第3部 シュレトの首飾り:1 中心街
ファンフェアーの仕事が終わった次の日の朝早く、ケイはふと目を覚ましました。外はすでに明るくなっていましたが、部屋の中には、まだぐっすりと眠っている皆の寝息が聞こえていました。昨晩は花火の後、仕事の終わりを祝って遅くまで騒いでいたので、皆疲れて寝ているのです。今日から二週間の休暇に入ります。ケイはそっとベッドから抜け出すと、服を着替え始めました。ジュニアはケイに気付いて、目を開けて尻尾を振りました。ケイは指を口に当てて、ジュニアに静かにするように言うと、こっそりと部屋を抜け出しました。朝の散歩に行きたい気分だったのです。ジュニアもついてきて、玄関のドアから外へ走り出ました。
六月下旬だというのに、朝の空気は冷たく澄んでいました。ケイは思いっ切り鼻から息を吸い込むと、ジュニアを追って走り出しました。静寂が辺りを覆っていて、人っ子一人見当たりません。まるで黄金色の朝日に染まる空を独り占めしているような気分になって、ケイは一人にんまりとして、もう一度大きく息を吸い込みました。今日はきっと素晴らしい何かが待っている。そんな気分が、彼の胸を朝の冷たい空気と一緒に膨らませます。大きな希望を与えてくれる不思議な魔力が、明け方の空にはあるようでした。
ジュニアを追ってアローズ街の外に出たケイは、ふと立ち止まりました。門を出て左に行くと、細い砂利道がアローズ街を囲むフェンスの脇に沿って奥に延び、壊された工場の残骸が残る、裏の工場跡に続いています。その道の先に、誰かがいるのに気がついたのです。こんな朝早くに、立入りを禁じられている工場跡で、誰が何をしているというのでしょう。人影は道に立ち、工場跡を見上げています。ケイの所からはかなり距離があるので、はっきりとは見えませんでしたが、それでもその人影が誰であるのか分かりました。青く長い上着に、長い黒髪。シュレトです。ケイはシュレトがあんな所で何をしているのか不思議に思いましたが、すぐにジュニアを追って、そのままファンフェアーのあるロース公園へ続く大通りに向かって、走り出しました。
息が切れるまで走れるだけ走って、とうとう一回も立ち止まらずに、ケイとジュニアはロース公園にたどり着きました。そして驚いてしまいました。モーティシーが言っていた通り、ファンフェアーは跡形もなく、綺麗になくなっていたのです。広い公園内はがらんとしていて、昨晩までは確かにあった沢山の出店や屋台、乗り物や出し物の小屋、それに大観覧車もありませんでした。湖のほとりを歩き、劇場があった場所にも行ってみましたが、そこにも何もありませんでした。誰かが巨大なほうきで掃除をしたように、塵一つありません。皆行ってしまったのです。ムリロも、モーティシーも、エミニキも、あんなに大勢いた仕事人も、いなくなってしまったのでした。
ケイはその後しばらく公園の中を散歩してから、アローズ街へ帰って行きました。玄関を入ると、朝食の匂いがしてきました。
「あ、ケイ、お帰り。朝早くから何処に行っていたの?」
タエがエプロンを着て、台所で朝ご飯を作っていました。
「おはよう、タエ。朝の散歩に行っていたんだ。皆もう起きているの?」
「うん、ニール以外はね」
ケイはその言葉に、昨夜起こったある出来事を思い出しました。花火が終わった後、ロース公園に残っていたアローズ街の子供達は、屋台の売れ残りの食べ物や飲み物をかき集めて、遅くまで楽しく騒いでいました。その時、アレスタやクレイなどのリーダー達はお酒を飲んでいたのですが、ニールが自分の飲み物と間違えて、アレスタのお酒を一気飲みしてしまったので堪りません。途端に彼はその場にひっくり返ってしまったのでした。
「ニールったら、起きるなやいなや頭が痛いって、ベッドから出て来ないんだ」
タエはそう言う間にも、慣れた手つきで朝食の支度をしていきます。ケイは、次々に卵を焼いて、パンにバターを塗っていくタエを感心して見ています。
「君、料理上手なんだね」
今までケイはファンフェアーで支給される食事を取っていたので、誰かが台所を使っているのを見たことがなかったのでした。
朝食の匂いに引かれるようにして、皆が台所に入って来ました。
「おはよう、ケイ。何処に行っていたんだい?起きたらいないから、心配したよ」サムがタエの焼いたパンをつまみ食いしながら、言いました。
「朝の散歩に、ジュニアと公園に行っていたんだよ。ところで、ニールの具合はどう?」
ウィルはしかめっ面で、首を振りました。「慣れないアルコールのせいで、脳みそが半分溶けちゃったらしくて、もう駄目だな。病院に連れて行かないとならないだろう」
サムも真面目な顔で答えます。「いっそのこと、葬儀屋に問い合わせた方がいいかもしれないよ。共同墓地は、急な死人をいつでも受け入れてくれるって聞いたし」
「お前ら、俺を勝手に病人や死人扱いするなよ」ニールがふらふらしながら、台所に入って来ました。
「何だ。まだ生きていたのか」
心配そうに駆け寄るケイとは反対に、ニールの姿をからかうウィルとサムです。
「人を勝手に殺しやがって。う…」ニールは頭が痛むらしく、床にしゃがみ込んでしまいます。
「全く、自分が間違ってお酒を一気飲みするからでしょう?飲み干す前に、おかしいとか感じなかったわけ?」ノエラは食器をテーブルに並べながら言いました。
