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時期尚早


 野球の「押し出し」って知っているかしら……。満塁の時に、フォアボールとかで打者が一塁に行くと、一塁ランナーが二塁へ。二塁ランナーが三塁へ。そして三塁ランナーがホームへ帰り、一点入るってやつ……。


 夕食で調子に乗って食べたエビチリソースが……押し出しで、私はトイレへと駆け込んだ……。

 食べている時は吐き気もせず、とっても甘辛で美味しかったのに、やっぱりお腹には刺激が強すぎたみたい。また下痢をしてしまった……。


「……大丈夫?」

「……ええ。私の代わりにエビチリ食べて」

 仕方なくお粥だけを食べる私の前で、剛雄君は刺身とエビチリを食べて美味しそうに瓶ビールをコップについで飲む。

 私が瓶からコップについであげると、顔を赤くして喜んでくれた。

「お~っとっとッと!」

「やだ、剛雄君、おっさんくさい!」

 匂いではないと言っておきたい。農家の男の人って、みんなこんな感じなのかしら。

 一緒にご飯を食べていて、とても楽しい。なにより、二人とも部屋着でラフな格好をしているから、何も気にせずにご飯を食べられる。

 彼は片膝を立ててご飯を食べている。だから私も真似をする。

 両親とか、マネージャーとか、他に見ている人がいれば、行儀が悪くて絶対にできないわ。


 空のビール瓶が畳に二本転がった時、少し赤い顔をした剛雄君が不意に話し始めた……。

「絵里が着ていたあの白衣って、製薬会社のだろ?」

 逃げるときに着ていたあの白衣が、製薬会社の白衣だと知っていた。それまで笑顔だった私は、どういった表情を見せたらいいか分からなくなった。

剛雄君……なにを知っているの?

「……うん」

「実は俺も昔は、製薬会社の隣で働いていたんだ」

 ――!

 製薬会社の隣って……。いったいどこで働いていたのだろう。――もしかして、地下でクローンの研究をしているのも知っているというの?


「極楽製薬の隣に、製薬会社付属の大きな病院もあるのさ。そこで看護師をしていたんだけど、仕事が合わなくてさあ。去年、辞めたのさ」

「隣の……付属病院?」

「ああ。極楽病院。酷いネーミングだけど、製薬会社以上に大きな建物の病院で、医療費は他の病院よりもだいぶ安いらしい。けど、噂では、入院患者は新薬のモルモットにされているって聞いたこともある」

 ハハハと笑う。本当のところがどうかなのかは分からない。

「地元の学生は殆どが卒業したら極楽病院とかに就職するんだけど、あの会社はブラック企業さ。絵里も仕事がキツくて逃げて来たんだろ?」

 酔った勢いだろうか。いつの間にか絵里と呼び捨てにしている。別に構わないけれど……。

「え、ええ。そうなのよ。実は私……薬剤師で、製薬会社で働いていたんだけど……、毎日毎日、真夜中まで働かされたり、お茶に新薬を混ぜられたりして虐められたり……。もう我慢できなかったから逃げ出してきちゃったの」

 私の嘘を真顔で聞いてくれる彼。ちょっと心苦しい。


 お茶に新薬を混ぜる虐めって……実際にあったらマジで怖すぎる~! 唇から座薬だわ!


「だから、もしよければ暫くの間、私をかくまってくれない?」

「かくまう? ……ああ、別にいいぜ。部屋はいくらでもあるし、屋根裏に隠れていれば、少々家の中に人が入って来たって見つかりっこない。まあ、そもそもこの近くには人っ子一人いないからな」

「助かるわ。ありがとう」

 住んでいるところは何処だとか、連絡先とか、聞かれたくないことを剛雄君が聞いてこないのが嬉しい。


 私には帰るところがない。あるとするなら、あの青白く光った水槽……。あそこが私の住所であり、本籍であり、田舎であり、家なのだろう……。



 最初の日に比べると、剛雄君は優しくなった。

 私のためだけに炊いてくれるお粥は、少しずつ固めになり、ついにご飯を食べても下痢をしなくなった。

 おかずだって、もう普通に食べられる。畑で取れた野菜やしょっぱい漬物は、白いご飯にとても良く合う。お肉やお魚なんて食べなくても人は生きていけるんだわ。


 もちろん私だって彼のために働いた。外に出て畑仕事を手伝うのは無理だけど、大きな家の掃除をしたり、洗濯をしたり、彼が採ってきた野菜を出荷できるように洗ったり、どんなことでも手伝ってあげると、彼は凄く喜んでくれた。


