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当時、世間では二人の女性が行方不明になったと大騒ぎしていた。

地名までは覚えていない。ただ、近所に住む女子高生とOLが同時期に行方不明となり、数ヶ月経過しても見つからないのだとテレビや新聞を騒がせていたのだ。

特にワイドショーなんかは、二人の私生活までを暴いて面白おかしく話題にした。

友人関係が派手だったとか、恋人ともめていたとか、家族関係が上手くいっていなかったとか、あることないこと騒ぎ立てていたように思う。

けれど、詳細は覚えていない。

私はまだ小学生で、報道ニュースは元よりワイドショーなんかには興味がなかったから。


だけど、その日はたまたまテレビがついていて。


行方不明になっているOLさんと同じマンションに住んでいる男性が、インタビューに答えているのを見た。

胸から下だけの映像で、その男性が白いシャツを着ていたのを覚えている。

あまり、彼女とは面識がないんです。と、穏やかな声で語る人だった。

顔を合わせれば挨拶をする程度の仲。だけど、非常に感じの良い方で、事件に巻き込まれるような印象はなかったと。静かにそう言ったのだ。


「いつもだったらすぐにチャンネルを変えちゃうんだよ。だけど、そのときはなぜか目が離せなくて」

そう言えば、章吾はただ静かに頷く。

いつの間にか追加で注文したらしいコーヒーが二つ、私たちの間で湯気をたてていた。


テレビ画面の向こう側で、あらかたインタビューを終えた男性が会釈しながら去って行く。

そこまで映すなんて不思議だとは思った。通常、話し終えたらそこでVTRは終わるはずだ。

だけど、カメラは去って行く彼の後ろ姿まではっきりと映していた。

―――――もしかしたらそのとき既に、何らかの疑惑があったのかもしれない。

今なら何となく分かるが、そういう情報というのはどこからともなく漏れるものなのだ。

時刻は既に夜だったから、暗闇の向こう側に歩いていく男性を映し出すのは強い照明だった。その場に集まっていた撮影班の用意した照明に違いない。

まるでスポットライトのように、男を照らし出していた。


そして私は、遠ざかっていくその背中に、二つの細い影がゆらりゆらりと揺れているのを見た。

二匹の蛇が競い合うように大きく、小さく、揺れている。


『……しっぽだ』


そう思った瞬間、私は、卒倒していた。


「一人の人間から、しっぽが二本生えてるのを見たのは初めてだったんだよね」


それを見たとき、全身から血の気が引いたのだ。

ただのしっぽだとは理解していたし、実際、そうだった。他の誰かの臀部で揺れるしっぽと同じものだった。明確な違いなどどこにもない。


だけど、私の視覚は、それをひどく恐ろしいものだと認識した。


そう。本当に「幽霊」か「物の怪」の類を目撃したかのように。

がくがくと痙攣するように震えた視界に男の小さな背中と二本のしっぽが焼きついた。


「……何で急に、そんな風に怯えるわけ?」


章吾がコーヒーを啜りながら聞いてくる。彼の疑問はもっともだ。

それまでも私は他人の臀部からしっぽが生えているのを見たことがある。その光景はもはや日常で、何ら珍しいことでもなかったのだ。

だからこそ、自分でもおかしいと思った。


なぜ、あの男のしっぽだけ、あれほどにおぞましかったのか。


「多分、ああいうのを虫の知らせとか言うんだよ。何か恐ろしいことが起こる予感」


ただの予感で終われば良かった。

あれは悪い夢だったのだと、朝になれば忘れることもできるような。そんな何気ない出来事で終わったはずなのだ。

だけど、違った。


数日後、その男は女性二人の失踪に関わったとして警察へ連行される。あくまでも事情聴取という名目だったけれど、マスコミが既に情報を得ていた感じからすると、彼は初めから容疑者の一人だったのかもしれない。詳細は分からないけれど、男が逮捕されたのは更に数日が経過してからだった。