「うるさいな。お前のキーキー声を聞いていると、余計に頭が痛むぜ」
「何ですって!あなたこそ、頭が痛い時くらい大人しく口を閉じていなさいよ!」
「ギャー、怒鳴るな。止めてくれ〜」
ノエラがわざと大声で怒鳴ったので堪りません。ニールは頭を押さえてうずくまってしまいました。ケイは慌ててニールを助け起こすと、ベッドに連れて行ってあげました。
「ありがとう、ケイ」ニールはベッドに這うようにしてよじ登り、横になりました。
「ほら、これを飲んで大人しくしているんだ」
ケイの後ろから、ウィルが一杯の水と、赤い実のようなものを一粒差し出しました。
「何これ、薬か?」
ニールはそれを受け取ると、水と共に喉の奥へ流し込みました。
「紫の花を咲かせる植物の種で、二日酔いの頭痛に効くんだって。アレスタが、もし朝までニールが苦しんでいるようなら飲ませろって、くれたんだよ」
「ご飯だよー!」タエの大声が聞こえてきました。
「うーっ、頼むから大声を出さないでくれ。頭が割れそうだ」ニールが呻きます。
「どうせ食欲もないだろうから、こいつはこのまま放っておいて、朝ご飯にしよう」
ウィルとケイはニールをベッドに残して、台所に戻って行きました。
「今日から、僕達は休みだ!」サムが両手を上げて万歳をしました。
「やっと、買い物に行けるわ。ねえミミ?」
ノエラもミミも、休みを楽しみにしていたように、にんまりと笑いました。
「皆、休みの時は何をするの?」ケイが尋ねました。
「自分の好きなことをしていいんだ。アレスタに内緒で、勝手に仕事をすることだけは禁じられているけど。あと、食事や掃除は当番で行うようになるけど、それ以外は自由だ」
朝食の後、サムとタエは外に飛び出して行き、ノエラとミミは部屋に閉じこもりました。ケイは朝食の後片付けを手伝いながら、休みの間は何をしようかと考えていました。
「ケイも外に行ってきていいよ。ニールの看病は、僕に任せて」ウィルは洗ったお皿を片付けながら言いました。
ケイが返事をしようとすると、台所にニールが現れました。
「あれ、ニール。起きても大丈夫なの?」
二人の驚きとは裏腹に、ニールはすっきりした顔をしていました。
「ああ、何だかすごく調子が良くなってきたんだ。あの薬のお陰かな?」ニールは台所のテーブルに腰掛けました。「気分が良くなったら、腹が減ってきちゃった」
「おい、本当に大丈夫なのか?さっきまで、あんなに死んだようだったのに」
「アレスタの薬のお陰だろ?本当に気分すっきりって感じなんだ。とにかく腹減った」
呆れた顔をしながらも、ウィルは弟に簡単な朝食を作ってあげました。
「あんまり油断するなよ。即効性のある薬は、信用出来ないんだからな」
心配そうな兄に、ニールは手を振ります。「大丈夫だって。それより、今日はこれからどうする?」
ニールはパンを頬張り、今日の予定について話し出しました。その時、誰かが玄関のドアをノックする音がしました。ケイがドアを開けに行くと、クレイが立っていました。
「よう、酔っ払いのジョーカーはどうしてる?まだベッドでお寝んねかい?」クレイはからかうように言って、中に入って来ました。
「寝てなんかいないよ。何の用だよ、クレイ」ニールはまだパンを口にくわえています。
「何だ、お前元気そうじゃあないか。今頃、頭痛で死んでいるのかと思ったけど。案外タフなんだな」クレイは相変わらず黄色いレインコートを着ており、のほほんとした様子で台所のイスに腰掛けました。
「冷やかしに来ただけなら、帰れよ。でないとジュニアをけしかけるぞ」
「おいおい、そう噛み付くなって」クレイはくっくっと笑いました。「冷やかしに来たんじゃあないよ。実は今日、中心街に行く用事があるから、ついでにお前達も一緒に連れて行ってやろうと思って、誘いに来たのさ」
三人はクレイの顔を見つめました。
「中心街へ?」
「お前達に、少し世の中について教えてやろうと思ってさ。機会があったら中心街に連れて行ってやるって言っただろ。忘れたのかよ」
「本当か?本当に連れて行ってくれるの?」ニールが途端に反応しました。
「おい、お前は病人だろうが。今日は大人しくしていた方がいいよ」
ウィルが言うと、ニールは立ち上がりました。「大丈夫だって。俺は病人なんかじゃあないよ。ほら、こんなに元気だぜ」そしてぴょんぴょんと飛び上がり始めました。
「まあ、来たい奴は来いよ。三十分後に門の所で待っているからさ」クレイはそう言って、出て行ってしまいました。
「よし、行こうぜ。いいだろ?」ニールが目をキラキラさせます。
「本当に平気なのか?中心街へ行って倒れたって、運んでなんてやらないぞ」
「平気、平気。よし、決まりだな」ニールは二人の心配をよそに、大はしゃぎでした。
それから三十分後、ケイ達三人とジュニアは門の所でクレイと会い、中心街へ出掛けて行きました。アローズ街から町の中心街に行くには、バスに乗っていかなければなりません。一番近いバス停は、ファンフェアーのあったロース公園前にあります。『五十八番 中央駅行き』とある、オレンジ色に塗られた二階建てのバスがすぐにやって来て、四人は乗り込みました。ジュニアがバスに乗れるかどうか心配でしたが、全く問題はありませんでした。ケイは二階建てのバスに乗るのは初めてで、高い所から見下ろす町の景色を珍しそうに眺めました。バスはマーケットの立ち並ぶ道を通って、住宅街を進み、それから右に曲がって大通りへ出ました。そして鉄橋の下をくぐり、大きな交差点に差し掛かると、クレイが窓の外を指差しました。
