローズ街の者だって分かったの?何も言ってないのに」
サムが驚くのを、老人は面白そうに見て言いました。「この町の大概のことは知っているよ。道で新聞を売って四十年近くになるんだ。ただこうしてここに座っているだけで、大勢の人と知り合い、沢山の噂を耳にする。ところで、アレスタはどうしている?」
「おじいさん、アレスタを知っているのか?」サムの後を追ってきたニールが、驚いて新聞売りに尋ねました。
「ああ、彼はわしの友人だよ。長い付き合いになる。中心街に来るたびにここに立ち寄っては、わしと情報交換をしていくのだよ。彼はとても頭のいい努力家だ。面白い男だよ」
「長い付き合いって、どれくらい?」
「アローズ街の工場が事故にあう、かなり前からだね。彼は幼いのに新聞が好きでなあ。清掃の仕事の途中、ごみ箱から新聞をあさっては読んでいたんだ。それである日、わしは売れ残った新聞を一部やったことがあってな。それ以来、彼とは話友達になったんだ」
「アレスタの幼い頃なんて、あんまり想像つかないな」ニールがにやにやしました。
「ははは、確かに彼は大きく育った。今ではわしより背も幅もあるが、昔はいつも背中を丸めるようにぼろ新聞を読んでいた、青白い線の細い子供だった。本の虫でもあったな」
「意外だなあ」サムが素直な感想を漏らします。
「今でもアレスタは新聞を買いに、おじいさんの所に来るのですか?」ミミが尋ねました。
「そうだよ。そしてしばらくわしと話をしていくんだ。今度奴が来たら、ファンフェアーでの出来事を色々聞けそうじゃなあ」老人は嬉しそうに言って笑いました。
ニール達はしばらく新聞売りと話をしてから、教えられた本屋へ歩いて行きました。
ウィルは皆と別れてから、真っ直ぐにヘイズにあるバスク家本店へ向かいました。しかし、あの嫌味なドアマンから、ロウニーは今日から休暇で旅行に行ってしまい、しばらくは店に戻ってこないと言われてしまいました。ウィルは仕方なく本店を後にしましたが、焦げたオーブンに集まるまで、まだかなり時間があったので、彼は少し考えてからアーケードへ歩いて行きました。
数時間後、ウィルが焦げたオーブンに着くと、すでに全員が窓側のテーブルに座っていました。
「何だ、僕が最後か」
ウィルが席に着くと、店員がアルコール抜きのペッカーと、日替わり定食をお盆にのせて運んできました。ジョーカーズは運ばれてきた食事を黙々と食べました。今まで休まず情報集めに頑張っていたので、疲れた上に腹ぺこだったのでした。
「情報集めは、どうだった?それぞれ何か分かったのかい?」
ようやくウィルが一息ついて、口を開けました。それにまずケイが答えました。
「僕達は図書館で、バスク家の名前のある本を片っ端から見たけど、ウィルがロウニーから聞いた以上の詳しいことは分からなかったよ」
「バスク家の鏡の年鑑デザイン集もあったけど、鏡の写真ばっかりで、何も見つからなかったよ」タエは本の見すぎで疲れた目を擦りました。「その後、調べる本がなくなって暇になったから、僕は過去の新聞を見ていたんだ。面白い昔の記事が色々あって、その中に、新聞一面に大きくバスク家の広告があるのを見たよ。すごく派手な広告だった」
「過去の新聞で暇つぶしなんて、情報集めをさぼっていたのかよ」ニールが呆れます。
「そういえば、一つだけ気になることがあったのよね」
ノエラが持っていたフォークをテーブルの上に置いて、全員を見回しました。
「ラド・バスクの写真を見たの。奥さんと生まれたばかりの息子と一緒に写っている写真もあったわ。ラドはともかく、奥さんはとっても美人だったの。きっと息子はさぞハンサムに育ったんじゃあないかって期待して、成長した写真を探したんだけど、何処にもないの。会社の代理人や経営者の写真ばかりで、肝心のラドの子孫は、誰一人も写真が載ってないの。がっかりだわ」