男の証言を元に、警察が近隣の林を捜索したところ、女子高生とOLの遺体が発見されたのだ。


「しっぽが二本、被害者が二人」


章吾が確認するように呟く。

祝日の昼過ぎ、ファミレスは家族連れで賑わっている。小さな子供が意味も無く「きゃーっ」と奇声を発し、母親がそれを嗜める声が聞こえた。

そんな騒音の隙間を縫うように、章吾のさほど大きくない声が響く。

「妙な符合だな」大人のような言い回しをした彼は、推理小説か何かの探偵みたいに考え込む仕草を見せた。どこか演技がかっているのは気のせいじゃない。

わざとそんな風に振舞って、この重苦しい雰囲気を払拭しようとしているのだろう。


「だけど、結衣が怖がってるのはそういうことじゃないんだろ?」


何もかも全て承知だとでも言うように章吾はじっと私の顔を見つめた。

テーブルの上に肘をついて、手の平の上に顎を乗せている。

斜めに傾げた顔に色気のようなものが見えた。いつまでも子供だと思っていたのは単なる思い込みかもしれない。そういえば、彼に付き合っている女の子が居ると聞いたのは中学三年生のときだった。

恋人がいるかどうかで大人か子供を決めることこそ幼稚だと分かっているが、恋人のいる人が自分とは少し違って見えるものまた事実だ。

章吾は今、誰とも付き合っていない。

大学受験に専念するためだと言っていた。

それを知っているけれど、誰かと付き合う前の章吾と、今の彼は違う人間のような気もする。


「何で章吾には分かっちゃうんだろうね」

「……幼馴染なんだから、そんなもんだろ」


素っ気無い口調だった。だけど、何だか不安げだ。

私にも章吾の気持ちが何となく分かる。だって、幼馴染だから。

私を射抜くように真っ直ぐ見つめる章吾に、誤魔化しなど通用しないと知る。


「あれはね……あれは、」


言い淀んだ私を励ますように、あるいは促すように「結衣」と、名を呼ばれた。


「しっぽじゃない」


たったそれだけを口にすることが、どれほど恐ろしいことなのか。

きっと他の誰にも分からないだろう。

あれを見たことのある人間でなければ、理解することはできないし、感じることもできないのだ。


「逮捕された男の人のお尻から、しっぽが二本出てた。それは、本当だよ」


章吾はただこくりと頷く。私の言葉を疑っているわけではない。

そして、「……でもそれは、しっぽじゃなかったって?」と確認するように繰り返した。


そもそも、便宜上「しっぽ」と呼んでいるが、あれには毛が生えているわけではない。

模様もないし、猫の尻尾みたいにしなやかに動くわけでもないし、感情によって角度を変えるわけでもないのだ。

ただ、細長い影のようなものがゆらりゆらりと揺れるから、しっぽのようなものだと認識していただけで。


「腕、なの」


大きく息を吸い込んで、そう言った。

だけど、大きな声を出すこともできずに、発した言葉は掠れて消える。

コーヒーカップを掴む自分の手が小刻みに震えているのは気のせいなんかじゃない。

まるで、呪詛でも口にしたかのような倦怠感に襲われた。

人を呪わば穴二つ。だから、自分自身も呪われていく。

吐き出した言葉が自分に返ってきて、舌を腐らせる。喉を焼き付ける。そんな絵が頭の中に浮かんできて。

喘ぐように何度も呼吸を繰り返すけれど、その度に酸素が薄くなる気がした。


「……結衣!」


テーブル越しに腕を伸ばした章吾が、私の右手を握りこんだ。

その衝撃で、握り締めていたコーヒーカップが大きく揺れる。飛び散った黒い液体が、あちこちに飛び散った。それを眺めながら、まるで、固まってこべりついた血液のようだと思う。


