第2部 パンドラの箱:5 停電事件
劇場での仕事二日目から、ジョーカーズはウィルに言われた通りに、仕事人、芸人、スタッフ達の動きを観察し始めました。ウィルが考えたように、一日三回のショウの間、全員ほとんど同じ場所で同じ仕事をしていました。この日から、ジョーカーズはどんなに小さな仕事でも自ら進んでやるようにして、劇場の中を出来る限り見て回るように努めました。
「まるでスパイにでもなった気分で、僕は結構楽しかったな」
一週間後に、ジョーカーズが居間で報告会議をしている時、サムが笑いながら言いました。
「皆、ご苦労様。この数日で、随分色々なことが分かってきたよ」ウィルは皆がそれまで集めた、劇場内の情報を書き留めたノートを開きました。「ノエラとミミは、楽屋の中を自由に動けるようになったし、動物とも遊べる程になった。動物はいつも、舞台裏の大きな部屋に控えているんだね?」
「ええ。動物は舞台裏の部屋から、大道具は楽屋にある倉庫から直接運ばれるわ。パンドラの箱は出番の一つ前の出し物、音楽演奏の間に倉庫から運ばれて、本番まで舞台の袖に置かれているの。そして出番が終わると、すぐにまた倉庫に運ばれていってしまうわ」
「じゃあ、パンドラの箱は、倉庫と舞台の間を行き来するだけってことになるね」
ウィルは簡単に描いた劇場の見取り図を、テーブルの上に広げました。
「そのどちらかに置かれている時に、隙を見て箱に近づくしかないね」
「倉庫は、無理だよ」タエの言葉に、ウィルが即、反論します。「あそこには常に誰かいて、物を出し入れしているから、こっそりと中に入って箱を見るなんて出来ないよ」
「舞台の袖に置かれている時も、無理ね。人が一番うろうろしている場所だし、常に三、四人の仕事人が控えているのよ。怪しまれずに箱を調べるなんて、絶対不可能よ」
腕を組んでウィル達の話を聞いていたニールが、不意に声を出しました。「つまり無理ってことじゃあないか?倉庫も舞台の袖も駄目って、箱はそこ以外に動かされないんだろ?」
「だったら、運んでくる間っていうのは?」タエがポンと手を叩きました。「倉庫から舞台に運ぶのを手伝う振りをして、箱を開けて調べるんだ」
一瞬、明るい顔で全員がタエを振り向きましたが、すぐに首を振りました。
「駄目だよ。あの箱は開けるとすごい音がするし、すぐに誰かに見つかっちゃうよ」
サムがため息混じりに言うと、ニールがまた叫びました。「ってことは、最初からどうしようと、箱を開けたら絶対に誰かに見つかるってことじゃあないか!」
ジョーカーズは、ニールの言葉にシーンとなりました。
「どうして、今までそのことに気付かなかったんだろう。箱に近づくことが出来ても、あんなにうるさい音がしたら、必ず誰かに聞こえちゃうよね」
ケイもがっくりと肩を落としてしまいました。せっかく皆が一生懸命、自分を助けるために頑張ってくれているのに、すでに行き詰ってしまったのです。
「もう一ヶ所だけ、パンドラの箱が置かれる場所がある」ウィルが静かな声で言いました。
彼は一人、じっと見取り図を見下ろしています。
「倉庫と舞台の袖の他に、もう一ヶ所だけ箱が置かれる場所があるよ。ほら、ここ」
皆テーブルに乗り出して、ウィルが指差した見取り図を覗き込みました。ウィルの指は真っ直ぐに舞台の真ん中を示していました。
「舞台の上だ。本番中、パンドラの箱は舞台の上に置かれる」
それを聞いて、サムは思わず後ろにひっくり返りました。「何を言い出すのかと思ったら」そして、そのままサムは床の上に横になりました。「まさか、舞台の上で箱を調べる、なんて言うんじゃあないだろうね。本番中、箱は大勢の客と仕事人と芸人に、一番注目されているんだ。不可能だよ」
「いや。その、まさかだよ」
皆が驚いてウィルを見ると、彼は笑顔を浮かべているではありませんか。
「一番可能性があるのは、箱が舞台にある時かもしれない。昨日、仕事人から面白い話を聞いたんだ。何年か前に劇場で停電があったって。舞台の後ろは、黒いカーテンが二重になっているんだよね?」ウィルがノートをめくって言いました。
「うん。そこから仕事人が舞台の上の芸人に、客から見えないように道具を渡したりするらしいよ」タエが答えました。
「舞台裏には、舞台と客席用の照明のスイッチがある。組み立て式の建物だから、配線がまとまっているんだな。ノエラ、動物達は裏の部屋にいる時、檻の中に入れられて、鍵をかけられているの?」
「一応はね。鍵と言っても、ただかんぬきが閉めてあるだけで、結構出入り自由になっているけど」
ウィルはしばらく考えてから、顔を上げました。
「皆にそれぞれやってもらいたいことがあるんだ。それが実行可能かどうか明日試してみて欲しい。僕も、もう少し調べたいことがある」
「ねえ、ウィルは一体何を考えているのかなあ?」
翌日、ケイとニールは、ウィルに頼まれたことを実行していました。実行するといっても、彼らが頼まれたのは、ただ舞台の袖からショウを観ることだけだったのですが。
「さあな。何も言ってくれなかったからな。でも、何かが頭に浮んだことは確かだぜ。ウィルは絶対に無理なことでも、決して諦めないんだ。反対に、無理なら余計に力が湧いてくるみたいなんだ。脚光に強いってやつだな」
「それを言うなら、逆境でしょう?」ケイはくすくす笑いました。
ショウは十五分間の中休みに入り、ケイ達が品物を売る準備をしに行くと、舞台裏では仕事人の動きが、なぜだかいつもより慌ただしくなっていました。二人は不審に思って、そばにいた仕事人に尋ねてみました。
「随分騒がしいけど、どうかしたの?」
「さっき、パンドラの箱から小石の雨が飛び出しただろう?あの時、小石の一つが舞台上の照明に当たって、ライトを一つ壊しちまったみたいなんだ。だから急いで交換をしているのさ」仕事人は舞台の天井がある方角を見上げて答えました。
ニール達が客席でお菓子袋を売り歩いている頃、ウィルは幕の閉じた舞台で仕事人の手伝いに大忙しでした。
「ライトを交換して故障がないか調べるから、感電しないように、念のために誰か舞台照明の元の電源を切っておけ!」高い梯子を担いだエミニキが叫びます。
