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あれは小学校の帰り道だったのだと、章吾は言う。

夕日に照らされたいつもの帰り道。指で触れたオレンジ色の陽射しは暖かい気がしたけれど、秋の入口に吹く風は冷たかった。

寒いと思うのは勘違いなのだろうか。腕はぞくりと震えるのに、ランドセルと背中の隙間は少し暑い。

肩に食い込んだランドセルを持ち上げる為に、少しだけぴょんと背伸びをする。

そのとき、ふと、視線の先に木島光一郎が立っているのが見えた。

彼は歩いているわけではなく、ただ道の先に佇んでいる。

人好きのする笑みを浮かべたままこちらを見ていたから、何も考えずに手を振った。

ご近所さんだから知らない顔でもないし、明が世話になっていたのを知っているからだ。

でも、「こんにちわ」と言わなかったのはまずかっただろうか。そんなことを思いながら、彼が近づいてくるのを待った。


『待ってたんだ』


光一郎はそう言った。俺の頭を優しく撫でながら、そう言ったのだ。

待ち伏せさせるほど親しい仲ではない。だから、思わず首を傾げる。


『お兄ちゃんいなくなっちゃって、寂しいんじゃないかと思って』


髪の毛に指を絡めるような仕草で、俺の頭を包み込む。

明が死んで、半年が経過した頃のことだった。


*


「俺、言ったじゃん。光さんに憧れてたって」

「うん」


光さんを殺しに行く、と暗い眼差しで言い放った章吾は、記憶を辿るようにゆっくりと双眸を伏せた。

睫の向こうに消えた瞳が、彼の感情まで一緒に連れ去っていくようだ。

血の気を失っているその顔は、あの日、お通夜のときに見た明くんの顔にそっくりだった。


「……明が死んだちょうどその頃、俺は何度もそう思ったよ。あの人が兄貴だったから、きっとこんな想いをすることはなかっただろうって。引きこもりの兄貴を持つことも、その兄貴が死ぬことも、親が悲しむことも、俺が、傷つくことも、なかっただろうって」


明くんが亡くなった直後、章吾の家族は少しおかしくなかった。

息子を失う両親の気持ちは分からないけれど、おじさんとおばさんはそれこそ悲しみに沈んでいくように見えた。おじさんは、会社の認める忌引き休暇を終えると仕事に復帰したけれど、明くんが亡くなる前よりも一層仕事に没頭するようになって。おばさんは、仕事に復帰することもできなくて、ずっと泣いていた。

そんな両親を目の当たりにして、章吾はただ、大人しくしているしかなかったのだろう。

小学5年生の、遊びたいさかりの少年にはそれがいかに難しいことだったか。

兄を失って、確かに悲しい。だけど、章吾にとってはずっと引きこもりだった兄だ。両親の手を煩わせる存在で、恥ずかしい兄。幼い頃仲良くしていたからと言って、その記憶だけを頼りにずっと慕い続けるのも難しかった。

現実というのは多分、そんなものなのだろう。


「光さんに、家に来ないかって誘われて。話をしようと言われたら、断る理由なんてなかった」


だって、憧れのお兄さんだ。将来はこんな風になりたいという理想をそのまま形にしたような人。差し出された手を拒む理由も見つからなかったと言う。


「着いていったのは、間違いだった。だけど、ある意味、正しかった」


ある意味、という言葉を強調するようにゆっくりと告げた。


「光さんの家は大きくて古い臭いがした。だけど、カビとかの変な臭いじゃなくて、どこか懐かしくなるような不思議な臭いだった。じゃ香を焚き染めたような臭いに似てるかもしれない。だけど、うまく表現できない」


光さんの部屋は、そんな大きなお屋敷の離れだったという。

「すごいんだ。本当に……。ちょっとした旅館みたいな感じ」

両手を動かしながら、お屋敷の大きさと離れの位置関係を示そうとテーブルの上に指で線を描く。

木島のお屋敷は、敷地を囲む外壁がどこまでも続いているイメージがある。実際はそんなことなくて、ちゃんと終わりはあるのだけれど、子供の頃はその壁が天まで続いている気がしたし、端っこなんて存在しないように感じられた。


「離れに案内されて、引き戸の入口を潜って中に入った。あの人の印象通り、清潔だったし整理整頓されてた。棚にはDVDとCDが規則正しく並んでたし、入れ替えたばかりの畳はまだ青かった」