「あれが『クイン通り』だ。中心街の中心で、一番賑やかな場所だぜ」
クレイの示したクイン通りは、大通りから分かれているオレンジ色の石畳の通りで、人で溢れ返っていました。バスはそのまま左に大きくカーブして、大通りを更に走っていきました。クレイは次々に通り過ぎていく町並みを指差して、役所、美術館、公園、銀行、ホテル、大学などを教えてくれました。
「あそこに見えるのが、有名なブティーペティー劇場だ」
ケイは窓の外に見える、ファンフェアーにあったミニ劇場そっくりの、しかし四倍は大きい建物を見上げました。劇場は曲がり角の角地に建てられていて、丸くカーブした建物の入口前と、九十度に曲がった通りの間に出来た隙間に、黒い高級車が停まっているのが見えました。入口には緑色の制服を着たドアマンが立っていました。もっと良く劇場を見ようとしたケイは、角を曲がったバスの大きな揺れに、危うく座席から落ちそうになりました。
クイン通りの反対側に出た辺りで、四人はバスを降りました。色鮮やかな石造りの建物が並ぶ中心街は、絵里が良くもらってきた旅行会社のパンフレットにあった、ヨーロッパの町並みを思い出させました。バスが走っていた大通りの片側には、高い石の壁がそびえていて、通りに沿うようにしてずっと遠くまで続いていました。
「あの高い壁は、一体何?」ケイがクレイに尋ねました。
「あれは、町の中心にそびえるフィドラク城の城壁だよ。歴史的建造物ってやつだな。それより、まずクイン通りを案内してやるよ。面白い店が沢山あるんだぜ」
ケイはもとより、ウィルやニールも物珍しそうにクイン通りにある店を見て歩きました。洋服屋、帽子屋、靴屋、家具屋、宝石店、文房具屋、おもちゃ屋、レストラン、喫茶店、飲み屋、お茶屋、お菓子屋、花屋、肉屋、魚屋、ホテル、銀行、郵便局、それこそ何でもありました。クレイは中心街に来るのは慣れているらしく、クイン通りから蜘蛛の巣のように伸びる小道や裏通りにも、どんどん入って行きます。彼は三人を連れて、クイン通りから南に少し入った所にある、円形の広場にやってきました。広場には、近くにあるカフェのイスとテーブルが並んでいて、人々がお茶を飲みながら、お喋りを楽しんでいます。周りにはお洒落な店が立ち並んでいて、大勢の人で賑わっていました。
「この広場の周辺はヘイズって呼ばれている、高級店が立ち並ぶ地区なんだ。ほら、あそこに見えるのが、お前達の話していたバスク家の本店だよ」
クレイが指差した店は、高級店の立ち並ぶヘイズの中でも、一際目立って豪華な店でした。大きなショウウィンドウがある入口には、正装したドアマンが立っていました。
「それじゃあ、俺はこれから銀行に用事があるんで、失礼するぜ。お前達は好きに中心街を見て回ったらいい。この道を行った角に『焦げたオーブン』って言う小さな料理屋がある」クレイは広場から左に延びる道を指差しました。「そこでシュレトと昼飯を食う約束になっているから、お前達も昼飯時にそこに来いよ。じゃあ、また後でな」
そう言い残すと、クレイはケイ達を残してクイン通りへ戻って行きました。三人はクレイの言葉を上の空で聞きながら、バスク家の本店を見ていました。あまりの立派さに少し怖じ気付きながら、ガラス張りのショウウィンドウに近づくと、美しい額縁で縁取られた宝石のような鏡が飾られていました。彼らは思わずガラスに手をついて、美しい鏡を覗き込みました。
バスク家の鏡は噂通り、とても美しいものでした。表面に曇り一つなく、宝石のようにキラキラと輝いています。こんな鏡は今まで見たことがありませんでした。
「綺麗だな。本当に綺麗だ」
ニールは何度も感激の言葉を口にして、大きなショウウィンドウをあちこち動いては、飾られている鏡を一つ一つ覗き込みました。
「ねえ、確かに綺麗な鏡だけど、僕の持っている鏡と少し違うように思わない?」ケイはポケットから革袋を取り出しました。「何となく、ちょっと違うと思わない?」
三人は顔を近づけて、かけらと鏡を交互に見つめてみました。確かに良く似てはいますが、言われてみれば、輝きに少し違いがあるような気もします。それはとても微妙な違いで、ガラス玉と水晶玉の違いのように、はっきりと見分けがつかない程わずかでしたが。
「そう言われれば、そんな気もするなあ。かけらの方が、より透き通っているみたいに見える」ウィルがケイのかけらを見て言いました。
「そうかな。俺にはそっくり同じに見えるけど」
「いや、うまく言えないけど、何か違うよ」ケイは更に良く鏡を見つめます。
「確か、ノエラも同じようなことを言っていたっけ」ニールは首を傾げました。「じゃあ、ケイの持っているかけらは、バスク家の鏡じゃあないってことか?」
その時、鋭い痛みがケイの頭を走り抜け、彼は手を額に当てて顔をしかめました。
「どうしたの、ケイ?」
そう言うやいなや、ジュニアが唸り出したので、ウィルは後ろを振り返りました。