近くにいた仕事人が返事をする前に、ウィルが手を上げました。
「僕が、行くよ」
「よし、楽屋の誰かを捕まえて、元の電源を切るように頼め。電力室は楽屋の手前にある」梯子の上からエミニキが、ウィルに鍵束を投げて寄こしました。「赤丸の印が付いているのが電力室の鍵だ。いいか、舞台照明の元の電源だぞ、急げ!」
ウィルは鍵束を受け取ると、楽屋が並ぶ廊下へ走って行きました。すぐに、電力室と札の掛かっているドアを見つけ、赤丸の印が付いている鍵で中に入りました。そして沢山のスイッチがついている機械を見上げ、一つ一つのスイッチの横に書いてある文字を指でたどります。一階席、二階席、ボックス席、舞台、舞台裏、ロビー、楽屋、非常用ライト。
その時、楽屋のスタッフが、電力室にいるウィルを見つけました。
「お前、何をしているんだ?」
「舞台照明の元の電源を切ってくるように、エミニキに頼まれたんです」ウィルは何気なく答えました。
「舞台照明の電源ならこれだよ。俺がやってやろう」その人は電源を切ってくれました。
ウィルはその人にお礼を言うと、舞台に戻って行きました。照明を直した後、電力室の電源を入れてから舞台裏にあるスイッチを入れると、ライトは無事につきました。
仕事人が手早く修理を終わらせたお陰で、後半のショウは時間通りに始まりました。ケイ達は売り物を裏に置くと、また舞台の袖に戻っていきました。ショウが始まってすぐに、二人の所に木の人形モーティシーがやってきました。
「お久しぶりね、ケイにニール。何回もショウを観て、うんざりしているんじゃあない?」
「モーティシーの出番は、次でしょう?こんな所にいても大丈夫なの?」
ケイが心配そうに尋ねると、モーティシーは軽く笑いました。
「平気よ。まだアユザーネの手品が始まったばかりですもの」
その時、モーティシーがうんざりした様子で天井を見上げたので、ケイ達が何事かと振り返ると、案内役の道化が立っていました。道化はモーティシーの顔にぬっと指を突き付けると、醜い顔を歪めて睨み付けました。
「分かったわよ。本番が始まるまで、向こうで大人しく待っているわ。それじゃあね」
モーティシーは出番のために戻って行きました。道化は、その場に残された二人をじろりと睨み付け、黄色い歯を見せて嫌らしく笑うと、アユザーネの手品に出るために舞台へ出て行ってしまいました。客席からはどっと笑い声が聞こえてきました。
その夜、ジョーカーズは再び報告会議をするために、全員が居間に集まりました。
「僕が頼んだこと、うまくいった?」ウィルはノートを開きました。
「ちゃんと言われた通りにしたわよ。ただお猿を一匹抱いて、舞台裏から楽屋の間を行ったり来たりしただけだけど。誰も何も言わなかったわよ」ノエラが答えました。
「ミミも言われたように、動物を檻から出して遊びましたよ。とっても楽しかったです」
ウィルはにっこりと笑いました。「それはよかった。じゃあ、サムとタエはどう?」
「僕達も指示通りに、時間のある限り舞台裏をうろついていたよ。薄暗くて、仕事人やスタッフ達は僕達には目もくれなかった」ね、とタエがサムに頷きました。
「僕は長い間、楽屋と舞台裏の境目に突っ立っていた。それで気付いたけど、楽屋が並ぶ廊下は常に人がいると思っていたけど、意外に人気がなくなる時があったよ。だけど、倉庫の中にはいつも誰か待機しているから、中に入ることは出来ないよ」サムが言いました。
「あのー、一応報告しておくけど」ニールが手を挙げました。「俺達も舞台の袖に立って、ずっと舞台を観ていたぜ。でも、これといって何も起きなかった」
「了解」ウィルはとても満足そうにノートを閉じました。「何とか、うまくいきそうだぞ」
「おい、何か考えがあるなら、いい加減に俺達にも教えてくれよ。今日俺達がやったことに、どんな意味があるって言うんだ?」ニールがいらいらしてウィルに詰め寄りました。
ウィルは一人、笑いました。「ちゃんと話すよ。僕もこの方法がうまくいくかどうか、昨日の時点では分からなかったんだ。でも今、皆の報告を聞いて自信が湧いてきたんだ」
「今の報告って、何か役にでも立ったの?」タエがキョトンとします。
「大有りさ」ウィルはポケットに手を入れます。「僕の作戦を話そう。これを見て」
ウィルは皆にポケットから取り出した物を見せました。
「これはビー玉じゃあないか。これがどうしたんだよ?」ニールが受け取って眺めます。
「ただのビー玉じゃあないぞ。それは今日、パンドラの箱から飛び出した物だよ」
「そう言えば、二回目のショウの時にビー玉が出たね」ケイはショウを思い出しました。
「あの後、舞台を掃除した時、幾つか拾っておいたんだ。三回目のショウでパンドラの箱が吐き出した小石が、照明に当たってライトを一つ壊しただろう?でも、そんなにうまい具合に、箱から飛び出した物が照明に当たると思うかい?」ウィルはくるくるとビー玉を指でもてあそびます。「照明は舞台のずっと高い所にあるんだ。いくらあの箱でも、そんなに高く物を飛ばせやしないよ」
「でも実際に今日、照明は壊れたじゃあないか。あ、まさか」サムがウィルの手から、ひょいとビー玉を取り上げます。「まさかビー玉を拾ったって、もしかして照明を壊すため?」
にっこりと微笑むウィルを、全員呆気にとられて見つめてしまいました。
「今日、照明を壊したのはウィルだったってこと?」タエが真っ青になります。
「何てことをしたの。もしばれたら、冗談では済まなかったわよ」
「冗談で照明を壊したりしないよ。電力室を調べたかったからだよ。仕事人から昔起きた停電の話を聞いて、思い付いたんだ」
ウィルはどうして照明を壊したのか理由を話し、彼が考えた、パンドラの箱を誰にも見つからずに調べる方法を話して聞かせました。パンドラの箱が舞台に出ている本番中に、舞台裏にある照明のスイッチを消して、舞台と客席が真っ暗になっている間に箱を調べるというのです。
「箱が舞台にある時に調べるって、あれ本気だったの?信じられない」ノエラは頭を抱えます。
