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しばらくの沈黙の後、章吾は喉を鳴らして笑った。
たまらずに噴出した、という表現の方が正しいかもしれない。
ソファにぐっと半身を落とした彼は、脱力しきって私から目を逸らす。
「俺に、誰かを殺す勇気なんかないし」
どこか投げやりな声だった。
それはつまり、勇気があれば誰かを殺したいと思っているかのような。
そんな「不穏」が纏わりつく声だった。
「だけど、そうだな……」
うん、と一つ頷いた章吾がこちらに視線を戻す。
静かな笑みが動揺を感じさせることもなく、ファミレスという雑踏にも似た場所で私たちだけが立ち止まっているかのようだった。
「誰かを『見殺し』にすることを、言葉通り『殺し』と言うなら、俺は確かに人を殺したことがあるよ」
通路側から入ってくる蛍光灯の光はそれほど強くない。
だからだろうか。章吾の白すぎる肌を暗く染めている。ガラス玉のような目の下に浮かぶ隈に、彼は本当に私の幼馴染だろうかと、疑問が過ぎる。
その細い体の向こう側に、細いしっぽが見え隠れして、何かを払うようにぱしんぱしんとソファを叩いた。
今目の前に居る彼は、もしかしたら、章吾の皮を被った悪魔か何かなのではないだろうか。
そんな想像をしてふるりと震えた私に、「俺が、怖い?」と章吾が笑う。
うっそりとした笑みではあるが、まるで私をからかっているかのような声音に正気を取り戻す。
ああ、いつもの章吾だ。
首を振るのに躊躇はなかった。章吾が例えば、本当に悪魔だったとしてもきっと恐ろしくはない。
一緒に過ごした日々がそれを証明するのだ。
私たちは幼馴染で、家族以外に最も信頼できる人間だと言えた。それは章吾も同じだろう。
兄妹といえるほどの仲ではない。
だけど、それに順ずるくらいの絆はあると、そう思っている。
「……誰を殺したの?」
聞くべきかどうかを迷ったのはほんの一瞬で、あえて辛らつな言い方を選んだ。章吾がそれを望んでいるような気がしたから。
章吾は多分、私に聞いて欲がっている。
なぜか、それが分かった。
「お前、覚えてる?」
「……何を?」
「俺に兄貴がいたこと」
当たり前じゃん、そう言おうとして声を呑む。そんな言葉を口にしなくてもお互いに分かっている。
章吾に兄がいたことも、それを忘れていないことも。
『覚えている』なんて、そんな生易しいものではない。
忘れられないのだから。
それでいて、章吾の兄のことを言葉にするのには、いつも呼吸を置かなければならなかった。
「引きこもりで、情けないヤツだって長いこと思い込んでた」
知っている。章吾は明くんのことを恥じていた。
「明るいって書くのに、根暗なヤツだって笑ってたんだ。それでいて、部屋に引きこもったまま何もできないヤツだって思ってた。だから人に話すのも嫌だったよ。そんなヤツが身内に居るなんて思われたくなかった」
まぁ、こんな小さな町じゃ、隠すこともできないけど。章吾はそう続けてテーブルにうつぶせた。
自分の腕の中に顔を埋めているから、そのままにしていたら眠り込んでしまうのではないかという体勢だ。
だけどやがて顔を半分だけ上げて、私の顔を見上げた。
明くんのものとよく似ている、色素の薄い瞳だ。
明くんと章吾は年が離れていたから、二人のことを似ていると思ったことはなかった。
けれど、成長していく章吾はどんどん明くんに似てくる。
明くんが、もう成長することがない分、尚更そう思うのかもしれない。
「俺、もうすぐ明が死んだ年と同じ年になる」
ぽつりと言われて頷く。私たちはもう、そんな年になったのだ。
明くんが死んだのは5年前、そして、部屋から出てこなくなったのはもっと前で。
だからつまり、私はもう長いこと明くんの顔を見ていないのだ。
最後にはっきりとその顔を見たのは、お葬式のときだった。
死に化粧をされて、生きているときと同じ顔色で静かに眠っていたその姿を今でも覚えている。
唇さえ、薄く色づいているような気がした。
遺体というのはもっと冷たいものだと思っていたのに、想像よりずっと、温かみのあるもので。
その顔に触れれば、今にも起き出しそうだった。
皮膚には血が通っているように見えたし、呼吸さえしているかのようだった。
気のせいだ。勘違いだと分かっている。明くんはそのとき、間違いなく死んでいたのだから。
だけど、だからこそ、その顔がこの目に焼き付いたのだ。
魂を失ってさえ、命を内包しているかのような肉体に慄いた。
いや、違う。
はっきりと、私は怯えたのだ。
身内ではない人間の、だけど、身近な人間の死に。
ここにスケッチブックがあって、似顔絵を描けと言われれば、きっと再現することができる。
それほど、鮮明に思い出すことができるのだ。
「小さな頃はあんなじゃなかったんだ。名前の通り、元気いっぱいだった。俺の記憶違いじゃなければ……明はもっと……」
