裏切り
目の前は真っ黒で、ポツンと座った私だけがしゃがんでまだ泣いていた……。
『クスン……クスン』
すすり泣く声だけが静かな空間に響き渡る。
夢の中で酷いことを言ってしまったこと。
せっかくのチャンスを失敗して捕まってしまったこと。
剛雄君を……私なんかのために死なせてしまったこと。
私はやっぱりクローンだから、幸せになれないこと……。素直に謝りたかった。
『……ごめん……なさい』
『……いいのよ。どうせ私は過去の女なんだから――』
素直じゃない……。
オリジナル……私と同じ
『こんなことになるのなら、私の体を部品取りに使って、オリジナルのあなたが生きていけたら良かったわ』
『うそつけ。そんな気持ちコレっぽっちもないくせに』
急に振り向いて、親指と人差し指でコレっぽっちを見せるのだが、
親指と人差し指がくっついているのがハラ立つ!
そもそも、涙なんて流れていない――! 途中から、嘘泣きに変わっていた~!
『あなたは人に作られたクローン。だから人に嫉妬する気持ちは永遠に消えやしない。ずっと私を恨み続けて生き続けるがいいわ!』
『オリジナルなんて、死んでしまえ~って?』
『そうよ! っていうか、もう死んでるし~って』
クスクスと笑うオリジナル。
オリジナルの本性なんて分からない。私とオリジナルは――まったく違う。
『あーあ。私だって本当はクローンさえ作れば自分が長生きできると思っていたわよ。いつまでも女優としてテレビでも活躍できると信じていた。でも、クローンを犠牲にして復活した女優なんてことが知れたら、誰も見向きもしてくれないわ』
『ラム……』
『あなたはクローン。人がクローンを犠牲にして生き続けたいように、クローンのあなたは人を犠牲にしてでも生き続けなさい。
これが私からの最期のお願い……ネバー
――目覚めてしまった。
……ネバー……って、そのあと何を言おうとしていたのだろう……。納豆や山芋の……粘り? 凄く気になるのに、スーっと記憶から消えていく……。
……ここは、病室?
水槽はないが、白い部屋に窓がないここは――。
地下の研究室だわ――。
ベッドに寝かされていた私の目の前には、二度と見たくなかった男と女が白衣を着て立っている――。咄嗟に起き上がって逃げようとしたが、身体が鉛のように重くて動かせない。
――ベッドに拘束されているわけでもないのに、身体が自由に動かない!
こんな状態では、ここからはもう逃げ出せない――。
それを知ってか、目の前の二人は、なにも警戒していない。もう、逃げる気力も、逃げる意味さえも失ってしまった……。そして生きる気力さえも……。
「ヒトクローンの研究は国のトップシークレットだ。世間やマスコミには絶対に知られてはいけない」
白衣を着た男は、目覚めるのを待っていたのだろうか。折り畳み椅子に座り、手に持っていた紙コップのコーヒーを一口すする。
その横では同じようにあの女が紙コップのコーヒーを口にする。ここでも二人の距離はくっつくぐらいに近いのが癇に障る。
「ただ、生まれてきた君には何の罪もない。いわば被害者だ」
生まれてきた私が……被害者ですって!
ギュッと唇を噛む。……自分ではそう思っていても、この男にだけは言われたくなかった。
「だから、人として普通の生活が送れるよう、これからは我々が協力していく。――ただし、秘密を一切話さないのが最低限の条件だ」
男は椅子から立ち上がり、真剣な顔をする――。
「いいか、これはフリじゃないぞ。言うなよ、言うなよ! って言っているんだぞ。お笑い芸人の「押すなよ、絶対押すなよ」とはわけが違うぞ」
「……分かっているわ、そんなことくらい!」
法に触れるヒトクローンの研究を国のトップシークレットと言った。そのことを喋ればどうなるかくらい、容易に想像できる。
喋らなければ殺しはしない……か。でも、彼は戻らない……。
私が発信機を壊し日本から逃げようとしなければ、剛雄君は殺される必要なんてなかった――。
この国の国家機密は、命を犠牲にしてまで守らなくてはいけないものなの――!
悔しくて、悲しくて、そして自分の存在が――恨めしい。
顔を手で覆って涙を流した。こいつらの前で、涙なんか絶対に見せたくなかったのに――。
「まったく、手間ばかりかけさせやがって……。入っていいぞ」
ガチャ――。
部屋の厳重そうなロックが解除され、そこに入って来たのは――剛雄君だった。
――ええ!
「どうしてえ?」
「どうしてえって? ……俺も昔、製薬会社で働いていたって言わなかったっけ?」
涙目が急に恥ずかしくなり、顔に血がカ~っと上がり赤くなる~。
「もしかして……、ずっと、ず~っと騙していたの?」
剛雄君が、私をずっと騙していたというの……?
