第十七話 グランケアンⅥ
「やったの!?」
思わず嬉しそうな声がアメイシャは口から洩れてしまった。
ナダはそんな彼女の様子に思わず顔を不快に歪ませて、煙の中にいる熊へとククリナイフを全力で振るった。
だが、当たったのは前足で、気まぐれに振るった熊によってナダの体は浮き上がり、その力を利用して距離を取る。
残念ながら熊が死ぬ様子はない。
確かにダメージは通っている。
背中からは切り傷によって血は出ているし、アメイシャのギフトによって腹は少し焦げているが、毛に阻まれてダメージは少ないだろう。
煙が晴れた中にいる熊は、未だに健在だった。
「……」
どうして、とはアメイシャは言わなかった。目を大きく見開いて熊を見つめてながら次のギフトを小声で唱えて、自分の周りにか細い火の玉をその姿は優秀なギフト使いそのものだった。
ナダにはアメイシャのギフトが熊に通じない理由が分かっている。おそらくアメイシャも知っている。
地上では迷宮の中とは違い、ギフトもアビリティも効きが薄い。
理由ははっきりとしていないが、これは冒険者にとって周知の事実だ。
だから地上では冒険者は他の人と同じく無力に近い。アビリティもギフトも失った“一般的”の冒険者は、普通の獣に負けるほどの実力しか持っていないのだ。
「ああ、もう! うざったい!」
ナダは飛び掛かってくる熊の噛みつきを一つ一つ対処する。
横に避けて、ククリナイフを間に挟み、後ろに飛んで、時には熊の足元を滑り込むように潜り込んで攻撃を躱して大きく距離を取った。
ナダは息を切らしているが、まだ体力は残っている。
熊だって同じだ。
今度はナダが熊に飛び掛かった。
熊は逃げもしない。それよりもまとわりつくナダを邪魔かのように爪で振り払う。熊にとってはハエを払うのと同じだが、人にとってその攻撃はどれも必殺の一撃だ。鋭い熊の爪はナダの肉体を簡単に切り裂くだろう。
だが、ナダはどれもをぎりぎりで躱す。
黒いコートのみが切り裂かれる。初心者の冒険者では買えないようなものだが、さすがに熊の太い爪は防ぐことができない。コートはしなやかで強靭な革で造られているが、金属製の鎧ほどの防御力はない。
「なに、あれ――」
アメイシャは熊と互角に戦うナダを信じられない目で見ていた。
熊の力強さは、モンスターに例えてもそう弱くはない。パーティーを組めば戦えない強さではないが、一人でそれもギフトもアビリティもまともに使えない状態で戦う相手ではない。
だが、ナダは一人で戦っている
飛び掛かる熊の攻撃を避けて、ククリナイフで受けて、またダメージにはあまりなっていないようだが、ナダは確実に熊を攻撃している。足、肩、腕など攻撃しやすい場所のみだが。
戦いが進むごとにナダのコートはぼろぼろになる。ククリナイフも熊の太い爪や太い牙によって、少しずつ刃こぼれしていった。また避ける際に地面を転がることもあるので、顔には小石や枝などで切ったような赤い線がついている。
「おい! なに、みてやがる! 無駄でもさっさとギフトを使いやがれ!」
戦いに魅入っているアメイシャに、ナダは怒号を飛ばす。
ダメージがないギフトであっても、アメイシャのギフトは火の神だ。それは獣であったら恐れる筈だと考えた。先ほどのシカには無意味だったのが少しだけナダは不安だったが。
「そ、そうね――」
アメイシャもナダの一言によってはっと意識を戻して、次々と火のギフトを生み出す。
それは主に火の玉だった。
先ほどの『焔龍の吐息』と比べればどれも小さく、蝋燭の火ほどの大きさしかない。
だが、アメイシャはそれを熊へと向けて飛ばした。
背中や腕など皮膚が分厚く体毛で守られている場所ではなく、無防備な顔に向けて火の玉を飛ばす。
ナダはその間も懸命に熊と戦っていた。
止まることなく、熊が正面から襲い掛かってくるのだ。
熊の払うかのような右手の振り。
そんな一撃をナダがククリナイフで受けるのは一瞬だけ。その刹那の瞬間にナダは全身の筋肉を動かす。熊は殆ど腕しか動かしていないのにだ。それからすぐに体を回して、ククリナイフで反撃するが、急所には当たらない。ダメージにはならない。
だが、ナダは回避と攻撃を続けた。
熊の注意がアメイシャへと向けられることをよしとしなかった。遠距離が主な攻撃手段であるギフト使いは近距離でも戦えないこともないが、細腕の彼女が熊とやりあえるとも思えない。
ナダだって力負けしているのだ。
額に汗をかいている。
すぐに全力がつきて熊に殺されそうな緊張感の中で。
そんな時、ナダが噛みつきを横に躱した時に、アメイシャの火の玉が熊の顔ではじけた。爆発音。衝撃。ダメージはきっとないだろうが、顔の近くで何かの衝撃を受けると反射的に熊が顔を反らす。
そんな熊の顔面へ幾つもの火の玉が爆発した。
負ったとしても軽い火傷程度だろう。
だが、熊は大きな声を出しながら叫んだ。
森の中で受けたことのない攻撃を受けたからパニックになったのだろう。後ろへ下がり、顔の前で何度も手を振った。