 彼との生活が楽しければ楽しいほど、私の中には引き返せなくなるような不安が膨らみ続けた……。


 彼にはきっと、迷惑をかけてしまう……。少し目を伏せてしまう。


 クローンだけど、私が死んだら彼だけは涙を流してくれると思うと、切なくて鼻の奥から喉にかけて、ツンとワサビの匂いを嗅いだ時のような痛みが走った……。




 ……見ても、なにがなんだか分からない白黒のレントゲン写真を手に、白衣を着た男が怒りを露わにする。

『――どうしてもっと早く病院に来なかったのかね!』

 怒られるとは思っていたが、声が大き過ぎるわ。


 ああ、私、また夢を見ているのね……。


『私の体のことは、私が一番よく知っているわ――』

『そ~れ~は~、「我慢してまで長生きするくらいなら、好きな物を食べて煙草も吸って早死にした方がマシだ」と我儘を言って、看病や入院費で迷惑する家族のことをまったく考えとらん「おっさん」が言うセリフだ! 悔しかったら自分のレントゲン写真でも自撮りしてみろ!』


 ――おっさん呼ばわりされて怒られてしまった。


『しばらく……仕事は全てキャンセルしなさい。入院と手術が必要だ』

『――駄目よ! いま、私にとって、人生で一番大事な時なのよ!』

『その言葉、そっくりそのまま言い返してやる!』

 クッソ~。

 上から目線のドクターめ、腹が立つわ。

『もう一度だけ言う。今、入院して手術をしなければ、確実に君は死んでしまう。仕事がどうこう言っている余裕はない――』

 ……クッソ~。

『――ぼうっと突っ立ってないで、何か言ってやってよ! あなた、私のクローンなんでしょ!』

 私がそう言って、横で立っていた私の方を見た。

 ――え!

『クローンの君からも言ってくれ、早く手術してくれって――。早く私の内臓の移植手術をしてくださいと言ってくれ――。じゃないと、手遅れになるんだ――』


 ――手遅れになる……。


『っていうか、今、どこにいるの? 何してるわけ? 彼氏とデート? クローンが?』

 ギュッと唇を噛んだ――。

『はあ~。使えないなあ。なんのために作られたと思ってんだ。元が元ならクローンもクローンだ』

『なんですって~!』

 ギューっとドクターの首を絞める私じゃない私。

『クルヒ~、冗談だって、冗談だって』

『なんだ、冗談か、あ~ハッハッハ!』

『あ~ハッハッハ!』

『あ~ハッ、……なんで、あなたは笑わないのよ』


 ――え!


 いや、この前は笑っていたら、「寝言で笑っていた」って剛雄君に言われたから、恥ずかしくて……。


 ――って、いうか、笑っている場合じゃないでしょ……。


『笑っている場合じゃないわよ――! 分かっているのならコソコソ隠れてラブラブしてるんじゃないわよ!』

『そうとも! 君の身体は、君一人のものじゃないんだぞ!』

 ―――ええ~!

 ……あ~ハッハッハ?

『『笑うな―!』』



 ――ビクッとして目が覚めた! 

「ハア、ハア、ハア、ハア……」

 顎から汗が流れ落ちた。


「大丈夫か絵里」

 急に起きて激しい呼吸をする私に驚き、剛雄君が布団の横まで近づいてきてくれる。

「こ、怖い。私、自分が怖い――」

 そっと彼に抱きつくと、彼は私の背中に腕をそっと回し、

「大丈夫だよ。ちょっと面白い夢を見ていただけだろ」


「……面白い夢?」


「また寝言で大笑いしていたよ。ビックリしたけど、大丈夫だから」

 ポンポンと背中を二回叩かれた。

 

 私の涙目は……笑った後の涙目にしか見えなかった……。


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