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真夜中だった。

なぜか眠りにつけなくて、何度も寝返りを打ったけれど効果があるわけでもなく、鬱々とする気分を変えたかった。だから、おもむろに起き出して、水でも飲もうかと自室から出た。

明の部屋は隣だ。

今日も母親は明の為にお膳に夕食を並べていた。部屋から出られない息子の為に、そうやってご飯を用意して部屋の前に置いておくのだ。

そうしていれば、いつの間にか空になった茶碗と入れ替わっている。

昔は扉の外から声を掛ければ返事があったけれど、最近は、「うん」しか言わない。

聞いているのかいないのか、何を問うても答えは「うん」だ。

全員が留守にしているときは時々、お風呂にも入っているようだけれど。

それもはっきりとした形跡が残されているわけではないので確信が持てない。

部屋から出られないのに浴室まで行けるのだろうかと考える。

それとももしかしたら、他人がそこにいるから出られないだけであって、誰もいなければ自由に出入りしているのかもしれないとも思う。


そんなことをつらつら考えながら廊下に出た。


「その日はなぜか、明の部屋の扉が開いてたんだ」


胸の辺りを誰かが拳で殴ったみたいに、心臓が「どん」と大きな音をたてた。

その衝撃を今でも覚えているのは、それまでもその後も、あれほどの衝撃を受けたことがないからだ。

章吾はそう言って、離していた右手を私の手に重ねた。

指先が温度を失っている。

緊張しているのだろうか。


「音をたてたらいけないと思った。見つかったら、明はこの扉を閉めてしまうだろうって思った。空気の入れ替えでもしてるのかもしれない。そうだよな、密室はやっぱり、どんな人間でも息苦しいに決まってる。……そんな馬鹿なことを考えてた」


そっと覗き込んだ室内には誰もいなかった。

その代わりに、いつもは閉まっている部屋の奥のカーテンが開いていた。

大きく開け放たれた窓と、ゆらりと揺れるカーテンが見える。その向こう側に人影があった。

目を凝らせば、暗闇の中、ベランダから身を乗り出した兄がいた……と、章吾は一つ息をつく。


「……結衣も、何か飲まない?喉、からから」

「うん」


再び店員さんを呼びつける。そのとき、店内のお客さんがだいぶ数を減らしていることに気付いた。

時計を見れば既に、昼時のピークを過ぎている。そろそろ三時の休憩でも、という時刻だ。


「見たのはほんの一瞬だよ。俺は明の後ろ姿をただ見つめてた。何をしてたのか、何をしようとしてたのか分からなかったから」


危ないとは思わなかった。

そもそも、相当に上半身を傾けなければその向こう側に落ちることはない。

手すりの高さは、真っ直ぐに立って胸の位置にくるくらいだ。背伸びをしたところで……足を滑らせたとしても落ちたりはしない。

何をしているのか観察しようと思った。

両親や自分のいないときに、兄が何をしているのか知る良い機会だとも思えた。

それが、全ての過ちだなんて気付きもせずに。


「結衣は、悪夢とか見る?」

「……悪夢?」

「うん」


注文を聞きにきた店員にオレンジジュースを二つ頼んで、章吾は掴んでいる私の指を弄ぶ。

「バカップルだと思われたかな?」

ふふ、と笑うその姿は、どこか大人びて見えた。


「……本当の悪夢はさ、目が覚めたら終わりじゃない」

「……」

「目が覚めて終わるのは、ただの夢だよ」


俺は、あの日の夢を見る。

声を掛ける間もなかった?―――――いや、違う。時間なら充分にあった。

想像していたよりもずっと、大きな背中をした明が手すりを乗り越えるのを見ていたのだ。

記憶にあるのは、小学生のときの兄だ。だけど、その夜見かけた背中は、確かに思春期を迎えた少年のものだった。


一瞬、兄ではない別人が、そこにいるのかと思った。


しかし、兄以外の人間がここにいるはずはないと思いなおす。

その背中が、手すりを乗り越えようとしていた。

そこまで見ていても、何をしようとしているのか理解できない。

手すりに両手をかけて体を持ち上げ、足を上げて、乗り上げた。その一挙手一投足を覚えている。

そのときに声を掛ければよかったのかもしれない。だけど、何て言えばいいのか分からなかった。

お兄ちゃん、と呼んでいたのは遥か昔のことで、だからといって名前を呼び捨てにするのも気が引けた。

だって俺は、弟だから。

兄貴って呼ぶのも気恥ずかしい気がする。生意気言うなって顔を顰めるかもしれない。


「手すりの向こう側に立った明を見て、そのときようやく、何が起こっているのか分かった」


今度こそ、その名を呼ぼうと口を開く。

だけど、急に呼びかけて驚かせてしまったら?その弾みで落ちてしまうんじゃないか。

それに、呼び止めたとして、何と続ければいい?