「お前達は、そこで何をしているんだ?」
そこに立っていたのは、不審そうに三人を見下ろすバスク家のドアマンでした。慌ててケイはかけらをポケットに突っ込みました。
「僕達は、ただ鏡を見ていただけだよ。綺麗だなと思って」ウィルが答えました。
「ここはお前達が来る所じゃあない。店の前をうろうろされると、お客様に迷惑だ」
「僕達だって客だよ。鏡を見に来たんだから」
ウィルが言うと、ドアマンはじろりと彼を睨みつけました。「おい、手間を掛けさせるなよ。何のために、俺がこうして店の入口に立っていると思っているんだ。お前達のような小汚いがきを追い払うためだろう。さっさと行っちまいな」ドアマンはそう言って、手でネズミを追い払うように、しっしっと三人を店の前から追い返してしまいました。
「何だよ、あいつ」
ウィルは自分達を追い払って悠々と店へ戻り、いかにも金持ちらしい男性の客に、打って変わった態度で丁寧に接しているドアマンの姿を見て、怒ったように言いました。
「金持ち相手の店は、いつもああだ。着ている服で人を判断するんだよ。お金さえあれば、どんな相手にもぺこぺこするんだ。しかし困ったな。これじゃあ店の中には入れそうもないぞ」ウィルは吐き捨てるように言って、ニールを振り返りました。「おい、お前どうしたんだよ。ああいう時は、いつも喧嘩するみたいに相手に食って掛かるのに、今日はやけに大人しいじゃあないか。少し言い返してやればよかったのに」
ニールは下を向いて、何も答えませんでした。不審に思ったウィルが顔を覗き込もうとすると、彼は突然、その場にしゃがみ込んでしまいました。
「どうしたんだ、おい、ニール?」ウィルは慌てて彼を支え起こしました。
「あ、頭が割れそうだ…」ニールは呻いて頭を抱えます。「頭が、割れそうに痛い…」
「やっぱりお前、家で寝ていた方が良かったんだ。二日酔いがぶり返したんだよ」
ウィルとケイは、うずくまってしまったニールを、どうしたものかと困ってしまいます。とりあえず、ウィルはニールを抱えて、近くのベンチに腰掛けさせました。
「少し休んでいたら、良くなるかな。どうしよう、バス停までは少しあるし」
困ってニールの脇に腰を掛けた二人の所に、誰かが近づいて来ました。
「あなた達、どうかしたの?」
見上げると、紺色のスーツを着た若い女性が、心配そうな表情で三人を見下ろしていました。彼女は肩までの長さの美しい金髪と、高そうなアクセサリーを着けた、いかにも高級店の立ち並ぶヘイズに相応しい、といった感じの女性でした。
「大丈夫?その子、どうかしたの?」女性はニールを心配そうに見下ろして言いました。
「ひどい頭痛が、するみたいなんです」ウィルがニールの代わりに答えました。
「随分苦しそうね。顔色が真っ青だわ。この子、少し横になって休んだ方がいいと思うわ。私、頭痛に良く効く薬を持っているの。あなた達、この子を運んで歩けるかしら?」
ウィルとケイは女性の言っている意味が分からず、きょとんとしてしまいました。
「この子を、私のオフィスに運ぶのよ。幸い、すぐそこなの」
何を言う暇もなく、二人はニールを支えて、女性について行くことになりました。驚いたことに、女性は真っ直ぐに、バスク家の店の中へ入っていくではありませんか。
「ちょ、ちょっと、ロウニーさん。何をしているのですか?」
さっきの嫌味なドアマンが三人に気付いて、慌てて駆け寄ってきました。
「おい、お前達。もうここには来るなと、さっき言ったばかりだろうが。全く…」
「いいのよ。この子達は、私が呼んだんですから」
「え、あなたが?」ドアマンは呆気にとられて女性を振り返りました。
「私のオフィスに連れて行くのよ。さあ早く、こっちよ」
ロウニーと呼ばれた女性は、ドアマンのことなど全くお構いなしで、三人に手招きをしました。店の中にいた店員や客達は、何事かと振り返ります。
「困りますよ、ロウニーさん。私は…」ドアマンがおろおろと後をついてきました。
「この店の主人は、私?それとも、あなたなの?」
ロウニーがきっぱりとそう言うと、ドアマンはぐっと言葉を詰まらせました。
「…いいえ、あなたです。ロウニーさん」
「そう。だったら、この子達を店の中に入れるのに、何の問題もないわよね?」
しかし、ケイ達が店に入ろうとした時、再びドアマンはロウニーを呼び止めました。いらいらした様子で彼女が振り返ると、ドアマンが言いました。
「あなたが誰を店の中に入れようと、それはあなたの勝手であります。ですが、いくら何でも犬は困ります。これだけは規則違反です」
ドアマンがジュニアを指差すと、さすがにロウニーも困ったのか、ちょっと考えて、
「だったら、この子達が帰るまで、あなたがその犬の面倒を見ていて。店の外で何処にも行かないように見ていなさい」
「え、私がですか?」ドアマンは困った表情でジュニアを振り返りました。
ジュニアはロウニーとドアマンのやり取りを理解したように、小さく唸り始めました。こんな奴と一緒に待っているなんて冗談じゃあない、と言っているようでした。
「僕が外でジュニアと待っているよ。ニールとウィルだけで行って」