「でも、舞台裏のスイッチを消しても、箱を調べる時間なんてほんのわずかだろ。すぐに誰かがスイッチを入れにくるに決まっている」ニールです。
「いいんだ。消すのは最初だけで、その後スイッチを壊しちゃうから。今日調べたけど、スイッチのすぐ下から配線が丸見えになっていた。あそこをちょっと引っ張れば簡単さ」
「照明を消すだけじゃあなくて、スイッチを壊しちゃうの?そんな恐ろしいこと、本気で言っているの?」タエが失神しそうになり、額に手を当てました。
「ちょっと待ってよ。僕も昔起きた停電の話を聞いたけど、非常用ライトがあるんだって仕事人が言っていたよ。何でも、停電の時に舞台が真っ暗になって、客がパニックを起こして怪我人が出たから、それ以来、何か異常があって照明が消えちゃった時、自動的に非常用ライトがつくようになっているんだって。だからスイッチが壊れても、劇場が真っ暗になることはないんだってさ」サムが小難しい顔をして一気に喋りました。
しかし、ウィルは涼しい顔で答えました。「非常用ライトがあるからこそ、僕の計画は成り立つのさ」
「この作戦が失敗して、誰かに見つかっちゃったらどうなるの?」タエが言いました。
「どうしようも、ないだろうな」ニールが諦めたように答えました。「見つかった時は、見つかった時さ。アレスタに殺されないように、祈るしかないな」
「僕はウィルの作戦にかけてみたいけど、皆に迷惑は掛けられない」ケイが言いました。
「いいわ、私は乗るわよ、この作戦に。とてもうまくいきそうにないけど、だから反対にうまくいくような気がする」ノエラは心配そうなケイに気付いて、微笑みました。
「僕も、協力するよ」タエもケイを励ますように力強く言いました。
「助けるって約束した時点で、僕達は同罪なんだ。もし見つかっても、ケイの責任じゃあないよ。皆で罰を受ければ怖くなんてないさ」サムがにっと笑います。
「何だか、とっても面白そうですね。ミミもやりますよ」
「と言うことは、全員、僕の作戦に賛成だってことだね。仕事をしている劇場で本番中に照明を壊すなんて、本来なら絶対にしてはならないことなんだ、分かっているの?」ウィルは今更ながら真剣な表情で、全員の顔を見回しました。
「作戦を思い付いた奴が、そんなこと言わないでくれよ。弱気になるじゃあないかよ」
「でも、一つだけ気になることがある。ムリロのことなんだ。出来れば、作戦を実行するのは彼がいない時にしたいんだ。ムリロがいると、うまくいかないような気がするんだ」
「それ、分かる気がする。ムリロのあの黒い大きな目で見られると、心の中まで見られているような気がするんだよね」タエが真剣な顔で言いました。
「彼は敏感そうだし、少しでも怪しい行動をすれば、すぐに気付かれちゃいそうよね」
「だけどさ、ムリロを劇場の中で見掛けることなんて、滅多にないよ。朝と、劇場が閉まる前に、ひょっこり姿を見せるだけだよ」
サムが言うと、ミミも頷きました。「ムリロはファンフェアーの責任者ですから、一日中劇場にはいないんですよ。他にも仕事があるでしょうし」
「それなら、やりやすくなるよ。実行するのは、うまくいけば明日、三回目のショウの本番中だ。うまく準備が整ったら、僕が皆に実行の合図をするからね」
その後、ジョーカーズはそれぞれの役割をしっかりと頭に入れて、何度も練習を繰り返しました。練習を終えて布団に潜り込んだケイの心から、失敗したらという心配は、何処かに吹き飛んでいました。ジョーカーズの皆が一体となって協力してくれていることが、彼に大きな自信と安心感を与えてくれていたのです。きっと作戦を成功させるんだ。ケイは首に掛けている銀のクローバーに強く願いながら、眠りに落ちていきました。
翌日、ジョーカーズはドキドキしながら仕事に行きました。案の定、ムリロは朝一番に劇場でジョーカーズに挨拶した後、姿を見せることはありませんでした。
一回目のショウは無事に終わりました。二回目のショウで、ウィルはこっそりと舞台の後ろに隠れて、パンドラの箱が吐き出す物に紛れて、ビー玉を照明目掛けて投げました。十五分の中休み中、仕事人はまた壊れた照明を直すのに大忙しで、幕の下がった舞台に梯子を持って走ってきます。ウィルは何気ない顔でエミニキに声を掛けました。
「また電力室の電源を切ってきてあげるよ。この前もやったから任せて」
「よし、そうか。それなら頼むぞ。ほら、鍵を受け取れ」
エミニキは何の疑いもなく、ウィルに鍵束を投げて寄こしました。ウィルは鍵束を受け取ると急いで電力室に行き、慣れた手つきで舞台照明の電源を切りました。そして無事にライトが取り替えられると、今度は電源を入れました。
電力室を出る前、ウィルは赤丸の印がついた鍵をこっそり鍵束から抜き取りました。外に出て電力室に鍵をかけた後、その鍵をポケットに入れ、何食わぬ顔で鍵束をエミニキに返しました。鍵が沢山ついている鍵束から、一つだけ鍵が欠けているなんて気付くはずもなく、エミニキは鍵束をベルトに引っ掛けて、梯子を片付け始めました。ウィルも手伝って道具や懐中電灯を運びました。
「ご苦労だったな」エミニキはそう言って、楽屋に戻り掛けました。
その時、舞台裏の部屋から、ノエラが猿を抱いて出てくるのにぶつかってしまいました。
「きゃっ」
「おっと」
二人がぶつかった拍子に、ノエラに抱かれていた猿がエミニキに飛びつきました。遊ぶように自分の体の上を動き回る猿に、エミニキは苦笑します。ノエラが慌てて猿を引き離そうとすると、エミニキは慣れた手つきで猿を抱き上げ、ノエラに返してくれました。
「こいつは、すばしこくていたずら好きだ。気をつけなよ、お嬢さん」
エミニキが笑いながら楽屋の方に行ってしまうと、ウィルが赤丸の印がついた鍵をそっとノエラの手に握らせ、二人は意味ありげに頷き合いました。作戦の準備が整ったのです。
二回目のショウが終わって、今日最後のショウが始まるまでの間に、作戦実行の知らせがジョーカーズ全員に伝えられました。
「いよいよだね」舞台の袖に立つケイの胸が、緊張でドキドキと高鳴っていました。
