青いタイル張りのお風呂
青色のタイル張りのお風呂に半分ほどお湯が溜められていた。普段はあまりお湯を溜めて使っていないのだろう、天井の隅には蜘蛛の巣が張っている。
模様の入ったすりガラスの外には、ヤモリが張り付いている。
シャーピチャピチャ……。
そっとシャワーの蛇口を捻ると、冷たい水が出てくる。待てど暮らせど一向にお湯になる気配がない。
「シャワーじゃなくて風呂の湯を使ってくれ。普段からそんなに電気温水器にお湯を溜めていないんだ」
扉の向こうから彼の声がすると、驚いて思わず胸元を隠してしまう。お風呂の扉に鍵らしいものが見当たらない。
「……わ、わかったわ。ありがとう」
覗かれるかと思ってドキッとした。早くあっちに行ってほしい。
「ゲロリン」と書かれたプラスチックの黄色い洗面器に、そっと風呂の湯をすくって泥で汚れた身体にかける。……想像通りだけど、ぬるいわ。冷えた体でぬるく感じるんだから、体温より少し温かい程度なのかもしれない。
それでも水を浴びるよりはよほどマシだ。昨日からの体の汚れを丁寧に洗い流し、湯船に浸かった。
……ああ、心地いい。
熱すぎないお湯は、まるで水槽の中に浸かっていた時と同じようで、不思議に落ち着いてしまう。
気を張り続け、怯えて逃げまどっていた時の疲れが抜けていくと、少し眠ってしまった……。
「……おい、――おいって!」
私を呼ぶ声が聞こえる……。幻聴かしら……。それとも、夢からやっと目覚めるの?
――!
「え? って、キャア―!」
目を開けると、扉を開けて彼が入って来ていて、私の肩を掴み揺らしていたのだ――!
「やめて、いや! だ、誰か助けて! 殺さないで!」
「騒ぐなって、とりあえず落ち着け! 風呂で寝ると死ぬぞ!」
「ええー?」
――そんなわけあるか~い!
私はずっと水槽の中で育ってきたんだから! 超ムカつくう~!
「出ていって!」
バシャ!
風呂のお湯を顔にかけてやった。何回も。
バシャ! バシャバシャ! バシャバシャバシャー!
早く出てけー!
「――心配して損したぜ。俺の家だぞ……」
チッと舌打ちして、彼は風呂の扉をバタンと閉めて出て行った。
全部……見られた。
恥ずかしいところまで、全部、見られてしまったんだわ……。
お風呂を上がると、置いてあった大きな白いバスタオルを体に巻いた。着替えなんてものが……置いてあるわけがない。農家の一軒家で一人暮らしをしている男の人が……女性ものの着替えを持っているハズがない……。
「あの……」
風呂場の扉から顔だけを少し見せて言う。
「なに?」
ちょっと怒っている。
「……さっきはごめんなさい。急に驚いてしまって……」
よくよく考えれば私が悪かったのだ。彼の怒りを買い、寒い荒野で野宿をするわけにもいかない。
「何か、着る物を貸りていいかしら」
白いバスタオルだけを巻く私の姿を一目見ると、彼は慌てた。
「あ、そうか。ゴメン、ちょっと待ってて」
玄関のすぐ横にある台所で料理をしていた彼は、急に顔を赤くし、襖を開けっ放しにして奥の部屋へ着替えを取りに行ってくれた。
ランニングシャツと襟の付いたワイシャツは、いずれも白色。彼が部屋着に使っている紺色のジャージ。それらを受け取ると、またお風呂の扉を閉めた。
「この部屋の隣の座敷を自由に使ってくれたらいいから」
「ありがとう……」
大きな家は、部屋の間取りも大きい。敷き詰められた畳からは独特の心落ち着く香りがする。
大勢の人が入れそうな座敷には立派な仏壇があり、オレンジ色の薄暗いローソクの形をした電球が二つ点灯していた。そこには「御仏前」と書かれた封筒がいくつも置いてあったのを、私は見逃さなかった。
「ご飯、できているから、こっちの茶の間においで」
襖の向こうから彼の声が聞こえ、慌てて仏壇から目を離す。
「はーい」
なんだろう。お風呂を上がってから急に彼が優しくなったように感じる。軽トラの後ろに載せられたときは、まるで荷物のような扱いだったというのに。
台所と座敷との間にある茶の間には四角い座卓が置いてあり、箸立てには何本も同じ箸が立っていた。
小さな土鍋にお粥を炊いてくれていたのが泣けるほど嬉しい……。
ふーふー、よく冷まして少しずつ口へと運ぶ。あちっ!