「深呼吸しろ」

章吾に言われるがまま、ゆっくりと呼吸を繰り返す。

掴まれた手から温もりが伝わる。たったそれだけで、早鐘を打つように動いていた心臓が落ち着いていくのが分かった。

周囲は相変わらずの喧騒で、私たちが何をしていようと構う人間などいない。

ホール担当の店員が忙しそうに動き回るだけだ。彼らも自分の仕事に手いっぱいで、こちらに視線を向けることさえなかった。


「……それで、どういう意味なのか説明してくれ」


優しい口調で、吐息交じりにお願いされては頷くしかない。


「しっぽが生えてるんじゃなくて……」


―――――掴まれているのだ。


「しっぽじゃなくて……」


―――――あれは、腰から生えているのではなく、空間からにょっきりと生えた腕なのだ。


人間のものではない。それにしては細すぎるから。小枝のような細さしかないし、何より、長すぎる。

それに、肌色をしているわけでもない。

黒檀のような、墨のような、あえて表現するなら「闇色」の腕なのだ。そうだ、月の無い夜空に似ているかもしれない。

そんな小枝ほどの細さのそれが、空中からにょっきりと飛び出している。

そして、その先の針のように細長い指が、人間の腰元をがっしりと掴んでいるのだ。


あの日、あの何でもない日曜日。

私はテレビ画面越しに、それをはっきりと見た。

それまではぼんやりとしか目に映すことのできなかったそれが、はっきりと輪郭を得て、しっかりと「何」であるか示してきた。

見ろ、と言わんばかりに。理解しろ、と言っているように。

二本の腕が男の臀部を……明確に言えば、腰よりも若干下らへんを、掴んでいた。

洋服を掴んでいるというよりも、肉そのものを掴んでいるように見えた。

「掴んでいる」という言葉から分かるように、指先は丸まって洋服の下に消えている。だけど、外側から見ることのできない爪先が掴まれている人間の肉の下に沈んでいるのが、なぜか、分かった。

ゆらゆらと揺れていると言うよりは、掴んだ腰元を揺さぶっているのだと、そのとき初めて知ったのだ。

掴まれた本人はもちろん、気付いていない。

だけどその腕は、掴んだ人間を揺さぶりながら、どこかに引っ張っていこうとしている。

そんな風に見えた。


「それって、すげー……不気味」


章吾は唸るように呟いて沈黙した。

あの日のことは、今でも覚えている。

人生には時々、それまでの自分を一変させてしまうような何かが必ず起こるという。

本当にそうであるなら、私のソレは、あの日曜日にやってきたのだと言える。

昼下がりの日曜日。ベランダから差し込む強い光を浴びながら、テレビ画面に「恐怖」が映りこむのを目の当たりにして。そして、私は意識を失ったのだ。


「……ん?あれ?……ってことは……?」


章吾が突然、首を傾げた。


「お前さ、さっき言ってなかった?おばさんにも生えてるって……」


かなり言いづらそうだったけれど、章吾はなぜか声を抑え気味に言う。

近くにも人が座っているけれど、何せ私たちが座っているのはボックス席だ。通路側以外の三方が間仕切り壁で囲まれている。壁を挟んだ向こう側もやはり同じようなボックス席だが、家族連れが座っているだけで、こちらの会話に耳を傾けている様子はない。