「ああ。合図があったから、今回のショウで実行だ。準備はいいか?夢を良く思い出すんだぞ。夢がお前に何かを教えようとしていたはずだ」
ケイはニールの言葉に頷いて、ウィルから借りた小さな懐中電灯を握り締めました。
舞台では動物ショウが終わり、お猿の汽車が舞台を去って行くところでした。パンドラの箱の出番は、着々と迫っています。ニール達が音楽演奏を観ている頃、舞台裏ではタエとサムが、照明のスイッチの近くに隠れました。同じ頃、舞台裏の部屋から猿を抱いたノエラが出てきて、楽屋へ歩いて行きました。そして、廊下に誰もいなくなったのを見計らって、ウィルから受け取った電力室の鍵をポケットから取り出して、中に忍び込みました。中に入ると、ノエラはウィルの指示通りに、非常用ライトの電源を全て消してしまいました。非常用ライトは、照明に何か異常が起こった時、自動的に作動するライトですから、電源を消しても劇場内には何の変化も起こりません。
次にノエラは廊下に誰もいないことを確かめると、猿を電力室に残して、素早く外に出てドアを閉めました。そして鍵をかけてから、ドアの下のわずかな隙間から、電力室の中に鍵を滑り込ませました。
「全てうまくいったよ。準備は整った。後は、僕がここでタイミングを見計らって、サム達に合図をする。そして幕を下ろすスイッチを入れたら、すぐに飛び出すんだ」
ウィルがケイ達の所にやって来て、そっと耳打ちすると、二人は緊張した面持ちで頷きました。
そうこうする間に、ついにパンドラの箱の出番になりました。案内役の道化と二人のガードが舞台に出てきて、中央に置かれている箱のそばに立ちました。最初に一、二回もったいぶって箱を開けていた道化は、いつものように怒り始め、蓋を立て続けに開け始めました。ドキドキしながらケイ達は、獲物を狙う狩人のように箱に全神経を集中させます。そばにいる仕事人は、派手に音を立てるパンドラの箱に釘付けで、三人の少年など眼中にありません。
道化が五回目に箱の蓋を開け、蝶の大群が飛び出した時に、ウィルの目が光りました。
「今だ!」ウィルが小さく叫んで、サムとタエに合図をしました。
合図があると、二人は照明のスイッチを全て切ってしまいました。途端に舞台と客席は真っ暗になりました。ノエラとミミは電気が消えると、すぐに舞台裏の部屋から動物を放しました。
「行くんだ!」ウィルは幕を下ろすスイッチを入れ、ケイとニールの背中を押しました。
二人は真っ暗になった舞台に、弾丸のように飛び出して行きました。一瞬、何が起こったのか理解出来ないでいる客や、劇場の人々の中で、ジョーカーズだけが素早く動き出していました。やっと事態に気付いて、仕事人やスタッフが動き出した時には、すでにケイと双子は、舞台の上からパンドラの箱を運び出し、舞台後ろに掛かっている二重の黒いカーテンの中に隠れてしまっていました。ずっとショウを袖から観ていたお陰で、彼らは暗闇でも箱が置かれている位置や、ガードの立っている場所の見当がついていたので、事はとても簡単でした。
「停電だー!」
サムが叫んだ声に、満員の客が騒ぎ始めました。照明を消した後、下から覗いている配線の束を思いっ切り引っ張って、スイッチを壊したサムは、ノエラからもらっていた猿の毛玉を配線に絡ませました。
「きゃーっ、動物が逃げ出したわ!」
続いてノエラの大声に客は大騒ぎで、暗闇の中を出口に向かおうと動き始めました。
「どうして電気が消えたんだ!誰かがスイッチをいじったんじゃあないか?」
「早く、誰か懐中電灯を持って来い!」
仕事人は慌てふためき、真っ暗な中を動き出しますが、途端につまずいて転んでしまいました。
「何だ、何かがぶつかってきたぞ。動物だ。動物が逃げ出している!」
ノエラとミミが放した動物達に足を取られて、仕事人は互いにつまずき、ぶつかり、床に転がってどうにもなりません。
「畜生!何処のライトでもいいから、早くつけろ!」エミニキが大声で怒鳴りました。
ついに動物が客席に出てしまいました。何も見えないので客はパニックになります。ようやくスポットライトの光が客席を照らしました。しかし、幕が下りているので相変わらず舞台は真っ暗ですし、箱が舞台から消えていることに誰も気がつきませんでした。劇場の人は、とにかくパニックを起こした客を静めるのに大忙しです。
「どうか皆様。お願いですから、お静かに。何でもありませんから、お静かに!」
ケイ達はパンドラの箱を運び出し、ウィルの懐中電灯をつけて調べていました。二重のカーテンは厚くて、小さなライトの光が外に漏れる心配はありませんでしたし、箱の蓋は道化によって開けられたままだったので、音を立てる必要もありませんでした。蝶番の関係か、蓋は箱と垂直になる位にしか開きませんでした。
ケイは大きな箱の中を覗き込みました。内側は外側と同じように黒く塗られているだけで、空っぽでした。三人は叩いたり、擦ってみたり、箱の下まで覗き込んで調べましたが、何も見つかりません。何処かに隠し扉や、引き出しがある訳でもなく、箱の底が真っ暗な闇につながっている訳でも、中に手品師が隠れている訳でもありませんでした。
舞台裏では仕事人が道具置き場までたどり着き、懐中電灯がいつも置かれている棚の上を手探りしていました。しかし、照明の修理の後片付けを手伝った時、ウィルが懐中電灯を全て隠してしまったので、棚の上には何もありませんでした。
サムとタエは暗闇と動物に紛れて、仕事人の邪魔をしていました。足を引っ掛けて転ばせたり、腕にかじり付いたりします。それでもとうとう仕事人の一人が、スイッチを入れてしまいました。しかし壊されているので、明かりがつくはずもありません。
「くそ。スイッチがきかない。もしかして電源自体がいかれたのかもしれない」
エミニキは電力室に走りました。急いで鍵束から赤丸の印がある鍵を探します。しかし、エミニキはいつまでも鍵束をジャラジャラといじるだけで、やがて怒ったように叫びました。
「どういうことだ!電力室の鍵がねえ!こうなったら大事になる前に、ドアをぶち破るしかない」
仕事人の一人が、電力室のドアを無理矢理開けようと、体当たりを始めました。
