第2部 パンドラの箱:3 パンドラの箱
劇場の廊下は、薄暗い緑色の明かりが寂しく灯り、気味悪く静まり返っていました。三人は身を寄せ合うようにして、倉庫へ続く廊下を歩いて行きました。
「この廊下の突き当たりに、倉庫があるんだ」ケイは歩きながら小声で囁きました。
ニールはウィルに身を寄せて囁きました。「暗いなあ。薄っ気味悪くて仕方ないよ」
倉庫に着くと、念のために中から何の物音もしないのを確認してから、ケイは音を立てないようにドアを開けました。中は暗くて何も見えませんでした。上の方に小さな窓が一つあり、外の明かりが微かに入ってきていましたが、部屋の中を照らすにはあまりに暗すぎました。
「何処かにスイッチがあるんだろうな。でも明かりをつけたら窓から見えて、中に僕達がいることがばれちゃうよ」
ウィルは自分のポケットをまさぐって、とても小さな懐中電灯を取り出しました。
「これ、旅芸人からくすねたもので、役に立つからいつも持っているんだ」
ウィルは懐中電灯の明かりをつけて、倉庫の中を照らし、中へ進んで行きました。ニールとケイはその後に続きました。三人は懐中電灯が照らし出す倉庫の中を見回しました。沢山の木箱や筒状に巻かれた布の束、人が乗れるように大きいボール、小型の汽車、木彫りの人形、ジャグリングのボールやナイフが入れられた木箱がありました。
「あれだ」ケイは指を倉庫の左側の方に向けて、声を上げました。
懐中電灯の光で照らされた倉庫の隅に、黒い箱がありました。人が体を曲げて中に寝そべることが出来る程の、大きな長方形の箱でした。底の四隅には、ライオンの顔が彫られた足が生えていて、四本足で箱を支えていました。そしてダイヤの形をした赤い石が、正面の真ん中にはまっていました。ダイヤの石は箱の正面だけではなく、箱の全ての側面にも同じようにはまっていて、それぞれの色は黄、青、緑と全部違っていました。
「あれ、このダイヤの石は、赤って言うよりオレンジ色だよ」ウィルはダイヤに光を近づけて言いました。
「本当だ。赤じゃあない、オレンジ色だ。見間違えたのかな」
ケイがダイヤに触れると、冷たいガラスの感触が指に伝わりました。最初は赤い色だと思っていた石は、どうやらオレンジ色だったようでした。
「箱についているダイヤは、全部色が違う。正面にはオレンジ、蓋には緑、後ろは黄色、右横には青、左横には紫だ。赤いダイヤなんて何処にもないよ」
ニールはウィルの懐中電灯を取ると、箱の底を覗き込みました。
「やっぱりここにもダイヤがある。でもここのは透明だ。赤じゃあないぜ」
ケイはじっと考え込み、何度も確かめるように正面のダイヤを見つめました。しかしいくら見ても、ダイヤは夢で見た強烈な赤色とは異なり、オレンジに光っているのでした。
「とにかく、箱を開けてみようか」ウィルはそう言ってケイを振り返りました。
ケイは箱に手を掛けて、蓋を開けようと腕に力を入れました。
「むやみに、その箱を開けない方がいいと思うわよ」
突然暗闇の中から声を掛けられて、三人は飛び上がりました。その拍子にニールの手から懐中電灯が落ちて光が消えてしまい、辺りは真っ暗になってしまいました。
「ギャーッ!だ、誰だ!」
三人は腰を抜かして四つんばいになり、逃げ惑い始めました。
「助けて!うわっ!」
「なんだ、なんだ、ギャー!」
暗闇の中を大慌てであちこちに逃げ回って、それから衝突して三人同時に頭をぶつけて、倉庫の床にうずくまってしまいました。
「いってー!うわっ」
頭を抱えてうずくまった三人を、不意にライトの光が照らしました。眩しさに目をしばたいた彼らは、光の中で三人一緒に座り込んでいるのに気付いて、真っ青になりました。
「どうして、二人共ここにいるの?懐中電灯を持っているのは誰なんだ?」
その時、明かりがついた時のように、突然また光がふっと消えました。三人は恐怖のあまり叫んで、暗闇で抱き合って震え出しました。カチッと小さな音がして、倉庫の中が明るくなりました。誰かが倉庫内の明かりをつけたのです。
「そんなに怖がらなくてもいいわよ。お化けじゃあないわ」
三人は声のした方を振り向きましたが、視線の先には誰もいませんでした。三人はキョロキョロと周りを見回しました。