前後の席も似たようなもので、それぞれ自分たちの会話に夢中である。


「そうだよ。だから、すごく怖かった」


しっぽではなく、「何か」の腕であることを認識したその日。

意識を失った私の体を支えたのはやはり、母だった。

時を数えるまでもなく、たった数秒ほどですぐに目を覚ましたのだけれど、そんな私を抱えた母の安堵した様子に息がつまった。

ほっと息を吐いて微笑する母の顔が、それはそれは、そら恐ろしいものに見えたのだ。

母の背後でゆったりと左右に振れる細長い影。

その正体を知った小学生の私は、思わずそれを掴もうと手を伸ばして、指の間をすり抜けた冷たい感触に慄いたのだった。


思えば、不思議なことではあったが。

私はそれまで、ただの一度も他人のしっぽに触れようとしたことがなかったのだ。


「触れちゃいけないって、本能で悟ってたのかな」


呟けば、章吾は静かに頷いた。

「それは多分、本当に触っちゃいけないやつなんじゃないの」と。

まるで、地獄の釜から伸びているかのような細い細い腕。

それが何であるかは、ここまでくれば察しがつく。


「悪魔とか……鬼、とか?そういうヤツの腕に思える」


「罪を犯した人間を、地獄に連れて行こうとする手」


章吾の出した結論に驚くこともない。だって、私もそう思っていたから。

だとすれば、母の背後に見えるものがますます恐ろしい。

だけど、決して母親のことを恐れているわけではない。ただ、母が何か罪を犯したのかもしれないという事実がひどく怖かった。

いつの日か、スーパーの前で遭遇した窃盗のようなものだろうか。

だって、母が誰かを手にかけるなんて想像もつかない。

犯した罪には大小などないと言うけれど。窃盗も殺人も罪は罪。

だけど、与えられる罰には大小がある。

そしてそれこそが罪の重さを示しているように思う。

母が人を殺していたとしたら。

それを考えるだけで眩暈さえ起こしそうなほどの不安が襲う。そうでなければいいと願うのはお門違いかもしれない。

罪を犯したというのが前提で、より、軽い罪であればいいと願うなど。


「心当たりはないのか?」

「……心当たり?」

「おばさんが、何か、したんじゃないかって……心当たり」


家族が何か後ろ暗いことをしてるときって、何となく察しがつくもんじゃない?


章吾はそういって、空になったコーヒーカップを無意味に持ち上げた。そして軽く音をたてて置き直す。

その仕草に一体、何の意味があるか分からないけれど、ただ単に落ち着かないのだろうと思った。

だって私たちは幼馴染で、それはつまり、互いの親とも親交があるということだ。

私も章吾の両親のことはよく知っている。それと同じく、彼も私の母をよく知っている。


「お母さんが何をしたか知らないよ。だけど……」

「だけど?」


「お父さんがいない理由を、私は知らないんだ」


幼い頃、確かに聞いたことがある。

『なんで、わたしにはおとうさんがいないの?』

幼さゆえの無邪気さで、あるいは、残酷さで。何の迷いもなく、胸に抱えていた疑問を口にする。

母への気遣いなど皆無だ。だって、父親のいないことが気を遣わなければいけない事象だということにさえ気付いていなかった。私はそれほどに幼かったのだ。

母は困ったように笑いながら『どうしてだと思う?』と聞いた。

幼い私にも、母が質問をはぐらかしたのだと分かった。明らかな誤魔化しに、答えたくないのだと理解でした。とにかく、当然、答えを持っていない私は『わかんない』と首を振るしかなかった。


『貴女にはお母さんしかいないの。それじゃダメかしら?』


そう言って首を傾げた母に、ダメだとは言えなかった。

気を遣ったわけではなく、母があまりにも悲しそうな顔をしていたからだ。

母が悲しいと、私も悲しい。私が口を閉じる理由はそれだけで充分だった。

そして、分かったこともある。


「これは聞いちゃいけないことなんだって」


章吾は黙っていた。


「きっと戸籍謄本か何か見れば分かるよね。お父さんが死んでいるのか。もしくは、初めから結婚していないのか」

知ろうと思えば、他にも知る方法はあるだろう。

幼い頃は思い浮かばなかったけれど、今なら、調査会社に依頼すれば何らかの答えは得られるだろうと確信している。

そこまでしなくても、今の段階で分かっていることだってある。

我が家に届く郵便物の宛名は全て母の名前であるから、今住んでいるマンションの家主は恐らく母だろう。

そこには初めから「父」という存在がない。

名前さえも知らないのだ。

そういうことを全部ひっくるめて考えると、私には初めから父親などいないと考えるのはあながち間違いではないような気がした。

当然、男女が揃わなければ子供が生まれないことは知っている。だから、もしかしたらこの世のどこかには居るのかもしれない。

それこそ、何らかの方法で捜し出すことも叶わない夢ではない。


「だけど、真実を知る必要があるのか分からなかった」


母が罪を犯していたとして……父に何かをしていたとして。

それをわざわざ暴く意味があるのか。


「知ってしまえば、断罪しなければならない気がする。それが人間だとは思わない?」


罪を犯せば、罰せられるのは当然のことだと思う。そう考えるのが、人間なのかもしれない。

だけど、私は、母が何をしていたとしても赦せるだろう。

だから、真実を知ったところで自分自身に与えられるものは「苦悩」だ。

母が犯罪者であるという事実に、苦悩し、煩悶し、懊悩し、怯え……どうしようもなくなる。それが分かっているから真実を知るのが怖い。

そうして私が選んだのは、母の罪から目を背けることだった。


「でもさ、本当に罪を犯したのか分からないんだろ?

