珍問珍答シリーズ その3 自己をみつめて
1990年代、北九州の町はずれに暮らす女子高校生の自己分析の実例です。メモの控えは、10人分あります。
いくつかに絞る方が、読みやすくなるかもしれませんが、あえて、全部、紹介しようと思います。
それぞれ、違うおもしろさがあると考えるからです。「世界に一つだけの花」を、それぞれが、咲かせようとしている、(25年も経ったら、もう咲いたかな、散ったかな?) その点を、大事にしたいと思います。打ち込みには時間がかかるでしょうが、ぼつぼつやります。お楽しみに。
自己分析 その1
「由美ちゃん」だった私の名前は、妹ができた頃から、「姉ちゃん」になっていた。そして、その頃から、「姉ちゃん」は、ひねくれた。
私は8歳まで一人っ子で育った。妹がほしかった。妹のいる友達を、とてもうらやましいと思った。思っていた。が、甘かった。母は「由美ちゃん」に言った。「由美ちゃんに妹か弟ができたら、由美ちゃんは姉ちゃんになるのよ」と。
私には、お姉ちゃんになるということがどういうことなのか、分からなかった。だけど、ちょびっと、うれしい気持ちは減っていた。それでも私は、まだ「由美ちゃん」だった。
母がお産のために入院する時、祖母が来てくれた。祖母のことを、私はとても好きだった。だから、冬休みでも夏休みでもない2月に、祖母に会えることは、私には、とてもうれしいことだった。が、それは、ほんのひとときの喜びだった。祖母も「由美ちゃん」によく言い聞かせた。
「由美ちゃんも、もうすぐ、お姉ちゃんね」
妹ができた。猿みたいだった。目はつむったままで、髪の毛はチョビチョビ。手はいつもにぎりしめていて、一日をほとんど眠って過ごした。その時から、いままで自分に注がれていたものが、こんどは妹に注がれるのだということを、私は、体全部で感じていた。母が退院して、祖母もいてくれるうちはよかった。祖母が帰った後、私はひとりぼっちになってしまった。8年間、母をひとり占めしてきて、はじめて味わう気持ちだった。
当たり前だが、母はいつも妹につきっきりだった。おしめをかえ、泣いたらあやし、ミルクをやる。眠っている間は、洗濯、掃除、ごはんの支度と大いそがし。外に日なたぼっこにでも出ようものなら、みんなが寄って来て、かわいい、かわいいと、妹のことばかり。私に言ってくれる言葉は、決まって、
「由美ちゃんもお姉ちゃんねぇしっかりせんとねえ」だった。
私は妹がうらやましかった。自分が生まれた時も、同じように愛されたのだ、と今では思える。けれど、幼かった私は、「母をとられた」という悔しさでいっぱいだった。ひとりっ子の間、わがままいっぱいに育った私は、ものすごいひがみ根性てろ、妹を嫌いになっていった。
母は私を「姉ちゃん」と呼ぶようになった。今までは聞いてもらえた無理な注文も、「姉ちゃん」になったとたん、聞いてもらえなくなった。その、なんともいえない悔しさが、妹にぶつけられた。私は1歳にもならない妹をいじめはじめた。眠っているところを、顔をつまんで無理やり起こした。ギュッとにぎりしめている手を無理やり、、とこうとした。外に出れば、妹の悪口ばかり言った。そんな様子を見て、母は私に、「どうして赤ちゃんにそんないたずらをするの? 由美ちゃんも欲しがっていた妹よ。もうお姉ちゃんなんだから、かわいがってあげてね」と、言いきかせた。それでもどうしても納得がいかなかった。母にそういわれればいわれるほど、ますます私は妹を嫌いになったのかもしれない。
妹を受け入れられない私は、いろんなことで、たくさんの人に当たりちらした。
ちょうど反抗期もかさなっていたのかもしれない。全部、妹が悪いのだと思った。自分の間違いには気づかなかった。妹に嫌われていることさえも。
「姉ちゃん」は、自分ひとりをかわいそうだと思いこんでいた。
妹は、私と正反対に、やさしくって、思いやりのある子になった。自分にないものを持っている妹がうらやましい。けれども、こんなことを思っているような私には、「姉ちゃん」という名前は似合わないのかもしれない。
最近では、普通の姉妹らしくなってきたのかなあとも思う。私も、やっと「姉ちゃん」という名にふさわしくなってきたのかな。それとも、やっぱり、妹が大人になっただけで、私は「由美ちゃん」の気持ちを、母に対してだけでなく、たくさんのことに対しても、まだまだ持っているのかな。じっくり見つめると、私の中に、「由美ちゃん」は、まだしっかり根づいているような気がする。その根を引っこ抜いて、かわりに