「騙していたわけじゃないんだ。「研究室から女性のクローンが逃げ出したから、しばらく保護してやってくれ。チューまでなら許す」……と昔のつてで頼まれて、断りきれなかっただけさ」
両手の掌を軽く見せて、とぼけた顔を見せる。
「クローンのあなたが生きがいを失くさないよう、剛雄は一芝居うったわけよ。てっきり気付いていると思っていたのに、鈍い子ね」
初めて女が口を開いた。少しバカにするような口調……。
――いつまでも甘えてるんじゃないわよ――と聞こえた。
その気になれば、剛雄君はいつだって私を捕まえて、研究室へ引き戻すことができたはずなんだわ……。
「でも、だったらわざわざ逃げ回らなくても、剛雄君が私を止めることができたんじゃないの?」
首筋にビリビリってさせて……。
白衣の男が答えた。
「ああそうだ。だが、君にこれ以上恐怖を与えたくなかった。君は我々に不信感を覚えている。そこへ剛雄までもが君に嫌われたら、何も信じられなくなる可能性があった」
「酷いわ……。最初から騙していたくせに」
「俺は俺なりに必死だったんだ。……元女優を騙す俺の演技力も、少しは評価してほしいな。それと……」
剛雄君がそっとベッドに座る私に近づく。
「しばらく保護っていうのは、これから先、何十年でも構わない」
微笑んで頬に軽くキスしてくれた……。
――酷い。涙が出てしまうじゃない……。
「しかし、まさか記憶の移行があれほどの短時間で行われるとは思ってもいなかった」
「記憶の移行?」
――そうだわ、私には昔の記憶があった。培養液で作られるクローンには、記憶なんかがあるはずがないのに。
「……転生したのかと思ったけれど、私には紛れもない私自身の記憶があった」
「転生なんて馬鹿げたことがあるものか。……君が培養液の中で作られて五年経った時、一度だけオリジナルが一緒に水槽に入りたいと言い出したんだ」
「一緒に水槽に入るですって?」
何を好き好んで培養液なんかに入ったのよ――。
――脳の研究は別の研究所で進められている。まだまだ人間の脳の未知なる部分は解明されていないのだが、未使用の大部分は、自分や他人の記憶を書き込む為にあると研究もされている――。
「そんな馬鹿な……。人の記憶が移るはずがないわ」
「それは、すでに脳内に記憶がある場合に限るんじゃないか。つまり、作られたクローンの脳には記憶がない。そこへ記憶を書き移したい人間が接近すると、その記憶を瞬時に吸収する現象が起こるって仕組みだ」
「どうやって?」
剛雄君が呆れたように訪ねる。
「微弱な脳波だ。培養液を微弱な脳波が共振させ、瞬時に記憶を新しい脳へと移行させる」
「そんなこと……できるはずないわ」
バカバカしい。パソコンのデーターでさえケーブルを繋いで時間をかけないとできないというのに……。
「当初は我々もそう思っていたさ。だが、現にできている」
私を指ささないでよ。腹立つわ~!
「「なるほど」」
納得するなっつーの!
「君のオリジナルがどこでそんな文献を読んだのか分からないが、培養液の中で小さな君をずっと抱きしめていた光景は、今でも忘れられない」
……オリジナルの私が……私を……抱きしめた?
「脳の神秘なる能力。脳力とでも言うのかな。ひょっとすると人間の脳は人間が進化する過程でクローンを作ることをすでに想定しているのかもしれない。その時のために、あえて脳内に使わない空きスペースを確保しているのかもしれないな。まあ、これは私の専門じゃないがね」
やれやれといった顔で男は残りのコーヒーを飲み干した。
「じゃあ、なぜ私は全てを知らなかったのよ。オリジナルが私を作った理由、あなたたちと話した記憶、契約したときのこと、肝心なことなのに私は覚えていなかったわ」
「え?」
この人達の名前も、病院や製薬会社の名前も、病気での闘病生活についても、何も覚えていない――。
思い出せない――。オリジナルの苦しかった記憶。悲しかった記憶が――。
――楽しく輝いていた時の記憶しか、私には残されていない――。
「それは分からないなあ……。分からないが、オリジナルの方がすでに忘れてしまっていたのかもしれない」
「……そんな」
そんな都合のいい話ってあるかしら。忘れてしまいたいことだけを記憶から抹消するなんて……できない。できるわけがない。都合が良すぎる――。
「それか、辛い思い出は小さかった君には伝えたくないと強く暗示をかけていたか……」
「暗示……」
伝えたくないこと……。消し去りたい過去の記憶……。
「君にクローンとして辛い思いをさせたくなかったのかもしれない」
――。
テープレコーダーに残された言葉……今になって胸が苦しくなってしまう。
「オリジナルとの記憶が我々の計算を大きく狂わせた。それと、まさかオリジナルの君が我々に隠れてコンタクトを取ろうとしていたとは。完全に一本取られたさ」
「……オリジナルからのメッセージがなければ、私は本当に死んでしまおうと思っていた。生きていてはいけないと思っていた」
「クローンだって生きる権利はある」
涙が止まらなかった……。泣きながら頷いた。
――みんなが私のために、一生懸命になってくれていたんだ。
こんなに愛されていたんだ――。