「何も見つからないよ」黒いカーテンの間では、ケイが悔しそうに唇を噛みました。
「もう、あまり時間がないぞ」ニールも悔しそうに、箱を蹴り上げました。「くそっ」
どうしたらいいのでしょう。せっかくパンドラの箱が目の前にあるのに、何も見つかりません。皆が自分を助けるために危険を冒して、突拍子もない作戦を実行してくれたというのに、自分はその努力を無駄にしてしまうのでしょうか。ケイは必死で考えました。
頭の中に夢がよみがえります。赤い色、赤いダイヤ、そして暗闇。ケイは開いた蓋の裏にはまっている、三十センチ位もある大きな赤いダイヤに触れてみました。
「夢で、僕はダイヤを掴むんだ」
ダイヤを触る指にぐっと力を入れてみました。するとカタッとダイヤがケイの指先で奇妙な音を立てました。更に力を入れるとダイヤが外れ、ケイの手の中にずしりと落ちました。
「僕はこれを掴んで、それから暗闇の中に投げるんだ」
ケイは赤いダイヤを箱の底にごろりと転がしました。箱の中は黒くて、暗闇のように見えたのです。しかし何も起こりませんでした。ケイは次にどうしたらいいのか分からなくなりました。その時、不意に何かがカーテンの向こうからぶつかって箱が揺れ、その拍子に蓋が閉まってしまいました。
「大変だ!」
三人は慌てました。一度閉まった蓋を開ければ、すごい音がして物が飛び出してきてしまいます。そうしたら、いくらカーテンに隠れていても見つかってしまうでしょう。
辺りが明るくなり始めました。もう考える余裕はありませんでした。目をつぶって覚悟を決めると、ケイは思い切って箱の蓋を開けました。とっさに耳を塞ぎましたが、不思議なことに、何の音も聞こえませんでした。恐る恐る箱を見ると、蓋の裏にはどういう訳か、赤いダイヤが元の位置にちゃんと収まっているではありませんか。不審に思って箱の底を覗くと、何かあるのが目に入りました。ケイは箱の底に現れた小さな物を良く見ようと、ライトを近づけました。
「ケイ、明かりがつく!」ウィルが勢い良くケイの腕を引っ張りました。
引っ張られてケイは反射的に箱の物を掴むと、転がるように舞台から走って逃げました。三人が舞台の袖に走り込むのと、照明がつくのと、ほとんど同時でした。ドタドタと走り込んで、勢い余って三人は転がってしまいました。頭をさすりながら起き上がろうとすると、誰かが近づいてきて三人を助け起こしてくれました。それは案内役の道化でした。道化は無言で三人を起こして、パンパンと埃を払ってくれると、明るくなった舞台へ行ってしまいました。舞台裏では、捕獲された動物達が檻に入れられているところでした。
「大変ご迷惑をお掛け致しまして、誠に申し訳ございません」
客席には謝罪のアナウンスが流れています。大騒ぎした客は大分静かになり、全員席に戻っていました。
ケイ達の所にジョーカーズ全員が集まってきました。そして、誰もが無言で床に座り込んでしまいました。
「お前達、大丈夫だったか?怪我はなかったか?」
仕事人が心配して掛けてくれた声にも、彼らは無言で頷くことしか出来ませんでした。
停電の大騒ぎでごたついた劇場は、それでも中休みを挟んで無事に再開されました。照明のスイッチは壊れていましたが、非常用ライトとスポットライトで、ショウは十分続行可能でした。パンドラの箱もカーテンの後ろから見つかり、ショウの後半は何事もなく終了したのでした。なぜパンドラの箱がカーテンの間に移動したのか、怪しむ人もいませんでした。停電事件のせいで誰もが仕事に追われ、自分達のことで手一杯だったのです。
「一時はどうなるかと思ったけど、何とか無事に終わってよかった」
エミニキは閉館前の掃除をしながら、他の仕事人と話をしています。ニールとケイは一階の客席を掃除しながら、彼らの言葉にじっと耳を傾けていました。
「どうやら、猿達の仕業だったらしい。檻から抜け出しても誰も気がつかなかったんだ」
「動物は逃げ出すし、真っ暗で何も見えないし。幸い、怪我人は出なかったみたいだ」
ジョーカーズはムリロに挨拶をする暇もなく、その日は逃げるようにアローズ街へ帰って行きました。居間に入ってドアを閉めると、ニールが堪り兼ねて大声で笑い始めました。
「イヤッホー!俺達、やり遂げたぜ!こんなにうまくいくなんて、信じられない」
「本当にうまくいくなんてすごいです。あんな騒ぎを起こして怪しまれないなんて」
今まで黙っていた反動で、ジョーカーズははじけたように騒ぎ始めました。
「それで、どうだった、ケイ。調べて何か分かったの?」
タエが尋ねると、全員途端に静かになってケイを見ました。
「それが、良く分からないんだ」ケイは口を開きました。「とにかく夢中でこれを掴んで」
ケイはポケットから、パンドラの箱の底に見つけた物を取り出しました。そしてそれがどうして出てきたのか、経緯を話しました。
「で、何かがぶつかってきた拍子に、蓋が閉まったんだ。思い切って開けたら、何も出てこない代わりに、これが箱の中にあったんだよ。赤いダイヤは元の場所にはまっていた」
皆は、ケイがテーブルの上に置いた黒い布を覗き込みました。
「何か包んであるみたいだ。中を見てみようぜ」ニールが言って布に手を伸ばしました。
「あの箱の中から出てきた物だよ。とんでもない物が飛び出してくるかも」
タエが青い顔でニールの上着を掴み、後ろに下がりました。
「まさか。こんなに小さい布の中に、どんな危険な物が入っているっていうんだよ。タエは臆病なんだから」サムが笑いました。
「僕が開けてみるよ」ケイは布の包みをゆっくりと広げていきました。
それが中から出てきた途端に、皆は声を上げ、ケイは手を引っ込めてしまいました。
「また鏡のかけらだ。ケイが持っているのと、そっくりだ」
布の中から出てきた物は、ケイが綱渡り師ストライザから預かったような、割れた鏡のかけらだったのです。ケイは困惑した表情で鏡のかけらを見下ろしました。
「これがパンドラの箱から出てきたの?どういうことなのかしら。ねえ、ケイが持っているかけらと比べてみましょうよ。こうして見ると、とても良く似ているわね」