「姉ちゃん」を植えつけたい。肥料と水をたっぷりあげて、りっぱな「姉ちゃん」を育てるんだ。
自己分析 その2
私の赤ん坊の頃は、人見知りばかりして、まわりの大人を困らせていたと母が言う。幼稚園の頃も、とても内気だったような気がする。そんな私が、どこでどう変わってしまったのか、今では、「私、すごく内気だったのよ」と友達に言っても、「うっそー、そんなの絶対信じられない」と言われる。それほど性格が変わってしまっている。「内気でおとなしい」が「バカに明るくて活発」になってしまった。
だれが、なにが、いつ、私をそんなに変えてしまったのだろうか。考えてみても、答えは、なかなか分からない。「いつのまにか」なのである。その「いつのまにか」を作った人は、だれだろう。親でもない、兄弟でもない。やはり、友達しかない。そう、友達の影響だったのだ。
小学校1年の時、家が引っ越したので、私は転校生になった。おとなしくて内気な私には、ちょっとつらいものがあった。新しい友達がなかなかできない。それでまた内気がつよくなる。もう学校なんか行きたくない、と思いかけた頃、やっと友達ができた。とてもうれしかった。それでも、性格は急には変わらない。けれども、長い間に、じわりじわりとかわってはいたのだろう。小学校を卒業する頃には、暗くもなく、あまり内気でもなく、かといってあまり明る過ぎでもない、普通の、ちょっとおとなしい、平凡な生徒だった。自分の意見も、少しずつは言えるような子になっていた。
中学校入学。知らない生徒がたくさんいる。新しい学校生活が始まる。まず友達になった人は、少しあかるめの、平凡な感じの人だった。顔をあわせると、楽しい話ばかりしていた。2年になる時、クラス替えがあった。その友達とは離れ離れになった。クラスでは、班を6つくらい作って、時々、班替えもしていた。それで偶然、ある人といっしょになった。その友達は、私に対し、一方的に話すような人だった。それも、当時、私の大嫌いだった野球の話ばかりであった。
その友達は高校野球が大好きで、その話ばかり私にする。いつも、おつきあい、おつきあい、と思って聞いているうちに、いつのまにか、ねえ、教えて、教えてと、自分から聞くようになって、高校野球まで、好きでたまらない、というように変わっていた。
高校に入学して、私が野球部のマネージャーになったのも、この友達の影響が大きかったといえよう。この友達はまた、何かに夢中になると、毎日が生き生きと生活できるということを私に教えてくれた。
中学3年の時にも、班替えで、新しい友達ができた。すごく明るくて、どこかまぬけで、でも、けじめは知っている。ケラケラとバカでかい声で笑い、冗談を言い合い、話が話にならないくらいわらって、でもそれが、私たちには楽しくて仕方がなかった。今の私の性格は、この友達の影響を一番強くうけたと言えるだろう。
もともと、私の本当の性格は、バカに明るかったのかもしれない。それをおさえて、内気でおとなしい性格を装っていたのかもしれない。そんな無理をしていたのも、やはり友達の影響で、今のように、手のつけようもないほど明るくバカができるようになったのも、友達の影響だとすると、私って、一体何なのだろう。
まあ、今の私の性格が、私は大好きだ。こんなふうになれて、本当によかったと思っている。
自己分析 その3
私は小さいころ、虫がとっても好きで、小学生のころは、ランドセルもおろさずに、庭の木にとまっているセミをつかまえたりしていました。
セミといえば、ともの誕生会に呼ばれた時、セミを2匹つかまえて行って、プレゼントといっしょにあげたこともありました。セミをつかまえるので、誕生会には、少し遅れてしまいました。私が尼崎から帰って、こっちの中学に転校して来た時に、その誕生会に呼んでくれた友達が、なつかしそうに、その話をしてくれました。
それがどうしたのでしょう。今では虫があまりすきではありません。ちょうちよにも、セミにも、手を出そうともしません。お母さんも、おばあちゃんも、信じられない、と言います。
