プロローグ
アークは真夜中を少し過ぎた頃、一人で二階にある図書室に来ていました。昼間、母親から叩かれた左の頬がまだ赤くて、触るとひりひりと痛みました。今まで図書室にはあまり足を踏み入れたことはありませんでした。アークにとって、ここは暗くてかび臭くて、近寄り難い場所でした。誰も使っていないし、使用人さえ滅多に入らないのです。その理由がようやくアークには分かりました。それは奥の壁に掛けられている、黒い布で隠してある鏡にありました。それが自分と関係があるなんてことを、今まで考えたことすらありませんでした。
窓の外は月が明るく光っています。アークは痛む頬にそっと触れました。途端に悲しみが込み上げて、涙が頬を伝い落ちていきました。暗い部屋の、窓を通して射し込んでくる月明りが、アークの足元を照らしていました。窓は全て閉まっているのに、どこからともなく流れ込んでくる冷たい夜風が、アークのぬれた頬を優しくなでてくれます。床には割れた鏡のかけらが散らばっていて、月の光を受けてきらきらと光っていました。
部屋の中には彼の他に誰もいませんでした。皆もう寝てしまったのでしょう、お屋敷の中からは物音一つ聞こえてはきませんでした。部屋の中にある、本がぎっしりと詰まった幾つもの本棚や、隅に置かれているほこりをかぶった机や椅子も、まるで時が止まってしまったかのように、暗闇の中でじっとしていました。アークはこの部屋の家具のように、部屋の隅でほこりが積るままにされ、誰からも忘れられている、そういう存在になれたらどんなに良いだろうと思いました。どこかに消えてしまいたい、誰も自分を知らない所に行ってしまいたいという、強い決心にも似た欲望が、アークの心にわきあがっていました。
アークは涙にぬれた顔でうつむいて、床の割れた鏡を見つめながらこぶしを強く握り締め、歯を食いしばります。涙はとどまるところを知らずに、赤く腫れた彼の頬を伝って流れ落ち、その下にある服をぬらしていました。
彼はいつまでも、いつまでも、床に散らばる鏡の割れたかけらを、じっと見下ろしていました。