ふと目を上げた章吾の視線を追うと、ファミレスの入口で4人家族が空席待ちしているのが見えた。

じゃれ合う兄弟を母親が嗜めて、父親がそれを眺めている。何でもない光景だ。

だけど章吾は、眩しいものでも見るように目を眇めていた。


「最初は本当にただ座って話しをしているだけだったんだ。畳の上に座布団を置いて。明のこととか、親のこととか、他には学校の話もしたかな。お前のことも、ちょっと話した気がする」


入口から視線を戻した章吾が私の顔を見る。その声がだんだん暗くなっていくのが分かった。


「だけど、ずっと話をしていたら同じ体勢でいるのが辛くなってきて。初めて訪ねた家だったし、緊張しているのもあって正座に近い格好してたから」

「うん」

「足を崩してもいいんだよ、って優しく言われて。何でか分からないけれど、新しい畳の上に寝っ転がってみたくなったんだ」


両手を広げて、平らな畳に背中をつけると気分が良かった。自分で思っていたよりもずっと疲れていて。

だけど、誰も話を聞いてくれなかったから。体の内側に毒素が溜まっていくみたいだったのだ。

それが少しだけ解放された気がした。

大きく伸びをして、あくびをもらす。


異変が起きたのはそのときだ。


正面に座っていた光さんがいきなり立ち上がって、中庭を覗く大きな窓にカーテンを引いた。

『光さん?』

不審に思って声を掛けた。自分のその声を覚えていると、章吾は言う。

畳に右手をついて体を起こすと、近づいてきた光さんに肩を押された。そして、そのまま倒された。

自分に覆いかぶさる男の肩越しに、染みの浮いた天井が見えて、この離れはやっぱり古いんだと思ったと。

物を並べるみたいに、淡々と事実を口にする。その顔には何の表情も見えない。


「何が起きているのか分からなかった。光さんが、光一郎が、木島、光一郎が、」


章吾の腕を撫でて、『明くんにそっくりだ』そう言って笑った。

そして、着ていたシャツの裾に手をかける。それを、驚きつつも眺めているしかなかった。

自分が、何をされているのか理解できなかったから。

木島光一郎の手の平が、お腹の皮膚を撫でるまで『何?何なの、光さん、』と、控えめに動揺を示すしかなかった。まさか、あの「木島さんのところの光一郎」が、変なことをするとは思えない。


「だけど俺は多分、運が良かった。……多分、ものすごく、運が良かったんだ」


覆いかぶさってくる光一郎から逃れるように顔を背ければ、そこに、目覚まし時計が転がっていた。

なぜそこにあったのか。部屋に入ってきたときからそこにあったような気もするし、押し倒された弾みで、どこかの棚から落ちてきたのかもしれなかった。

とにかくそれは、手の届く範囲にあって。

押さえつけられながらも、かろうじて動かせる右手が、勝手にそれを掴んでいた。


「……無我夢中だった。自分でも何をしたのか分からないくらい」


気付けば、光一郎が額を抑えて座り込んでいたのだ。

そして、自分は立ち上がることができたのだと章吾は言って、大きく息を吐き出した。


「……部屋は施錠されてなかった。あの男も、傷が深いのか動く気配もなかった。だから、入口近くに置いていたランドセルを掴んで、靴は履かずに、離れから逃げ出したんだ」


我に返ったのは、木島の屋敷を出た後だったと幼馴染は笑う。

何で笑ったのか分からない。それは多分、章吾も同じだっただろう。自分の顔に戸惑うように顎のあたりを指でなぞってから、「あのときの感触を、思い出すことがある」と視線を落とした。

その視線の先に震える指があるから、私は思わずそれに自分の手を重ねる。

テーブルの上の真ん中あたりで、私たちの手が重なり合っていた。

章吾は拒むことなく、ただ受け入れて、少しだけ苦笑を浮かべた。

きっと周囲には、仲の良い高校生カップルくらいにしか見えないはずだ。


「……そのこと、おじさんとおばさんには?」


私の問いに小さく首を振る。


「俺はただ、ずっとずっと震えてた。光さん……木島に、何かされたとは言えないのに……ただ、ちょっと触られただけなのに、怖くて、何だか、すっげー怖くて」


自分の家に戻って、いつもの通り仏壇の前でうなだれている母親に「ただいま」と声をかけて、自室に入った。その途端に、全身から力が抜けて座り込んだ。


「それで、震えてた」


ベッドから毛布をとって、包まって。寒くて凍えているのだと思った。だって、上下の歯がかみ合わずにカチカチと音をたてていたから。指先が温度を失って、ぶるぶると震えていたから。血の気の引いた頬が冷たいと、自分でも分かった。


