プロローグ
ピン、と張りつめたような、冷たく澄んだ朝の空気。
弱々しい冬の太陽が街の向こうから顔を出し、山のように積もったゴミの山をキラキラと照らし出していた。
むき出しの白い手は氷のように冷え、辺りを探る指先の感覚すらもぼやけている。
大きく開けた瞳に陽の光を浴びせながら、彼女はゆっくりと体を起こした。
責め立てるように襲い来る冷気も、頬を撫でる強い風も。
彼女にとっては、その身に感じる全てのものが懐かしい。
煤と埃にまみれた白衣を脱ぎ落とすと、慣れない寒さが一段と身に染みた。
のろのろと、緩慢な動作で彼女は立ち上がり、足元に転がる春色の鞄を静かに持ち上げる。
見渡す限りのゴミ山の向こうから響く、鉄くずを拾う少年たちの声。
少しずつ近づく彼らの気配から逃れるように、彼女は素早く地面に降り立った。
――帰って来た。
その唇から洩れた呟きは、誰の耳にも届かない。
彼女はそこを去る前に一度だけ、後ろを――自分がもと来た方向を、振り返った。
*
西暦2030年、中東某国において、政府軍と反政府軍による大規模な内戦が勃発。当初、欧米諸国を中心とした国際連合軍の介入によって早急に収束するものと考えられていたそれは、わずか数ヶ月で近隣諸国へと戦火を拡大させた。
戦闘が泥沼と化す中、両軍およびそれらを陰で操る支援者たちが展開したプロパガンダは、やがて世界規模の宗教的・人種的な対立を浮き彫りにしていった。
世界各地で頻発したテロリズムは人々を恐怖と混乱の最中へと突き落とし、報復としての軍事攻撃の数々がいくつもの都市を破壊。世界に難民があふれ、暗黒時代の訪れを誰もが予感していたにも関わらず、一度廻り始めた歯車は止まることを知らなかった。
2031年、複数の大国間で開戦が宣言され、第三次世界大戦が勃発。戦火は瞬く間に全世界を覆いつくし、数年の後には大量破壊兵器や非人道的兵器の応酬が無防備な一般市民に牙をむく“正義なき聖戦”に成り果てた。
2038年、南半球の某都市に、最後の核弾頭ミサイルが着弾。周辺諸国までも巻き込んで甚大な被害をもたらしたそれが、人類史上最悪の戦争に終止符を打った。
その時点で、戦争に参加しなかったごく一部の小国群を除き、大半の地域で『国家』という体制が崩壊。戦火による直接的な死者、インフラの破壊や深刻な食糧不足、疫病、非人道的兵器の使用による後遺症などを理由とする死者の数は、実に世界人口の80%にも相当した。
誰もが誰かを失い、大国が次々と崩壊していった大戦の終盤。かろうじて組織の体を留めていたのは、各国の裏で糸を引いていた“死の商人”――つまり、戦争による益をもっとも享受できる立場にあった軍需企業に限られていた。
かろうじて命を繋いだ人々は、それらの企業に国家の形を求め、瓦礫と焦土に覆われた世界で新たな歴史を紡ぎ始める。
終戦と時を同じくして、各国企業は深刻な大気汚染から自身と人々を護るため、巨大ドーム型都市【首都】を建設。日本では終戦直後の2038年、五大企業と呼ばれる軍需企業連合により、関東某所に同様の都市が築かれた。
特殊な合金の外壁と透明なドーム型天井に覆われ、核攻撃にも一度は耐え得る強度と閉鎖性を誇る【首都】への移住は、戦後の劣悪な環境に生きる人々にとっての希望に他ならない。しかし、いずれの国の【首都】を例に挙げても、生き延びた全ての人々を収容するに足る広さと自給力を持ち合わせてはいなかった。
安全性と快適性が約束された【首都】への移住を拒まれた者たちは、いつしかその側に身を寄せ合い、巨大なスラム街を形成した。国土の狭い日本においては、全人口の90%が【首都】とその周辺に流入し、戦前の国家機能と呼ばれるものがその一地域にしか存在しない状態と成り果てた。
人口が増えるにつれ、スラムの治安は悪化。あらゆる犯罪が横行し、汚染と医療の不足も相俟って、人々の平均寿命は40歳以下まで下落した。【首都】で生産される安全な食糧や医薬品の価格は高騰し、豊かさとは無縁の暮らしを送るスラムの住民には行き渡らない。五大企業がスラムの住民を安価な賃金で雇う“労働力の搾取”も当然のように行われ、スラムと【首都】の関係は次第に悪化。
2053年、スラムでは体制に反発するゲリラ組織が暗躍し、五大企業の首都外施設や輸送車両を狙った襲撃事件が頻発していた。