お粥は食べても吐き気をもよおさず、お腹も痛くならなかった。……昼間はずっと緊張していたから、体が食べ物を受け付けなかっただけなのかもしれない。
もう、拾い食いなんてしない――。心に誓うわ――。
「このお粥、凄く美味しいわ」
体が食べることを要求している――。柔らかくトロトロになるまで炊かれたお粥を食べた直後から体が温まってくる。
「お、嬉しいこと言ってくれるぜ。この辺りの自慢は、美味い水と米くらいのもんだからな」
ハハっと白い歯を見せて笑う彼につられ、私も笑顔になってしまう。
「俺は葉山剛雄、君の名は?」
「え? 私は……絵里……。橋爪絵里――」
――しまった! 嘘をつくつもりが、咄嗟に聞かれて本名を答えてしまった。
私の本名は、橋爪絵里だったんだ――。
「ふーん、絵里……ちゃんか。歳はいくつなの? 俺は二十五だけど」
――私の歳!
思い出そうとするが、自分の歳がどうしても思い出せない――。
1982年生まれっていうのは覚えている。昼間に拾ったパンの賞味期限が2018年だったから、計算すると……。
――えっ、私って三十六歳なの!
頬から冷や汗が流れるのを、彼は不思議そうな顔で見守る……。
そんなはずない――。鏡で見た私の顔は、どう見ても二十代前半だった! 二十代前半の頃の私だったわ!
――そうか、私はクローンだからオリジナルの生年月日と年齢差があるんだ――!
オリジナルは今、三十六歳。いったい何歳の時に私を作り始めたのだろう――?
「……どうしたの? 若年性認知症?」
――はう!
「ち、違うわよ! 私は……」
ごくりと唾を飲み込む。
「私も二十五歳よ。もちろん……独身」
それだけ言い切ると、自分に「うん」と頷いてまたお粥を食べた。
独身というのを強調し、少しでも話題を逸らしたかった。私は二十五歳よ。今日からそう言おう。
「じゃあ同い年か。なら気を遣うことないな」
「そ、そうね」
お世話になっている私は気を遣うべきなんだろうけれど、あまり自分の話はしたくない。
無言でお粥を食べる私に、それ以上彼は質問をしてこなかった。
タンスの奥にしまわれていた来客用の布団からは、独特の湿った匂いがした。
お布団で寝るのって、いつぶりだろうか……。
……初めてだわ。
今までは水槽の中で浮かびながら、起きたり眠ったりを繰り返していた。
「気味が悪かったら仏壇の扉は閉めてくれていいから」
座敷の中央に布団を敷きながらそう言ってくれる。
「ありがとう」
仏壇の横には白黒の写真が置いてある。剛雄君の……お父さんではない。九十代くらいの祖父の写真だろうか。
「……お爺さん?」
「ああ。唯一の身内だった……。去年肺炎で死んだのさ、もうじき一年になる……」
彼が寂しそうな顔を見せる。私よりもずっと苦労しているのかもしれない。
クローンを作ってまで生きていこうとしている私のオリジナルは、どれほど裕福な生活を送っているのだろうか……。南の島で写真撮影された時の記憶……私もその裕福だった記憶を共有している……。
「家と畑を残してくれたから、なんとかやっていけるんだ」
「……そうなの」
胸の辺りがきゅんと苦しくなた。初めての経験だ。
「じゃあ、おやすみ。明日はゆっくりしていたらいいから」
「色々とありがとう、剛雄……くん」
静かに座敷の襖を閉め、自分の部屋がある二階へと階段を上がっていった。
電気を消すと、仏壇の豆電球だけが薄暗く光り続けている。彼の祖父の写真も、仏壇の明かりも、気味が悪いどころか、むしろ私を守ってくれるような優しさを感じた。
目を閉じると、一瞬で深い眠りについた――。