「頭から毛布をかぶって、木島に何をされたのか思い返した。あんなのは違うって、あれは、あの行為は、変なことじゃないって思い込もうとした。光さんは、近所でも有名な『いい人』で、優しい人で、憧れの人で。俺に危害を加えるはずなんてないって、暗示か呪文みたいに頭の中で何度も繰り返してた」


―――――違う、違う、あれは何でもない。何でもないことなんだ。


「だって俺、男だよ?木島だって男だし。同性同士、そんなことあるはずないって……。きっと親に言ったって笑われるだけだと思った。そんなこと、あるはずないって。先生に言うなんてもってのほかだし、同級生に言ったところで『何言ってんの?お前』で終わると思ったんだ」


きっと、誰も信じないだろうし、何より自分が一番信じられない。あの人が、まさか、そんなことをするなんて。

だからなかったことにする?いや、そもそも何もなかったのだから、このまま忘れてしまえばいい。

そうだ、それがいい。そうしよう。忘れてしまえば何もなかったことと同じなのだから。


「でも、次の日。また道端であの人にあった」


木島光一郎は何食わぬ顔をして、そこに立っていた。昨日、彼が待ち伏せしていた場所と同じだ。

『やぁ、章吾君』

にこにこ笑って、罪悪感など一つも感じさせない顔で、


「……元気だった?って言ったんだ」


木島の額には絆創膏が貼られていた。それでも隠し切れない青あざが皮膚に浮いている。

そこだけ見れば、加害者は自分であり、被害者は木島光一郎だろう。

だけど、木島は何も言わなかった。それどころか、昨日のことなんて何もなかったような顔をして、そこに居た。


「だから気付いた。ああ、アイツは、頭のおかしなヤツなんだって」


だから、木島の声を無視して走り出した。怖かった。ただ、怖かったのだ。

昨日、襲われたときよりも、ずっと。

―――――ああ、そうだ。俺は昨日、アイツに確かに襲われたのだ。


「で、一週間ずーっと震えてた。いつ、アイツが来るか分からないから」


だけど、その間は一度も接触がなかった。もう、木島光一郎が自ら章吾のところへ現れることはなかったと言う。なぜかは分からない。そもそも、ああいう人間のことは理解できない。