けれども、動物好きは、今も続いています。ひいばあちゃんゆずりのようです。私が中学生だったころ、ひいばあちゃんが言っていました。母親にひどくしかられても、子猫を家の中につれてきて遊んでいたそうです。
私も、小さいころ、家にまぎれこんで来た子猫を、せがんで、飼ってもらいました。尼崎では、インコを飼っていました。こっちに帰って来た今も、また猫を飼っています。動物といっしょにいると、とても心がなごむのです。あのかわいいしぐさを見ていると、とても幸せです。結婚するなら、ぜったいに動物好きな人にかぎります。
私は絵を描くことも大好きです。これも小さい時からです。鉛筆と紙さえ持たせておけば、おとなしく絵を描いていて、一人にしておいてもあぶなくなかった、と母が言っていました。
幼稚園に行くころ、エレクトーンを習い始め、小学校に上がるころ、ピアノにかえました。ピアノの先生になりたいと、あこがれたこともありました。ところが、5年ごろから、絵の方に夢中になり、漫画家になりたいなどと思い始めました。そして、交換日記に漫画を連載したり、線の入っていないノートに絵を描いたりしていました。中学に入って、ペンネームをつけることにしました。たくさん考えて、その中から決めました。その時、相談にのってくれた、おなじ趣味の友達に、とても感謝しています。
中学生のころまでは、ネタに詰まったりしなかったのに、高校に入ってから、だんだんストーリーを考えるのが苦しくなってきました。暇さえあれば絵を描いて、絶対に漫画家になるんだっていっていたのに、あの時のやる気はどこへ行ってしまったのか、あまり描かなくなったのです。でも最近、また、がんばろうって思うようになりました。中学に入った時に始めた漫画の通信教育も、ちゃんと修了したし、今も美術を習っているし、やるだけのことはやってみたい、と思っています。たとえ漫画家になれなくても、ずっと、この趣味は続けたいです。
私は作詞作曲もしています。作曲は6年生ごろから始めました。中学生からは作詞作曲になりました。それで、一度はプロを考えたこともありますが、あまりりにも大きな夢なので、やめました。でも、今も、歌やピアノ曲を作ってはいます。本当の趣味にしておこうと思っています。
本当のねらいは、やはり漫画家です。無理かもしれません。でも、がんばってみます。
中学生のころから時々やっていたマラソンも、今年の夏からは、ずっと続けています。いまでは8キロくらいは走れます。こんなところは、意志が強い方だと思います。漫画の方も、ずっと続けてがんばりたいです。
自己分析 その4
小学校の頃から興味を持っていたことがある。それは、服のデザインや、何かものを縫うことなどである。隣のおばさんが、よく手芸をやっていた。それに興味を持って、ある時、刺繍をしてみることになった。おばさんは、白い布を5センチ角くらいに切って、私に絵を描かせた。好きな色の糸を取っていいよと言って、縫い方を教えてくれた。わけがわからないから、初めは、しつこいほど質問ばかりしていた。できあがったのは、今から見れば、ひまわりのできそこないと言うべき簡単なものであった。鉛筆で描いた上を波縫いしただけの刺繍である。でも、その時の私には、それがうれしく、他の人に見せてまわったのを覚えている。
好きなものは、周りの人認められると、実力もいっそうのびる。末の妹の3歳の誕生日に、私は、帽子とタスキとを作ってやった。黄色の画用紙を斜めに切って、つなげて、ピンク色の薄い紙で作った造花をつけて、帽子とした。タスキは、外国人が正装の時、肩からかけているようなものをまねて、色画用紙を同じ大きさに切って、長くはりあわせただけのものである。今考えると、お遊びのように簡単な工作だった。しかし、そのときの私は、ありったけの知恵をしぼったつもりだった。父も母も、おじも、おばも、みんな私の作ったものをほめたたえた。
本当は、その時作ったものよりも、頭の中には、もっと理想的なものを図面として思い描いていた。しかし実現できなかった。私は、はがいかった。それでも、なにも知らない第三者は私をほめる。