ノエラに言われて、ケイは革袋からかけらを取り出して、箱から出てきたもう一枚のかけらのそばに置きました。ノエラが手を伸ばして二つのかけらをいじり始めました。
「ちょっと待って。これを、ここにこうして、いや、こっちかしら。あ、ほら見て!」
驚いたことに、二つのかけらはパズルのように、ぴったりとくっついたではありませんか。割れ目さえも分からない程完全にくっつき、一枚のかけらになったのです。
「これはどういうことなんだろう。どうして鏡なんだ?」ウィルが口を開いて、一つになったかけらをまた二つに分けました。「こうして一つになるってことは、この二枚のかけらは、元は同じ鏡だってことだよね」
「どうしてこんなものが、パンドラの箱から出てきたんだろう」ケイは二つのかけらをまた一つにしてみました。
「つまり、俺達の作戦は成功したってことなんじゃあないのか?」ニールが言いました。「きっとケイが夢で見たのは、このかけらを見つけるためのヒントだったんだ。アークを捜すために預かった鏡のかけらと、夢のお告げ通りにパンドラの箱から出てきた鏡のかけらが、同じ鏡のものだなんて、偶然にはあり得ないだろう」
「でも、これがどうして、アークを捜す手掛かりになるの?二枚の鏡のかけらを使って、どうすればアークの居場所が分かるのかなあ」サムは納得しない顔で首を傾げました。
「きっと、その鏡はアークの大切な鏡だったんだと思います。そうじゃあなかったら、どうして鏡が手掛かりになるんです?よく形見の品とか、その人の大切にしていた物を、とっておいたりするじゃあないですか」ミミが言いました。
「形見の品?もしアークが死んでいるのなら、最初から捜す必要はないだろう」
「でも、ミミの考えは当たっているかもよ」サムが思い出したように言いました。「その鏡が形見かどうかは別として、ほら、バスク家の鏡って、持ち主の魂がのりうつるって話もあるし。この鏡はアークの持ち物で、彼の魂がのりうつっているのかもしれないよ」
「お前、バスク家のことを色々知っているのか?」ニールがサムに尋ねました。
「色々って程でもないけど、この話は有名だよ。兄貴から聞いたんだけど」
「兄貴?サム、兄さんがいたの?」
ケイが興味を示すと、サムがえばった様子で腰に手を当てました。
「十一も年が離れている、兄貴の名前はトリン。十代の頃から町を出て、世界中を旅しているんだ。今でも良く手紙をくれては、旅先のおかしな話を送ってくれるんだよ」
「兄貴は変な話ばっかり教えるみたいで、お陰でサムは妙なことに詳しいんだぜ。こいつの隠れたあだ名は、無駄な知恵袋って言うんだ」ニールがサムの頭を叩きました。
「持ち主の魂が鏡にのりうつる話は、私も聞いたことがあるわ。でもケイが預かった鏡のかけらがバスク家の鏡って、本当に確かなの?良く分からないけど、私が見たバスク家の鏡とは、少し印象が違うような気がするのよね」ノエラが言いました。
「僕もバスク家の鏡を見たことがあるけど、このかけらと同じようだったけどなあ」
タエが言うと、ノエラは首を振りました。「男には分からないのよ。バスク家の鏡と、普通の鏡の違いだって気付くかどうか」
それを聞いて、サムがむっとします。「どういう意味?偏見だよ」
「女性は美しい物には敏感なのよ。確かにケイの鏡は、バスク家の鏡みたいに輝いているのは変わりないんだけれど、輝き方が違う気がするのよ。うまく言えないけど」
「それよりも、魂がのりうつる話の方だけど」ウィルが口を開きました。「どうしてそんな話が出るようになったのか、知っている?」
「知らない。ただの噂だもの。でも、基になった話があるって聞いたことあるような…」サムが助けを求めるように、ノエラを振り返りました。「ノエラは何か知っている?」
「もしかしたら、あの話かしら?詳しくは知らないけど、確か、男の人と女の人が結ばれない恋をして、男の人は女の人に鏡をあげて結婚を誓うんだけど、両親に反対されて男の人は旅に出てしまうの。すると女の人がもらった鏡が割れてしまったとか、そんな話よ」
「その話が、魂がのりうつる噂と、どう関係があるの?」タエが首を傾げます。
「魂がのりうつっているかどうかは別としても、ケイが預かった鏡はバスク家の鏡で、アークの持ち物だったと考えるのが、やはり妥当だろうな。だって綱渡り師は、ケイにバスク家という言葉を伝えたんだから」ウィルが腕を組みました。
「今はこれ以上考えても何も分からない。でも、夢がアークに関係していることは証明されたんだ。確実に一歩アークに近づけた。皆、ありがとう」ケイはお礼を言いました。
次の日、ジョーカーズが劇場に行くと、数人の芸人達が客席をうろうろしていました。皆が不思議に思っていると、モーティシーがやって来ました。
「おはよう、モーティシー。今朝は芸人が楽屋から出てきているけど、どうしたの?」
ケイが挨拶すると、人形は微笑みました。「おはよう。今朝は朝から大忙しよ。昨日、停電事件があったでしょ?それで何処かに故障がないか、念のために開館前にもう一度検査しているの。楽屋も調べているから、私達芸人は追い出されたってわけ」
「昨日みたいなことがまた起こったら、大変だものね。ムリロも昨日の事件を知らされた時、さぞ驚いたんじゃあないの?仕事人が、前に一度あった停電事件以来の大騒ぎだって言っていたし」ウィルはさり気なく、責任者ムリロの事件への反応をうかがおうとしました。
モーティシーが怪訝そうな顔をしました。「知らされたって、どういう意味?」
「だってムリロは、騒ぎが起きている時は劇場にいなかったよね。後から事件があったって聞いたんでしょう?」
「何を言っているの?ムリロなら騒ぎの間、ずっと劇場にいたじゃあない」
「ムリロがここにいたって?全然彼の姿を見なかったけど?」ウィルは青ざめました。
「もしかして、あなた達知らなかったの?彼は芸人の一人としてショウに出ているのよ」
「そんな馬鹿な。俺達何回も観ているけど、何処にもムリロなんて出ていなかったぜ」ニールが目をぱちぱちさせます。
「気付かなくても無理はないわね。彼、変装して出ているから」
「変装?」