「私はここよ。ここにいるじゃあない」
ケイ達はさっき声がしたのと同じ方向を、また振り向きました。そこには木箱、木の人形、ボールが入ったかごが置いてありました。木箱の影にでも誰かが隠れているのでしょうか。しかし、三人の目がある物に釘付けになりました。ケイは驚きのあまり頭が変になったのかと思いました。なんと木の人形が笑って手を振っているではありませんか。
それはケイの腰くらいまである大きな人形でした。だいぶ昔に作られたのでしょう、洋服から覗く木の肌が、年月を重ねた独特の輝きを持っていました。髪を二つにみつ編みにしてリボンで留めていて、赤いワンピースを着ています。目鼻立ちも昔っぽい雰囲気をしていて、赤い唇とくっきり描かれたアイラインが印象的でした。
ケイはその人形は操り人形で、誰かが三人を脅かそうとして、上から糸で操っているのだと思いました。しかし、人形の上には倉庫の天井が見えるだけで、人が隠れるような場所は見当たりませんでした。
「何だ、人形だったのか。脅かさないでよ」ウィルがほっと息を吐きました。
今度は自分の耳までおかしくなったのかと、ケイは思いました。
「もう、驚かすなよ。本当にびびったぜ。ケイ、安心しろ。お化けじゃあなかった」
ケイは二人の顔を見比べました。お化けじゃあないって、どういうことでしょう。人形が勝手に動くなんて、ケイにとっては十分お化けじみたことに思えました。
「ちょっと、そんな顔をして私を見ないでよ。女性に対して失礼だわ」
「わーっ!」ケイは堪り兼ねて叫んでしまいました。「人形が、しゃ、喋った!」
木の人形は腰掛けていた木箱の上で、編み上げのブーツを履いた足を組みました。
「あら、人形が喋って何処が悪いって言うのよ。こんな夜遅くに人の寝場所に忍び込んでおいて、人を化け物みたいに言うなんて」人形は怒ったように言いました。
ニールは慌てて、ケイにそっと耳打ちしました。「あれは人形だけど、向こうの世界の人形とはちょっと違うんだ。人形だけど生きているんだ。訳は後で話すから、とりあえず人形だと思わないで、一人の人間だと思っておけばいい」
人形はニールの言葉が聞こえたらしく、彼を指差しました。
「ちょっと、あなた。とりあえず人間だと思え、だなんて失礼ね。私は人間なんかよりも、ずっと長く生きているんだから」そして人形はケイを見ました。「あなた、もしかして『ハフレン』を知らないんじゃあないの?」
ケイはきょとんとしました。「ハフレンって?」
「こいつ、ちょっと変わった奴でさ。ハフレンとか、あまり見たことないらしくて」ニールはケイの代わりに、人形に言い訳しました。
「いいのよ、気にしなくても。世界には色んな人がいるもの。私も今まで色々な人に会ってきたわ。魚をポケットに入れて持ち歩く人とか、瞳の形が月の満ち欠けに合わせて変わる人とか」そして懐中電灯をウィルに投げて寄こしました。「これ、あなたのでしょう?」
「ありがとう」ウィルは懐中電灯を受け取ると、ポケットにしまいました。「いたのなら、最初からそう言ってくれればいいのに。いきなり声を掛けるんだもの、驚いたよ」
「怪しかったから、何をするつもりなのかと思って、様子を見ていたのよ。そしたら、いきなりパンドラの箱を開けようとするんだもの。だから声を掛けたってわけ」
三人が人形の指差す方へ顔を向けると、そこには黒い箱が置いてありました。
「あの箱、パンドラの箱っていうの?」
「人にものを尋ねる前に、自己紹介をしたらどう?夜遅くに忍び込んでくるなんて、あなた達は何者なの?」人形の表情が途端に険しくなり、目を細めて三人を睨みつけてきました。
「僕はウィル。これは弟のニールで、こっちが友達のケイ。僕達はアローズ街の者だよ」
ウィルが紹介すると、人形の表情がまたすぐに笑顔に戻りました。
「アローズ街の子供達だったの。私はモーティシー。この劇場の人形遣いよ。あら?」
モーティシーはじっとケイを見つめてきました。お化けではないという、お化けじみた生きた人形のガラスの目で見られるのは、あまり気持ちの良いものではありませんでした。