章吾が言わんとしていることは何となく理解できた。
私と章吾が幼馴染なら、明くんと私もやっぱり幼馴染なのだから。
五つも年が離れている分、接触が多かったとは言えないが、一緒に遊んだことだってある。
明くんはとても面倒見が良かった。年の離れた弟のことを決して邪険にはしなかったし、我慢強く遊んでくれていたと思う。
だから私だって未だに信じられない。
明くんが何年も部屋に篭ったまま、世界の全てを遮断していたなんて。
「……陽だまりみたいだって、思ってたよ」
迷子みたいな目をして言葉を探している章吾に、思わずそう言っていた。
何年も明くんの顔を見ていなかった私が言うなんて、間違っているかもしれない。だけど、何年も顔を見ていなかったから、明くんがかつてどんな顔をしていたのか、はっきりと思い出すことができるのかもしれなかった。
はっと目を見開いた章吾は、息を呑み込むようにぐっと喉を詰まらせる。
「うん」と頷いたその声は、少し震えていた。
「―――――明は、小学校さえ卒業することができなかったんだ」
正確には、卒業できなかったわけではない。卒業式に出られなかったのだ。
明くんは小学校を卒業する数ヶ月前に、突然、自分の部屋から出てこれなくなった。
そう。自発的に出なかったわけじゃない。
出てこれなくなったのだ。
おじさんもおばさんも手を尽くして、何とか部屋から出そうとしたけど、明くんは自室から一歩足を踏み出すだけで嘔吐するようになった。
初めは部屋から出ようと頑張っていた。隣人である私でさえ知っているくらいだ。
本人も、おじさんもおばさんも、担任の先生だって努力したと思う。クラスメイトだって何度も顔を出していたことを知っている。
当時はそれこそ、大騒ぎで。
入れ替わり立ち替わり色んな人間が隣家を訪れて、明くんを励まそうとした。
頑張れば何とかなると思っていたのだ。
きっと、明くんもそうだっただろう。
『大丈夫』
『大丈夫だから』
変声期を迎えた明くんの掠れた声を今でも覚えている。
私は、明くんのそんな姿を、章吾と一緒に見ていたから。
だけど、周囲の過剰な励ましが、結果的に彼を追い詰めることとなった。
身近な人間が頑張れば頑張るほど、本人は部屋から出て来れなくなる。
そして、小学6年の3学期には、部屋の扉を開けることさえ叶わなくなった。
そこから彼は部屋に篭りきりになり、中学校には一度も通わず、高校へも行かなかった。受験さえしていなかったと記憶している。
そして、16歳のときに亡くなった。
事故だった。
―――――そう、聞いている。
「明が部屋に篭って数年経った頃、俺、扉の外から声を掛けたんだ。いい加減にしろ!って。
親はほっとけって言ったんだ。あの子も色々あるんだろうって」
色々って何だよ。な?と呆れるように言うから、思わず頷いた。
「親は多分さ、どこかで諦めてたんだと思うよ。明のこと」
章吾と明くんの年の差は5つ。
私たちが小学校の低学年だった頃、明くんは既に部屋から出られなくなっていた。
「明、一体何年引きこもってたと思う?」
「……」
「4年だよ、4年」
4年は長いよ。と、章吾は遠い目をする。
「俺は何も分かってなかったから。明の事情なんてどうでも良かった。ただ、たださ……」
かっこいい兄貴に憧れてたんだ、と自嘲するみたいに笑った。
「明に部屋から出てきてほしかったのは、自分の為だよ」という章吾は、強く目を閉じる。
当時を思い出しているのか、眉間に深いしわが刻まれた。
私たちの同級生は、章吾が一人っ子だと思っている子も多かった。だけど、幼稚園が同じだった子は章吾に兄が居ることを知っていて、悪気無く「お兄ちゃん、いくつだっけ?」なんて聞いてくる。
他意はないのだ。ただ聞いてみただけ。それだけなのに、章吾にとってはそうじゃなかった。
部屋から出られない兄のことを揶揄しているのだと、そう感じたのだ。
それがきっかけで喧嘩になることも少なくなかった。
中には、本当に章吾の家の事情を知っていてつっかかってくる人間だって居た。
それは、年を重ねるごとに多くなっていったように思う。
なぜなら、年を重ねて顔見知りが増えるにつれ、章吾の兄が引きこもりだと知る人間も増えていったからだ。
人の口に戸は立てられない。
「せめて普通のヤツでいて欲しかった。成績が良いとか運動神経が良いとか、そんなの何一つなくていいから、ただ普通に学校に通って、普通に友達を遊んで、普通に、家族で夕食を囲むような……そんな普通の人間で居てほしかったんだ」
だから、そうではない明くんの存在を隠したかったのだろう。
明くんのことで何か言われても反論しなくなったのは、いつからだったか。
「木島の兄ちゃんはさ、そういう点で言えば、本当……憧れって言うか。
兄貴がああいう人だったらいいなって、漠然と、そう思ってた」
「……そうなの?そんな話初めて聞いた」
「だろうな。初めて言ったし」