いちいち大きく反応するジョーカーズが面白いのか、モーティシーは笑います。
「そ、そんな、誰なの?ムリロは誰に化けていたの?」タエの顔色は真っ青です。
「誰だと思う?」モーティシーはジョーカーズとの会話を楽しんでいるようです。
皆は顔を見合わせてしまいました。全然想像もしていなかった、ムリロの変装という話に困惑しているのでした。
突然ノエラが叫びました。「もしかして、手品師アユザーネでしょう!背格好も似ているし、優雅で品があるところとか、良く考えればムリロに似ているわ」
しかしモーティシーは首を振りました。「残念ながら、彼はムリロじゃあないわよ。本人と同じような人物になんて、変装する意味がないじゃあないの」
「そう言われれば、確かにそうか。じゃあ一体誰なのさ?」
「ヒントをあげるわ。ムリロはショウの重要人物で、一番出番の多い人よ」
「一番出番の多い人?でも一つ一つ違う出し物だから、誰が一番出ているって言われても」
皆は首を傾げてしまいます。
「あら、一人いるじゃあない。脇役のようで、それでいて一番出番の多い人が」
「脇役で?一番出番の多い?え、それってまさか…」
モーティシーは、固まってしまったジョーカーズに笑いながら頷きました。
「そう、あの醜い案内役の道化がムリロよ」
その時のジョーカーズの反応は大変なもので、仕事人が何事かと振り向いた程でした。
「えーっ!あの道化がムリロ?そんな、馬鹿な!」皆は口々に叫んでしまいました。
「どうやったらスマートで上品なムリロが、デブで醜くて頭の悪い、はげで粗悪な道化になるのよ!あり得ないわ!」
ノエラが言うと、それはちょっと言い過ぎだとニール達は複雑な表情をしました。
「あなた達、ムリロが誰だか知っているの?ブティーペティー劇場の一番人気の芸人よ。芝居に歌、楽器の演奏から人形の操り、ジャグリングにアクロバット、道化に手品と、何でもこなす凄腕よ。その中でも変装は彼の十八番で、あののっぺりとした顔に色々な仮面をつけて、違う人物になりすますのが大の得意なのよ」
皆は金魚のように口をパクパクさせて、何も言えません。
「見事な変装だと思わない?彼、変装の中でも、ああいうみっともない道化の役がお好みなんですって。あなた達、ムリロを甘く見ないことね。彼の物腰柔らかな動作と上品な言葉遣いだけで判断していると、今みたいに驚かされることになるわよ」
「モーティシー、またこんな所で、油を売っているのですか?」
まさに噂をすればなんとやら、ムリロの声がして、ジョーカーズは驚いて飛び上がってしまいました。そしてはっとして顔を見合わせました。ムリロがあの道化だったとしたら、ジョーカーズが彼のいない間に実行したつもりだった停電事件の、まさに一番近くにムリロはいた、ということになるのではないでしょうか。ムリロは道化として、パンドラの箱のすぐ隣に立っていたのですから。ジョーカーズの顔がみるみる青ざめていきました。
「丁度、あなたの噂をしていたところだったの」モーティシーがにこやかに微笑みます。
「聞こえましたよ。あなたはまた私を化け物のように言って、ジョーカーズを怖がらせて面白がっていたのでしょう」ムリロはじっと黒い瞳でモーティシーを見つめ、笑いました。
「違うわよ、失礼ね。ただ、醜い道化が実はあなただって、教えてあげていただけよ」
ムリロはジョーカーズを見て笑いました。「モーティシーが道化の正体を明かしてしまったのですか?しょうがない人形ですね」
「本当にムリロなの?本当の本当に?」ケイが真っ白になってムリロを見上げました。
「なかなか魅力のある道化でしょう?私の大好きな役です」
ムリロはモーティシーを振り返って、手で舞台の方を示しました。
「さあ、もう点検は終わったようですから、あなたは楽屋に戻って準備を始めてください。いつもみたいに、ふらふらと出歩いては困ります」
「はいはい、分かりましたわよ、ボス」
モーティシーはジョーカーズに手を振って、舞台の方へ行ってしまいました。後にはムリロとジョーカーズだけが残されました。
「驚いたよ、ムリロがまさかショウに出ていたなんて。しかも道化の役でさ」不安を押し退けて喋り始めたのはウィルでした。「ムリロが変装するなんて、想像もしなかったから」
「では、私の変装もまんざらではないということですね。昨日、私が舞台にいる時、停電が起きて大変でした。パンドラの箱から飛び出した物が、照明を一遍に壊してしまったのかと思いましたよ」
ムリロの口から事件の話が出ると、ジョーカーズはますます小さくなってしまいます。
「どうやら、猿達の仕業だったようです。明かりが消えたのは、実は猿の一匹が舞台裏から抜け出し、照明のスイッチを消して、おまけに配線を引っ張って壊してしまったからでした。猿の毛が配線にしっかりと残っていたらしいですよ。しかしそれだけなら非常用ライトがついて、真っ暗闇には決してならなかったのですが、運の悪いことに、別の猿も舞台裏の部屋から抜け出して、電力室に忍び込み、非常用ライトの電源をいたずらして切ってしまったようなんです。ですから、停電時につくはずの非常用ライトがつかなかったのです。停電が起きて電力室に駆けつけたエミニキは、鍵が鍵束からなくなっているのに気がついてドアを蹴破ると、鍵を握った猿が中で遊び回っていたそうです。彼によると、事件が起きる前に、猿に体の上を走り回られて、その時に鍵を抜き取られたようだと話していました。そんなことがあったそうですね、ノエラ?」
名前を呼ばれて、ノエラはドキッとして小さく頷きました。
「裏の部屋から猿を連れて出た時、エミニキとぶつかってしまったの。きっとその時ね」