「あなた、もしかして怪我をして運ばれてきた、犬の飼い主じゃあない?私、あなたが倉庫の前で、ぼーっと立っているのを見たわ」そしてモーティシーは悲しそうな顔をしました。「あの子、誰かを助けるために怪我をしたんですって?名前は何て言うの?」
「ジュニアだよ」ケイは答えました。
「そう、ジュニアって言うの。いい犬ね。大切にしなさい」
人形にも怪我をした犬の心配をする優しい心があるのだと、ケイは少し安心しました。
「ところで、モーティシー。あの箱のことだけどさ」ニールが人形に聞きました。
「あなた達、あの箱を見に来たんでしょう?」モーティシーは顎で箱を示して見せました。「何の用意もなく、いきなり箱を開けようとするんだもの。全く不用心なんだから」
「不用心って、どういう意味?あの箱の中には、何か用心しないといけないような物でも入っているの?」三人は顔を見合わせました。
「あなたたち、あの箱を今日の舞台で見て、不思議に思って調べようと思ったんじゃあないの?だから劇場が閉まった後、夜遅くにこっそりと見に来たんじゃあないの?」
モーティシーの質問に、三人はまた顔を見合わせました。
「僕達、舞台なんて見ていないよ。ただ今日、倉庫の中にあの箱があるのを見て、不思議な箱だと思ったから、それで見に来たんだ」ケイが小さな声で言いました。
「じゃあ、この箱のショウも見ていないし、この箱が何なのか知らないのに、ただ倉庫で見て不思議に思ったからって、わざわざ忍び込んで来たって言うわけ?ちょっと、あなたたち、私のことを人形だと思って、馬鹿にしているんじゃあないの?そんな嘘を信じる訳がないじゃない」
ケイは困ってしまいました。どうして嘘でも、舞台で見たと言ってしまわなかったのでしょうか。今更、実はそうだったなんて言えないし、他に適当な言い訳は浮かんできませんでした。双子も困ってケイを見つめるだけでした。
「どうしたのよ。早く本当の理由を言いなさいよ。本当はどうして忍び込んできたの?」
「それは言えない。だって…、秘密なんだもの」
ケイは人形に問い詰められて、ようやくそれだけ言いました。それ以外に言う事が何も思いつかなかったのです。すると驚いたことに、モーティシーは楽しそうに笑い出しました。
「あはは、そう、秘密なの。それじゃあ言えないわよね。そうなの、秘密なの」モーティシーは足を組み直しました。「秘密だったら言えないわよねえ。仕方がないわ。いいわ、それならもう何も聞かないわ」モーティシーは優しく微笑みました。
「あなたは、あの箱を良く知っているの?」ケイはほっとして、近くの木箱に腰を下ろしました。
「ええ、知っているわ。こうして一緒に倉庫にしまわれて、どれくらいになるかしら」モーティシーは視線を天井にもっていき、考える仕草をしました。
「不用心に箱を開けるなって言うってことは、中に何が入っているか知っているんだね?」
「そんなこと、知らないわ」モーティシーは首を振りました。
「ええ?でも箱を良く知っているって言ったじゃあないか」ニールが眉をしかめます。
「中に何が入っているかなんて知らないわ。物が入っているかどうかも分からないし」
「あの箱は空っぽなの?」
「いいえ、ちゃんと出てくるわよ。蓋を開ければ、箱の中の物がね」
「どういうことだよ。さっき、開けるのに用心がいるって言っていたじゃあないか。つまり、何か危険な物が入っているって、知っているってことだろう?」ニールが少しいらいらした口調で言いました。「あんたは俺達をからかっているんだろう。さっきお化けと間違えられたから、仕返しをしているんだ」ニールはぷいっと膨れてそっぽを向きました。
「別にからかっているつもりはないんだけど。全部真実を話しているつもりよ」モーティシーはニールを見てくすくすと笑いました。
「どういうことだよ。良く知っている箱だって言うのに、中に何が入っているかも知らないで、そのくせ中が空っぽかもしれないけど、開ければ中から何かが出てきて、それは危険であり、そうでないかもしれないって知っている、なんて訳の分からないことが全部真実なんだよ!」
するとモーティシーは、パンパンと手を叩いて拍手をしました。
「お見事。私の説明をうまくまとめて言ったわね。その通りよ」
「おい、少し落ち着けって」ますます顔を赤くして怒るニールを、ウィルがなだめます。