結局、ウィルとニールの二人がロウニーと一緒に店の奥に消えて行き、ケイはジュニアと共に店の外へ出ました。そして二人を待つ間、辺りを少し見て回ることにしました。とりあえず、クイン通りとヘイズの位置さえ掴んでおけば、中心街で迷子になることはなさそうでしたので、彼は店を離れて歩き始めました。
ケイは一人で、ヨーロッパのような古い石造りの建物が並ぶ中心街を歩きながら、自分がこの世界の者ではないということを、改めて感じていました。普段はジョーカーズの仲間に囲まれて、気を紛らわせることが出来ても、こうして一人になった瞬間に、孤独が彼の心に忍び寄ってくるのでした。ケイは空を見上げ、緑ヶ丘市の町並みや、家族を思い出して、胸がずきんと痛みました。普段の日常の生活が、特別な情景となって心の中によみがえります。天宮家の家、パン屋、洋介と遊んだ公園、学校、通学路など。今頃、皆はどうしているのでしょう。果たして、ケイが家族の待つ鏡の向こう側へ帰る日は来るのでしょうか。周りの騒がしさとは反対に、彼の心は途端に寂しくなり、ジュニアはそんなケイの心に気付いたのか、頭を擦り付けて甘えてきました。
ヘイズを歩いて行くと、小さなアーケードを見つけました。アーケードの入口近くには掲示板があり、沢山のビラやちらしが貼られていました。何気なしに覗くと、週末の朝市の広告、夏の大安売りの宣伝、クイン通りでの音楽会、美術館の特別展の案内、ブティーペティー劇場の新しい劇の広告などがありました。
ケイはその後、アーケードへ入って行きました。入口の壁には鉄の板が打ち込まれていて、『正義のアーケード』とありました。薄暗いアーケードの中は、ヘイズとは雰囲気ががらりと変わって、小さく怪しげな店がひしめくように並んでいました。
アーケードを抜けると、両側に高い建物と店がずらりと続く大通りに出ました。車が入れないクイン通りとは違い、そこは車やバスでひしめき合っていました。大通りの先には、高い城壁と城の入口らしい石のアーチが見えました。ケイはお城に向かって通りを進んで、もう一つ別のアーケードを見つけました。壁に鉄の板があり、『知識のアーケード』とありました。ここでも一つ一つの店を飽きずに覗いて歩きました。
ヘイズと、フィドラク城の正面から伸びる大通りの間には、幾つかのアーケードがあるらしく、ケイはもう一つのアーケード、『騎士のアーケード』にも行きました。小さなカフェがあり、外にイスとテーブルが出ていて、人がお茶を飲みながら本を読んだり、話したりしている姿がありました。大きな赤い葉っぱのマークが描かれた旗が入口にあり、窓を通して見える店の中には、焼き立てのマフィンが並んだカウンターがありました。
旗にある赤い葉っぱを見上げた瞬間、頭に鋭い痛みが走り、ケイは額を押さえてうずくまってしまいました。痛みはどんどん激しくなり、旗の赤い色がまぶたの裏に広がってきました。強烈な赤い色。それはケイの夢に出てきた赤い色であり、パンドラの箱の赤いダイヤの色でもありました。ジュニアがケイの周りを狂ったように行ったり来たりして、喉を鳴らしました。耳鳴りがガンガンする中、遠くから誰かの声が聞こえてきました。どうやら誰かの名前を呼んでいるようです。それが自分の名前だと分かるまで、少し時間が掛かりました。
「ケイ、ケイ!」
はっと我に返り、顔を上げると、自分の肩を揺さぶっているシュレトがいました。
「ケイ、どうしたんだよ!しっかりしろ!」
ケイはシュレトの顔を見て、驚いたように目を見開きました。シュレトの隣にはクレイもいて、二人共心配そうにケイを覗き込んでいました。ケイは彼らの顔を見て安心したのか、頭痛が引いていくのを感じました。
「二人共、どうしてこんな所に?」
ケイが尋ねると、二人は顔を見合わせました。
「どうしてって、こっちが聞きたいぜ。そばにジュニアがいたから、お前だって分かったんだ。大丈夫かよ、気分でも悪いのか?双子と一緒だとばかり思っていたけど、あいつらは何処に行ったんだよ」クレイがウィルとニールの二人を探すように、辺りを見回しました。
彼を気遣って少し休めと言う二人に首を振って、ケイは立ち上がりました。先程の頭痛が嘘のように消えていたのです。ヘイズに向かう途中、どうして自分とジュニアがウィル達と離れて行動していたのか、クレイ達に説明しました。
「それじゃあ、あいつらはバスク家の本店のオフィスに?世の中を少しは知るように言ったけど、何もそこまで深入りしなくても良かったのに」クレイが呆れて笑いました。
「クレイとシュレトは、どうして一緒にいるの?後で会う約束だって言っていたのに」
「そのつもりだったんだけど、銀行の用事が思ったより早く済んで、時間つぶしに通りをぶらついていたら、こいつに偶然会ったんだ。このまま双子の様子を見に行って、焦げたオーブンに行こう」
三人はアーケードを抜けて、ヘイズのバスク家本店に向かいました。店の入口が見えてきた時、そこから出てくる二人の姿がありました。ケイはジュニアの後を追って、二人に駆け寄っていきました。クレイもシュレトもその後に続きました。
「ニール、大丈夫だった?」
「ジョーカー。お前、またぶっ倒れたんだって?」クレイがからかって笑います。
「何で、シュレトがここにいるんだよ?」ニールが顔色の良くなった顔で言いました。