私には熱しやすく冷めやすいところがある。他の女の子たちとあそんでいた時、よそのうちの、ちょっと大きな納屋に入った。そこで、ゴミ袋に古着が入っているのを見つけた。みんな、自分の好きな服を選ぼうとしていた。私は、私が選んできせてあげると言った。最初の女の子は、みなからもほめられた。しかし、次からは、うまく行かなかった。いい考えが浮かばない。それでも一応やってみた。本人の気に入らない。友達もほめない。それどころか、私を責める。私は自信喪失といっていいほど落ち込んでしまった。しばらくは、服や縫い物に関心を持たないようになってしまった。小学校高学年では、家庭科の授業もある。が、なんともおもわなかった。
中学校に入り、被服の時間に、いままであまり使ったことのないミシンを使い、縫ったり作ったりできるようになった。楽しかった。一気に世界が広がって行くのを感じた。自分のできないところや、わからないところもあって、くやしさで、おかしくなりそうな時もあった。しかし、ヘタでもがんばり通せた。ほめられたらがんばって、責められたら投げ出すのは、もう卒業した。自分の好きなものに自分でチャレンジして、まんぞくすればいいのだ。
高校を受ける時、普通高校にするか、この学校にするか、迷った。この学校に決めてからも不安はあった。2年、3年になるにつれて、被服の授業が多くなる。あたらしいものを縫うにつれて、世界かーひろがる。今、高校卒業後も、被服の勉強がバッチリできる専門学校へ行くつもりだ。
今、私は、布に恋している。どんな形にも変形できる! それと、一つの作品ができあがった時の喜び! 私は、もう、大きな道で迷うことはない。小さなことでは、いろいろ迷うことはあるだろう。しかし、この大きな道を行く限り、どうにかなる! と、私は思っている。
自己分析 その5
私は小さい頃、保母さんになるのが夢であった。私の通った保育所は、けっこう田舎で、まわりは田んぼで囲まれていた。その頃、担任であった今村先生にあこがれていた。先生とは家も近かったし、保育所から帰ってからも、よく遊んでもらった。とても面倒見のよい先生だった。私も小さい時から年下の子の面倒を見るのは好きだった。今でも変わってはいない。
小学校1年のおわりに転校をした。家を建てたのだ。今までの団地と違って、大きな家だ。とてもうれしかった。こんどの家は小学校のすぐ前だった。その隣りには、なんと保育所もある。やっぱり保育所の子どもたちはかわいい。つくづくそう思った。その頃の夢も保育所の先生になることだった。中学校を出るまで変わっていない。
高校に来て、いろいろな授業がふえた。その頃から卒業後のことを考えるようになった。親からも、どんな仕事をしたいのかなどと聞かれるようになった。その時の返事は「まだ、わからん」というしかなかった。なぜ「保母さん」と答えなかったのだろう。
私の夢が、ちょっとずつ、昔と変わっていたのは確かである。美容師、体育の先生、看護婦などに興味を持ったこともある。でも、気持ちは、すぐには、かたまらない。
そのうちに、好きな人ができた。そのひとに何か作ってあげたいと思い、セーターやクッションを作った。それを見て、ある先生が、「あんた、じょうずに作っとうねえ」と、ほめてくれた。うれしかった。好きな人も、とても喜んでくれた。
2年の時、手芸クラブに入った。いろいろ作った。その頃から、こういう服飾関係のことを、できたら続けたいと思い始めた。
3年では、選択で、被服を進んで選んだ。卒業後のことも真剣に考えなくてはいけない。東築紫短大は、服飾については古くからの伝統がある。がんばれば行ける。
おかげで合格した。これからも、よりいっそう、服飾について勉強して行きたい。短大ではウェディングドレスも作る。ファッションショーもする。夢はますますふくらんでいる。
小さい頃の夢とは違ってしまったが、今、私が一番したいことができるのだから、これでよかったと思う。また何年かしたら、ぜんぜん違う道に進むかもしれない。それはそれでいいと思う。それも私のだいじな人生なのだから。今は、始まったばかりの道を、一生懸命進んで行こうと思っている。
自己分析 その6
小さい頃の私は、他の人よりも少し多く、苦労というものを経験したような気がする。私よりもっともっと苦労した人がいるのはまちがいないが。
母親の足がわるくて、私は、小学校高学年くらいから、家の手伝いをしなければならなかった。友達の家に遊びに行っても、みんなより早くかえって、茶碗をあらったり、ご飯をしかけたりしていた。