お前の見えているしっぽが、罪の象徴だとも限らない。

だから、そんな風に決め付けなくてもいいんじゃね?」


優しい言葉だと思った。私を励ます為に選んだ言葉だと。

さっきからずっと握られている右手が、少しだけ震える。

本当に大丈夫だったら、本当に気にしなくてもいいことなら、この手は既に離されているはずだ。

お互いに不安だからこうしているのだと知っていた。

私たちは幼いときから、こうやって同じ時間を過ごしてきたのだから。

親が不在のときに、互いの家に預けられることはよくあることで。親が居ないから何となく不安になるのもよくあることだった。

そんなとき、私たちは手を握り合って温もりを求めた。


「……おばぁちゃんが昔ね、よく言ってたの」


―――――あの子は、よく生きることを選んだと思うよ。

死んでもおかしくなかった。あんな男に……あんなことされて。


「あの子」というのが母を指しているのは分かった。だけど、その言葉の意味までは理解できなかった。

祖母も恐らく、理解を求めて言ったわけではないだろう。

私が理解していないと知っていたから、愚痴を零すみたいにぽろりと心の内を明かしたのだ。

もしかしたら聞いているとさえ、思っていなかったかもしれない。

まさか私がその言葉をずっと覚えているなんて、祖母も思っていなかっただろう。

だけど、子供というのは、大人の言動をよく見ている。そして、忘れることがない。


「あんなことって?」

「……分からない」


そもそも「あの男」が父を指しているかまでは分からないのだ。

もしかしたら、全く関係のない「男」のことを言っているのかもしれなかった。


「おばぁちゃん、死んじゃったしね」


答えは永遠に墓の中というわけだ。


「おばさんには?」

「言ってないよ、もちろん。言うつもりもない」


母を追い詰めるようなことをしたくない。

私は、最初から最後まで母の味方なのだ。だから、母が自ら明かさない限り、探るつもりもない。

だけど、母が父のことを愛していたのなら、写真の一枚くらい残されていてもいいはずだ。

もしくは思い出話の一つでも、語ってくれたはずではないか。

そのどちらもないということが、答えなのだろう。

執拗なほどに、父の痕跡を消している。現実から、記憶から、消し去ろうとしているのがよく分かる。

まるで、そんな人間は存在していなかったとでも言うように。


そこに、紛れもない憎悪を感じる。


「……だけど、章ちゃん」

「ん?」

「それはもういいんだよ。お母さんが何かしていたとしても、私が生まれる前のことだし」


きっと、誰かを殺めたわけではない。そう信じている。


「じゃぁ何?」


何でこの話をしたのかと、彼は少し呆けたような顔をして苦笑を浮かべた。

そして、そのまま私の手をそっと離す。

温もりを失って、手を繋ぐ前よりも冷たくなったような気がした右手を左手で包み込む。

怪訝そうな顔をしている彼の瞳を覗き込めば、私の顔が映っているだろう。

だけど、その顔を見ていることができなくて視線を落とした。

コーヒーカップの中に少しだけ残っている黒い液体に、私の口元が映りこむ。

泣いているのか、笑っているのか、口元だけでは判断できない。

歪んだ口元は今にも声を上げて泣き出しそうにも、見えた。


「何でなの、章ちゃん」


小さな頃にそうしていたように彼の名を呼ぶ。繰り返し「章ちゃん」と。


「何で、どうして、」

「……ん?」


喘ぐように繰り返した呼吸の合間に、うわ言のような声が漏れる。



「どうして、章ちゃんに、しっぽが生えてるの―――――?」














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