憧れの人の話をしているというのに、章吾にはそう言ったときに感じられる高揚感のようなものが何もなかった。ただ、淡々と事実を口にしているだけ。そんな感じがする。
「木島さんのところの光さんと、そんなに親しかったっけ?」
光さんは近所でも有名な好青年で、外見が良ければ性格も良いという天が二物も三物も与えたような人だ。
私は挨拶する程度の仲でしかないが、近所の男の子なら誰もが一度は接触したことがあるかもしれない。
小学生の頃、同級生が光さんに遊んでもらったことを自慢していたような気がする。
当時既に二十代だった彼が、小学生を相手に遊んでいたのだから、相当面倒見がいいのだろう。
ご近所では、木島邸が体の良い託児所みたいな扱いだった。
社会人になった後も、土日は自宅で学習塾のようなものを開いていたはずだ。
「俺じゃなくて、明がね。遊んでもらってるのを……見たことがある」
章吾は、伏せていた半身をのっそりと起こして、両手で己の額を抱える。
そして、はーっと盛大に息を吐いた。そのあまりにも重々しい雰囲気に、何か、大事なことを口にするのだと気付く。
「明が引きこもりになる前は、俺の親、すっげー忙しくて。留守にすること多かっただろ?」
覚えている。おじさんもおばさんも夜遅くまで働いていた。二人共同じ会社に勤めていたのだ。
だから、章吾が我が家に預けられることは多かった。おばさんと私の母は親友同士で、隣人でもあったから頼みやすかったのだろう。
「俺はお前の家。で、明は、光さんのとこ」
「……え、そうなんだ」
てっきり、明くんは親戚の家か何かかと思っていた。
章吾だけが我が家に預けられる不自然さに気付きもしなかったのは、なぜだろう。
私と章吾は生まれたときからの幼馴染だから、むしろ一緒にいるのが当然だと思って節がある。章吾の親だってそうだろうし、私の母もそうだと認識していた可能性が高い。
「何で章吾と一緒に預けなかったんだろう……」
「母さんが遠慮したんだよ。お前んとこ、一人親だし。二人も預けるのは気が引けるって」
頼みやすかったわけではないらしい。親友とは言えど他人であるから、遠慮のようなものがあるのかもしれない。
「そしたらさ、光さんが『お困りのようですから、僕が明くんを預かりましょうか?』って。いきなり電話がかかってきたんだ」
木島のご夫婦はいわゆる大地主というやつで、何世代も前からこの土地を管理しているような家柄だ。
当然、顔が広く、周囲からの信頼も厚い。
章吾の両親が忙しくしていて、子守を捜しているというのをどこかから聞いたのだろう。
そして、必然的にその息子である光さんの耳に入ったに違いない。
「親はもちろん万々歳ってやつで、電話越しだってのに、何度も頭を下げながら明のことを頼んでた」
明はどこか不安そうな顔をしてたけど、最終的には『木島さんのとこに行く』って言ったんだ。と、章吾は両手の中に顔を隠した。
だから、どんな表情をしているか分からない。
くぐもった声で話しを続ける章吾の顔が見えないことに不安を感じる。
「俺はあのとき幼稚園に通ってたから……明は10歳くらいか……。
まだ、子供だな。でも、大人ぶりたかったのかもしれない。だから、物分り言い振りして頷いたんだ」
両親の手を煩わせたくなかったのだろう。そして、まだ幼い弟の前でわがままを言うわけにはいかないと自重したのだ。その気持ちは、何となく分かる。
「もしも、時間を戻すことができたとしたら、お前はいつの時点に戻りたい?」
唐突に問われて言葉に詰まる。
時間を戻せたらと思ったことは何度もあった。それは例えば、友達と喧嘩したときだったり、母に酷い態度をとってしまったり、あるいはお茶碗を割ってしまったときであったり、とても些細なことで落ち込んだときだ。そういうときに何となく思う。ああ、時間を戻せたらいいのにと。
だけど、心の底から、どこかの時点に戻りたいと願ったことはない。
「俺はいつだって、あの日に帰るよ。あの日、初めて明を木島の家に預けた日―――――」
テーブルの上で握り締めた章吾の手は、短く切りそろえた爪が皮膚に食い込むほどで。
俯いたその姿は、祈っているようにも見えるのに、神聖さとはほど遠かった。
ぴんと張り詰めたしっぽが、まさしく動物さながら、周囲を威嚇しているように見える。
「戻って、何をするの?」
私の声に、ふっと顔を上げた章吾。その目は真っ赤に充血していた。
泣くのをこらえていたのだと、そのとき初めて知る。
「―――――殺す」
ただ一言、声を潰すように呟いた幼馴染の顔を、私は一生忘れないだろう。
誰かを殺す勇気なんかないと言った、同じ唇で、本気の殺意を吐き出す。
「だれ、を?」
静けさとは無縁の店内に、章吾と私の声だけが響いているような気がした。
そんななのは勘違いだと分かっている。だけど、私たちの間に流れる空気は、他の場所とは明らかに違っていた。
冷たくて、寒い。
凍えるような空気に、吐き出した息が白く染まっているような気がする。
「木島、光一郎を」
「殺しに行くよ」