中学に入ってからは、もっと本格的な手伝いをさせられる。それがイヤで、部活を始めたほどだ。
学校でも苦労があった。小学校5年くらいだったか、男子生徒から、差別とまでは言えないだろうが、そんな感じの扱いを受けた。私はうまれつき色が黒かったので、そのことで、きたないといって、さけられた。もう忘れたが、変なあだ名までつけられていた。担任に言わせれば、「おまえにもすこし、わるいところがあるんやねえか?」ということだったが、いまだに、私のどこがわるかったというのか、わからない。そんな日々が2年間続いた。友達に相談もせず、むしろ、友達に話すのは、もっと恥ずかしいことだと思っていた。学校に行くのがイヤだった。けれども、カゼ以外では1日も休まなかった。
中学に入れば、すこしはいいかもしれない、と思っていたが、考えが甘かった。3年間、またイヤな日々が続いた。しかし、しだいに、私をさける人も少なくなっていった。1年の時には、女の子の中にも、私をさける人がいた。しかし私は、なにごともないようなそぶりをしていた。部活に入っても、あいかわらず男子は私をさける。
中学2年。だいぶなれてきて、私をさける人は大体わかっていたから、私からもさけるようにしていた。
中学3年。部活の男子もさけるのをやめたみたいで、引退するまで、とても楽しく、ワキアイアイという感じだった。最後の大会で3位に入賞できたのもうれしかった。イヤなことがあっても、毎日出て来てよかったなあと思った。
高校入学。クラスが女子ばかりだったのもよかった。高校生ともなれば、みんな大人なんだな、と思った。時々、中学の同級生とも会うが、今では気軽に、バイバーイなどと言っている。
高校で本当の友達もできた。それは◯◯さん。なんでも話せるし、いろんな相談にものってくれる。すこし私のわがままがひどいが、◯◯さんは心広い人だから、ついつい甘えている。
小学校、中学校と、イヤな思い出が多かったが、今ではそのことを、こうして、人にも話せるようになったのだから、すこし大人に近づいたのかなあ、とも思う。
もっともっと自分をみがいて、どこへ出ても恥ずかしくない、本当の大人になりたい。
自己分析 その7
私も小さい頃は、やはり、皆と同じように、かくれんぼや鬼ごっこなど、一通りのの遊びは、飽きる程やった。その頃は何をするにも一生懸命で、かくれんぼでかくれている時なんか、本当、ドキドキしていた。ちょっとしたことで笑ったり、泣いたり、こどもなりに掟のようなものを作って、結構、それを重んじたりもしていた。その頃とくらべて、今の私は、さほど変わっていないと思う。同じ年頃の女の子たちは、そんな遊びを「子供じみてる」とか、「恥ずかしい」とか思っているだろう。私にもすくなからず、そういう気持ちはあるが、子供の時に、何もかも忘れて無心に遊んだ遊び心を、ずっと大切にしたいという気持ちも強い。この時代、心から夢中になって遊んだりする大人は少ないと思う。そんな世の中は、機械じみて大キライなので、自分だけは、その冷めた社会に染まりたくないと思う。感動できない人間なんて、ただのロボットじゃないか。
こんな私になったのは、小さい頃から、一番身近にいた動物たちの影響が大きいと思う。小学生の時は、獣医になろうとか、ムツゴロウさんの所へ行こうとか、本気で思っていた。七夕の短冊に、そんなことを書いた記憶がある。特に、ムツさんのことは、「ゆかいクラブ」にも入ろうと、入会案内を取り寄せた程だった。ほとんど家にいなかった親よりも、一番身近にいた動物たちの方が、私には印象深いのだ。
子供の頃は、ホント、いろんな夢を見ていたなあ。その一つがマンガ家になることだった。昔っから絵が好きで、ヒマさえあれば、何か描いていた。今は、絵を描くことが、商売まがいになってきた。自費出版で本をつくったり、ボードを描いたりすると、売れることもあるのだ。もっとも、アイデア次第だから、実際は大した売り上げには、なっていないのだけれどもね。作品を売りに出すのは極道だと思いつつ、買ってくれた人とのコミュニケーションがうれしくて、ついつい、ヘタながら、また売りに出す。そのおかげで、いろんな人と話すこともできたし、友人もふえた。何もしていなかったら、絶対会えなかった人たちと、こうして会えたのが、本当にうれしい。オバチャンになっても、ずーっと続けて行きたい。