危ないとか、何してるんだとか、やめろとか、そんなありきたりな言葉ではダメだと思った。

そんなに簡単に引きとめられるはずがない。


「だから俺は、ひたすらに言葉を選んでた。一番初めに何を口にするか」


迷って迷って、迷って。

結局、一言も出てこなかった。


「明はさ、確かに一瞬、こっちを見たんだ」


そして「あ」と思ったときには、その姿が消えていた。

跳躍するみたいに屈伸して、体を支えていた腕を一度折り曲げてから手すりを放したのだ。

その後のことはよく覚えていない。ただ、両親の眠っている部屋へ行って「明が」と口にした。

自分の兄を目の前にしたときには一言も声が出なかったのに、そのときは、すべり落ちるように言葉が零れた。


『明が、落ちた』


寝ぼけていた様子の母親が短く叫ぶ声を聞いた。飛び起きた父親が通り道に居た自分を押して、明の様子を確認する為に階段を登る音を聞いていた。

それから、救急車か警察かよく分からないけれどサイレンの音が聞こえて。

そして、


「―――――明は一人で、ベランダから落ちたことになってた」


それは決して間違いじゃない。実際、今の話からすると明くんは一人で、自ら、飛び降りたのだから。

「俺は何も説明していないのに、部屋に居たことになってて。明は、いつの間にか転落していたことになってた」

警察からも当然、事情を聞かれた。

けれど、あくまでも、章吾はずっと自分の部屋に居たという前提での聴取だったという。

おじさんとおばさんが、事前に説明していたのだろう。

それも理解できなくはない。

当時の章吾はまだ小学生だ。明くんが転落したのは真夜中で、普通であれば熟睡している時間でもある。

物音に気付いた両親が、明くんの転落に気付いたのだと、そういう話で決着がついたらしかった。


「このオレンジ、ちょっと酸っぱいな」


飲み物とケーキだけで長々と居座る高校生に嫌な顔一つせず、ジュースを二つ運んできた店員が「どうぞ、ごゆっくり」といつもと同じ定型文を口にして去って行く。

早々にオレンジジュースを口に含んだ章吾が眉を潜める。

「100パーセントなんじゃない?」と返事をしながら、自分の分を手にとった。

ぴったりとくっついていた両手が離れて、少し寂しい気もする。

だけど、このタイミングでなければ一生、章吾の手を離せなくなる気がした。

きっと、章吾も同じだろう。


―――――あの日のことは私も覚えている。

私たちが住んでいる場所は、メゾネットタイプのマンションが何棟か隣接しているところだ。

つまり、サイレンの音でほとんどの住人が目を覚ました。かくゆう私もその一人である。

翌日には、章吾の家で転落事故があったことはご近所中が知っていた。


『……え、あそこのお宅、上にもお子さんがいらっしゃったの?』


そんな声を苦い思いで聞いていたのだ。

明くんが部屋から出なくなって4年。その間に色んなことが変化して、マンションに住む住人も顔を変えた。だから、知らなくてもおかしくない。

だけど、そんな声を章吾はどんな想いで聞いていたのだろうか。


「夢の中でさ、」

「……うん?」

「俺は、飛び降りようとする明に声を掛けるんだ」

「……うん、何て?」


一つ息を吐いた章吾がおもむろに口を開く。


「―――――そっちじゃない!!」


章吾の突然の大声に周囲の視線が集まり、しんと静まり返った。

何事かと身を乗り出してまで確認しようとするお客さんも居るけれど、注目を浴びている章吾は身じろぎ一つしない。

騒音の発生源が何事もなかったかのように微動だにしないから、何だ……と拍子抜けしたように、辺りは元のざわめきを取り戻していく。


「夢の中なんだからさ、もっと気の利いたこと言えばいいのに。

俺は、今にも飛び降りようとしている明に、ただ『そっちじゃない』って言うんだ」


何だよそれって、感じだろ?