身を乗り出してノエラの話を聞いていた皆は、思わずずっこけました。
「気になることって、それかよ」不満そうなノエラに、ニールは呆れ顔です。
「じゃあ、ラドの家系のバスク家と、バスク家会社の経営者は別ってことになるのか?」ウィルがはっとして言いました。「バスク家は会社の権利を持っていて、利益を吸い取るだけで、実際の経営には手を出していないのかもしれない」
「ニール達は、どうだったのよ?」
ニールはペッカーを一口飲んでから、口を開けました。「それなりに面白い話を見つけてきたぜ。最初、クイン通りを歩いて本屋を探していたんだけど、見つからなくて、こいつが新聞売りのじいさんに道を尋ねたんだ」ニールが親指でサムを指しました。「そしたら、その人はなんと、アレスタの知り合いでさあ。もう四十年も新聞売りをしている人で、町の噂も良く知っているっていうから、ためしにバスク家について聞いてみることにしたんだ。じいさんによると、バスク家の鏡にはとにかく変な噂が多いらしいんだ。例の魂がのりうつるっていう噂も、その一つ。バスク家の不吉な噂話をまとめた記事が、一度新聞に載って話題になったことがあったらしいんだ。だけど、バスク家の会社から猛烈な抗議があって、問題になったらしい」
「それは、いつのことだろう。出来れば、是非読んでみたいな」ウィルが言いました。
「残念ながら、じいさんも覚えていなかったんだ。かなり前のことみたいだから」
「それから、ミミ達はおじいさんから教えてもらった本屋さんに行って、バスク家の噂を調べてみたんですが、何も分かりませんでした」ミミが言いました。
「ウィルはどうだった?バスク家の副店長から、色々と聞き出せたんじゃあないの?」
サムが聞くと、ウィルは首を振りました。「それが、彼女は休暇中で会えなかったんだ」
「じゃあ、今まで何処で何をしていたの?ここに来たのは最後だったじゃあない?」
「中心街を、見て回ったよ」ウィルは意味ありげに笑いました。
「いいなー、僕も本とにらめっこしているよりは、中心街を見たかったなあ」タエが恨めしそうにウィルを見ました。
「別に、遊び歩いていた訳じゃあないよ。皆が本を調べているから、僕は違う方面から情報を集めようと思ったんだよ。それで、いくつかの宝石店に行ってみたんだ」
「宝石店?それが一体バスク家と、どう関わりがあるんだ?」ニールが首を傾げました。
「ラドの作った鏡は、ルーナンの鏡って呼ばれているだろ?それで、ルーナンの宝石について調べてみようと思ってさ」
ノエラが目をぱちくりさせます。「それは単に、鏡の輝きが似ているからついた呼び名なんでしょう?別に特別な意味があるなんて思えないけど?」
「それが、そうでもなかったんだよ」
ウィルは周りを見回して、誰もいないのを確かめてから言いました。
「宝石店で聞いたんだけど、ルーナンの宝石の名前の由来は、神話の女神ルーナンから来ているらしいんだ」
「ミミ、知っています。絵本で読んだことがあります。ルーナンという名前の女神は、とても美しい女の人だったんです。でもあまりに美しすぎて、年をとって醜くなることを恐れて、自分の体を永久に輝きを失わない、美しい宝石に変えてしまうんですよね」
「その通り。その神話で女神ルーナンが姿を変えた宝石が、ルーナンの宝石という訳だ。だけど、この美しい話には恐ろしい続きがあるんだよ。ミミは知っている?」
「何ですか、恐ろしい続きって?」ミミは不安そうに首を振りました。