そういえば、この間も、福富郵便局のお姉ちゃんが、同人をしっているというので、お友達になってしまった。そして、何度か話した程度だったのに、この間 東京に行ってきたと言って、高そうな本とクッキーをおみやげにくれた。ああ、感涙! 大したことしてないのに、こんなバカな子にまで気を使って頂いてっ! お返しはどうしよう、今、考えている最中だ。
絵を描くのにも、何をするにも、まず資金というモンが必要だ。Bzという歌手の歌のなかにも、「先立つ物がないと夢みるベッドも没収されるぅー」という言葉がある。さすがは稲葉浩志だ。元、数学教師だっただけはある。
私の趣味もお金がかかるんで、バイトをすることにした。高1の夏だった。まずはコネで寿屋のレストラン。最初の1週間は死ぬ程だったけど、慣れれば結構おもしろい。厨房に入って、簡単な作業もさせられた。おにぎりを作らされた時も、プラスチックの容器に飯の詰め方がわからず、変な詰め方をして、チーフに大笑いされたりした。時には、鳥の皮をむきながら(イヤイヤだった)、チーフの人生相談も請け負った。(大笑いだよね)
この文で、結局何が言いたいのか、自分にもよくわからなくなった。「自己をみつめる」というよりも、ただ、過去を振りかえっただけのような気がする。こんな作文でも、先生は、多少でも点をくれると思うので、とりあえず、提出する。
自己分析 その8
今現在の私の性格は、弱虫、泣き虫である。しかし、強がりで、泣いている姿は、絶対に人には見せない。なぜこんな性格になってしまったのだろう。
自分で思いだせる範囲では、小学校のころは、すでに、人に涙を見せない子だった。泣いたのは、卒業式の時、1回きりだったと思う。男の子と遊んでも、男の子よりも上に立つというか、男の子よりも自分は強いんだぞという気持ちを持っていた。それが今につながっているのだと思う。
スポーツは何をやっても中の下くらい。
洋裁なんかは、人一倍得意。
保育園に通っているころから、洋裁には興味があった。うちの母親が裁縫が好きで、小さいころ、服を作ってくれたりしていた。私はいつも、そんな母のとなりに座って、見よう見まねでいっしょにやっていた。母がミシンを使えば、使っていないスキをねらって、ちり紙をぬってみたりした。糸を通していないミシンで、ハンカチをぬっては、穴をほいでいたこともある。母が手ぬいをしていれば、そのとなりで、糸を通して、玉結びをしていない針で、自分のスカートをなみぬいして遊んだこともある。あみ物をしている時は、コタツぶとんの上の、毛糸であんだようなコタツカバーに、あみ棒をさしこんで遊んだこともある。おかげで、小学校の時に作ったスモックは、とても先生にほめられさ。2枚の布で何をつくってもいいという自由課題のときは、のれんを作って教室にはりだされ、なつやすみの宿題のエプロンでも、またはり出されるという、なかなかの腕の持ち主になっていた。
中学に入っても、高校に入っても、洋裁好きは少しもかわらず、今でも自分で自分のスカートを作ったり、授業とは関係なく、家で好きな服を作ったりしている。でも、好きな裁縫をしている時でも、負けん気の強さが出てきて、だれよりもはやく、しかもきれいに作ろうという気が起こって、小さなミスはいっさい気にせず、とにかく先にすすむというガサツなところがある。だけど、手を抜くところは、目立たないところだとかで、先生からも、手の抜き方をよく知っとるね、できあがりがきれい、さすが得意な人はちがうねえーなどと言われると、上きげんになってしまう。すきな面でほめられれば、次からもやる気がわいて、そのつどほめられ、先生も私の性格をよく知っているな、などと思う時もある。
しかし、怒りっぽいものだから、ちょっと先生のやり方に気に入らない点があれば、途中でも、作業をやめてしまうという強情なところもあり、自分でも困っている。
小さな頃から、こんな性格になるように育ってきたのだから、しようがないって、あきらめるしかないのかなあ。
自己分析 その9
最近よくアルバムを見るようになった。それも、特に、小学校時代の分だ。私は、小学校を卒業した時、引っ越したので、小学校の友達とはバラバラになった。高校に入って、同じクラスに、小学校の時の友達を見つけた。あの人もこの人も。昔のおもかげがあったので、すぐにわかった。