「親切にも、俺達はお前らを迎えに来て、昼飯を食いに行くところだったのさ。それにしても、相変わらず面倒を起こす奴だな、お前は」シュレトは呆れ顔です。
それから五分後、彼らは焦げたオーブンで一つのテーブルを陣取っていました。クレイとシュレトはこの店の常連で、店の女主人や店員はもとより、客の中にも知り合いがいて、気軽に挨拶していました。
「ところでニール。お前、今朝は飛び跳ねる程元気だったのに、どうしたんだよ?」
カウンターに飲み物を注文しに行っていたクレイが、シュレトの隣に腰掛けながら尋ねました。
「ニールが元気だったのは、アレスタがくれた植物の種を飲んだからなんだよ。それまでは、ベッドから起きることも出来ないくらい、頭痛で苦しんでいたんだ」
ウィルが説明すると、クレイは目を見開きました。「何だって?お前なあ、それがどういうものか知っていて飲んだのか?確かに酔いの痛みをすぐに消してはくれるけど、その後大人しくしていないと、あっという間に効き目が切れてしまうんだぞ」
「今日、身をもって体験済みだよ」ニールがむすっとして答えました。
店員が五人分の飲み物を持って、彼らのテーブルにやってきました。
「よお、お前達。最近、姿を見せないと思ったら、仕事で忙しかったのか?」
飲み物を運んできた店員は、親しげにクレイとシュレトに話し掛けてきました。
「ピエタ、久しぶりだな」
ピエタと呼ばれた店員は背が高く、眼鏡を掛けた人でした。とても痩せているので背が高いというより、縦に長いといった感じです。年齢は若そうなのに、頭には髪が薄く生えているだけで、ほとんど坊主でした。
「今度、アレスタも連れて飲みに来いよ。仕事を頼みたい奴らは増えているんだ」
ピエタは五つのグラスをテーブルに置いて、行ってしまいました。
「ピエタはアローズ街に仕事を紹介してくれる、いわばアローズ街と仕事先のパイプ役の一人なのさ」シュレトはそう言って、白く濁った水色の液体が入ったグラスを手に取りました。「お前達、これを飲むのは初めてだろう。アルコール入りのペッカーって言う飲み物だ。うまいぜ」
ケイは初めて見る気味の悪い色の飲み物を、じっと見下ろしました。特にニールは、アルコールの言葉に眉をしかめました。
「心配すんなって。お前達のために、特別にアルコールは抜いてもらったから。ぐいっといけよ」クレイも自分のグラスを手に取り、軽く持ち上げました。「それじゃあ、乾杯といくか」
ケイ達もグラスを取りました。恐る恐る少し飲んでみると、甘いような少し苦いような、独特の味がしましたが、まずくはありませんでした。
「そうだ、今の内に渡しておこう。お前にだ、ケイ」
クレイがそう言って、ポケットから小さい袋を取り出して、テーブルの上に置きました。そしてケイの前にすっと押し出しました。
「中に二十ネユ入っている。お前は途中から来たとはいえ、ファンフェアーできちんと働いて、正式にアローズ街の一員になったんだから、給料をもらう権利がある。本当なら、月末の集会で、アレスタからリーダー達に、グループ全員分の小遣いが配られることになっているんだけど、お前も休暇に入ったし、少しは金がないと困るだろうからって、アレスタが少し前払いしてやれって言うんだ。残りは、集会の時に支払われるから」
ケイはびっくりして、袋を受け取って中を見てみました。そこには、四つにたたまれた十ネユ札が二枚入っていました。
「それから、お前の銀行口座も開いてきた。もっとも、そこに入る金は、お前がアローズ街を出て行く時か、あるいはよっぽどの理由でもない限り、手をつけることは出来ない。だから無駄遣いは控えろよ」
ケイは何度もクレイにお礼を言って、大事に袋をポケットにしまいました。初めてもらう給料です。ケイはとても嬉しくなって、自分が少し大人になったような気がしました。
食事の後、彼らはまた中心街をぶらぶらしました。町の中心にあるフィドラク城の正面から、南に真っ直ぐ延びているのが『マリー通り』と言う大通りで、マリー通りの先には、鉄道の駅である中央駅があります。お城の東に延びるのがクイン通りで、『ジョンの仕事場通り』という変わった名前の通りを入ると、ヘイズがあります。クイン通りから、ヘイズとは反対方向の北に行くと、役所や美術館がある地区があり、その途中にブティーペティー劇場があるのでした。
ケイはクイン通りの雑貨屋で、お財布を買いました。クレイからもらったお金を入れておくためです。お金を払って、お釣りと商品を無事に受け取ると、ケイはまた少しこの世界に馴染んだような気がしました。
来た時と同じように、二階建てのオレンジ色のバスに揺られて、五人は夕方にはアローズ街に戻って来ました。
「今日はすごく楽しかったよ。ありがとう、クレイ、シュレト。またね」
ウィル達は二人にお礼を言って、三〇二Bに帰りました。部屋には誰もいないようで、静かでした。
帰って来てほっと一息つくのもつかの間、ケイはウィルに腕を掴まれて、居間に連れ込まれてしまいました。驚いているケイを囲むように、ウィルとニールは真剣な顔で傍らに腰を下ろしました。
「今日、面白いことが分かったんだ」ウィルが口を開きました。「ニールの頭痛のお陰で、バスク家の店に入っただろう?僕達を助けてくれたあの女の人、ロウニー・リーズと言って、実はバスク家本店の店長の娘で、副店長だったんだよ」