「パンドラの箱って聞いて、何か思い当たることはないの?」
モーティシーの突然の質問に、怒っていたニールも思わず大人しくなりました。
「パンドラよ。ほら、あの有名なパンドラ。聞いたことがあるでしょう?」
知らないと三人が首を振ると、今度はモーティシーが驚く番でした。
「まさか、パンドラを知らない人がいたなんて。それじゃあ教えてあげるわ。パンドラは歴史上の有名な大奇術師で、この箱の生みの親なの。すごい奇術で世界的に有名で、訳の分からない様々な物を作り出したわ。数字がすり替わるトランプだとか、お金が消えてしまう貯金箱だとか、水を飲み干す水がめだとか。パンドラの箱もその一つ」
「それじゃあ、あの箱は普通の箱じゃあないってこと?」
ケイが尋ねると、モーティシーは大きく頷きました。
「そう、あの箱も奇術の塊よ。中に何が入っているか誰も分からないの。ほら、びっくり箱ってあるでしょう。中から物が飛び出してくる箱よ。あれと同じ物だと思えばいいわ。パンドラの箱は開ける度に、違う物が中から飛び出してくるのよ。紙吹雪だったり、水だったり、時には生きた動物だったり」
「つまり、箱を開けるまで、中に何が入っているか分からないってことなの?」
「正確に言うと、飛び出してくるまでってことね。言ったじゃあない、びっくり箱みたいだって。箱を開けて、中に静かに物が置いてあったって、誰が驚くっていうの。それはもう勢い良く飛び出すのよ、まさに大奇術師パンドラ!って感じでね」
三人は、少し青くなったそれぞれの顔を見つめ合いました。
「今は、倉庫にしまわれっ放しだけど」モーティシーは悲しそうにため息をつきました。「少し前までは、あの箱はショウの目玉だったのよ。開ける度に違う物が飛び出してくるんだもの、子供は夢中になったものだわ。箱の仕掛けを調べようと、子供達が知り合いの芸人に頼み込んで舞台裏まで見に来たり、内緒で忍び込んでくる子供もいたりしたのよ。だけどある日、中から大虎が飛び出してきて、客が大パニック。怪我人も出てしまって、それ以来、芸人が何かの事情で舞台に出られなくなった代わりに、穴埋めとして出されるだけになってしまったの。しかも万が一を考えて、ガードを二人も舞台に立たせてね」
「大虎まで、出てくるのかよ」ニールは不安そうに、少し箱から遠ざかります。
もしもモーティシーが止めないで、あの箱を開けていたらどうなっていたことでしょう。もしかしたら恐ろしい怪獣が出てきて、三人仲良く怪獣の腹の中、ということになっていたかもしれません。
恐ろしい想像に震え出した三人に気がついて、モーティシーはさらりと言いました。
「でも、そんな恐ろしい物が出てくることは、滅多にないみたい。私が知っているのも、その大虎の話と、火を吹く龍くらいだもの」
そんなに恐ろしい話を聞いた後、何事もなかったように、箱を開ける訳にはいきません。その時、ウィルが何かひらめいたように小声で言いました。
「待ってよ。もし次から次に違う物が出てくるとしたらだよ。箱の中には、僕達の探しているようなものは、入っていないってことになるんじゃあないのかな」
「そうか」ニールがポンと手を叩きました。「もともと、中に物を入れるための箱じゃあないんだから、アークのヒントが入っている訳がないぜ」
「いくら今まで、あの箱をこっそりと見に来た子供がいたとはいえ、夜倉庫に忍び込んでくる子供なんていなかったわ」人形は笑いました。「でもその方が、この箱には相応しいかもしれないわね。今ではもう知っている人も少ないと思うけど、実はこの箱は最初、金庫として作られたものだったっていうわよ」
「金庫?どうして金庫から、びっくり箱に変わるんだよ?」ニールは叫んでしまいました。
「変わってはいないわ。箱は元から金庫だったの。昔、異常に心配性の大金持ちがいて、自分の大切な物を盗まれることを恐れて、世界中の技術者に、世界一頑丈な金庫を作った者に大金を払うと言い出したの。パンドラもこの話にのって、作った金庫がパンドラの箱だったってわけ」モーティシーが言いました。
「何で、大奇術師が金庫を作るんだ?」