「女神ルーナンが宝石に姿を変えた理由は、自分の美貌が衰えるのを恐れたからだ。彼女はどうしても自分の美しさを保ちたいと考えた。それこそ、どんなことをしてもだ。例えば、自分の魂を引き換えにしてもね。あまりに美しかった女神ルーナンは、黒い力を使って自分の魂と引き換えに、永遠の美しさを手に入れる。自分の姿を宝石に変えるという方法でだ。しかし、宝石に姿を変えたものの、魂を失ってしまったルーナンは、魂欲しさに人々の魂を吸い取るというんだよ。実際にこの宝石をめぐり、歴史を通して大量の血が流されてきた。人々はそれを、ルーナンの美しさに魅せられすぎて、魂を吸い取られた哀れな人々の、宝石をめぐる奪い合いが招いたものだと信じてきたんだ」
「ねえ、その魂を吸い取るっていう話…」
「そう。魂がのりうつるバスク家の鏡の噂を思い出さないかい?」
皆、不安そうに顔を見合わせてしまいました。
「本当のところは分からないけれども、もしかしたら、スラビス王子が付けたルーナンの鏡っていう呼び名は、単に鏡の美しさだけじゃあなくて、この神話の内容が含まれていたんじゃあないかな。偶然にしても、関連があるように思えるだろう?」
「何だか、気味が悪くなってきたよ。背筋が寒い」タエがぶるっと身震いしました。
「だけどそれって、意外に当たっているかもしれないよ。新聞売りのおじいさんが言っていた、バスク家の不吉な噂を集めた新聞記事のことを考えても、バスク家の鏡には恐ろしい話が付きまとっているんだよ、きっと」サムが目をキラキラさせました。
「ケイが変な夢を見るのも、ルーナンの鏡のかけらのせいかもしれないぜ」ニールがちらりとケイを横目で見ました。
ケイは思わずポケットに入っている革袋に手をやりました。鏡のかけらに不思議な力があるという考えも、あながち間違ってはいないのかもしれないと思ったのです。夢を見るのは綱渡り師ストライザのせいかもしれません。でも、最近頻繁に起こる原因不明の頭痛は?ケイは今まで頭痛に悩まされることなんてありませんでしたから、それが鏡の影響だと考えると、納得出来る気もします。やはり自分はとんでもない物を預かってしまったようです。アークを見つける前に、自分の魂を鏡に吸い取られてしまうかもしれません。
そんなケイの弱気になった心のせいなのかどうか分かりませんが、その数日後、彼は夢を見ました。ケイは一人で夜の暗い中心街をさまよっていました。途中、弓矢を持った天使の彫像のそばを通り過ぎ、クイン通りを足早に歩き、何処かに向かって一心不乱に進んでいます。ああ、そうだ。僕はアローズ街に向かっているんだ。アローズ街へ行って、ある人と会わなければならない。それだけしか頭の中にはありませんでした。でも、一体誰に?
しばらく夜道を進みましたが、しかしいくら行っても、あるはずのアローズ街は見えてきませんでした。代わりに、黒く四角い石があちこちに立っている、奇妙な場所に迷い込んでしまいました。石の間を縫ってどんどん先に進んで行くと、こちらに背を向けてしゃがみ込んでいる人影が見えてきました。長く伸ばした髪が地面につきそうな程重く垂れて、背中を覆っていました。ケイはためらいもなく、その人影に近づいていきました。この人だ、僕の会いたかった人は。ケイが肩に手を置くと、その人物はゆっくりと振り向きました。その顔を見た途端に、彼は大きく叫んで目を覚ましてしまいました。
がばっと自分のベッドに起き上がって、ケイはしばらくはあはあと呼吸を繰り返しました。部屋の中は皆の寝息が聞こえてくる以外は、静まり返っていました。何とも嫌な夢でした。ケイが会いたかった夢の中の人物。その人の振り返った顔は、目も鼻も口も何もない、のっぺらぼうだったのでした。