現実では、もっと色んな言葉を思い浮かべてた。だけど、どの言葉も選べなかったのだ。

そんな風に考え抜いた言葉を口にすればいいのに、夢の中の自分は、あのとき思いつきもしなかった言葉を発するのだと苦笑した。


「だけど、明は、そんな何でもない言葉で飛び降りるのをやめるんだ」


今にも飛び出そうとしていた両足をしっかり伸ばして、跳躍する前の予備動作を止める。

そして、ふとこっちを向いて、


「……じゃぁ、どっちに行けばいい?って」


もう、その声を思い出すこともできないのに。兄はそう言って、手すりのこちら側に戻ってくる。


「だから、その手を掴んで言うんだ。俺にも分からないよって。だけど、あっちに救いはない。本当に救われたいなら、あっちに行っちゃダメなんだって、言い聞かせるんだ」


『救い』は、あの世にあるんじゃない。この世にしかないんだから、救われたいならこちらに留まるべきだと、小学生の自分が大人のように語る。それを他人ごとのように聞いていた。


「明はさ、ただ『そうか』って返事をして。良かったって笑うんだ。あっちに行かなくて、良かったって」


章吾はくしゃりと顔を歪ませたけれど、泣かなかった。オレンジジュースの入ったグラスを、両手で強く握りしめている。「笑う顔なんて、覚えてないはずなのに。夢ってすごい都合がいいんだ」と、嗚咽を飲み込むみたいにごくりと喉を震わせる。


「そして目を覚ました俺は思うんだ。ああ、あれは全部夢だった。明が死んだなんてそんなこと、あるはずがない。良かった、本当に良かった。明が飛び降りるのを止めてくれて」


だけどどこか不安だから、まだ眠っているはずの兄の顔でも見てやろうとベッドから抜け出す。

そして、


「明の部屋を見て、現実を思い出すんだ」


整理整頓された部屋だった。何年も篭っていたにしては、ごみひとつ落ちていない。アイロンのかけられたシーツは未だに柔軟剤が香ってきそうだった。


「おかしいだろ?そんなのあるはずがない。そこには、明が居た形跡なんて何一つ残ってないんだ」

「……おばさんが片付けたの?」

「違うよ。母さんは何も触ってない。あの日、明が飛び降りたそのときから、そういう状態だったんだ」


お客さんのいなくなった店内に、タイトルも知らない陽気な音楽が響いている。歌詞のない、管楽器が演奏しているだけのBGMだ。


「俺が、学校で友達とバカやってるときに、明はせっせと準備してたんだ」

「じゅん、び」


章吾が何を伝えようとしているのか、すでに理解できていた。

だけど、それを言葉にするのはあまりに酷な気がして。自分の声が情けなく歪むのを聞いていた。


「その日、死ぬのを決めてたんだろ。だから、部屋を整理して、ゴミをまとめて、掃除機をかけて、洗濯までして、そんな風にせっせと準備を、―――――」


後は、章吾も言葉にできなかったのだろう。

代わりに、ただ沈黙が落ちた。

もう全て、過去のことだと言えるのに。今、目の前に明くんのあまりに孤独な部屋が広がっているような気がした。


そのとき、ふと、章吾の右手が動いて彼自身の口元を覆った。

気分でも悪いのかとその様子を窺っていれば、


「大声で、」

「うん?」


「大声で、泣き叫んでしまいそうだ」と言った。


そして、苦しげに「んん、ん」と喉を鳴らして、顔を拭うように右手を目元に滑らせる。


「……明の部屋を見ると、そこに悪夢を見る。分かる?そういうの。目が覚めてもずっと、悪夢を見続けるんだ。目が覚めて終わりじゃない。本当の悪夢は、終わったりしないから。ずっとずっと続いて、膨らんでいくだけ……」


それはいつか、破裂するだろう。そう思わせるものこそが悪夢なのだと、章吾は言った。


「明の夢を見た日は、一日中そのことを考えてる。もしも、明がベランダから落ちそうになったときに、しがみ付いていたならって。もしかしたら、助けられたんじゃないかって」