引っ越す時は、友達に言わなかったので、お風呂の中で、思いっきり泣いた。
中学2年の時、小学校の同窓会が、小学校であった。夏休みで、キャンプみたいな行事だった。体育館の中で寝た。夜中に3人ずつくらいのグループを作って、神社にきもだめしに行った。そのあとも、みんなと話ばっかりして、ほとんど寝なかった。
小学校の頃は、まわりが田んぼばっかりで、遊ぶ所がいっぱいあった。毎日のように、近所の友達と、日が暮れるまで遊んでいた。家の近くに山みたいなのがあって、お弁当を作ってみんなで行って、探検みたいなことをしていたら、ほら穴みたいなのがあってその中で遊んだこともある。
真夏の夜、クワガタがよく集まってくる木に、ハチミツをぬって、次の日の朝、4時か5時頃、そこに行って、クワガタやカブトムシをとったりした。
網とかごを持って、川に、ホタルをとりに行ったこともある。
小学校では、先生とみんなで外に出て、理科の勉強をしたり、全校生徒で芋掘りをして、その芋を焼き芋にして食べたりした。
私は、ほんとうに自然にかこまれて育ったと思う。その頃は、テレビを見たり家の中であそんだりするのはキライだったので、学校から帰るとすぐ、外に出て、みんなと遊びまわっていた。「保母さんになろう」と思い始めたのも、その頃だつたと思う。
6年の時、朝自習の時間に、1年生の教室に勉強を教えに行って、すっごく無邪気で、とってもかわいい1年生を見ていると、このままずーっとこの教室におってもいいなっと思った。
高校に入って、夏休み、冬休みとアルバイトをした。うどん屋さんで、運んだり、オーダーを聞いたりする仕事だった。以前から、あまり人見知りをしなかったので、客商売には向いている方だと、自分でも思っていた。
3年生になって、進学か就職か考える時期になった。保母さんの道を行くか、洋服などの販売の仕事を選ぶか、すごく、迷った。結局は、販売の方の仕事をすることになったけど、よかったと思う。きびしいこともあるだろうが、がんばっていきたい。
小学生の頃の夢は、「夢」のままで、いつまでも、心の中にしまっておこう。
自己分析 その10
私は、小さいころから、みんなにかわいがってもらいました。それはとてもしあわせなことだと思います。そのせいか、人に頼ってしまう所があります。たとえば、提出しないといけないものが、まだできていないと、友達に手伝ってもらったりします。これは、自分の性格の中の悪い部分だと思っています。逆に、よいと思う所は、友達をたくさん作れることです。
小さいころ、私はよくないていたと、だれもが言います。夜は寝なくて、両親はとても大変だったそうです。体も弱く、カゼをひいては、よく病院に行っていました。家の近くに、いとこが住んでいて、同じ年の子と、一つ下の子と3人で、よく遊んでいました。ままごと、かくれんぼ。夏は、ビニールプールに、水着で入り、遊びました。小さい時は、今と違って活発だったので、外で、よく走りまわっていました。
運動会では、かけっこでも、いつも一番になっていました。みんなが見に来てくれるし、お弁当が豪華で、好きなものがたくさんあるし、運動会は楽しみでした。朝早くから目をさまして、花火の合図を聞いていました。
5、6年の担任の先生がとてもきびしくて、時々、行きたくないこともありましたが、がんばって行きました。
中学校では、知らない人ばかりで、不安がいっぱいでした。でも、慣れたら、楽しくなりました。友達ともよくけんかをしていました。今となって考えると、あのころ、私は、わがままだったなあと思います。3年の時には、クラスの男の子とも仲良くなり、授業中とかでも、よく勝手にしゃべっていて、先生におこられたりしました。
2学期になると、高校受験のことを思い出します。ほんとうに行きたい高校はむりみたいでした。そして、この学校を受けることにしました。けれど、やっぱり、最後の最後まで、ものすごくなやみました。母ともけんかをしました。すごく泣いたこともあります。結局、この学校を受けました。
そのおかげで、今の友達にも会えたのだし、よかったなあと思っています。
珍問珍答シリーズ その4 で紹介した3人と、まつたく同じ教室で勉強していた10人です。
生徒の持っている雰囲気が、全然違うところに、お気をとめくだされば、私としては、大変ありがたいと存じます。