次の日も、また夢を見ました。今度もケイは誰かに会うためにクイン通りを歩き、弓矢を持った天使の像を通り過ぎ、黒い石の間をさまよって、ある人物に会いに行きました。そして、その人の振り向いた顔を見て、再び驚いてしまいました。のっぺらぼうの人物が、今回はシュレトに変わっていたのです。そうだ、シュレトに会いに来たんだ。そこでケイは目を覚ましました。
次の日も夢を見ました。今回は天使の彫像が動いて、ケイ目掛けて弓矢を撃ってきて、彼はそれをよけながら花畑を横切り、懸命にシュレトのもとへ駆けて行きました。シュレトの姿を見て、ほっとしたところで目が覚めました。
三日間続けて変わった夢を見ましたが、ケイは誰にも話しませんでした。毎晩同じような夢ではありましたが、細かい部分が違っているし、何だかはっきりとしないので、アークに関係する夢なのかどうか、良く分からなかったからです。
もう一晩、同じような夢を見たら、ウィル達に話そうと決めたその日、ケイは買出しの当番に当たっていたので、マーケットに買い物に行くことになりました。マーケットはファンフェアーのあったロース公園に行く途中にある、『そのウサギ通り』という変わった名前の通りに並んでいました。ノエラに渡されたメモとお金を持って、ケイはジュニアと共に外に出て行きました。そして門の所でベニとばったり会いました。
「お出掛け?ジュニアの散歩に行くの?」ベニはケイの顔を見て頬を赤くします。
「マーケットに買出しにね。ベニは?」
「私は兄さんと一緒に出掛けていたの。ねえ、マーケットに私も一緒に行ってもいいかしら?」ベニは恥ずかしそうにうつむきました。「私も買い物があるのを、思い出したの」
「もちろんだよ。じゃあ、一緒に行こうか」
ベニは買い物よりも、明らかにケイと一緒にいたいだけというのが見え見えでしたが、ケイはそんなことは少しも気付きません。二人はそろってマーケットに歩いて行きました。
「アレスタと一緒に出掛けていたって、何処に行っていたの?」ケイが尋ねました。
「中心街よ。兄さんはまだ残ってすることがあるって言うから、私は先に帰ってきたの」
「僕も中心街に行ったよ。クレイに案内してもらったんだ。ニールがアレスタを知っている新聞売りに会ったって言っていたよ」
「ああ、レンビートさんね。クイン通りで新聞売りをしているおじいさんでしょう?」
「その人が、アレスタは幼い時から新聞が大好きだったって話していたって。ベニもそのおじいさんと友達なの?」
「ええ。兄さんと一緒に中心街に行くと、いつも会っていたから。とてもいい人よ。浮浪者みたいだけど、学のある人で、いつも兄さんと難しい話題で口論をしているわ」
「アレスタは本の虫だとも言っていたみたい。あまり彼が大人しく本を読んでいる姿なんて、想像出来ないけどね。あ、ごめん。アレスタは君のお兄さんだったね」
ケイが気まずそうに苦笑すると、ベニはくすくすと笑いました。
「いいのよ、別に謝らなくても。兄さんはどっちかって言うと、体力だけがとりえの筋肉馬鹿って感じだものね。でも、良く一緒に私を図書館に連れて行ってくれたりしたの。本を買う余裕もなかったから、図書館で本を借りて、捨てられた新聞を拾っては読んでいたのよ」
「いいお兄さんだね。僕にも色々と教えてくれる兄さんがいたよ。信っていうんだ」
「シン?ケイのお兄さん?」
「うん。信も体が大きくて、アレスタみたいに見た目は恐いんだよ。でも優しかった」
ケイはしばしの間、懐かしい家族のことを思い出して黙ってしまいました。信や家族は今どうしているでしょう。家族一人一人の顔が浮かんできて、胸が熱くなっていきます。ベニは悲しそうな表情で、そんなケイの顔を覗き込みました。
「ねえ、一つ聞いてもいい?あなたはこれからも、ずっとアローズ街にいるんでしょう?ずっと私達と一緒にいるんでしょう?ある日突然アローズ街に現れたみたいに、ある日突然いなくなってしまうなんてこと、ないでしょう?」