「さあ。大金が欲しかったのか、ただ面白い金庫を作りたかっただけなのか、私にも分からないわ。からくりを使うっていう点では、金庫も奇術も似たようなものだけれどね」
「それで、どうなったの?」三人は身を乗り出して、先を聞きたがりました。
「結局、こんな危なくて訳の分からない金庫は駄目だって、採用されなかったらしいわ。確かに安全かもしれないけど、使う本人にも命の危険があるのは問題よね。その後は舞台の道具として使われることになったのよ」
「金庫ってことは、中に隠す所があるってことじゃあないか?」ウィルははっとして、ケイを振り返りました。「もしかしたら、その金庫の中にヒントがあるのかもしれない」
「あの箱の、何処が金庫になっているの?」
ケイは尋ねましたが、モーティシーは同情するように首を振りました。
「ごめんなさい。それは本当に知らないの。知っていたのは箱を作った本人と、金庫作りを頼んだ大金持ちだけだったんじゃあないのかしら。パンドラが箱を譲った人には言ったのかも知れないけど、どうかしら。舞台で使うにはあの箱、びっくり箱だけで十分だもの。金庫にしようなんて物好きが、果して今までいたのかどうか…。しっ、静かに」
モーティシーは突然指を口に当てて、倉庫のドアを振り返りました。三人も思わず体を固くしました。倉庫の外から足早に近づいて来る足音が聞こえてきたのです。三人が隠れようとする間もなく、ドアが開いて仕事人が中に入ってきました。そして三人の姿を見つけて、あっと口を開けました。
「お前達、ここで何をしているんだ!さっき外で掃除をしていた奴らだろう!」
三人共固まってしまって、動くことが出来ませんでした。劇場に黙って忍び込んだなんて、彼らは泥棒の容疑をかけられてしまうかもしれません。現場を押さえられては、どんな言い訳も出来ませんでした。
「そんなに大声を出さないでよ。騒々しいわね」モーティシーが仕事人を見つめて言いました。
「モーティシーさん、大丈夫ですか?こいつら、ここで何をしているんですか?」男はモーティシーを心配するように、そばに駆け寄っていきました。
三人は怯えた子犬のように、モーティシーを見上げました。彼らはどうなってしまうのでしょうか。モーティシーはそんなケイ達の心配などよそに、男に言いました。
「この子達、あれを見に来たんですって。ほら、あの黒くて大きな物よ」
三人はぎくりとして体を縮めてしまいました。ケイ達が黒い箱を調べに来たことを、彼女が男に話してしまったら、ますます厄介なことになってしまいます。
「黒くて大きな物?何だそれ?」男は疑り深い目で三人を睨みつけました。
「怪我をしてここに運ばれた犬がいたでしょう?あの大きな黒い犬はジュニアっていって、この子達は飼い主なのよ。だから家に帰る前に、心配で様子を見に来たんですって」
三人は驚いて顔を上げ、木の人形を見つめました。
「何だ、そういうことだったのか」男は安心したように笑いました。「全く、驚かしてくれるよ。ムリロさんから戸締まりを頼まれて来てみたら、倉庫に明かりがついているのが見えたんで、てっきり泥棒が忍び込んだのかと思ったんだ。気の毒だけど、犬はもうここにはいないんだ。とっくに町の病院に運ばれたんだよ。知らなかったのか?」
もちろん、彼らはジュニアが病院に運ばれたことを知っていましたが、正直に本当のことを言う程馬鹿ではありませんでした。
「さあ、もうここにジュニアがいないことが分かったんだから、お家に帰りなさい。でないと、この人に鍵をかけられてしまうわよ」
「そうだ、そうだ。ほら、早く出るんだ」
男はそう言うと、手招きをして三人を倉庫から連れ出しました。
「それじゃあ、モーティシーさん。明かり、消しますね」
男がドアを閉めようとすると、ケイは慌てて振り返り、隙間から顔を覗かせました。
「あ、あの、どうもありがとう、モーティシー」
「ありがとう」双子もドアの隙間から人形に手を振りました。
モーティシーのガラスの瞳が、暗闇でうっすら水色に光っていました。
三人はファンフェアーを後にして、アローズ街へ向かって夜道を急ぎました。
「だけど危なかったなあ。倉庫で見つかった時は、もう終わりかと思ったぜ」ニールが夜風に向かって髪を掻き上げました。「ほんと、冷や汗掻いたぜ」