その時には既にアメイシャの火の玉が尽きていた。続けてアメイシャは祝詞を唱えるが、それよりも早く顔を何度でも振りながら暴れている熊の顔面にナダは狙いを定めた。
「しっ――」
ククリナイフを全力で振るう。
熊は死ぬことはなかった。頭が斬れたわけではない。額が少しだけ避けて、赤い血が流れるだけだ。熊にダメージはほとんどない。人とは違い、野生動物である彼らはこの程度で死ぬことはない。戦おうと思えば戦えるだろう。
しかし、熊の動きは止まった。血が目に入った状態で、白銀の刃を持つナダをよく見る。ナダも熊の様子を伺っているのか、襲う様子はない。二人は暫し見つめあった後、先に熊が背中を見せて逃亡した。太い木に当たりながら必死に逃げる。
「……逃げたの?」
背中をずっと見つめていたアメイシャがぼそりと呟いた。
「ああ、やっとな」
暗い闇夜の中に熊が消え去った時に、ナダとアメイシャはやっと一息をつくことが出来た。
二人とも柔らかい腐葉土の上に腰を下ろす。
「死ぬかと思った――」
今の戦いの感想だった。
アメイシャは手を震えたまま心境を語った。
きっと彼女にとって初めてだったのだろう。これまで迷宮で幾度となくモンスターを屠ってきた火のギフトが、野生動物相手だと威嚇にしかならなかった。それも顔にちゃんと当てるよう制御して、少し動きが止まる程度だ。
彼女にとって、久々に感じた恐怖だった。
「俺は疲れた――」
これまで来ていたコートが駄目になったので、ナダは脱いで山の中に捨てた。
ナダは腐葉土の上で横になろうとしたが、すぐに立ち上がって荷物を別の場所に置いてきたままの事を思い出す。
ぶるっと体が震えるのだ。
熊と遭遇した恐怖ではなく、山の肌寒さによって。
ナダにとって、あの程度の脅威はいつもの事だった。
アビリティとギフトを持っていない。
それはモンスターに対して、必殺の技を持たないと言う事だ。だからナダはモンスターを殺そうと思えば、相手に肉薄するしかない。例え普通の冒険者がギフトとアビリティをふんだんに使って勝つような相手であっても。
だからナダにとって、熊との戦いはいつも迷宮で行っている事と一緒だった。山の中をさんざん歩いた後に熊と戦うのは予想外だったようで、今もずっと白い息を切らしている。
二人は暫しの休息をとってからやっと眠るための外套を探しに、先ほどまでたき火をしていた場所に戻ることにした。
「でも、どうして熊は逃げたの?」
アメイシャは鞄のある場所まで移動する時に疑問をナダにぶつけた。
「これは俺の予想だけど、リスクを考えたんじゃねえか?」
「リスク?」
アメイシャが聞き返す。
「ああ。俺たちだって迷宮でもモンスターと戦った時に考えるだろう。この目の前のモンスターは倒すのがいいのか逃げた方がいいのか。戦う場合のリスクが高かったら、逃げる判断をすぐにするだろう?」
「ええ。当然だわ――」
アメイシャも難敵には逃げるようにダンジョンで教わった。
どんなモンスターとも戦う冒険者は、冒険者ではない。
強敵と戦って例え勝利を収めたとしても、パーティーメンバーを失ったり、腕を失ったり、また武器の消耗が激しいのは冒険者として負けだと教わる。
冒険者とは、今持っている実力で最大限のカルヴァオンを手に入れる職業なのだ。多少強い程度のモンスターに勝って、満足するような職業ではないと教わる。
「あの熊も考えたのだろうさ。きっと。俺たちと戦う時のリスクを。きっと額を割られ、爆竹のようなアメイシャの火の弾が嫌だったんじゃないか? あいつは重傷を負う可能性がある、と思った。だから逃げた。動物らしいじゃねえか」
「そうね。モンスターとは違う――」
「あいつらは手足の一本や二本失っても戦うからな。あたまがおかしい――」
「そうね。でも、動物も危険だわ。生き残れてよかった――」
「そうだな――」
ナダとアメイシャは疲れた顔をしながら鞄のある場所へと戻った。
たき火は既に熱もなかった。
新しく火をおこす気にもならなかったアメイシャはすぐに鞄の中から外套を出して、それを体の上にかぶせた。腕を枕にしながらナダへと流し目を向けた。
「いい夜ね。星が明るいわ。明日もきっと晴れそう」
確かにアメイシャの言う通り、木々の隙間には数えきれないほどの星が輝いていた。カルヴァオンの恩恵により夜でも明るくなったインフェルノでは、なかなか見られない光景だった。
「いいから、早く寝ろよ。俺も寝る――」
だが、星空に興味のなかったナダは、すぐに外套に包まって寝息をついた。
外套に包っているナダは、ほっと一息をつく。近くに獣の気配はない。今晩はゆっくり眠れそうだ。
「あの星たちの良さが分からないと、つまらない男だと思われるわよ?」
艶やかなアメイシャの声。
だが、ナダの返事は返ってこない。
ゆっくりと吐く息のみが返事だった。
それを聞きながらアメイシャも寝に入った。彼の隣で、猫のように包まりながら。