不快感と恐怖とイチゴミルク
ミケネコ刑事から、印刷されたばかりの温かい紙が手渡される。
その文面は以下の通り。
留美子さん、お元気ですか。実はあなたに要求があります。
今月十日に、数学基礎論で有名な不完全性定理について、数学マニアでもある理系の僕を屈服させるくらいに面白おかしく解説している自作動画を配信して下さい。投稿サイトは「チョキちゃんねる」を使い、タイトルは「K市爆破予告犯K氏を屈服させるための動画を作ってみた」として下さい。
誰かに協力して貰うことは認めます。ただし、必ず留美子さんが中心になって、つまり主役として動画に登場して下さい。声を変えるのは認めません。顔を隠したい場合には、帽子とサングラスとマスクの着用までは認めます。カツラの着用や髪のカラーリングは認めません。美しい黒髪を隠さず、あなたが中学生だった頃のような三つ編みにして、よく見えるようにして下さい。手を隠すことは認めません。靴下は、あなたの出身中学校で指定されていた白いソックスと同じものを着用し、靴は履かないで下さい。そして時々、足元をアップで映したり全身を映したりして下さい。衣装は僕がお送りするものを着て撮影して下さい。それはネット上に配信をする上で支障のない衣装ですから安心して下さい。
動画公開の事前告知は認めます。そして必ず、百時間以内に一千万回再生を達成して下さい。それができなければ、K市を爆破してあげましょうか。
このメールを留美子さんが読んでくれたものと信じます。確認として、あなたが今日当選した懸賞の名称と母方のお爺さんの職業を書いて返信して下さい。正しい回答がこなければ、午後四時にK市を爆破してあげましょうか。
「なにこれ……」
留美子が震える声でつぶやいた。
正体不明の人物が十年ほど前から、あるいはそれより以前から、留美子のことを知っていて、留美子に対してフェティシズム的な感情を抱いている。そして、苦手意識が強い数学の分野に属する知らない定理の解説をしろという厄介な要求。今日の午前中にあったドッキリ懸賞の電話とも関係がある。極めつきは「K市を爆破してあげましょうか」という脅迫の言葉。
普通の若い女性なら、このような内容の文面を読めば、当然のことながら不快感と恐怖を抱くはず。
「大丈夫すよ。留美子さんもご家族も、警察がお守りしますからね。犯人は、自分らが必ず逮捕するっす!」
自販機から戻ってきていたスマホ刑事が、そう言って励ましながら、留美子にイチゴミルクのパックを手渡す。
「よく冷えてるっすよ」
「はい、ありがとうございます」
留美子はすぐに飲み始めた。
イチゴの風味とミルクの柔らかさが絶妙。今までに飲んだことがないくらいに洗練された味と香り。さすがは天下の神奈川県警本部に置いてある自販機だ。
「留美子さん、おいしいっすか?」
「はい、とっても!」
「でしょ、ここのは果汁が多く含まれてるっすから。イチゴのビタミンCには、気分を落ち着ける効果があるそうっすよ」
「あ、それ聞いたことあります! お爺ちゃんが、イチゴの栽培してて、私も小さい頃からずっと、イチゴが一番好きなんです」
「そうっすか、それはよかったっす。まあ自分にとっては、ブドウこそが断トツで世界一だと思ってるっすけどね。ふふっ」
スマホ刑事が、手に持っているブドウジュースのパックを留美子に見せて、優しく微笑む。その顔は、とても凛々しく美しく頼もしかった。
ここにマゴリ警部が割って入る。
「俺は知っての通りバナナだ!」
「それぞれ、世界一は違うものなんすね」
「当たりめえだ! もしも世界中のヒトとチンパンジーとゴリラたちが、みんなで揃ってバナナ好きなんてえことにでもなりゃ、俺の食うバナナが少なくなっちまうじゃねえか!」
「おっと、それは大事件すね、マゴリ先輩にとっては」
「おうよ!」
突如、留美子が声を出して笑う。
「あはは。あ、済みません。お二人って仲いいなって……」
「いやあ、あんたが笑ってくれて助かった」
マゴリ警部が珍しく優しそうな表情をしている。
続けて、スマホ刑事も同じように優しく問い掛ける。
「落ち着いたっすか?」
「はい」
「では、またお話を聞かせて貰えるっすか?」
「はい」
ここに再びマゴリ警部が割り込む。
「待てコラッ!」
「は、なんすか?」
「俺にゆっくりバナナミルクを飲ませろ、ブドウ野郎!」
「あはは。あっ、また笑って済みません」
「いいっすよ。たっぷり笑って下さい。自分はせっかちだったっすね。もう少し休憩しましょう」
「はい、ありがとうございます」
「いえいえ。捜査に協力して貰うっすから、こちらが感謝してるっす」
ここにミケネコ刑事が割り込んでくる。
「あの、私もジュースを飲んでもよろしいでしょうか?」
「当たりめえだ! だからさっき聞いたんだ。さあこれで買ってこい」
マゴリ刑事が財布から電子マネーのカードを取り出す。
それを見て、ミケネコ刑事が言う。
「いえ、私は自分のお金で」
「なにを水臭ぇこと言うとる。こういう時にはだなあ、すんなり受け取ることが親切なんだ。ここは俺の顔を立ててくれ、なあミケネコよお」
「は、分かりました。それではお言葉に甘えます」
ミケネコ刑事はカードを受け取り、急いでミカンジュースを買ってきた。