「エミニキもそう話していましたよ。非常用ライトを一匹の猿が切り、もう一匹が舞台裏にあるスイッチを壊して、舞台と客席が真っ暗になってしまったのです。そしてうまい具合に、裏の部屋から動物達が一斉に大脱走して大騒ぎ。仕事人はなかなか電気を元に戻せなかったという訳でした」ムリロは不思議な笑いを浮かべて、先を続けます。「しかし不思議です。エミニキの体に飛びついた猿は、なぜ沢山ある中から電力室の鍵だけを抜き取り、裏の部屋を出ると、真っ先に電力室へ行ったのでしょう。そして、選んだように非常用ライトの電源だけを切って、おまけに丁寧に中からドアに鍵をかけたのです。照明が消えたと同時に動物が大脱走したのも、もう一匹の猿の仕業なのでしょうか。いつも決まった場所に置いてあるはずの懐中電灯の置き場が変わっていたのも、偶然ですかね。動物の世話係が、次回は猿達に鍵を使った芸を教えようなんて話していましたよ。猿は鍵を見分けることが出来るのだと喜んでいました」
「でも、猿が電力室の鍵を見分けたっていうのはどうかしら。あの鍵は赤い印があって一際目立っていたから、目に付いただけよ」ノエラが苦し紛れに誤魔化しました。
「おや、どうしてノエラは、電力室の鍵に赤い印があることを知っているのですか?」
ノエラは青い顔で言葉を詰まらせました。彼女は作戦以外では、電力室の鍵を見たことがないはずなのです。
「僕が言ったんだ。僕はあの鍵を使ったことがあるから、そのことをノエラに話したんだと思う。ね、ノエラ?」ウィルが助け舟を出しました。
「ええ、そう、そうよ。ウィルから聞いていたの。だから鍵のことを知っていたのよ」
「鍵を使ったと言うのは、パンドラの箱が割ってしまった、照明の修理の時ですか?」
「そう。まさにその時だよ」ウィルはほっとして頷きました。
「それも不思議なのです。立て続けに照明が壊れるなんて、今まで一度もなかったのに。あの箱は物をそんなに高く吐き出さないはずなのです。パンドラの箱と言えば、騒ぎの後、舞台から消えていました。結局、舞台後ろのカーテンの間から見つかったのですが。私は停電が起きた時、箱の横に立っていたのですが、何かが私のそばを走り抜ける足音を聞きました。動物が逃げ出したのはその後でしたし、あれは幽霊だったのでしょうか」
ニールとケイは居心地悪そうに足元を見つめて、ムリロと視線を合わせられません。
「しかし、怪我人が出なくてよかった」ムリロはにっこりと笑うと、舞台の方に視線を移しました。「さて、私もそろそろ準備を始めなくては。道化の正体がばれてしまったのですから、ますます気合いを入れて演じなくてはね」
ジョーカーズはやっとムリロから解放されると思いましたが、すぐに彼は振り返ると、
「そういえば、ケイとニールはいつの間にモーティシーと知り合いになったのです?この前、舞台の袖で話をしていましたね。彼女はあなた達に、お久しぶりと言っていましたが」
確か二人が舞台の袖でモーティシーと会った時、道化が彼女を呼びに来たではありませんか。あの道化はムリロだったのです。さすがのウィルも、今回ばかりは何も言い訳が出てきませんでした。すると、遠くからモーティシーの叫ぶ声が聞こえてきました。
「油を売っているのはどっちよ。本番に間に合わなくても知らないから!」
「おやおや、今度は私が怒られてしまいました。私がどんなに沢山の人形を操れようと、あの人形だけは駄目なようです」ムリロはくすくす笑います。「それでは、また後で」
ムリロは背を向けて舞台の方へ歩いていきました。しかし、ジョーカーズがほっとするのもつかの間、彼はくるりと振り返ってまた戻ってきました。
「そうそう、一つ忘れていました。これを渡そうと思っていたのですよ」
ムリロは手を伸ばして、ウィルにある物を渡しました。
「停電後にライトがついた時、舞台の袖で転んだでしょう。その時落としたのですよ」
ウィルが渡された物、それは彼が照明を壊すために拾ったビー玉でした。ウィルは無言でそれを受け取って固まりました。ムリロは楽しそうに笑いながら行ってしまいました。
「絶対、ムリロにはばれているよ!」タエが泣きそうな声で囁きました。
「ムリロの口から聞くと、どうして僕達が真っ先に疑われなかったのか、不思議だよ」サムがうつむいて言いました。
皆しばらく、無言でお互いの青い顔を見つめ合っていました。
「でも、ばれたって言っても、ムリロ以外は知らないみたいだね」
ウィルが言うと、皆は、そういえばという顔をします。
「ムリロは誰にも言っていないんじゃあないのかしら。彼以外は猿の仕業だって信じているのよ、きっと」ノエラも頷いて言いました。
「ムリロは誰にも話していないって?どうして?」サムが顔をしかめます。
「ムリロは、優しいからですよ」ミミは嬉しそうに笑いました。
「優しいから、誰にも言わないでいるのか?まさか」ニールが苦笑しました。
しかし理由はどうでも、ジョーカーズが昨日の騒ぎを起こしたと知っている人は、ムリロ以外誰もいないようでした。劇場の誰一人、彼らに疑いの目を向ける人はいなかったのです。仕事が終わり、アローズ街へ帰る時も、皆は首を傾げて考え込んでいました。
「どうして、ムリロは黙っているんだろう。分からない、彼が何を考えているのか」ウィルは不安そうに腕を組みました。「ムリロはファンフェアーの責任者で、僕達が騒動を起こしたって知っているのに、怒りもしない。それどころか、まるで僕達をからかって面白がっているみたいだった」
「ムリロは道化を演じるくらいだからな。もしかしたら、ああいう騒ぎが好きなのかも」
「ムリロは、ミステリアスです」ミミがうっとりとします。
「ミステリアス?ああいうのは、良く分からない人って言うんだ」ニールが呆れます。
「人じゃあないわ。ムリロはハフレン、人形でしょう。でも確かにミステリアスよね、魂を持った人形なんて。特にムリロは、ハフレンの中でも特別ミステリアスで魅力的だわ。彼の不思議な顔とか、才能とか、雰囲気とか。ミミが憧れるのも分かるわ」
「才能って、あの道化のことを言っているの?デブで醜くて、粗悪な道化?」
サムがからかうように言うのを、ノエラが睨みつけます。
「ところで、ケイ達はどうしてモーティシーと知り合いだったの?ムリロも聞いていたけど、いつの間に仲良くなったのさ?」
タエが尋ねると、ケイとウィルとニールの三人は思わず顔を見合わせてしまいました。まだ皆に倉庫に忍び込んだ話はしていなかったのです。ケイ達はパンドラの箱を調べるために劇場に忍び込んで、モーティシーに会った経緯を話しながら、アローズ街へ帰って行きました。