別の人間に興味が移ったのかもしれないし、さほど章吾に興味がなかったのかもしれなかった。


「ただひたすらにぶるぶる震えてた。自分でも情けないと思うよ。俺、男なのに、何もできなかったし」


抵抗することも、声を上げることさえできなかった自分を恥じたりもした。

だから、他の誰にも言えなかったのかもしれなかった。

あの男に着いていった自分が悪いとさえ、思った。

そんな風に思う必要など、どこにもなかったのに。


木島光一郎がしようとしたことは犯罪だ。今ならそれが分かる。

だけど、あのときの自分は子供で、己が何をされたのか客観的に分析することもできなかった。


「だから明のことを思い出したのは、2週間目のことだった」


薄情なヤツだと思わないか?と問われる。だけど、返事なんてできなかった。


「1週間、自分のことしか考えてなかった」


怯えて。震えて。蹲って、誰にも見つからないように隠れてしまいたかった。


「大して何かされたわけでもないのに、俺は自分のことに手一杯で、明のことなんて忘れてた」


章吾は顔を背けて、強く、強く目を閉じた。

皺の寄った目元に力が篭っている。微かに震える首筋が、その想いの強さを物語っていた。


「……泣きたくない、」


章吾は、囁くような声で言って、もう一度「泣きたくないんだ、」と呟く。

震えた声が嗚咽を呑み込むように、喉の奥を揺らす。ごくりと唾を飲み込んだ音が響いた。

そして、傾けた顔にいっそう力を込める。だから、みるみるうちに顔が赤くなって、どこか滑稽にも見える横顔で一つだけ大きく、しゃくりあげた。

耐え切れなかったのか、決壊したみたいに、閉じた瞼をこじ開けて涙の粒が転がり落ちる。


「あの日、木島の家に初めて預けられた明は、あの家に泊まってきた。

俺がお前の家に泊まったんだから間違いない」


木島に送られて家に帰ってきた明くんは、普段通りの顔をして『ただいま』を言ったらしい。

その日のことをなぜか、はっきりと思い出すのだと章吾は背けた顔をますます傾ける。

それはまるで自分と同じだったのだと、また一つ涙を零した。

いつもの、普段と同じ自分を装って家に帰り、何事もなかったかのような顔をして自室に篭った。

その日の明くんは、自分が木島に襲われた日と全く同じだったのだと、何度も声を詰まらせながら話す。

泣かないように耐えようとしている。だけど上手くいかず、次々に涙が零れて、落ちる。

その涙を拭おうと、章吾の右手が動いた。

だけど、そのまま、一人で泣かせるわけにはいかなかったから。

彼の左手を握ったまま離さなかった。離しては、いけないような気がした。

その左手が縋りつくように私の指を握る。

潰れるほどに強く握られたけれど、痛みさえ感じない。

幼馴染が嗚咽を漏らす姿に、息が詰まってどうしようもなかった。

その長い睫が涙に濡れているのが、苦しい。

「章吾」と名前を呼べば、何度も瞬きを繰り返して、はっきりと目を開く。


「明が木島の家に預けられたのは、一度や二度じゃない。俺がお前の家に預けられた分、明は木島の家に預けられた」


だけど、明くんに変化はなかったと声を呑み込んだ。


「明が何かされたなんて証拠はない。だけど、明の内側は少しずつ壊れていったんだ。だから、あの日、部屋から出られなくなった」


怖い、と言った明くんの声を覚えているのだと、章吾は言った。


「そうだよ、明は、ある日突然おかしくなったんじゃない。少しずつ壊れていって、表に出たのがあの日だっただけなんだ」


俺はずっと、何も知らなかった。明が死ぬまで何も知らなかったんだ。と繰り返す。


「4年もずっと、あの部屋で……あんな狭い場所で一人で戦ってたんだ。きっと、何とかできるだろうと思ったんだろう。いつか、忘れるって。いつか、どうでもよくなるって」

「……うん、」


だけど、忘れられるはずがない。その気持ちを、理解できるとは言えないけれど。

恐ろしい体験というのは記憶に刻まれたまま、いつまでも残り続ける。もしかしたら、記憶が薄れるということもあるだろう。だけど、輪郭は消えない。その形は、いつまでも消えることがないのだ。


「結衣」


唐突に名前を呼ばれて顔を上げれば、章吾は涙の滲んだ眦で言った。


「明は、事故で死んだんじゃないよ」

「……」


「自殺したんだ」


自殺したんだよ、と繰り返す章吾の目が、どこか暗い場所を見つめている。

「……だけど、おばさんは、」

明くんのお葬式のとき、弔問客へ挨拶をしたおばさんは言った。

『悲しい事故でした』と。


明くんは、自室のベランダから転落して亡くなった。

転落したときの傷以外に不審な外傷はなく、警察は当時、自殺か事故の両面で捜査したようだ。

……と、聞いている。

こんな小さな街だから、そんなことでさえ噂になるのだ。

当時は、テレビのニュースでも報道されたはずだけれど、大きく取り上げられることはなかった。

それも多分、事故の可能性が高かったからだろう。

十代の少年が自殺していれば、もっと大きな扱いになってもおかしくない。


当時、明くんの部屋のベランダの手すりには衛星放送のアンテナがついていた。

彼の部屋に置かれているテレビの為のものだ。

そのアンテナの角度を調節しようと身を乗り出し、足を滑らせたのだと。そう、おばさんは言っていた。


確かに疑問点のある話ではあるけれど、不自然とも言えない。

部屋にこもりきりだった明くんの足が弱っていたのかもしれないし、久しぶりに外へ出て気が動転したのかもしれなかった。

部屋に篭りきりであれば、テレビくらい見るだろう。

衛星放送の映りが悪くなり、仕方なくベランダに出たのかもしれない。


事実を、何も知らなければ納得してしまいそうな話でもある。

疑問に思ったとしても、それをわざわざ悲しむ遺族に告げる人もいないだろう。

警察が、事件性はないと判断した以上、それを覆そうとする部外者はいない。なぜなら、部外者だから。


「……違うんだ。明は、ベランダで足を滑らせたわけじゃない。ベランダから飛び降りたんだ」

「そんな……だって、おばさんは……。ううん違う、何で、」

「知ってるかって?」


支離滅裂の私の言葉を正しく理解した章吾が言う。


「だって、見てたから」

「え?」


「見てたんだ、明が、飛び降りるところ」















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