「……章吾」

「うん、わかってる。そんなのは無理だったって。だって、俺、小学生だったし」


しがみ付いたところで、5つも年上の男性を抱え上げることなどできない。それどころか、巻き込まれて一緒に転落してしまう可能性さえある。


「だけど、ずっと、ずっと考えてるんだ。手すりの向こうに消えた手を掴めなかったとして、それよりも早い段階であれば助けることができたんじゃないかって。もっと早くに目覚めてたらとか。もっと早くに声を掛けてればとか。いや、それよりも、明が部屋から出てこなくなったときに、もっとできることがあったんじゃないかって。遡っていけば、明を助けられるタイミングはもっと他にもあった気がするんだ」


もしかしたらそれは、大切な人を失った誰もが考えることかもしれなかった。

あのときああしていれば、あのときこうしていれば、と。どうしようもないことを考え続ける。


「だけど、章吾にできることはなかったよ。だって、」


私たちは子供だったのだから。

はっきりと言葉にしなくても伝わるものがあったのだろう。章吾はただ小さく頷いて「よくわかってるよ」と同意を示す。


「そうやって、一つずつ可能性を潰していくんだ」

「……可能性?」

「もしも、俺が手を伸ばしていたら明は助かったかもしれない。だけど、俺の体格じゃ明を支えられなかっただろう。もしも、俺が声を掛けていれば明は振り返ったかもしれない。だけど、俺の言葉なんか耳に入らなかっただろう。もしも、あの日、明が木島の家に行くのをやめていれば。だけど、あのときは何も知らなかったから何もできなかっただろう―――――」

「章吾、」

「そう。そうやって、そんな風に……、『もしも』に対する逆説を唱えながら……明がもしかして、今も生きているかもしれない可能性を、一つずつ潰してきたんだ」


章吾は自分の顔の上で拳を握った。

その決して太いとは言えない手首を、涙が一筋零れていく。


「明を、確実に死なせるための、5年間だった」


大きく肩を震わせた章吾が、今度こそ耐え切れずに、テーブルの上に半身を倒した。

私ができたのは、テーブル越しにその肩を掴むことくらいで。ただ、彼の名前を呼ぶことしかできなかった。

どんな励ましも、意味がないと分かっていたから。

そして、私自身もいつの間にか嗚咽を漏らしていたのだ。


首を絞められているわけでもないのに、苦しくて、息ができない。


「俺に、は、そんな資格ない、のに―――――」


しゃくり上げる呼吸を力ずくでどうにかしようと思うから、ますます上手く呼吸ができなくなる。

「章吾、章吾、息をして。息を、深く吸って」と、己も酸欠になりながら、それでも声を掛けた。

二人して、溺れているようだと思う。


もがき苦しんでいる私たちを救い上げようとする人間は、今、ここにいない。




*

*



「……明はもう死んだんだって、自分に言い聞かせて。そうやって無理やり己を納得させた後、じゃぁどうやったら、明のことを救えたのかなって。結局はそこに戻る」


章吾は泣き腫らした目で、空になったオレンジジュースのグラスをぼんやりと見つめる。

私も多分、同じような顔をしているだろう。


「どうやっても、何をやっても、救えなかったってわかってるから。だから、俺は、想像の中で木島光一郎を殺しに行くんだ。全てを、リセットする為に」


だけど、時間を戻すことなどできない。


「章ちゃん、」

「うん?」

「……木島、光一郎は、」

「うん」


「死んだんだよ」


ご近所でも有名な好青年が先日、亡くなった。

私たちも知らない仲ではなかったので、今日、その人のお葬式に参列したのだ。

大勢の人が集まって、別れを惜しんでいる様子だった。制服で参列した人は私たちを含めて、数えるほどだったと記憶している。

私の母と、章吾の両親ももちろん参列した。


「章ちゃんは言ったよね、俺は誰も殺してないって」

「うん」

「その言葉に嘘はないよね?」

「うん」

「じゃぁ、章ちゃん」

「うん」


「章ちゃんは、一体、何をしたの?」


そのしっぽは、誰かを見殺しにしたからと言って生えるものではない。

なぜかは分からないけれど、私にはそれが分かる。



「木島光一郎を殺したんじゃないなら、一体、何を、したの?」


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