「ヘイズ本店の副店長?」ケイはびっくりしてしまいました。
「僕達も聞いて驚いたよ。彼女はとてもいい人で、すごく親切にしてくれたんだ」
「彼女、ウィルが気に入ったんだぜ」ニールが言いました。「昔から、こいつは大人の女性に受けが良いんだ。彼女達は、こいつの優しい笑顔に弱いみたいなんだよ」
ニールが言うと、ウィルは笑いました。「違うよ、笑顔じゃあなくて僕の人柄のせいさ。とにかく、僕はこれはいいチャンスだと思った。バスク家について聞きたいと思ったら、これ以上の人はいないだろう。本店の副店長だよ。噂なんかじゃあなくて、しっかりとした事実を教えてくれる人だろうと考えたんだ」
ロウニーが副店長だと知って、ウィルはバスク家について、彼女から聞き出せるだけ聞き出そうと考えたのでした。
「そこで僕は、バスク家の歴史について聞いてみることにしたんだ。僕達はあまりにもバスク家について知らなさすぎるだろう?ロウニーは、まるで歴史の本が喋っているみたいに、詳しく教えてくれたよ。バスク家の鏡会社が設立されたのは、もう三百年以上も前になるらしい。創立者の名前はラド・バスク。彼は鏡によって、一代で財を成した人物らしい。バスク家の名前で呼ばれているあの特殊な鏡は、ラドが二十代という若さで作り出すのに成功したもので、ルーナンの宝石にたとえられて、当時はルーナンの鏡と呼ばれていた。彼の生み出した鏡は名家や貴族の目に留まり、鏡の会社を作ったら大成功。それによって一躍大金持ちになったラドは、名のある貴族の令嬢と結婚して、地位も名誉も名声も手に入れた」
「ルーナンの宝石って、メチャクチャ綺麗でメチャクチャ高価な、無色透明の宝石だ」
ルーナンという聞き慣れない言葉に首を傾げるケイに、ニールが説明してくれました。
「ラドはあまり自分の過去を話したがらなかったようで、有名になる前の彼について知られていることは、とても少ないらしいんだ。分かっていることは、ラドはとても貧しい家庭に生まれ、幼い時に鏡職人の見習いとなり、二十代であの特殊な鏡を生み出したということ。そして会社を成功させて結婚して、一年後には息子も生まれた。ラドは最高に幸せな人生の成功者だと思われた。けれども、三十五才という若さで事故にあい、あっけなくこの世を去った。彼と共に、妻も同じ事故で亡くなっている。生き残ったのは一才になる息子だけ。その後バスク家の会社は幼い息子に渡り、代々続いているらしい。ラドが有名になってから、事故で亡くなるまで、たったの七年。その知名度の割には、あまりにも彼について知られていることが少なくて、謎に包まれている部分が多いらしいんだよ」
「ラドってすごい人だったんだね。若くしてそんなに成功したなんて」ケイはラドの生い立ちに、すっかり感心してしまいました。
「それで、面白いのはここからなんだよ。ただの鏡職人だったラドが、どうやって自分の会社を設立出来たのかというと、彼は鏡を貴族達に寄贈することによって、援助をしてもらうという方法をとったらしいんだ。つまり、鏡を気に入った貴族に鏡を譲る代わりに、会社設立の資金を出してもらったようなんだ。貴族達は鏡の魅力に魅せられて、援助を惜しまなかったと言われている。その中には当時の皇太子、スラビス王子もいたらしい。ルーナンの鏡の呼び名をつけたのも、スラビス王子だと言うんだ。設立のための資金も、知名度もすでに手に入れていた彼の会社は、最初から大成功。彼はあっという間に莫大な富と名声を手に入れることになる。ラドは会社を設立して以来、鏡作りを全て会社に任せて、自分は一切止めてしまうんだ。つまり会社が出来てからは、バスク家の鏡は、全部ラド以外の職人の手によって作られることになった。彼が会社を設立するまでに、自らの手で実際に作った鏡は、たった数枚しか存在しない。それらの鏡は会社設立の資金を得るために、貴族に寄贈してしまったけど、会社がその後作り続けている鏡と分けて、ルーナンの鏡と呼ばれ、とてつもない値打ちがつけられることになった」
「会社が作ったものと、本人の手で作ったものじゃあ、価値は違って当然だろうね」
「そうさ。ただでさえ高価なバスク家の鏡だ。創立者の手によって作られたとなったら、破格の価値がつくだろう。実際、ルーナンの鏡は寄贈された貴族達の家宝となっているらしいよ。どうしたんだ、ニール?」
ウィルは弟がじっと自分を見つめているのに気がついて、彼を振り返りました。
「よくそこまで正確に、人の名前やら何やら覚えられるなと思って」
「おい、皆がお前と同じ頭だなんて、思わないでくれよ」
ウィルがからかうと、ニールは真面目にむっとします。「俺は頭が痛くて死にそうだったんだ。ロウニーの話だって、途切れ途切れにしか耳に入ってこなかったし」
「そうむくれるなよ。それよりも、ラドが作ったルーナンの鏡が存在するのを知った時、ある考えが頭をよぎったんだ。同じバスク家の鏡と言っても、二種類あることが分かった。会社で作られるバスク家の鏡と、ラドが作ったルーナンの鏡。同じバスク家の鏡でも違う鏡だ。ということはだよ、仮にこの二種類の鏡がほとんど同じでも、わずかに違いがあるとしたら、どうなると思う?」
「どうなるって?」ケイとニールは仲良くそろって言いました。
