第三十二話 沼Ⅱ
ナダは目ぼしい沼を全て覗き込んでみている。
一つ、二つ、三つ、小さな沼から大きな沼まで様々な沼を覗いて行く。どれも水は済んでいる泉のように透き通っていた。野間の中には草や藻、それに多数の小動物などが賑わっている。だが、きらりと光る金属の類はその中には一つもない。
ナダの目に見える場所に武器は一つもなかった。
もう既に沼に武器は落ちていないのだろうか。
それとも土の中に沈んでいるのか。
だが、沼の中に潜る気にはなれない。浅そうに見えるが、ああ見えて意外と深いのだ。藻に足を取られて死ぬことだってある。それに沼の水は冷たかった。まだまだ入るには気が早い。
四つ、五つ、六つ。次々に新しい沼を見ていく。底の深さもまちまちだった。死人出来る限り浅い沼もあれば、深い沼もある。目に見えている真実がどこまで本当なのかは分からない。
七つ、八つ、九つ。
ナダは自分の下にある沼を必死に覗き込んだ。
目を凝らして、たった一つの輝きも見逃さないように。
すると、ナダは沼の底に一かけらの輝きを見つけた。
既に数々の沼を覗きこんで幾つもの沼を見たのかは分からない。
だが、確かにナダは沼の中に見つけたのだ。
――あれは、なんだ?
ナダは思わず顔がにやけてしまった。
あれが武器かどうかは分からない。
だが、確かに水中の中に輝く物体を見つけた。
希望が持てる。
ナダは急いで着ていた外套などを脱いでいく。人の目など気にする必要がない。なんせこの周りには誰もいないからだ。アメイシャとガルカは遠くのほうで豆粒になっている。おそらくこちらの姿など見えないだろう。誰にも気にする必要などなく、ナダは全ての肌をあらわにして沼の中へと勢いよく飛び込んだ。
肌を突き刺すような冷たさがナダを襲った。
すぐに底を目指すのを諦めて、一度顔を水の外に出した。そしてゆっくりと両手をかき回し、足を大きく動かした。泳ぐのは数年ぶりだったが、どうやら水の中での泳ぎ方は忘れていないようだ。
氷のような冷たさが、ナダの頭を冷やす。
大きく息を吸うと、勢いよく水の中へともぐりこんだ。
必死に目を開けて、輝く光の元へ。必死に足を大きく動かして、手を伸ばす。
泳ぎ慣れたナダの体は簡単に水の底へ辿り着いた。右手を力強く伸ばし、光の元を掴んだ。
――だが、掴んだのは、あまりにも細い物だった。
それは鎖というに相応しいだろうか。いや、もっと細い物だ。それはたやすく引っ張ることが出来て、ナダの胸元まで近づける。それは確かに金色の金属であった。丸い輪の形をした金色の鎖。先には赤くて丸い宝石がついており、ネックレスとでも呼べばいいのだろうか。
だが、ナダの掴んだネックレスはそれだけではなく、全く別の物を連れてきた。白くて、太いものだった。
ああ、それが何なのかナダにはすぐに分かった。
――首だ。人の首だ。
白骨の頭蓋骨の何もない眼窩と、ナダの黒い瞳が互いを見た。
ああ、きっと人の首に回されていただろうネックレスは、そのまま人の首に巻かれてあったのだ。この沼に落ちて、死んで、こうやってナダに見つかるまで。
ナダは暫くその骸骨と目を合わせていると、次第に息が苦しくなった。
ナダはネックレスを掴んだまま、空気を求めて浮上する。ネックレスを巻いていた首の骨がばらばらになり、簡単に引っ張ることができた。そして水の外へ顔を出すと、ナダは勢いよく空気を吸った。
そのままナダは陸まで泳ぎ、腕をふちに手をかけて体を自ら引き上げた。草むらの上で横になる。ナダは冷たくなった体のまま太陽の光を浴びて、荒い呼吸を整えようと何度も息を吸った。
そしてネックレスと掴んだままの右手を太陽にかざし、光で照らしてネックレスをよく見た。
――愛するリオへ。
ナダはその文字を見た瞬間にいたたまれない気持ちになった。
本当なら武器でもなく、このネックレスでも十分な収穫になると思ったのだが、あの骸骨の大切なものだと思うとどうしようもなくこれを持って帰るのはダメな気がした。
あの白骨死体がどうして死んだのか、あのネックレスは誰に贈られたのか。ナダとしてはそのバックボーンが全く見えなかったが、この意匠が凝っている高そうなネックレスを持って行って、セウで売る気にはなれない。
ナダは少しだけ休憩をしてから、もう一度水中へ潜りばらばらになった骸骨の首へ優しくネックレスをかけた。
骸骨がいるのだから近くには武器もあるだろうと岩などを退けて探してみるが、残念ながら武器の一つも見当たらなかった。
ナダは怨めしそうに水中にあるネックレスを見てから、後悔がありながらも浮上する。
◆◆◆
「くそったれ……」
濡れた体のままズボンだけはいたナダは、くしゃみを一回だけしてから元の道を歩く。
結局のところ、ナダは武器を見つける事が出来なかった。
沼はまだたくさんあるのだが、全てを探している時間などない。十個ほどの沼を走り回って調べる事もしてみたが、それらしいものを見つける事はできなかった。