「モーティシーが助けてくれなかったら、今頃どうなっていたか。それにパンドラの箱がとんでもない物だって分かったしね」
「僕、夢とパンドラの箱が関係あるのか分からなくなっちゃった。僕が夢で見たのは、真っ赤な色をしたダイヤだったんだ。でも、あの箱に赤いダイヤはなかった」
双子はじっとケイを見つめました。暗いせいか、ケイの顔色が青白く見えました。
「でも、他は夢とほとんど同じだったじゃあないか。赤い紐を辿って行ったらダイヤがあったんだ。オレンジだって、暗い所で見たら赤に見えなくもないし」
ニールが励ますように言いましたが、オレンジ色のダイヤは夢で見たものとは全然違うということが、ケイには分かっていました。
「考え込んでも仕方がないよ。君の夢とパンドラの箱は関係がないかもしれない。でも今はやれるだけのことはやってみよう」ウィルがケイの肩を叩きました。
ケイは二人の言葉に弱々しく頷きました。確かにウィルの言う通り、今は他に出来ることは何もありませんでした。
「だけど、また倉庫に潜り込むことは出来ないだろうなあ。もう同じ手は二度と使えないし。劇場に入る機会がなかったら、どうやって箱に近づいたらいいんだろう?」
三人は立ち止まって、夜空を見上げて考え込んでしまいました。
「昼間は劇場には大勢の人がいて入れないし、夜はあの人形が倉庫にいるんだろう?おまけに、箱は倉庫にしまわれっ放し。八方塞がりだな」
「そう言えばさ」ウィルがその時、何かを思いつきました。「モーティシーが言っていただろう。ほら、最初、どうして僕達が倉庫に忍び込んだのか尋ねてきた時に、今日の舞台を見て来たんじゃあないのかって。ということは今、あのパンドラの箱は、劇場の舞台に出されているってことだよね」
「あ、そうだ!」ケイは思い出しました。「ジュニアが劇場に運ばれた時、倉庫にいた人が言っていた。確か芸人の一人が、テントが倒れた事故に巻き込まれて怪我をして、舞台に出られなくなったって。それで代わりに、あの箱の出番だから準備をしておくって」
「あの箱って、つまりパンドラの箱って訳だね。モーティシーも言っていたね。あの箱は芸人に何かあった時に、穴埋めとして舞台に出されるだけになったって。テントで怪我をした芸人の代わりに、箱は舞台に出るようになったんだよ」
三人は納得したように、うんうんと何度も頷きました。しかし、しばらくしてから、ニールがぽつりと言いました。
「…でもさ、だから何だって言うのさ。あの箱が舞台に出されたからって、どっちみち、こっそりと調べるなんて無理だぜ。俺達は劇場には入れてもらえないんだから」
しかし、ウィルはじっと片手を顎に当てて、何やら考えているようでした。
「いや、方法はあるはずだ、絶対に。何としても、あの箱を調べてやるぞ」
三人はそこでいつまでも立ち止まって、考え込んでいる訳にはいかないので、足早にアローズ街に向かって歩き出しました。今日はジュニアがいないせいか、夜道が心細く思えて、三人は体を寄せ合うようにして歩きました。
「ねえ、一つ聞きたいことがあるんだけど」ケイが思い出したように言いました。「モーティシーのことなんだけど。人形が生きているって言っていたけど、あれはどういうこと?」
ケイは倉庫で会った生きた人形を思い出して、また怖くなってきました。人形が生きているなんて、まるでホラー映画に出てくる呪いの人形みたいではないですか。
「鏡の世界には、生きた人形が存在するんだよ。モーティシーみたいに命を吹き込まれた人形を、ハフレンって呼ぶんだ。彼らは僕達と何も変わらない。ただ身体が作り物であるってこと以外はね」ウィルが説明してくれました。
「でもどうやって、誰が人形に命を吹き込むの?」ケイはすっかり驚いてしまいました。
「方法は分からない。でも、それを出来る人達がいるってことは知っている。たぶん、旅芸人が言っていた通る人みたいに、ハフレンの作り方も、限られた人にしか知られてはいないんだと思うよ。特殊な技術だからね」ウィルが答えました。
ケイは何だか混乱してしまい、頭を抱えてしまいました。そんな彼を見てニールはくすくす笑います。