「これは仮説だけど、ケイが持っている鏡のかけらは、もしかしたらバスク家の創立者が作った、ルーナンの鏡かもしれないってことさ」
ケイとニールは驚いて声を上げました。
「ルーナンの鏡?そんなのあり得ないよ!」
「そうとは言い切れないよ。思い出してよ、ヘイズの本店で、バスク家の鏡とケイの持っているかけらを比べて見たけど、輝きに少し違いがあるように思っただろ?ノエラもケイのかけらを見て、同じように言っていたじゃあないか。もしケイのかけらがルーナンの鏡じゃあないなら、どうして店にあったバスク家の鏡と違うんだ?もし他にバスク家の鏡に似たような鏡が存在しているとしたら、バスク家に対抗するかたちで世に出てきているはずだ。でも未だにバスク家以外に、あの輝きを持つ鏡を作ることに成功した職人も会社もない。それはロウニーが保証してくれたよ」
「これが本当にルーナンの鏡だったら、すごいことだよね」ケイは革袋からかけらを取り出して、まじまじと見つめました。
「この考えが正しければ、更に先に進めるんだ。ケイのかけらがアークの持ち物だとして、ついでにルーナンの鏡だとすれば、アークはラドが会社設立のための資金集めに、鏡を寄贈した貴族の子孫ということになる」ウィルが人差し指を立てて言いました。
ニールは目を見開きました。「もしかしたら、アークは王族だって可能性もあるぜ。だってラドが鏡を寄贈した中に、スラビス王子がいたんだろう?そうか、アークは王族なんだ。だから秘密裏に行方を捜しているんだ。こりゃあ大事だぜ」
「お前、本当に僕とロウニーの会話を聞いていなかったんだな」
ウィルが呆れて、やれやれと小さくつぶやいて、ポケットからちらしを取り出してテーブルの上に広げて見せました。
ケイがちらしに書かれている文字を読みます。「美術館特別展のご案内。歴代王の宝物展。あ、これ今日中心街で見たよ。掲示板に貼ってあった」
「王室の貴重な美術品の数々を、各時代に分けて特別展示。非公開の秘宝も数多く展示」ウィルがケイの後に続けて読み上げました。「僕がルーナンの鏡を見てみたいって言ったら、ロウニーが教えてくれたんだ。今開かれている美術館の宝物展に、スラビス王子がラドから寄贈されたルーナンの鏡が展示されているって。ついでに言っておくと、スラビス王子のルーナンの鏡は、割れているどころか、傷一つない完璧な状態で展示されているってさ。だからケイのかけらは王室の鏡ではないし、アークも王族ではないってことになる」
「このかけらがルーナンの鏡だとすると、アークは貴族だってことになるのか。王族じゃあないとしても、貴族だったらすごい人には違いないね」ケイが言いました。
「まずは、ケイのかけらが本当にルーナンの鏡かどうか、確かめてみる必要があるよ。宝物展に展示されている、スラビス王子のルーナンの鏡を見に行くんだよ」ウィルがちらしを指で叩きました。
夕食時に、ウィルはバスク家の鏡について分かったことを、サム達に話して聞かせました。途端にノエラが頬を赤くして、興奮したような声を出しました。
「すごいわ。もしウィルの仮説が本当だったら、アークは貴族なんでしょう?もしかして、とてもハンサムで素敵な貴公子かもしれないってことじゃあない。ねえ、ミミ?」
「どうして、そっちの方に想像が走るんだよ。全く」サムは興奮している二人の少女に呆れてしまいます。
「僕も一緒に中心街へ行きたかったな。呼んでくれれば良かったのに」タエが妬むようにウィルを横目で睨みました。
「クレイが誘いに来た時、お前が外に遊びに行ってたんだろう。呼んでくれって言ったって、お前が何処にいるかなんて知るかよ」ニールです。
「僕達は、廃墟の探検をしていた。僕が探検隊長だよ」サムがにっと笑って言いました。
「お前が隊長?隊員は何人いるんだ?」ニールが尋ねます。
「僕一人だよ」タエが元気良く手を挙げて答えました。「他に三つの隊があって、それぞれ廃墟を探検して、宝物を見つけて争うんだ」
「廃墟?もしかして裏の工場跡のことか?」
ウィルが聞くと、サムはやばいと首をすくめました。
「あそこは危険だから入るなって、言われているだろう。アレスタにばれたら大変だぞ」
「大丈夫だって。ばれない内に探険し尽くして、止めるから」サムは明るく言いました。
「よくあんな所、行く気になるわね。宝物って何なの?今まで何を見つけたのよ?」
ノエラが尋ねると、サムとタエは顔を見合わせました。
「今日、僕は珍しい形のねじを見つけたよ」タエが得意顔で言いました。
「ねじ?それって宝物なのか?」ニールが眉をしかめます。
「あと、砕けたガラスとか、木片とか落ちているよ」タエは更に得意顔で言いました。
「つまり、宝物って、がらくたのことなのね」
「うるさいなあ。探検そのものが楽しいんだよ」サムが口をとがらせました。
「もう、勝手にして。危険な目にあって、ねじやらガラスの破片やら、がらくた探しなんてよくやるわよ」ノエラはすっかり呆れ返ってしまったようです。
「ところで明日、中心街に行くんでしょう?そのルーナンの鏡を見に」ミミは頬を赤く染めて、嬉しそうに言いました。
「うん。明日はグループ全員で中心街に行ってみよう。特別展にある鏡を見れば、ケイのかけらの正体もはっきりと分かるだろう」
ウィルが言うと、皆は大喜びしました。