きっとあの鍛冶屋の店員や列車の襲撃者などが武器を見つけたのだからどこかにはまだあるのだろうが、この短時間で見つけるのは厳しいだろう。日も少し落ちてきた。これ以上の時間はかけられない。
ナダは肩を大きく落としてズボンだけを履いて、上に着ていた服を持ち、二人の元に戻ることに決めた。
名残惜しそうに沼を覗きながらナダはゆっくりと来た道を戻る。周りは沼に囲まれていた。奥にも数多くの沼がある。沼の水は澄んでおり、ここは動物たちの楽園だった。自分たちのほかに人は一人もいない。
――かつての戦場のあと。多くの人が眠る忌み場所。そうとは思えないほど静かで、美しい場所だった。それに魅力的な場所でもある。
ナダは後ろ髪を引かれる思いだったが、二人に置いて行かれるわけにもいかない。ナダは二人の元まで走りだした。
沼の間を抜けて、ぬかるんだ泥の中を滑るように走る。足場が不安定だ。気を抜けばすぐにこけてしまいそうな気がする。ナダはけっこう遠くまで来たと思った。二人の姿は豆粒のように小さい。よっぽど遠くまで来たのだろうと思い、よりいっそう足に力を込めて走ろうとして大地を踏みしめた時、右足が大きく沈んだ。ナダの体が前に流れる。ナダはこけそうになったため、両手を前に出すが、地面を手で支えたと思った時、手も土の中に吸い込まれた。ナダの体が隠れている沼の中に沈んだ。冷たい水によって包まれる。だが、それは水と言うよりも泥だった。土が混じった沼だ。水よりも重たく体にまとわりつき、動きを制限させられる。まだ顔は外に出ているが、じきに沈むのも時間の問題だろう。
ゆっくりと体が沈んでいく。
必死に足を漕いで足掻くが、泳げることはなく、ゆっくりと体が沼の中に沈んでいく。ナダは思わず持っていた服を遠くへ投げた。安全な地面の上に置いたのだ。ナダは必死に体を動かして足掻くが、体はどんどんと沈んでいく。
遂には首まで泥につかり、それでも足がつくことはない。
ナダは大きく息を吸い込んだ。
頭が泥につかった。手だけを空中に出してナダは必死に足掻くが、やがて手すらも完全に泥に浸かった。
ナダはどこまでも落ちていく。
冷たい泥の中、一人っきりで。
息がどこまでもつのかは分からない。
眼も開けられないほどのねっとりとした泥の中、ナダは自重に従ってゆっくりと落ちていく。もはや足掻くこともなかった。足掻けば足掻くほど、早く沈んでいくのが分かったからだ。
やがてすぐに底に辿り着く。
固い物が足に当たった。
それはきっと地面ではなかった。
ナダは手を地面まで伸ばし、それを掴んだ。
細長い棒状のもの。それが何なのか、ナダには全く分からない。だが、ここで死ぬことは絶対に認めたくなかった。ナダはそれを右手で掴むと、地面に力強く押して体を持ち上げた。細い棒なのでバランスを取るのは大変だったが、それでも生きる為に左腕を力強く伸ばした。
すこしでも地上に近づくために。
そんなナダの腕が地上へとほんの少しだけ出た。
そして何かが手に当たる。
ナダがそれを力強く掴むと、大きなナダの体を引っ張り上げてくれた。体がやっと固い地面の上に頃張り、深く呼吸をしている。
「大丈夫なの!?」
アメイシャはナダの意識を確かめるようにほほを何度か叩いた。ナダはそれが分かっていながらも、まともな反応をすることができずにずっと荒い呼吸を繰り返した。
「一体何があったんだ? 走っている君の姿が急に消えたら、アメイシャさんが馬車の中からロープを持ってきて走り出した」
「簡単よ。この馬鹿はきっと隠れていた沼に落ちたのよ。だから気を付けろ、って言ったのに――」
「隠れていた沼?」
「ええ。この草原の中にも目に見えない沼が沢山あるのよ。きっとそれに落ちたのよ。昔の戦士たちも落ちて、沢山しんだような沼にね」
「だから君は走ったのかい?」
「流石に目の前で死なれるのは寝覚めが悪いわ――」
「そうだね」
ナダはロープで自分を引っ張り上げてくれた二人に感謝しながらも、お礼を言えるだけの余裕を持っていなかった。
ずっと大きく肺を動かして、呼吸をするだけだ。太陽の光がやけに眩しく感じた。それに温かい。これが生きているという事なのだろうか。悪くない気分だった。
「で、ナダ、その手に持っているのは何なの? 引っ張り上げるがかなりしんどかったわ。これでも私、後方からの支援が主な仕事だから力仕事は苦手なんだけど」
アメイシャはナダの右手をつんつんと叩きながら言った。
ナダは顔を右に傾けた。確かに右手に何かを持っているのは感触で分かった。それは確かに太くて長く、重たい物だった。
黒く塗りつぶされた鞘。少しだけ剃った形。意匠が施された柄。鍔は丸く、どこか東洋の雰囲気がある。
ナダはそれを絵でしか見たことがなかったが、昔に教科書で見たことがある。
ナダが持っている武器は――大太刀だ。
かつて武者と呼ばれる戦士たちが戦場で用いた武器だ。
優れた武者なら人の乗った馬ごと真っ二つにしたと言われる斬馬刀の一種であり、今ではもう使う者が一人もいなくなったが、その重さと切れ味は折り紙付きだった。