ケイはびっくりしてしまいました。自分の心の中を言い当てられてしまったようで、答えに困ってしまいました。ベニの懇願するような、真っ直ぐに自分を見つめてくる眼差しを、見つめ返すことが出来ずに、ケイは目をそらせてしまいました。
「ねえ、約束して。黙って突然いなくなってしまうなんて、絶対にないって約束して。突然何も言わずに、消えてしまうことはないって。私、何だか不安で…」
「君はどうして、そんなことを言い出すの?」
「分からないけど、私は…。何だかあなたの心が、何処か他の所にあるような気がするの。あなたの気持ちはアローズ街じゃあなくて、何処か遠い所、うんと遠くて、私の手の届かない所にあるように感じて、不安になるの。ある日あなたが消えるようにいなくなって、二度と会えなくなるんじゃあないかって思って、すごく不安なのよ」
ケイはベニの言葉に内心とても驚いて、何も言えなくなってしまいました。ベニの言う通りに、自分はアローズ街でずっと暮らそうなんて思っていないし、家族の所へ帰ろうとしているのです。アークを捜し出して、向こうに帰してもらえるならば、すぐにでもアローズ街を去らなければならないのです。
ケイは困ったあげく、ようやく口を開きました。
「ベニ、約束するよ。僕がもしアローズ街を出て行く時がきたら、その時はちゃんと君に伝える。黙っていなくなることは絶対にないって、約束するよ」
ベニはケイの言葉に一瞬顔を曇らせましたが、すぐに笑顔を見せました。
「分かったわ。ありがとう、ケイ。約束よ」
ベニの笑顔は何処か悲しそうでした。彼女は気付いたのです。いずれケイがアローズ街を出ていくつもりなのだということを。
二人はそれから別の話題に切り替えて、何事もなかったように、楽しくマーケットで買い物をしました。
その日の夜、ケイは再び例の夢を見て目を覚ましました。クイン通りを走り、天使の矢をすり抜けながら、黒い石の間を駆け抜けて、花畑を通り過ぎ、シュレトに会って、そこで今回も目を覚ましました。
夢のせいで夜中に目を覚ましたため、次の日の朝、ケイは朝寝坊をしました。目を覚ました時にはすでに皆は起きていて、朝食を食べ終わっていました。サムとタエは探検に行ってしまい、ノエラとミミも買い物に出掛けて行きました。
「はい、これケイの朝食。良く眠っていたから、起こすのも悪いと思って」
ウィルはケイに朝食と、熱いお茶を用意してくれました。
「ありがとう。僕、すっかり寝坊したみたいだね」ケイは大きくあくびをしました。
「休暇中なんだから、寝坊とは言わないだろ。俺だって本当はもっとゆっくり寝ていたかったんだけど、無理矢理起こされちゃったんだ」
ニールもあくびをしながら言うと、ウィルは呆れた顔をしました。
「だって、今日の朝食の当番はお前だったんだ。当たり前だろう」
「片付けが終わったら、俺達も出掛けようぜ」
「出掛けるって、何処行くの、ニール?」
ケイが尋ねると、ウィルが代わりに答えました。「墓地だよ。お墓参りに行くんだ」
「墓地?誰の?」ケイは目玉焼きを持ったまま、きょとんとします。
「ほら、僕達が世話になったセトじいさんのだよ。僕達がアローズ街に潜り込むために、家族だって嘘ついた、おじいさんの話をしただろう?アローズ街の事故があった七月に、毎年墓参りに行くことを決めているんだよ」
「お前もよかったら、一緒にくるか?」
ニール達に誘われて、ケイは彼らと一緒に墓地へ出掛けることにしました。
「セトじいさんは、レメテック墓地にある共同墓地に埋葬されたんだよ。爆発事故の被害者のほとんどが、そこに埋められたんだ。貧乏な孤児達には、親の葬式代を出す余裕すらなかったからね」ウィルは少し寂しそうにつぶやきました。