「俺も一番初めにハフレンを見た時は、そりゃあ驚いたんだぜ。絶対にインチキだって思った。でも今じゃあ、ハフレンでも人間でも、生きていれば同じだって思っている。お前だってもう、人間か人形か見分けられなくなっているじゃあないか。すぐ近くにも、人形だって気がついていないハフレンがいるんだぜ。ほら、ついさっき会ったムリロさ」
「ムリロが?」ケイは思わず立ち止まってしまいました。
「彼はハフレン、生きた人形なんだ。もし彼が普通の人間の顔をしていたら、誰も彼が人形だなんて信じないよ。そう思うだろう?」
ケイはまたまた驚いてしまいました。でも、ムリロから感じていた不思議な印象は、彼が人形だったからなのだということで、理解出来たように思いました。
「ムリロの奇妙な顔は、仮面を被っているのか、化粧をしているのかと思っていたよ」ケイは初めてムリロに会った時のことを思い出して、言いました。
「普通はそう思うよなあ。でもあれが彼の素顔なんだ。彼はブティーペティー劇場っていう町の劇場の芸人で、有名人なんだぜ」
三人がアローズ街に着くと、三〇二Βの窓から明かりが見えていました。
「あいつら、まだ起きているな」ニールが窓を見上げました。
三人が三号館の階段を上って行くと、階段を下りてきたベニとばったり会いました。ベニは三人の姿を見るとあっと驚いて、恥ずかしそうに笑いました。
「ベニ。こんな夜遅くに外で何をしているんだ?アレスタに見つかったら大変だぜ」
「大丈夫よ。リーダーのシュレトはカードをしに行っているから。実は、あなたに用があって」ベニはそう言って、ケイを見て微笑みました。
「僕に?」驚いて、ケイは自分を指差しました。
「それじゃあ、僕達は先に行っているから。お休み、ベニ」
双子はケイとベニをその場に残すと、階段を上って行ってしまいました。ケイはベニと階段の途中で二人きりになりました。
「僕に用があるって言っていたけど、何?」
ケイが不思議そうに尋ねると、ベニは少しそわそわして上着の袖をいじり始めました。
「実はその、ジュニアのことを聞きにきたの。マフセをかばってすごい怪我をしたって聞いたわ。ジュニアは大丈夫なの?」
「うん。町の病院に入院したけど、心配はないんだって」
「そう、よかった。私もネルもとても心配していたの。ほら、私達、ジュニアにひどいことをしちゃったでしょう。だから怪我をしたって聞いて、とても申し訳なく思ったの。ネルなんか、自分のせいみたいに思って、すごく落ち込んじゃって」
「何で落ち込むの?僕は反対に、ネルにお礼を言わないといけないって思っているんだ」
ベニはきょとんとしました。「それ、どういうこと?」
「だって、もしネルがジュニアにパチンコをぶつけていなかったら、僕もジュニアもアローズ街に住んではいなかったんだもの。君がジュニアに襲われた時、僕はアローズ街に内緒で潜り込んでいたことがばれて、アレスタに追い出されるところだったんだ。でも君を助けたお陰で、ここに住むことを許してもらえた。ジュニアだって、あのことがなければ、今も野良犬のままだったんだろうからね」
「まあ、ケイったら。ふふふ…」ベニは嬉しそうに笑い始めました。「早速、ネルにそのことを言わなくちゃあ。これを聞いたら、きっと元気になるわ」
そして二人共、可笑しくて笑ってしまいました。あまり大声で笑ったので、ベニは慌てて口を覆いました。
「誰かに聞かれたら、夜遅くに出歩いたのがばれちゃうわ。兄さんに知られたら大変」
「もう部屋に戻った方がいいよ。ジュニアが戻ってきたら、君とネルに会わせに、遊びに行くよ」
それを聞いて、ベニはぱっと顔を輝かせました。「本当?嬉しい!私達の部屋は二〇一Aよ。それじゃあ、もう行くわ。またね、ケイ」
ベニはにっこりと笑うと、長い髪をなびかせて階段を駆け下りて行きました。
部屋に帰ると、全員が居間に集まっていました。ケイが中に入って行くと、サムが嬉しそうにお茶のカップを高く上げました。
「いよーっ。色男のお帰りだ」
ニールがサムの頭をポカリと叩きました。「お前、冷やかすなよ」
ケイが床に腰を下ろそうとすると、ミミがさっと立ち上がって彼の腕を引っ張りました。
「駄目ですよ。色男はソファーに座るんです」
「え?色男?」
ケイは訳が分からないまま、ソファーに座らされました。
「何、皆にやにやして。何だか気持ち悪いなあ」自分を取り囲むように座る皆が、じっと見つめてくるのを、ケイは居心地悪そうに見回します。「どうしたの。僕の顔に何か付いているの?」
あんまりじろじろ見られるので、彼は試しに自分の顔に触って見ました。
「あなたの顔には何も付いていないわよ。でも、ベニの顔には書いてあったわ。ケイ、ケイって」ノエラがいたずらっぽくケイを見上げて言いました。「ベニはあなたが帰ってくるのを、今までずっとここで待っていたのよ」
「ずっと待っていた?ベニが?」
「そうさ。仕事から帰るなり訪ねてきて、ずっと君を待っていたんだ。でもあまりに帰りが遅かったから、渋々帰って行ったけど」サムもにやにやしています。
「待っている間、彼女はあなたのことを色々聞いてきたわよ。すごく興味があるみたいに。外で会ったんでしょう?二人で何を話していたのよ?」
ミミやタエまでが、聞きたそうに身を乗り出してきました。
「ベニはジュニアが心配で来たって言ったんだ。ジュニアの話をしただけだよ」
「それは、ただの口実だぜ。ベニが来た本当の理由は、お前だよ」ニールが言いました。
きょとんとしてしまったケイを、皆が可笑しそうに笑いました。
「まったくもう、鈍いんだから。ベニは本当はあなたに会いたかったのよ。あなたに会いに、わざわざ夜遅くまで待っていたんじゃあないの。ジュニアのことが知りたいんだったら、私達に尋ねれば済むことでしょう?乙女の恋心が分からないなんて、これだから男って」ノエラは呆れたように首を振りました。「ケイはベニの王子様ですもの。暗闇で恐ろしく牙をむき、今にも襲い掛かろうとしている巨大な野犬から、自分を救ってくれた謎の王子様。私がベニでも、その王子様に恋すると思うわよ。ねえ、ミミ?」
「ロマンチックです」ミミもうっとりとした顔をして、ケイを見上げてきました。
ケイはそれを聞いて、吹き出してしまいました。「まさか。随分大げさだなあ」
「乙女の恋心ってお前が言っても、あんまり説得力がないよな」
ニールが言うと、ノエラは彼の顔に向かってクッションを投げつけました。
「ふがっ!ほら見ろ、これが乙女のすることか?乙女が人の顔に物を投げつけるか?」
「うるさいわね、ジョーカーは黙っててよ」ノエラがニールを睨みつけます。
「じゃあさあ、もし自分が野犬に襲われた時に、例えばニールが助けてくれたとしたら、やっぱりニールにも恋をするの?」サムが面白そうに、ノエラとミミに尋ねました。
少しの間、二人はじっとニールを見つめて考えていましたが、やがて首を振りました。
「助けてくれるのが王子様じゃあなくて、道化だなんてがっかりね。幻滅だわ」
それを聞いて、ニール以外の全員が吹き出しました。
「冗談じゃあないぜ、誰がお前なんか助けてやるか。お前みたいなおてんばなら、反対に犬の方から逃げていくだろうさ」ニールが怒った声で言いました。
「うるさいわね。どうせニールは人を助けるどころか、自分から真っ先に逃げ出すわよ」
「もう二人共、夜遅いんだから大声を出すなって」ウィルが、ノエラとニールの言い争いが始まる前に止めに入りました。
「ところで、どうして三人はこんなに帰りが遅かったの?ベニじゃあなくても心配したよ」タエが話題を変えて言いました。
「どうせ、ニールがまた何かしでかしたんでしょう?」
ノエラが言うと、ニールがぐっと言葉を詰まらせました。
ウィルは劇場裏で掃除をさせられていたことを、皆に話して聞かせました。もちろん、倉庫に忍び込んだことは内緒です。話を聞き終わると、皆は呆れたようにニールを振り返りました。
サムは同情するような視線をケイに送ります。「ケイ、一緒に行動する人は選んだ方がいいよ。ニールと一緒だと、人の三倍は面倒に巻き込まれると覚悟していないと」
「お前は最近、本当に生意気になってきたな」ニールがサムの首を締め上げました。
「さあ、皆もう寝よう。明日の朝起きられなくなるぞ」ウィルが二人の取っ組み合いが始まるのを恐れて言いました。
それから十分後には、全員がそれぞれのベッドに潜り込んで、大きく寝息を立てていました。ケイもその晩は奇妙な夢に眠りを邪魔されることなく、ぐっすりと朝まで眠り続けました。